森カシ谷遺跡前の紀路を通って高取中学校の西側を北に取ると、左手の山の中腹に宮内庁が治定している岡宮天皇檀弓 (まゆみ=真弓)陵の鳥居が見えている。
岡宮天皇陵:真弓岡陵(まゆみのおかのみささぎ) 岡宮天皇などという名前は皇統譜にはない。追尊天皇なので、一般にはあまり聞きなれない名前かもしれないが、実は、 天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子「草壁皇子」である。偉大な父とその母である鵜野皇女(持統天皇)のプレッシ ャーからか、ついに天皇として即位することはなく、享年28歳という若さで逝去した。持統3年(689)に没し、のち 天平宝字2年(758)に岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすらみこと)と諡号された。 (「追尊天皇」・・・・・生前には皇位についていないが、没後に天皇号を贈られた天皇。) 現在岡宮天皇陵とされているのは、束明神古墳から南300mの高取町大字森に所在している。これは、1862年(文久2年) に宇都宮藩が中心になって現岡宮陵の修陵が行われ、宇都宮藩による山陵修補関係図には、岡宮帝御陵之図というのがあ り、この時期に岡宮天皇陵に比定されたものらしい。現在宮内庁は、草壁皇子の古墳としてここを指定しているが、学者 の間では、束明神古墳(つかみょうじんこふん)が草壁皇子であろうという説が有力である。
天智天皇(中大兄皇子)は大化改新(645)で有名。天武天皇は天智天皇の弟だが、天智天皇の子である大友皇子と壬 申の乱(672)を起こし勝者となる。大田皇女は鵜野皇女の同母姉で天武天皇の皇后だったが、667年には死亡し、 妹の鵜野皇女が天武の皇后となる。 天武天皇には大田皇女との間に大来皇女、大津皇子。鵜野皇女との間に草壁皇子。他に長皇子、弓削皇子、舎人皇子、但 馬皇女、新田部皇子、穂積皇子、紀皇女、田形皇女、十市皇女、高市皇子、忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女 と実に多くの子供がいるが、この多くの皇子女達にも序列があった。それは年齢ではなく母親の出自に拠るものである。 この中で次期皇太子の候補は2人いた。大津皇子と草壁皇子である。「日本書紀」「懐風藻」によれば草壁が平凡な人物 であったのに対して大津は人望もあり才能もあったらしい。 「幼年にして学を好み、博覧にして能く文を綴る。壮に及びて武を好み、多力にして能く剣を撃つ。」とある。
686年9月9日、50歳で天武天皇が没すると、皇后鵜野皇女は、10月2日には大津皇子に謀反の動きありとして彼 を捕らえ、翌3日には自害に追いやった。謀反の内容は明らかではなく、この時捕まった30余人の内2人を除いて罪を 許すという、不可解な事件であった。これは鵜野皇女が自分の子、草壁皇子の地位を磐石にするための謀であったという のが通説であるが、それでも、草壁皇子は即位できなかった。大津皇子の事件の反発、天武天皇の2年間にわたる殯(も がり:死を悼み喪に服す事。)など、草壁皇子はその疲労からか、天皇になることなく689年4月皇太子のまま没した。
次期天皇の地位には鵜野皇女がついた。持統天皇である。彼女は草壁皇子の即位を渇望したがかなわなくなった後、その 子供である「軽皇子」を天皇に就けたかった。しかし軽皇子はまだ4歳である。成長するまで自分が天皇になって繋いで おこうと考えても不思議ではない。以後11年間、持統天皇の統治は続いた。そして11年後、思い通り孫の軽皇子が文 武天皇となって皇位につくのである。
素盞鳴命神社 岡宮天皇陵に隣接。古墳は天津神系、すなわち九州から来た天皇系が作った。脇に、国津神系の出雲の神「素戔嗚尊」を 祀って祭っている。屋根が三角形に見える向きが正面-出雲風とされる。下が、宮内庁比定「岡宮天皇陵」の円墳上を囲 んだ区域である。
岡宮天皇陵を出て佐田の集落の方へ歩いていくと、路の奥まった尾根の中腹に春日神社があり、拝殿に接して束明神古墳 がある。墳丘山の腹部を弧状に削って築かれており、これまでの2回の調査の結果、墳丘は、対角線の長さ30mの八角 形。埋葬施設は、横口式石槨は50cm四方、厚さ30cmの石材を積み上げた家形の石槨で、石室の規模も長さ3.1 m、幅2m、高さ2.5mと大きなものであった。
