SOUND:Penny Lane
うまみにのたに 馬見二ノ谷遺跡 --------------------------------------------- ■所在地 : 北葛城郡河合町大字山坊字二ノ谷 ■規模 : 調査面積 約1500m 2(平米) ■築造時期: 旧石器時代
馬見二ノ谷遺跡 発掘調査 現地説明会資料(2003年11月8日) -------------------------------------------------------------------------------- 調査機関 奈良県立橿原考古学研究所 所在地 北葛城郡河合町大字山坊字二ノ谷 調査期間 2003年4月21日〜11月末日(予定) 調査原因 馬見丘陵広域公園緑道整備 調査面積 約1500m 2(平米) 主な遺構 旧石器を多数包含する埋没谷(自然地形) 主な遺物 旧石器約5,000点 現地説明会 2003年11月8日(土)10時00分から12時00分 交通 近鉄田原本線池部駅下車、徒歩約10分 1.旧石器時代の遺跡 調査区と二つの谷 およそ 12000年前に土器が使われるようになる以前の時代を、旧石器時代と呼んでいます。旧石器時代には、人びと は決まった住居を持たず、一定の範囲を点々と移り住む生活を送っていたと考えられています。馬見二ノ谷遺跡は、そ うした頃のキャンプ跡の一つと考えられます。遺跡では、東向きの斜面を削りこむようにしてできた古い谷が南北2ヵ 所で見つかり、これら二つの谷を埋める土砂に、4500点にもおよぶ多量の石器が含まれていました。この場合の“石器” とは、私たちが“ナイフ形石器”などと呼んでいる完成品としての石器だけでなく、そうした石器の素材となるような 一定の大きさのかけら(剥片)や、石割りをしたときに生じる細かな破片までも含んでいます。そうした細かな破片が 出土していることからは、ここで石器づくりが盛んにおこなわれていたことがわかります。 これらの谷を埋めている土層は、北の谷、南の谷のいずれをみても比較的よく似ていて、土砂が堆積して谷が埋まっ ていく過程は二つの谷で共通していたようです。土層を細かに観察すると何十層にも分けることができますが、出土す る遺物の性格などから考えて、おおまかに上下二つに分けて考えることができます。旧石器時代の遺物は、上層、下層 のいずれからも同じように出土しますが、上層には少量ながら縄文時代、弥生時代の遺物が含まれています。下層は粘 土や砂の細かい土層が多数積み重なった様子が観察でき、おもに水の流れによって運ばれた土砂が堆積していると思わ れますが、縄文時代以降のものとはっきりわかる遺物は含まれていません。いずれにしても、多量の石器は谷の周囲か ら土砂とともに運ばれてきたと考えられ、土砂の堆積には旧石器時代に堆積した部分(下層)と、縄文時代以降に堆積 した部分(上層)があることが分かります。 ところで、発掘調査では二つの谷以外の丘陵部分も発掘していますが、旧石器時代の遺物がまとまって出土すること はありませんでした。先に述べたように、谷から出土した遺物は本来の位置にあるというより、周囲から運ばれてきた 可能性が高いので、それとは別に、石器作りの場所があったはずです。残念ながら“その場所”がどこであったのか、 ということをはっきり示す手がかりはあまりありませんが、二つの谷にはさまれた尾根の部分や、現在は道路となって いる調査区の南側などが有力な候補となるでしょう。今後、遺物の出土位置などの情報を細かに分析することによって、 明らかにできるかもしれません。
2.出土した遺物と遺跡の時期 多量の出土遺物のうち、大部分は“剥片”や“砕片”と呼んでいる、石材を割っただけの“かけら”や“石くず”の 類です。しかし、それらに混じって、“かけら”を二次的に加工して仕上げた道具(完成品)が数多く見つかっていま す。使用されている石材の大部分は二上山周辺でとれるサヌカイトですが、一部に、チャートや玉髄と呼んでいるよう な石材もあり、少し離れた地域から持ち込まれた石材もあったと考えられます。 完成品の代表的なものは“ナイフ形石器”で、これは“かけら”の鋭い縁辺を利用するものです。細かな加工を施し て文字通り“ナイフ”のような形に作っています。もちろん、実際に“ナイフ”として用いられたものかどうかは分か りませんが、現代の研究者が「ナイフに似た形の石器」として“ナイフ形石器”の名を付けています。旧石器時代に日 本列島のほぼ全域にわたって、各地それぞれに様々な形のナイフ形石器が作られ、使われたことが知られていて、遺跡 の時期などを知る重要な手がかりとなる石器です。馬見二ノ谷遺跡では、およそ80点のナイフ形石器が出土しています が、その形は実にバラエティに富んでいます。 その他に、この遺跡を特徴づけているのが10数点の“周縁加工尖頭器”です。少し難しい名前になりますが、”尖頭 器”というのは、“先の尖った石器”という意味と考えていいでしょう。さきほどのナイフ形石器と違って鋭い縁辺を 残さず、周囲をすべて加工してしまって菱形に仕上げています。近畿やその周辺では他に例が知られておらず、もちろ んまとまって出土した事例もありません。 