SOUND:Imagine

山形城(霞ケ城) 2005.7.18(月・海の日) 山形市






	
	前泊した多賀城市のホテルを朝早くでて仙台駅へ向かう。仙台から山形交通の高速バスで山形市に向かう。蔵王の下を抜け、
	50分で仙台から山形市へ着いた。山形も暑い。







JR山形駅




	--------------------------------------------------------------------------------
	山形城跡(霞城公園)
	--------------------------------------------------------------------------------
	山形城跡(霞城公園:かじょうこうえん)は、山形市の市街地のほぼ中心部にある。延文元年(1356)、斯波兼頼(しばか
	ねより)が館を築いたのが最初とされ、子孫の最上義光が文禄から慶長(1592〜1615)にかけてそれまでの山形城を改築し、
	現在の山形市の原型を形づくった。義光は村山や最上、そして庄内とその支配を伸ばし、57万石ともいわれる領地を統治
	していた。最上氏のあとの山形城には鳥居、保科、松平、奥平、堀田、秋元、水野などの各12氏が入部した。最後は水野
	氏であったが減石され、その石高は最終的にはわずか5万石だった。当時の石垣や堀が今も残っており、現在は桜の名所と
	して、また、史跡公園として市民に開放されている。周囲を堀で囲まれ四つの城門の石垣や掘、土塁が遺構として残ってい
	る。山形市では、市の歴史的シンボルとして、霞城公園の整備を進めており、山形城の復元整備をその柱としている。二の
	丸大手門は、市制100周年を記念して平成3年に4年の歳月を費やし、日本古来の伝統的建築様式により復元されたもの
	である。現在、本丸の整備復元が行われており、山形城全体の完成を目指しているようだ。昭和61年5月、二ノ丸掘から
	内側の地域が、近世初期の面影をとどめている全国有数規模の近世城郭として、国の史跡に指定された。山形城の石垣は、
	市街地を流れる馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用い、割肌を表面に見せる野石積みで日本でも類を見ない優美で頑固な石垣
	といわれる。







■山形市郷土館 元は市立病院済生館本館。今は医療や郷土関係の資料を展示している。(国重要文化財)










	ほんとは、霞城内にあるこの山形県立博物館も目当てだったのだが、なんと休日なのに閉館していた。休日に閉館するよう
	なこんな博物館は今まで見たことがない。サラリーマンや仕事を持っている連中は休みにしかこういう所へは来れないはず
	なのに、その休日に閉館しているのでは、一生ここにはこれない人もいるだろう。
	私に続いて入り口を見に来た家族連れも、「あれー閉館なのぉー」と驚いていた。「普通休日はどこもあいてますよねぇ。」
	と奥さんが話しかけてきたので、「私は200以上の博物館を見てきましたが、休日にしまってた博物館はここだけですね。」
	と言うと「そうですよねぇー」と怒ってかえって行った。まるで山中の村の資料館のようだ。小さな村の資料館などは休日
	に閉まっている所がある。しかしここは山形県の県庁所在地にある県立の博物館である。休日に休みたい職員の気持ちもわ
	からなくはないが、「博物館は月曜日が休館。月曜が祭日の時は火曜日休館。」というのはもはや日本の常識である。
	わざわざ大阪からこの常識を頼りに来たが、アテがはずれてがっかりというかあきれてしまった。

 


	--------------------------------------------------------------------------------
	山形城跡 (別名: 霞ヶ城/霞城/最上城/大山城) ) 山形県山形市霞城町 
	--------------------------------------------------------------------------------
	築  城 : 延文2年(1357)、斯波兼頼  	築城。
		   文禄元年(1592)、最上義光) 	修築拡張 
		   元和9年(1623)〜、鳥居忠政)	修築 
	歴代城主 : 

		年 号		歴 代			城 主
		-----−		------			------
		正平十一年	最上家			兼頼        
		元和八年	鳥居家			忠政        
		寛永元年	陸奥会津(保科)松平家	正之        
		寛永ニ十年	幕領
		正保元年	上野前橋(越前)松平家	直基        
		慶安元年	武蔵忍(奥平)松平家	忠弘        
		寛文八年	豊前中津奥平家		昌能        
		貞享ニ年	堀田家			正仲        
		貞享三年	上野前橋(越前)松平家	直矩        
		元禄五年	武蔵忍(奥平)松平家	忠弘        
		元禄十三年	堀田家			正虎        
		延享三年	三河西尾(大給)松平家	乗佑        
		明和元年	幕領
		明和四年	秋元家			凉朝        
		弘化ニ年	水野家			忠精    以降明治維新まで 
	--------------------------------------------------------------------------------