この石槨の復元模型は、橿原考古学研究所付属博物館の前庭に公開されているものである。復元に際して、この古墳の設 計基準が検討され、唐尺=1尺が29.4センチのほかに、黄金分割の比率(1対1.618)が使われていることがわかったという。 すなわち、奥壁の幅が7尺の2.06メートル(2)に対して長さは3.1メートル(3)、高さは横壁の直立部と持ち送り部が 各1.27メートル(1)に対して、幅2.06メートル(1.618)になっていたそうである。(河上邦彦著「考古学点描」)
東明神古墳: 高市郡高取町佐田 古墳時代終末期 墳丘は対角線30mの8角形 束明神古墳は、高取町大字佐田に所在する春日神社の境内にあり、丘陵の尾根の南斜面に築造された7世紀代の終末期 後半の古墳である。現状では墳丘がわずか直径10m程に見えるが、これは中近世の神社境内の整備のためであり、発掘 の結果、対角長36mの八角形墳であったことが判明した。埋葬施設は、特殊な横口式石槨(せっかく)で、約厚さ3 0cm・幅50cm・奥行50cm大の凝灰岩の切石を積み上げ、南北約3m・東西2m・高さは1.3mの所から内 側に傾斜させ家型となっている。ただし、盗掘により天井部が破壊されているので推定であるが高さ約2.5mある。
この石室は構築にあたっては極めて精巧な設計がなされていたらしく、黄金分割等を使っている。盗掘されているため、 出土した遺物は少ないが、漆塗木棺破片や鉄釘や須恵器・土師器と人歯・骨などがある。飛鳥時代の古墳は、多くが丘 陵の尾根の南斜面に築かれており、それ以前の古墳が平坦地や尾根の稜線上に築かれているのと異なっている。これは、 中国の風水思想が朝鮮半島からもたらされ、都市・住居・墓地などの場所を選ぶ場合「四神相応の地」として、北の玄 武は小山があること、東の青龍は川が流れていること、南の朱雀は高山があること、西の白虎は大道があこと、この中 心に墓地を作ることが吉であるとされる。
佐田の村に伝わる伝承に、幕末の頃までは、この古墳に玉垣(たまがき)をめぐらせていたが、明治時代になって岡宮 天皇(草壁皇子)の御陵を指定するための調査を行うとの通知があり、当時佐田の村では春日神社横の古墳を岡宮天皇 陵とのことで祀っていたが、これが正式に指定されると佐田の村は強制移住されるとの風聞が立ち、そこで村人は玉垣 をはずし、石室を破壊してしまった。役人がやってきて鉄の棒を墳頂から突いたが石室にあたらず、結局御陵は佐田の 村の南300mの森村の素戔鳴命神社(すさのおのみこと)の本殿の地と定められ(現岡宮天皇陵)、神社は東側に移 動させられたことが伝えられている。当時は鉄の棒で地底を突き、石室を探していたのである。 この古墳は、過去に3度も盗掘にあい、副葬品はまったく残っていなかったが、漆塗木棺に使用された漆膜片と鉄釘、 金銅製棺飾り金具が残っており、高松塚古墳の木棺に似た棺があったと考えられている。
束明神古墳の東側、田んぼの中で掘っ立て柱が出土した。墓守の役所跡の可能性もあるとのことだ。草壁皇子を祀って きた村人が天皇陵指定による立ち退きを恐れて石室上板を隠し、鉄の棒による探査を免れた事も、その後の発掘でこの 事実が検証された。村人は草壁皇子が石川の女郎(大名児)に贈った歌「大名児彼方野辺に刈る草の束の間も吾忘れめ や」にちなみ、束明神(塚明神とすれば隠した事実が知れる)として祀ったとのこと。当時を偲ぶ「束明神」「嘉永四 年」の銘が残る灯籠が、現在塚に立っている。
ところで、束明神古墳から青年期〜壮年期の人の歯が見つかったことと、古墳築造が7世紀後半らしいこと等から、こ の古墳の被葬者は、「天武・持統の息子の草壁皇子」という説が信憑性を帯びてきた。発掘調査では歯牙6本が検出さ れ、青年期から壮年期の男性と推定されている。これは皇子が28歳で没したのと符合する。石槨、棺などの特徴と古 墳の周辺から出土した須恵器片などから築造時期が7世紀後半の終わりに近いと考えられること、佐田の地元では束明 神古墳が草壁皇子の墓であると伝承されていること等々が、この古墳が草壁皇子の陵墓であるという説を裏付けている ようだ。 草壁皇子が佐田の丘陵に葬られたことは、万葉集にあり、その墓所が「佐田の岡辺」「檀岡」にあったとしているので、 現在の佐田の集落の周辺にあったことは確かである。しかし、「続日本紀」によると、奈良時代の天平神護元年(765) 10月13日に称徳天皇が紀伊の国に行幸のおり、巨勢路を通り、壇弓陵側を通過したとき、従者に下馬を命じ、旗幟を巻 かせて敬意を表したという。巨勢路からは檀弓陵は確かに近いが、続日本紀には「見える」ではなく「檀の山陵を過ぎ る」とあり、その他の条件を合わせて、真の草壁皇子陵は束明神古墳であるというのが通説になっている。