Music: Magical mystery Tour

2005.9.11(日) 但馬をゆく

城下町・出石




 



	<出石町>
	出石は天日槍(あめのひぼこ)の物語や伊豆志袁登売(いずしおとめ)の伝説で知られ、また茶臼山古墳を始めとする多くの
	古墳が残る歴史の地である。また歴史的な人物も豊富で、沢庵漬けで知られる沢庵和尚ゆかりの寺「宗鏡寺」も徒歩圏内にあ
	るし、桂小五郎が潜居したとされる民家跡も歴史を感じさせる。白い土塀と長屋門を持つ「出石町家老屋敷」では武士の住ま
	いを復元しており、当時の生活ぶりや大名行列の諸道具を見ることもできる。
	但馬開発の祖神ともいわれる新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が、垂仁天皇3年に渡来してこの地を拓いたと伝えられ、町
	名も、天日槍の宝物である「出石小刀」に起因しているといわれる。また、古くは但馬の国衙(こくが)が置かれていたとも
	伝えられ、袴狭地区にある「砂入遺跡」からこのことを裏付けるように「人形(ひとがた)」「斎串(ゆぐし)」といった祓
	いの道具が大量に出土している。





斉藤隆夫がこの町の出身だとは知らなかった。国会で口から泡を飛ばして演説する写真を見たことがある。

 
	<天日槍(アメノヒボコ)> 
	古事記によれば、天日槍(あめのひぼこ:天之日矛)は新羅の国の王子として生まれた。ある日、天日槍は一人の若者から、
	新羅国アグ沼のほとりで眠っていた女性が、美しい虹のような光をあびて産み落としたという赤い玉を譲り受ける。家に持ち
	帰り飾っていたところ、その玉は美しい乙女となり、天日槍は、乙女を妻にする。二人は楽しい日々を送るが、やがて乙女に
	対して不満をいうようになり、乙女は嘆き悲しみ「母の国へ行きます」と天日槍のもとを去ってしまう。乙女は日本の難波に
	たどりつき、比売詐曽(ひめこそ)神社のアカルヒメという祭神になる。一方、天日槍も八種の神宝を携えて日本へ渡ろうと
	するが、渡りの神に邪魔をされて、多遅摩(たじま)国(但馬国)に上陸し、出石に住むようになる。
	やがて、但馬の俣尾(またおの娘、前津見(まえつみ)を妻にし、製鉄をはじめ大陸の優れた技術を持って天日槍は但馬に新
	しい文化をつくりあげていく。天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられる。出石神社由来記に
	は天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されている。
	日本書紀は一書にいわくとして、播磨の国に渡来して、治水に功績があったアメノヒボコの話を載せているが、渡来人達は、
	新たな生活の糧としての水田を新しく開発する必要があり、それがやがて治水とも結びついて、やがて現地で神と崇められた
	可能性もある。現在、但馬の一の宮とされている出石神社(出石町)は、祭神がアメノヒボコである。表現は多少異なるが古
	事記、日本書紀、播磨風土記にも、天日槍とその一族は登場し、伝説と神秘に満ちた古代史を彩っている。
	また一説によれば、天日槍は、そのホコという名前から、太陽光の化身とも、祭具としての桙の擬人化とも言われている。 
 
	<田道間守>(たじまもり) 
	古事記によれば、多遅摩毛理(たじまもり:田道間守)は、天日槍の子孫で三宅連(みやけのむらじ)らの祖先とされる。
	垂仁天皇の命を受けて、はるかな地に、命を長らえることのできる木の実(橘)を求める旅に出た。命がけで橘の実を手に入
	れて帰ってきた時すでに天皇はなく、悲しみ嘆いた田道間守は、天皇の陵(墓)に、橘を捧げたまま息絶えてしまった。忠節
	を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にひっそりと祀られている。また、田道間守が持ち帰った
	木の実は、わが国のお菓子のはじまりとされ、お菓子の神様として、田道間守の故郷兵庫県豊岡市中嶋神社に祀られている。
	宮中に、「右近の橘、左近の桜」(反対だったかな?)とあるのは、この故事に基づいている。 




	出石城址 
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	出石(いずし)は但馬の国で唯一の城下町である。かっては訪れる人とてない山間の田舎町だったようだが、地元の努力もあ
	って、最近では「但馬の小京都」と呼ばれ、仙石氏が信州上田から持ってきたといわれる「出石そば」の人気とあいまって、
	結構な観光客がこの町を訪れている。
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	<町並み>
	私の故郷の城下町「筑前・秋月」同様に、出石も十分歩いて回れるほど小さい町である。情緒ある町並みがそのまま残されて
	おり、秋月と違って町並みはきれいな碁盤の目状に区画されている。 




	<大手門跡  辰鼓櫓> 
	この時計が付いた灯台のような建物は「辰鼓櫓」(しんころう)と言い、毎朝藩士の登城の時間(辰の刻)を知らせる太鼓を
	鳴らしていた見張り櫓である。明治になって町の篤志家から時計が贈られて、今では時計台として出石のシンボルになってい
	る。








