Music: End of the World


宇美町を訪ねる
2005.11.6  福岡県宇美町












	福岡県糟屋郡宇美町
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	宇美町は糟屋郡の最南端に位置し、西に大野城市、北西に志免町、北に須恵町、東に嘉穂郡筑穂町、南に太宰府市、筑紫野
	市に隣接し、また志免町を経て、 福岡市とも接している。町の東部から南部にかけて、鬼岩谷(774m)、砥石山(826m)、
	三郡山(936m)、頭巾山(901m)、佛頂山(869m)、大城山(410m)などの筑紫山系が取り囲み、森に囲まれた小盆地であ
	る。また、砥石山・三郡山を源とし、町の中央部を貫く宇美川と、四王寺山系より発した井野川が合流し、志免町・福岡市
	を経て多々良川に流れ込み、博多湾に注いでいる。




	明治21年(1888)、市町村制の実施によって、宇美・炭焼・井野・四王寺の四つの村が合併して、宇美村が誕生した。当
	時の戸数は560戸、人口は11,975人。さらに、大正9年(1920)10月20日には、現在の糟屋郡のなかで最初に
	町制を施行し、宇美町になった。戦後しばらくまで、宇美町は石炭産業で栄えたが、高度経済成長政策とエネルギー革命に
	よって、炭坑の閉山が相次ぎ、昭和38年(1963)の三菱勝田炭坑の閉山を最後に、鉱業所の歴史に幕を降ろした。
	昭和50年代に入ると、福岡市の成長とともにベッドタウン化が進み、現在では、人口37、376人(平成13年6月1
	日現在)を有する町へと成長した。
  



	宇美の歴史は古く、魏志倭人伝に言う「不彌国」がここであろうとされている。3世紀半ばには「魏」にもしられていたの
	だ。また記紀には、神功皇后がここで応神天皇を出産し、それゆえここを「宇美(産み)」と呼ぶようになったと記述され
	ている。日本書紀の地名伝承はあまりあてにはならないが、それでもここには由緒ある歴史を裏づけるように、多くの遺跡
	が点在しており、出土品の中には大陸との交流を物語るものがあり、古くから海外に向かって開けていた歴史を知ることが
	できる。



 


	宇美八幡宮
	【祭神】 応神天皇・神功皇后
	【施設】 本殿、聖母宮、上宮(宇美公園内)、屯宮(井野山麓)、産湯の水、湯蓋の森、衣掛の森、放生川、弓道場
		(町営)、宝物殿、
	【交通】 福岡市二又瀬より7.5km、3号線南バイパス御笠川4丁目から5km。天神又は博多駅から西鉄バス宇美八幡宮
		 前下車徒歩1分。JR香椎線、宇美駅から徒歩10分。 

	宇美八幡宮は、「古事記」に「その御子生みたまえる地を、宇美とぞ謂ける」とあるように、神功皇后が新羅からの帰国
	途中、この地で応神天皇を無事出産したという伝説に由来して、この二人を祭る安産信仰の神社である。安産祈願の参拝
	者が絶えない境内には、国の天然記念物に指定されている大樟(湯蓋の森、衣掛の森)や、県の天然記念物の「蚊田の森」
	(大樟25本)などがそびえ立っている。折から七五三の子供連れで境内はにぎわっていた。




	神功皇后は別名を息長帯比売(おきながたらしひめ:古事記)と言う。古代には、息長(おきなが)という名前の付いた
	豪族が何人も出現する。注意して「記紀」を読むと、この名前の付いた人が結構登場するのだ。これは一体何を意味して
	いるのだろうか? 滋賀県に今も息長という地名の残る場所があり、ここに息長氏が隆盛を誇っていたという説がある。
	滋賀・京都南部から奈良北部・大阪東部にかけてこの息長氏の勢力圏は広がっており、継体天皇の大和入りを助けたのは
	この一族だという説もある。神功皇后もこの一族の出身だという意見もあるが、また反面、そのあまりに超人的な行動や、
	神懸かり的な故事の故に、神功皇后は実在の人物ではないという意見も結構根強い。直木孝次郎氏は、神功皇后物語は新
	しく七世紀後半に成立したとしている。



