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八尾市立歴史民俗資料館
2006.1.29 歴史倶楽部・第106回例会


<八尾市立歴史民俗資料館> 電話:0729-41-3601 近鉄服部川駅下車、北へ徒歩約8分
八尾市立歴史民俗資料館は、昭和62年11月、高安古墳群の散在する高安山麓に開館した。市内の文化財を調査研究し、
収集保存を図るとともに、展示などを通して広く公開する施設である。常設展示室では、「八尾の歴史と文化財」に関する
資料を、8つのテーマにわけて展示している。そのほかホールには、銅鐸の復元製作工程資料や、地形模型を展示し、2階
には、河内木綿体験コーナーが開設されている。
・常設展示
1.八尾のあけぼの(旧石器〜縄文時代) 2.原大和川の開拓(弥生時代)
3.古代豪族の活躍(古墳時代) 4.大陸文化の門戸・八尾(奈良〜平安時代)
5.戦乱の地・八尾(鎌倉〜室町時代) 6.寺内町の形成とキリシタン(室町〜江戸時代)
7.大和川のつけかえ(江戸時代) 8.文明開化と八尾(明治時代〜)








流水紋銅鐸 (りゅうすいもんどうたく) 跡部遺跡出土、弥生時代 <八尾市指定文化財>
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一口。 全高46.6cm/裾幅(鰭を含む)30.4cm。銅鐸は弥生時代に祭祀に用いられたと考えられる青銅器で、
弥生時代中期前半(約2100年前)に出現するが、弥生時代後期末(約1800年前)に見られなくなる。形式は偏平
紐式で、外縁には内向鋸歯紋、連続渦紋帯、斜線紋帯が、菱環には綾杉紋が施され、紐外側に双頭渦紋の飾耳が付けられ
ている。鐸身の文様は全面一区流水文である。流水紋は5条の突線で描かれており、上・中・下の三段に分けられている。
形式や出土の状況からみて弥生時代中期ごろと思われる。本銅鐸は平成元年、発掘調査によって発見されたもので、銅保
存状態も良好であるとともに、銅鐸の埋納壙と埋納施設が観察できた例として貴重な資料である。









八尾南第2地点の旧石器 八尾南遺跡 後期旧石器時代
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1〜3 小型ナイフ形石器、4〜7 石錐、8 削器、9抉入掻器。八尾南第2地点の旧石器は現地表下約1.5mの層から
出土した。ナイフ形石器、掻器、削器、抉入掻器、石錐、剥片、石核など多数ある。ナイフ形石器切り出し形のものが主体
で、長さ2cm前後と小型であり、石錐、方形状の剥片の一端ないしは両端に短く突出する錐部を作りだすものである。ま
た、原石を剥離する技術を推定する上で重要な接合資料もある。これらの資料は、近畿地方のナイフ形石器文化の終末期を
考える上で貴重な資料と位置づけられている。集中して出土した28点のサヌカイトの剥片を接合した結果、石器を作るも
とになった拳大の原礫が復元された。このように接合関係を明確にすることで、どのような手順で剥片が生産されたかが推
定できるわけである。この資料は、終末期の小型ナイフ形石器の生産技術を考えるうえで重要なものである。









鉄剣(てっけん)大竹西遺跡、弥生時代
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一口。 長さ35.8cm/元幅3.6cm。弥生時代後期はじめ(一世紀前半)の鉄剣。柄を固定する目釘孔が、閑と呼
ばれる部分に二個穿たれ、錆が少なく鏑等の特徴も観察できる完形品である。科学的調査の結果、この剣が国内初例の鋳造
鉄剣(発掘当時)であることがわかった。平成九年一月発掘。




国内最古級の横櫛 (よこぐし) 小阪合遺跡出土、古墳時代
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挽歯漆塗横櫛 小阪合遺跡 古墳時代 一枚。 縦5.1cm/横8.9cm。四世紀代と考えられる横櫛で、横櫛として
は国内最古例。歯数は二十三本で密度は粗い。歯は丁寧に削られている。棟の表面には黒漆が塗られている。









銀象嵌鍔付直刀 (ぎんぞうがんつばつきちょくとう)銀象嵌鍔、柄頭、鞘尻(ぎんぞうがんつば、つかがしら、さやじり)
芝塚古墳出土、古墳時代後期
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芝塚古墳は、高安古墳群の北部にあたる神立に所在した古墳時代後期の古墳である。墳丘はほとんど削平されていたため墳
形は不明であるが、南西に開口する両袖式の横穴式石室が検出された。石室の規模は全長9.1mを測り、 玄室内から3
基の組合式家形石棺が検出された。おそらく追葬が行われたのであろう。芝塚古墳の石室から出土した鉄製品のうち、2組
の直刀の把頭に鍔には銀像嵌が施されている。1組は把頭に亀甲繋花文と渦文、鍔に鳳凰文と渦文、もう1組は両者に心葉
文と渦文が組み合わされている。