 
	出石城の前史は元寇の頃(1331−33)に遡り、但馬・山名氏8代の本拠となった此隅城である。「太平記」にも登場する山名
	時氏(ときうじ)が但馬地方を制圧し、足利尊氏に仕えていたその子時義(ときよし)は、幕府より但馬の守護に命ぜられ、
	宮内の此隅山(このすみやま)に本拠を構えた。山名一族は隆盛を極めたが、日本全国の6分の1にあたる11国の守護職を
	務めた山名氏も、祐豊(すけとよ)の時代、応仁の乱(1467−77)後に衰退し、永禄12年(1569)、織田軍の羽柴秀吉に攻
	められて落城し滅亡する。







 
	秀吉の弟秀長は城を木下昌利に守らせ、その後城主は青木甚兵衛、前野長康と変わった後、播磨の龍野城主・小出吉政(よし
	まさ)が入封し、元禄9年(1696)の8代英及までつづく。現在の出石城址は、小出氏初代・吉政の子、吉英(よしふさ)が
	慶長9年(1604)に築いた近世の平城である。吉英は山城を廃し、山麓に平山城を築き城下町づくりを行った。
	 一国一城制による但馬唯一の城で、当時は5万8000石を誇る出石藩の本城で、大坂や日本海の他の町との流通も盛んで
	あった。





二の丸跡から見た出石の町並み。



 
	小出氏は9代、約100年間継続したが後縦ぎがなく断絶した。翌元禄10年(1697)に武蔵国岩槻より松平忠徳(ただのり)
	が移封されたが、宝永3年(1706)、松平氏は信州上田の仙石政明(せんごくまさあきら)と国替えとなった。仙石氏は7代
	にわたって出石藩を治めたが、天保6年(1835)の「仙石騒動」により、3万石に減封され明治に至っている。





 
	明治4年7月の廃藩置県により、出石藩は出石県となり、同年12月には豊岡県に編入された。明治9年3月26日に起こっ
	た火災は、旧城下町を火の海とし、家屋966、社寺39、土蔵290を焼き尽くしたといわれる。同年8月には豊岡県が兵
	庫県に編入され、さらに、明治22年の町村制の施行により、出石町、室埴(むろはに)村、小坂(おさか)村、神美(かみ
	よし)村が生まれた。昭和32年9月、神美村穴見谷地区を除く1町3村の合併が成立し、新しく出石町が発足したが、平成
	の大合併により、平成17年、温泉で有名な城崎や高岡町とともに豊岡市と合併し、新生豊岡市が誕生した。






	<登城橋> 
	出石城は麓の三の丸(外郭)から二の丸、本丸と登る梯郭式の縄張り。天主閣は築かれず、藩主の居館を本丸に建て、二の丸
	と廊下で連結されていた。明治に入り城は取り壊され、現在まで残る遺構は石塁、内堀と、辰の刻(午前八時)に太鼓を打ち
	鳴らして藩士の登城を告げる辰鼓櫓で、本丸跡の東西二つの隅櫓は昭和43年(1968)復元されたものである。 
  




<おりゅう灯篭>






	<出石 手打ち皿そば> 
	宝永3年(1706)のお国替えの際、信州上田から藩主仙石氏に伴ってきた職人の技によってはじめられたといわれている。
	出石そばといえば皿そばとして有名。江戸時代より、白い出石焼きの5皿に小分けしたそばを、山芋と卵を入れたつゆにつけ
	て食べるのが出石流である。以前訪れた時に、坂本竜馬の寓居跡ちかくで食べたそばがおいしかったので、その店を探したが
	見つからなかった。しかたなしに、そば饅頭を売っていたおばちゃんにどこが一番うまいかと尋ねたら、「いいところを紹介
	するから。」と言ってわざわざ小僧さんに案内させた。これがいけなかった。まずくて、家族4人ともげんなり。セガレなど
	は「next! next!」と次に期待をかける。

 


	そこそこに店を出て、もう1件のそばやさんに飛び込んだ。ここはまぁまぁだったが、昔の店にはかなわない気がした。博多
	の屋台ラーメンも、最近はどこもまずくて、博多育ちの私でさえうまい店を探すのが難儀だが、どうやらここも同じらしい。



 


	<家老屋敷>
	辰鼓楼のすぐそばにある、白壁に囲まれた平屋建てのこの建物は、江戸時代の三大お家騒動の一つ「仙石騒動」の首謀者とい
	われる家老・仙石左京の屋敷跡である。現存する建物は左京と対立した造酒の子、仙石主計が騒動の後に建て替えたもの。
	中には江戸時代の武具や大名行列の道具などが展示されている。内部には不意の襲撃に備えるための隠し二階があり、抗争の
	一端を垣間見る。










	<仙石騒動>
	出石藩のお家騒動は、藩主が仙石氏、騒動の当人たちも藩主仙石家から分家した2家の家老職の仙石氏だったため、出石騒動
	ではなく仙石騒動と呼ばれる。幕末期のこの騒動は、2人の家老による藩政をめぐる勢力争いだった。いわば行政側の仙石左
	京と財政担当の仙石造酒が、藩財政の運営を巡って激しく対立し、藩を二分してしまう騒動となった。藩主仙石政美の急死に
	よる後継者問題も絡んでの政争劇は、左京が主導権を握ったことで一応の決着を見たが、造酒派の画策によって仙石家の内紛
	は幕府の知るところとなり、当時、お家騒動は天下の御法度だったため幕府の裁きを受け、左京は処刑、藩は5万8千石の知
	行を3万石に減らされてしまった。これはTVや映画の時代劇そのままのようなお家騒動だ。











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