これらの他には、スクレイパー(革なめしなどに使用したと考えられる石器)が数点と、剥片のごく一部に加工を加 えた不定型な石器が多数出土しています。ナイフ形石器が使われた時期の石器の組み合わせとしては、一般的なもので しょう。石核(剥片を剥離した残りの部分)も数十点が出土していますが、残されている剥片の量に比べると少ないよ うに思われます。今後、もう少し検討が必要なところです。 さて、こうした遺物から遺跡の年代を推定してみましょう。この遺跡では、年代のはっきりした火山灰との関係など は分かりませんから、年代を決める基準となるのは、ナイフ形石器の形や組み合わせということになります。馬見二ノ 谷遺跡で出土したナイフ形石器の形や大きさはさまざまで、年代にもいくつかの可能性が考えられます。ナイフ形石器 のうち多数を占める“小型の”ナイフ形石器は、ナイフ形石器が使用される時期でも終わりの方に属すると考えられま す。また、一部に近畿や瀬戸内地域で盛んに用いられた“国府型ナイフ形石器”や、それによく似たつくりのものが少 数ながら含まれています。もちろん、5000点の石器が一時期のものではない可能性もありますから断定はできませんが、 国府型ナイフ形石器が盛んに用いられた“国府期”(約2万年前)より新しく、“ナイフ形石器文化”の終わりに近い 時期を、遺跡の時期の候補として考えておきたいと思います。 代表的なナイフ形石器 周縁加工尖頭器
3.馬見二ノ谷遺跡発見の意味するもの 馬見二ノ谷遺跡は、馬見丘陵の北東部に位置していて、サヌカイトの産地である二上山からは7kmほどの距離となり ます。馬見丘陵は、奈良盆地の西南部に広がる標高60m程度の丘陵地で、これまでは多くの古墳が作られた場所として 知られてはいましたが、古墳時代以外の時代・時期の遺跡についてはあまり知られていませんでした。旧石器時代の遺 跡・遺物については馬見二ノ谷遺跡から2kmほど離れたフジ山古墳の周辺でナイフ形石器が採集されていること、丘陵 南西部の香芝市鈴山遺跡の発掘調査で10数点の旧石器が出土していることが知られているだけです。いわば遺跡の空白 地ともいえる地域で、旧石器時代の、しかもこれほどにまとまった遺物が出土したことは驚くべきことです。 「旧石器時代の遺跡が見つからない」ということにはいくつかの理由があると思われます。第一には、実際に遺跡が少 ないことがあるでしょう。第二には遺跡が形成されてから以降、人為か自然を問わず、削平や埋め立てなどの事情で地 形が大きく改変されている場合があると思われます。特に、奈良盆地が現在のような姿になるまでには、特に縄文時代 の中期〜晩期にかけての堆積が大きく進んだと考えられていますから、場所によっては、旧石器時代の遺物を含む土層 がより深くにあって、発掘調査をおこなっても調査の手が届かない可能性があります。また、遺跡発見のきっかけとな る開発行為が少ないところでは、遺跡が発見される可能性も低くなります。あるいは発掘調査をおこなっても、上層で 少しでも石器が出土するなどといった、遺跡がそこに存在する兆候を見逃してしまう場合が多いことも理由に加わるで しょう。馬見二ノ谷遺跡の発見には、いくつかの偶然が重なって旧石器時代遺跡の存在が明らかになったという側面が あります。旧石器時代の遺跡がない、あるいは少ないという事情の裏には、遺跡があっても見つかっていない、という 可能性があることを忘れてはならないのです。 さて、奈良盆地とその周辺ではこれまでに旧石器時代の遺物がまとまって出土して事例はさほど多くはありません。 奈良市法華寺南遺跡、三郷町峯ノ阪遺跡、大和高田市池田遺跡・岡崎遺跡などがあげられるだけです。石器の素材とな るサヌカイトの産地である二上山が間近にあり、また、香芝市の関屋盆地周辺に多くの旧石器時代の遺跡が密集してい ることを考えると、いささか不自然な気もしますが、上にあげたように、遺跡が“多くない”ということの理由は決し て単純ではありません。その意味では、すべての石器が二次的に動いた状態での発見とはいえ、馬見二ノ谷遺跡の出土 遺物は量的にも恵まれた貴重な事例の追加といえます。 また、この遺跡での“周縁加工尖頭器”を含むナイフ形石器の組み合わせは、これまでに近畿地方では知られていな かったものです。さきに馬見二ノ谷遺跡の年代について、“ナイフ形石器文化”の終わり頃に近い時期を考えていると 述べました。これまでに考えられてきたナイフ形石器とそれを含む石器群の変化の過程は、まだまだ限られた資料の検 討によっていて、今後さらに、未知の材料によって変わっていく可能性が大きいといえます。馬見二ノ谷遺跡の石器群 も、特に“国府期”以降の石器群の変遷を考える上で、注目される資料になっていくでしょう。 -------------------------------------------------------------------------------- この資料は、奈良県立橿原考古学研究所 光石鳴巳が作成しました。 --------------------------------------------------------------------------------