囲み形家型埴輪。















【参考資料】 (館内パンフレットより転載)
■八尾の地名のいわれ
(1).
その昔、このあたりの西郷(現在の山城町)という所に、一羽のうぐいすが住んでおりました。毎朝飛んできては一本の木
にとまり、一生懸命さえずります。その声はたいへん美しく、しみじみとした味わいがあって、聞く人を感動させずにおき
ません。不思議なことに、このうぐいすには、尾羽根が八枚もありました。「八ツ尾のうぐいすとは、これはまた珍しい」
評判になったのは、いうまでもありません。やがて誰からとなく、うぐいすがとまる木を「八尾木」と呼ぶようになりまし
た。長い年月が過ぎて、うぐいすはいなくなってしまいました。けれど八尾木の名前は残り、いつしかこの村を『八尾』と
呼ぶようになったということです。
(2).
物部氏は、河内を本拠とした古代の豪族です。古くから大和朝廷に仕え、蘇我氏と並んで権勢を誇っていました。しかし6
世紀の末、百済から伝えられた仏教を崇拝する聖徳太子・蘇我馬子連合と、排斥する物部守屋が激しく対立。ついに八尾で
崇仏戦争が起こり、物部氏は滅ぼされてしまいます。さて、物部氏の政治担当は、おもに軍事でした。そのため大昔の八尾
には、弓を作る弓削部(ゆげべ)、矢を作る矢作部(やはぎべ)といった生産者が集まりました。弓削の地名などもその名
残です。そして、ここで作った矢を背負って運ぶことから『矢負い』が『矢尾』になり『八尾』の地名になったとも言われ
ています。
(3).
また、そののちのこと、道鏡が西の京(由義宮)を八尾に造営するため、大和川の洪水を防ぐ堤を造りました。このとき打
ち込んだ杭が数えきれないほどたくさん(=八百)だったことから、転じて『八尾』になったという話もあります。
■八尾の人物
<弓削道鏡>
奈良時代、天皇の尊敬を一身に集め、太政大臣禅師から法王の位にまで登りつめた弓削道鏡。孝謙女帝とのラブロマンスや
政治への進出から、悪僧のイメージで語られがちですが、仏教に篤く帰依した、すばらしい高僧でした。郷里の河内国(今
の八尾市)に平城京に対する西の京、由義宮(ゆげのみや)を築いて、天皇を迎えるなど、この地に賑わいをもたらした、
八尾のまちづくりの先駆者としても有名です。
<蓮如>
蓮如は本願寺第八世、つまり親鸞から九代目の子孫です。親鸞の教えをやさしい言葉(御文・御文章)にして、農民たちと
ひざを交えて教えを説き、各地で各地で多くの門徒を集めました。室町時代の文明2年(1470)その蓮如が八尾の久宝寺村
で布教を始め、西証寺(後に顕証寺)を開きました。大坂御坊(後の石山本願寺)を興す26年も前のことです。天文10年
(1541)ごろ、この顕証寺を中心とした自治都市が誕生しました。二重の堀や土塁で400m四方を固めた久宝寺寺内町で
す。同じころ恵光寺の萱振寺内町が、慶長11年(1606)には大信寺の八尾寺内町が造られます。いずれも多くの門徒が集ま
り住み、商人や手工業者も大勢集まって活発な経済活動が行われました。こうして中世の集落は近世のまちなみへと変貌し、
現在の市街の核が築かれたのです。
<聖徳太子>
飛鳥時代の初めに起こった崇仏戦争。蘇我氏と手を結んだ聖徳太子は、四天王像をつくって戦勝祈願し、物部守屋を破りま
した。太子ゆかりの大聖勝軍寺には、太子が身を隠して危機を逃れたという椋の木や物部守屋首洗池が残され、周辺にも鏑
矢塚、稲城跡、守屋墳など、この伝説にまつわる数々の史跡があります。
<在原業平>
平安時代の六歌仙のひとり、美男で名高い業平は、大和の竜田から十三峠を越えて玉祖神社に参詣したおり、神立茶屋の辻
にあった茶屋「福家」の梅野という娘に恋をして、八百夜も通いつめます。これが有名な「業平の高安通い」です。
玉祖神社には、業平が娘を呼び出すために吹いたという笛が伝えられています。
<中 甚兵衛>
江戸時代までたびたび洪水を起こし、住民を苦しめた大和川。中甚兵衛は、その付け替えに生涯をかけた人です。50年近
くも幕府に請願を繰り返したのち、ついに宝永元年(1704)述べ240万人もの労力を注ぎ込んで、わずか8ヶ月で大工事
を完成。その後、旧大和川流域には新田開発が進み、河内木綿の栽培もさかんになりました。
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