 


	山形城の築城は南北朝時代の1357年最上氏の祖、斯波兼頼によるという。斯波氏は足利一族で斯波家兼が奥州探題とな
	り、その子孫が大崎氏を称している。兼頼は家兼の次男で1356年北朝方として山形に入り、翌年山形城の縄張りを行っ
	たという。以来、兼頼の子孫は最上氏を称し、山形を中心に一族が分かれていった。しかし戦国時代にはこれら一族が宗家
	である最上氏に反抗し、また置賜から伊達氏が侵入し、最上氏の権威は無きに等しかった。この最上氏の力を高め、出羽の
	統一を目指したのが最上義光である。
	義光は父や弟、一族と戦い、最上氏の統一を図り、また謀略を駆使しながら敵対勢力を抹殺していった。有名なのは谷地城
	主白鳥十郎長久を嫡男義康と白鳥の娘の縁談の話と自分が病であるから後のことを頼みたいという話で山形城に誘き寄せ、
	床に臥せって油断させたところを襲い、城内の桜の下で討ち取った。この桜は白鳥の血を浴び「血染めの桜」と呼ばれたと
	いう。最上義光は1600年関ヶ原の戦いに際して、西軍上杉景勝の攻撃を受けたが辛くも守りきり、加増を受けて五十七
	万石の大名となった。義光は山形城と城下町を整備し、山形は大いに繁栄したが、1622年家臣の争いにより、最上氏は
	改易となり、以後は小藩として鳥居・保科・松平・奥平・堀田・秋元・水野の諸氏が山形城に居城した。

	明治以後は連隊の駐屯地となったりしたが、現在は霞城公園として整備され、県立博物館や体育館、野球場等各種施設が置
	かれている。霞城公園は「血染めの桜」に由来してか桜の名所で、春には多くの桜が咲き誇る。山形城の西側土手には「霞
	城の桜」と呼ばれるエドヒガンザクラがあり、これこそが最上義光が白鳥十郎を謀殺した話の「血染めの桜」と同種でその
	当時から残っている桜という。山形歩兵第三十二連隊歌にも「霞城に咲き誇る血染めの桜仰ぎ見よ」と歌われている。
	霞城公園内の建物のうち、山形市郷土館の建物は「旧済生館本館」である。済生館は明治11年に建築された山形県公立病
	院で三条実美が「済生館」と命名した。明治13年『山形県下名所図絵』にも錦絵で描かれ、全面改築の際にも文化財とし
	ての価値を認められ、重要文化財となり現在地に移転されている。現在は霞城公園の中央部で本丸の石垣復元工事を行って
	おり、昔日の威容が復活するらしい。 
	山形駅のある場所はかつての山形城三の丸の敷地にあたる。現在残る霞城公園こと山形城は二の丸である。現在、山形駅西
	口には高層ビル「霞城セントラル」が建ち、最上階から山形城址が見下ろせる。表玄関である東口から駅前大通りを東に向
	かって歩いてゆくと道路の北側、宝くじ売り場隣の歌懸稲荷の陰に山形城三の丸の土塁が残されている。堀跡が窪みになっ
	ており、市街地のビルの谷間にひっそりと埋もれている。






	■ 最上義光騎馬像 <上杉直江兼続率いる2万3千の大軍を迎え討つ最上義光>

	平成3年に復元成った山形城二の丸の東大手門をくぐりぬけると、玉砂利を敷いた広場に、 山形市の基礎を築き上げた英傑、
	最上義光公の勇壮な銅像がたつ。 奥につづく広い城跡には、山形市郷土館(国指定重要文化財「旧済生館本館」)、県博物館、
	野球場などが配置され、門の外にある最上義光歴史館、山形美術館などと共に、 山形市街地観光や市民の体育・文化活動の
	拠点となっている。
	慶長5年(1600)の9月、怒涛のごとく攻め寄せた上杉方の謀将直江山城守のひきいる2万3千余りの大軍をむかえ自ら陣頭
	指揮、奮戦し敵を撃退した山形城主最上義光が、決戦場富神山に向かって進撃せんとする姿。右手にかざしているのは、鉄の
	指揮棒。また、銅像を取り巻く縁石は山形城三ノ丸をかたどったもので、霞城公園二ノ丸東大手門のすぐ隣に最上義光記念館
	がある。




