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高取城

歴史倶楽部第97回例会 奈良県高取町 2005.5.29(日)






 


	タクシーを降りたところから歩き出す。上を見上げたら「ヒェー高いやん!」という者がいたが、野村さんは「すぐです
	よ」と涼しげだった。実際急な坂道なのは3,40mくらいで、もう本丸跡に着いた。そうとう上まであの道路は上がっ
	てきているのだ。帰りの下り坂を下りたら、あそこを登っていく(反対側の黒門から)のは相当しんどそうに思える。




	高取城:

	日本屈指の山城「高取城」は、日本一の比高(麓から天守台までの高低差)390mを誇ります。明治時代に解体された
	ため現在は石垣しか残っておりませんが、それが古代へのロマンをかきたてます。司馬遼太郎「街道を行く」でも、次の
	ように謳われています。








 

河内さんが「七つ井戸」の一つを覗き込んでいる。この辺りに七つあった事からこの名があるが、草に隠れてたら危ないな。



 




	高取城は、今を溯ること約670年前、中世南北朝時代、大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、標高583mの高取
	山の頂に砦のような城を築いたのがその始めと言われている。山頂を引きならして曲輪(くるわ:城・砦など、一定の区
	域の周囲に築いた土や石のかこい)をつくる。尾根筋に沿って幾段もの曲輪が連なり、要所要所に掘割がつくられ、守り
	となっている。恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓・天守もない、自然の地形に多少の工作を加え敵を防ぐ形態の城を掻
	揚げ城(かきあげじろ)と呼ぶ。吉野方面との連携をはかることが当時の使命であり、非常の場合、軍事権をもつ惣領が
	一族・郎党を引き具し、ここにたてこもるのである。 

 









 


	1585年(天正13年)大和国郡山城主 豊臣秀長の重臣 本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、天守閣・石塁
	など本格的な築城が進められた。これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されていたもので、
	最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。1640年(寛永17年)幕府大番頭 植村家政が高取藩主となり、
	以後14代228年、植村家が藩主となる。時代が進み、世が泰平になるにつれて山上の生活が不便となり、城下町に下屋敷、
	即ち藩主の居住並びに政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。下屋敷は、はじめ宗泉寺の
	位置にあったとも言われ、後に下子島村のうち、土佐町に近い場所に移された。天正期以後の整備・拡張により高取城は
	「芙蓉城(ふようじょう)」とも言われ、『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われた。



 

上左は道祖神のような石仏らしかった。石が不足して、仏様まで足蹴にしている。日本の城の石垣はどこも石仏で一杯である。



ここが本丸跡。さすがに広々としていて、ここからは眺めもいい。しかし築き上げた石垣を見ると、よくぞここまでと感心する。









 







上右の石垣の上が天守閣。その前に井戸がある(下)。こんな上でも水があったのか。



 

 

 

天守閣の上に三角点がある。まさしくここが高取山の山頂なのだ。





天守閣から本丸跡を見る(上)。



この本丸の石垣の積み方は見事でしょう、と野村さん。納得してその前で記念撮影。





上も石仏である。全くバチあたりめ。



 



 



 



 





 



上の石垣を見る位置が、下の写真を撮った位置である。ここを出てすぐの所にボランティアの皆さんが作った説明板がある。

 



上の道を降りてゆくと、明日香村や吉野へ通じているらしい。





上左に城代家老の武家屋敷があった。えらいとこにあるもんやなぁ。こりゃ里へ降りていくのは一大事業だったのではなかろうか。

 



 

次から次に門が出てくる。何重にも門を構えて敵を防ごうとしたのだろう。それにしても費用と時間の膨大なこと。こんな山の中に!

 

 

 



山道を左へ折れて、国見櫓への道がある。2,3年前にボランテイアの皆さんでこういう形にしたのだそうだ。




	ここは現在個人所有なので、持ち主に頼んで眼前の樹木を切ったらしい。それで展望が良くなった。下の説明板もボラン
	ティアの皆さんの手作りだ。ここの存在は図面上で分かっていたが、こうして眺望が楽しめるようになったのは2,3年
	前らしい。廻りには、建物が立っていたときの瓦が散乱していた。










	二の門の前に大きな池がある。往時にはこの池の水で、城の住人の水をまかなっていたものらしい。今でも水は蓄えられ
	ているがもうボウフラも住めないような感じである。しかしこんな山の上でどこから水が湧いてくるのだろうか。







ここにあった門が、前回訪問した観覚寺の「子嶋寺」へ移築されている。高取城の遺構として現在も残っているのはこの門だけである。

 







 

 


	猿石 

	二ノ門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり、制作は、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)と推測される。高取城
	築城の際、石垣に転用するために明日香から運ばれたと言われている。明日香檜隈(ひのくま)の吉備姫王(きびのひ
	めみこ)の墓の域内にある石像物と同類のものである。郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もある。 





 

 

 


	ここは麓から、苦役で物や石を運んできた人夫達が、「もういやだ」といって投げ出した場所らしい。それで、「あと
	一升(米を)やるからガンバレ!」と米で釣ったところからこの名がある。

 

上の土橋は下が深い谷になっていて、いざという時これを落とせばここで立ち往生するようになっている。

 



 

 

1合目あたりに「高取城址」の碑がたっている。そのちょっと先に「宗泉寺」がある。代々の高取藩主の菩提寺である。

 




	宗泉寺 
	高取藩主植村氏の菩提寺もと植村家政の邸宅だったが、のちに「ゴテンアト」(下子島)に下屋敷を新築し、元禄11年
	(1698)寺として創建。山号を真各山宗泉寺という。植村氏累代の墓碑がある。  


 


	右手にけたたましく吠える黒い大きな犬がいた。「危犬!」と注意書きがあったが、誰かが「お寺があんな猛犬を飼って
	るなんて」と言っていた。それほど、恐ろしくどう猛そうな犬だった。



本堂といい、構えはなかなか立派な寺である。さすが菩提寺。



こっちは本堂側から入り口の門を見たところ。

 



ここらへんが高取藩主「植村家」の累代の墓所。



 

 
	大手道
	本来はこっちが高取城址へ上る大手道である。ここから山道の様相を見せてくる。この辺りから山頂に掛けてが「くすり
	の町高取」の名のように、薬草の宝庫である。



河内さんが歩いているあたりに黒門があった。本来はここから高取城へ登ったのだ。しかし今降りてきた道を登るとはなぁ!


	明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。大和の国の郡山、高取の2城も
	廃毀となった。高取城は、明治6年入札により、詳細は残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却
	されたと思われる。ただ人里離れた山頂であるため、その綱張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年に
	国の史跡に指定されている。



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