	記紀の伝えるところによれば、

	仲哀天皇・神功皇后は熊襲征伐のため九州に赴いていた。一行が筑紫の香椎の宮に居るとき、神懸(かみがか)った神功
	皇后に建内宿禰が神託を問うと、「西に国がある。金銀をはじめ輝くような財宝がその国にある。今その国をお前にやろ
	うと仰せになった。」だが夫の仲哀天皇は「高いところにのぼっても国は見えない。ただ大海原が広がっているだけだ。」
	と答えてこの神託を信じなかった。引いていた琴を止めておし黙った天皇に対して神々は怒った。建内宿禰は恐れて天皇
	に「琴をお引き下さい」と進言した。天皇はしぶしぶ引いていたがやがて琴の音がとまり、そのまま仲哀天皇は崩御した。
	(日本書紀は、一書に曰くとして、仲哀天皇は矢で腹を射抜かれ絶命したという伝承があることを紹介している。ここから、
	仲哀天皇は熊襲との戦いの最中、戦乱の中で戦死したのだという説もある。)
	御大葬の時、建内宿禰が神託を問うと神は、「この国は今皇后の腹の中に居る御子が治める国である」と答え、子供は男
	の子であると告げた。そこで建内宿禰は「今お教えになっている貴方は何という神様ですか」と聞いた。神が答えるに、
	「これは天照大神の御心である。神は、底筒の男、中筒の男、上筒の男である。西の国を求めるならば、天地の神、山の
	神、海河の神を奉り、我が御魂を船の上に祭り、木の灰を籠に入れ、箸と皿を沢山作って全て海の上に散らし浮かべて渡
	っていくが良い」と答えた。

	上記部分を読むと、これはまさしく我が国「神道」の基本理念ではないかと思える。まさに汎神論の世界である。




	この後も皇后は神の神託を求め、それに従って行動した様が記紀に記録されている。小山田邑(おやまだむら)に斎宮
	(いつきのみや)を作らせ、自ら神主となって神託を聞く。神の教えに従って神々を祀り、吉備臣の祖、鴨別(かものわ
	け)を使わして熊襲を滅ぼし服従させた。また筑前国夜須郡秋月庄(あきづきのしょう)荷持田村(のとりたのふれ)を
	根城にして暴れ廻る「羽白熊鷲」(はじろくまわし)は、朝廷の命は聞かず民衆を脅かしてばかりいたので、皇后は兵を
	差し向けこれを討つ。神懸かりした皇后軍の前に、さしもの熊鷲も屈伏した。

	この故事の舞台は、実は私の故郷である。荷持田村(のとりたのふれ)は今、福岡県甘木市大字野鳥となっていて、小学
	・中学時代の友人は今もここに住んでいる。私の卒業した秋月小学校も野鳥(のとり)にあった。子供の頃この話を聞い
	て、「羽白熊鷲」(はじろくまわし)という名前のおどろおどろした印象とは裏腹に、話自体には全く現実味を感じなか
	った。故郷の故事が日本書紀に載っている事にも、さしたる感動も覚えなかったが、今になってみると、どうしてこのよ
	うな事象が我が故郷に残っているのかに俄然興味を惹かれている。
	「古処山」(こしょさん)という、近在では一番高い山(864m)を根城にしていたという、この「羽白熊鷲」なる人物は
	いったいいかなる素性の人間だったのか? どこから来たのだろう? 書記に載るくらいだから、もし実在していたのな
	ら相当な蛮族だっただろうし、この譚が架空の物語だとしたら、何故山峡の小さな町である我が故郷が、日本書紀の編者
	の目にとまったのだろうか? 全く、「謎が謎を呼ぶ古代史」(黒岩重吾)である。




	この後「記紀」は、神功皇后が魚の力を借りて朝鮮半島に渡り新羅・百済の国を治める事になったと記し、「底筒の男、
	中筒の男、上筒の男」を祭ってそれが住吉大社になったと記録する。さらに帰国後筑紫で誉田別命(ほんだわけのみこと)
	を産み、それ故その地を「宇美」と呼ぶようになったと記録している。神話的な要素の濃い説話の故に、この話そのもの
	は後世の造作であり、朝鮮遠征そのものも実在しなかった逸話だとされ、ひいては神武皇后非実在説へ発展している。
	非実在・実在説の真贋については現在決着は着いていない。わからないのである。しかし住吉大社の縁起や、宇美町の実
	在等を考えるに、何かそれに類似した故事があったのではないかと思えてくる。また、誉田別命(ほんだわけのみこと:
	応神天皇)は、実は神功皇后と建内宿禰の子供であると言う説もある。