	--------------------------------------------------------------------------------
	■ 山形城と最上義光
	--------------------------------------------------------------------------------
	
	最上家の初代斯波兼頼(しばかねより)は、今から約650年前の延文元年(1356)にこの地にきて城をつくり、「出羽国最上
	郡山形郷(でわのくにもがみごうりやまがたう)」という地名から「最上(もがみ)」という名字を名乗るようになったといわ
	れている。
	その兼頼から数えて11代目の当主(城主)が義光である。義光は慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)
	の活躍で57万石という広大な領地をもつようになった。その領地は、現在の山形県のうち置賜地方を除く全部と秋田県の
	南の一部である。また、義光は57万石を治める城として、これまで住んでいた山形城を三重の濠で囲まれた大きな城につ
	くり直し、家臣や商人・職人たちが生活する城下町を整備した。この時に山形市の原型がつくられたといわれる。義光は現
	在の山形市の繁栄の礎を築いたといえる。

	出羽は11代目の最上義光の時に最大版図となる。義光は米沢の伊達輝宗、政宗父子と奥州の覇権を競う。ドラマでは最上
	家から伊達家に嫁いだ母が、政宗を忌み嫌い毒殺しようとする場面などがある。義光は、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した
	ことによって所領を安堵され、養子の秀次に娘を献上したりと精力的に動く。関ヶ原合戦時には東軍につき、上杉軍と戦い、
	長谷堂城にて直江兼続率いる上杉軍をなんとか遮り苦戦していたが、西軍の敗戦で危機を乗り切った。合戦後は24万石か
	ら57万石の大大名に増封され庄内地方他も支配下に置き、実際にはおよそ100万石だったとも言われる。これが最上氏
	の全盛期で、その後は衰退し始める。義光の孫義俊のとき、世継ぎ争いから改易され、その後は城主が入れ替わってどんど
	ん削封され、最後の城主水野氏の頃には10分の1の5万石だったそうで、かなり荒廃していたといわれる。ちなみに最上
	氏は改易後、高家として明治まで存在し続けた。 現在の山形城は霞城公園となっており、最上義光が修築拡張した城を、
	鳥居忠政が最上氏改易後にさらに修築した遺構である。天守は築かれなかったようだが輪郭式の遺構が良く残っている。

 

 







 
	--------------------------------------------------------------------------------
	■最上義光 (もがみよしあき) 
	--------------------------------------------------------------------------------

	山形城/現在の霞城公園にて、天文15年(1546)1月、最上家10代当主義守(よしもり)の長男として山形城で出生。
	幼少時は「白寿丸(はくじゅまる)」と呼ばれ、永禄3年(1560)に元服し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から一字をもら
	って「義光(よしあき)」と名乗る。通称は源五郎(げんごろう)。元亀元年(1570)25歳の時に第11代の当主(城主)になる。
	それから約40年間、戦国武将として動乱の時代を生き抜く。慶長7年(1602)には、徳川・豊臣を除いて全国第5位の57
	万石の大大名となる。慶長16年(1611)には従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)となる。
	慶長19年(1614)1月18日、義光は病のため69歳でその生涯を終た。墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。
	--------------------------------------------------------------------------------









■ 二の丸東大手門内側(上)と外側(下)






	■ 二の丸東大手門(外観) 

	二ノ丸東大手門は山形城の正門である。石垣と堀のみだった城跡に平成3年、東大手門を復原した。枡形南北両側に多聞櫓を
	もつ独特な形式の桝型門で、江戸城の諸門に匹敵する規模を持つ。現在の建物は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真等を参
	考にして日本古来の建築様式で復元され、平成3年3月に施工した.工期45ヶ月.工費11億円余。







 

 















■ 復元工事中の本丸石垣


	明治時代に陸軍の連隊がここに置かれ、その時かっての霞城の遺構を壊し、石垣をすべて埋めてしまったそうである。いまの
	復元作業はその埋められた石垣を掘り返しているのである。全く軍隊と言うところはろくなことをしやしない。









はじめて「つばさ」に乗った。それにしても山形駅の新幹線ホームの貧弱なこと。田舎の私鉄のホームのようだ。




邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET / 山形城