タクシーを降りたところから歩き出す。上を見上げたら「ヒェー高いやん!」という者がいたが、野村さんは「すぐです よ」と涼しげだった。実際急な坂道なのは3,40mくらいで、もう本丸跡に着いた。そうとう上まであの道路は上がっ てきているのだ。帰りの下り坂を下りたら、あそこを登っていく(反対側の黒門から)のは相当しんどそうに思える。
高取城: 日本屈指の山城「高取城」は、日本一の比高(麓から天守台までの高低差)390mを誇ります。明治時代に解体された ため現在は石垣しか残っておりませんが、それが古代へのロマンをかきたてます。司馬遼太郎「街道を行く」でも、次の ように謳われています。
高取城は、今を溯ること約670年前、中世南北朝時代、大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、標高583mの高取 山の頂に砦のような城を築いたのがその始めと言われている。山頂を引きならして曲輪(くるわ:城・砦など、一定の区 域の周囲に築いた土や石のかこい)をつくる。尾根筋に沿って幾段もの曲輪が連なり、要所要所に掘割がつくられ、守り となっている。恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓・天守もない、自然の地形に多少の工作を加え敵を防ぐ形態の城を掻 揚げ城(かきあげじろ)と呼ぶ。吉野方面との連携をはかることが当時の使命であり、非常の場合、軍事権をもつ惣領が 一族・郎党を引き具し、ここにたてこもるのである。
1585年(天正13年)大和国郡山城主 豊臣秀長の重臣 本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、天守閣・石塁 など本格的な築城が進められた。これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されていたもので、 最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。1640年(寛永17年)幕府大番頭 植村家政が高取藩主となり、 以後14代228年、植村家が藩主となる。時代が進み、世が泰平になるにつれて山上の生活が不便となり、城下町に下屋敷、 即ち藩主の居住並びに政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。下屋敷は、はじめ宗泉寺の 位置にあったとも言われ、後に下子島村のうち、土佐町に近い場所に移された。天正期以後の整備・拡張により高取城は 「芙蓉城(ふようじょう)」とも言われ、『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われた。
ここは現在個人所有なので、持ち主に頼んで眼前の樹木を切ったらしい。それで展望が良くなった。下の説明板もボラン ティアの皆さんの手作りだ。ここの存在は図面上で分かっていたが、こうして眺望が楽しめるようになったのは2,3年 前らしい。廻りには、建物が立っていたときの瓦が散乱していた。
二の門の前に大きな池がある。往時にはこの池の水で、城の住人の水をまかなっていたものらしい。今でも水は蓄えられ ているがもうボウフラも住めないような感じである。しかしこんな山の上でどこから水が湧いてくるのだろうか。
猿石 二ノ門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり、制作は、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)と推測される。高取城 築城の際、石垣に転用するために明日香から運ばれたと言われている。明日香檜隈(ひのくま)の吉備姫王(きびのひ めみこ)の墓の域内にある石像物と同類のものである。郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もある。
ここは麓から、苦役で物や石を運んできた人夫達が、「もういやだ」といって投げ出した場所らしい。それで、「あと 一升(米を)やるからガンバレ!」と米で釣ったところからこの名がある。
宗泉寺 高取藩主植村氏の菩提寺もと植村家政の邸宅だったが、のちに「ゴテンアト」(下子島)に下屋敷を新築し、元禄11年 (1698)寺として創建。山号を真各山宗泉寺という。植村氏累代の墓碑がある。
右手にけたたましく吠える黒い大きな犬がいた。「危犬!」と注意書きがあったが、誰かが「お寺があんな猛犬を飼って るなんて」と言っていた。それほど、恐ろしくどう猛そうな犬だった。
大手道 本来はこっちが高取城址へ上る大手道である。ここから山道の様相を見せてくる。この辺りから山頂に掛けてが「くすり の町高取」の名のように、薬草の宝庫である。
明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。大和の国の郡山、高取の2城も 廃毀となった。高取城は、明治6年入札により、詳細は残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却 されたと思われる。ただ人里離れた山頂であるため、その綱張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年に 国の史跡に指定されている。