	日本書紀の記すところによれば、神功皇后は「摂政」という後の世の制度を与えられ、ほぼ天皇に近い扱いを受けている。
	実際天皇だったという説を唱える学者もいる。また暗に皇后を魏志倭人伝に言う「卑弥呼」だと匂わせているが、書記の
	編者には、卑弥呼に該当する日本史上の女帝が神功皇后以外には思い浮かばなかったのだろうと思われる。新井白石以後、
	この書記の内容を受けて「神功皇后=卑弥呼」説を唱える論者は多い。現代でもその説を唱える人がいる。しかし、その
	記述内容から見ても、この説は無理があるようだ。神功皇后は、摂政69年を経て100歳で没し、「狭城盾列池上陵」
	(さきのたたなみのみささぎ:現奈良市山陵町)に葬られたと書記は記録している。





神功皇后が、後の応神天皇をここで産んだという宇美八幡宮

 


	安産の神「湯方社」の周りには丸い石が山積になっている。神功皇后が応神天皇を産んだ時、産湯をつかわせた官女を
	「湯方殿」といい、日本助産婦の祖神として本殿裏に「湯方社」として祀られている。この丸い石には、住所と名前と生
	年月日が書いてある。妊婦がこの子安の石を一つ持ち帰り、神棚に祀り懐妊したら、その石に添えて形の良い丸い石に名
	前等を書き奉納する風習だという。
 
	樟の巨木に古の宇美が見える。クスの木の大木が沢山ある。「湯蓋の森」といい、樹齢は2000年以上であり、他に
	「衣掛の森」もある。宇美八幡宮では、神木でもある樹齢二千年の樟の木が、遠い古の宇美を語りかけてくる。また安産
	の神様として、子安の石には各地から詣でた参拝者の足跡が残っている。宇美八幡宮には有形・無形の指定文化財がたく
	さんあり、宇美神楽などいまも人々に受け継がれており、十月十五・十六日の放生会には露店もならび、青年団による
	「子安もちつき」、商工会による「商工まつり」などいろいろな催しで賑わう。






	<第15代応神天皇(おうじん)天皇>
	異称: 誉田別皇子(ほむたわけのおうじ:日本書紀)/大鞆和気命(おおともわけのみこと:古事記)
	生没年: 仲哀天皇9年 〜 応神天皇41年 110歳(古事記では130歳)
	在位期間  神功皇后摂政69+1年 〜 応神天皇41年
	父: 仲哀天皇 第四子
	母: 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)
	皇后: 品蛇真若王(ほむだまわかおう)の娘、仲姫(なかつひめ)
	皇妃: 高城入姫(たかきのいりひめ:皇后の姉)、弟姫(おとひめ:皇后の妹)、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)他
	皇子皇女: 荒田(あらた)皇女、大鷦鷯天皇(おおさぎきのすめらみこと:仁徳天皇)、根鳥皇女他
	宮: 軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや:奈良県橿原市大軽町)
	陵墓: 恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ:大阪府羽曳野大字誉田)

	朝鮮半島を攻めたとされている神功皇后が、朝鮮に赴いたとき胎内に宿していたのがこの応神天皇(誉田別尊:ほんだわ
	けのみこと)と言われている。夫である仲哀天皇は、「新羅は金銀の宝庫である。」という神託を信じず崩御してしまう
	が、その妃である神功皇后によって朝鮮半島の制圧が企てられた。(この話自体が事実ではないとする説もある。)
	筑紫へ凱旋してきた神功皇后は、俄に産気づき皇子を産み落とす。この皇子が誉田別尊であり、それ故にこの地が産み
	(宇美)と名付けられたと言う。宇美は現在も福岡県宇美町として残っており、大分県の宇佐神宮は応神天皇を祭神とし、
	全国に約4万社ある八幡神宮の中心である。

	九州生まれの誉田別尊は瀬戸内海を東進し、近畿入りを阻む勢力をうち負かし、難波に上陸して応神天皇となり王権を打
	ち立てた、と書記は伝えている。この逸話を以て、神武東征との共通点を指摘する意見は多い。何らかの勢力が九州から
	来て近畿に新王権を樹立したのだ、と言うのである。
	「騎馬民族征服説」の江上波夫氏は、崇神天皇の時代に第一次の渡来が行われ、騎馬民族が朝鮮半島を経由して筑紫に来
	たという。その時のリーダーが崇神天皇で、それから何代か後に、応神天皇をリーダーとする集団が筑紫から近畿に入り、
	現在の天皇家につながる礎を築いたと主張している。従って、実在した最初の天皇は崇神天皇であるという事になる。神
	武東征はこの史実の反映だと言う。
	他にも、応神天皇が実際に九州から来たのだろうという意見を持つ学者も多い。書記は、応神天皇と朝鮮半島の強い結び
	つきを記述しているが、これらは、応神天皇もしくはその遠くない先祖達が朝鮮半島から来たのだという事を示している
	と言うのである。

	養蚕技術を伝えたとされる秦(はた)氏や、倭漢直(やまとのみやのあたい)氏の先祖達も渡来してきたと考えられてお
	り、一大集団が日本列島を目指して大陸・半島からやってきたことはほぼ確実である。高句麗の侵攻によって迫害された
	朝鮮半島の人々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきたのである。
	百済から渡来してきた学者の阿直岐(あちき)は優馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(わに)は「千字文」と「論
	語」を伝えた。職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われ
	る。阿直岐、王仁はさまざまな典籍を日本に伝え、阿直岐史(あちきのふびと)の先祖であり、王仁は書首(ふみのおび
	と)」などの先祖にあたる。
	この他日本書紀の応神紀には、前朝に引き続いて竹内宿禰の活躍や、百済征伐譚や、蘇我氏の祖満智(まち)にまつわる
	話、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)と大山守皇子を呼んで世継ぎに関するテストをした話など、色々と逸話を残している。
	天皇は多くの皇妃を抱えており、皇后の姉、妹も妃とする。日本書紀によれば、天皇の皇子女は20人、古事記によれば
	26人にのぼっている。

 


	境内に「宇美町立歴史民俗資料館」がある。こじんまりとした、そう大きくはない資料館だが、この地方の古代の痕跡を
	残している。前述したように、ここで応神天皇を出産したのでここを「宇美(産み)」と呼ぶようになったと記紀は伝え
	ているが、おそらくそれこそ後世の造作だろう。ここはもともと FUMI、あるいは UMI と呼ばれる地方だったのだ。その
	由来はわからないが、それ故に「魏」からの使者はここを「不彌国」と書き残したのである。「末羅国」にしても、「伊
	都国」にしても、すでに3世紀以前にその名があったにもかかわらず、記紀は神功皇后譚によってその名が付いたと記す。
	これは一体何を意味しているのだろうか。
	そのことをもって、直ちに記紀の内容が造作だと言うことにはならないと思うし、神功皇后がいなかったという結論を導
	くのは早計にすぎる。それよりも、神功皇后譚や応神天皇譚に近い歴史的な史実が存在したのだと考えた方が、後の歴史
	の流れをより論理的に説明できる。古代、文化・文明が西から来たというのは明らかな事実なので、おそらくは神功皇后
	譚に記されているような史実があったのだろうと思う。そして応神天皇も、ほんとにここで生まれた人物だったかもしれ
	ないのだ。その父が、あるいは朝鮮人であった可能性はあるとしても。

資料館で聞くと光正寺古墳まではすぐですよ、とのことだったので、このいい気一番の古墳を是非見ていくことにした。








	福岡からの帰りはまたプロペラ機だった。この機はジェツト機の半分くらいの高度を飛ぶので、昼間に乗ると空からの景
	色がよく見えるので好きである。少し雨も降っていたが、瀬戸内海・百舌鳥古墳群・大阪城などがよく見えた。



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