SOUND:Eleanor Rigby
但馬国府・国分寺館 第2回企画展 新豊岡市を考古学する





	■ 謝辞 ■ <お断り Acknoledgement>

	但馬国府・国分寺館は原則的に写真撮影はOKであるが、企画展は禁止である。企画展だから禁止と言うわけではな
	くて、展示されている銅鐸の破片が、日高町出土でありながら現在は文化庁所蔵なので、著作権がこの博物館にはな
	いのである。従ってここに掲載されている写真群は、HP製作者が独断で掲載しているもので前岡さんにはなんら責
	はない。どころか、前岡さんも「写してもらうのはかまいませんが、HPには載せないでくださいね。」と言ってい
	た。私も最初そのつもりだった。しかし、調べれば調べるほど、この銅鐸のことを知らないで但馬は語れないだろう
	という気になった。弥生時代前半、近畿圏を中心に大きく形成されていた銅鐸文化圏がこの但馬にも及んでいた。そ
	してその文化は突然消滅した。その証拠がこの銅鐸片なのだ。前岡さんには約束を破ってすまないが、やはりこのこ
	とはみんなに知らせて、但馬を考えてもらう一級の資料だと思う。前岡さん、ごめんね。








	但馬国府・国分寺館が保管している、豊岡市日高町久田谷から出土した銅鐸は、117片からなる破砕された銅鐸と
	して著名である。弥生末期の「袈裟架け文」で飾られている。なぜ破砕されたのかなど、多くの論議を呼んでいる銅
	鐸だ。




	銅鐸は、3世紀から4世紀にかけての弥生時代末期に集中している。古事記・日本書紀には、北九州文化圏の剣や鉾
	の記述はあるが、銅鐸に関してはただの1文字すら記録されていない。これは、畿内を中心に存在した銅鐸の文化圏
	と、4世紀以降の古墳文化(大和政権)との間に、大いなる断絶、戦争などの破局的事態があったことを示唆してい
	る。つまり大和朝廷をつくった民族と、銅鐸を祀っていた民族は違うものなのだ。だとすれば、銅鐸の発見された古
	代の気多国とは何なのか。気(ケタ)とは一体何に基づく呼び名なのだろう。日高も近畿を中心とした銅鐸文化圏の
	なかにあったとすれば、日高町の先住者、気多人たちはどこから来て、どこへ消えていったのだろうか。






	日高町久田谷遺跡で発見された、全国でも珍しい粉々に破壊された銅鐸。いったい誰が何のために、粉々にして埋め
	てしまったのだろうか。土器と違って銅鐸は壊れにくい。青銅器でできているのから当然といえば当然なのだが、一
	般的には銅鐸は、事故や偶然ではけっしてこうはならない。意図的に器具や道具を使って粉々にしない限り、土器の
	ようには壊れないものである。








	現在日本中で発見された銅鐸のうち、400個以上の銅鐸は完形である。つまり鋳造された時点の形を保っている。
	それ以外も、地中でさびて一部が破損したり、発掘時に機械で傷つけたりして壊れたものがほとんどである。ところ
	が、昭和53年に日高町久田で発見されたこの銅鐸は、ごらんいただくように「粉砕」されている。数センチ四方の、
	ほぼ同じ大きさの破片が117個、熱したり水で冷やしたりして不自然にひずんだものも含まれていたが、殆どはた
	たいたりヤスリで切ったような跡がなく、どのような方法で砕いたのか不明である。文様などから弥生時代後期(紀
	元前100−300年)頃に製造されたもので、完形は1.2mほどの大型の銅鐸だったと考えられている。

	当時圃場整備中だった田んぼで、以前から考古学に興味のあった近所の板金業田武忠夫さんが、土器や石器の散在す
	る現場で、一塊になった銅鐸片を発見した。町教育委員会の加賀見さんは、幾日もかけてこの破片のジグソーパズル
	を組み立てたが、断片が一致したのは数組であった。他の破片はどこか別の場所に埋められているのかもしれない。
	しかし、いったい何のためにという大きな謎は残る。

	祈祷・祭りの一環なのか、それとも別なものを鋳造するために砕いたのか、しかしそれなら全部が一緒に埋まってい
	てもよさそうなものである。しかも普通銅鐸は、集落から離れた山の斜面や、人里はなれたところから突然出土する
	のに対して、これは田んぼの中(もちろん当時は田んぼではなかったかもしれないが、平野であったことは確かであ
	る。)に埋められていた。きわめて特異な出土例なのである。この謎を解き明かせば、あるいは日高町の古代が見え
	てくるのかもしれない。






	銅鐸は本来、楽器とも呼び鈴とも言われ、楽器説では、上からぶらさげ、内部に吊した舌(ゼツ)と呼ばれる青銅製
	の棒で鳴らしていたとされる。呼び鈴説だと、もともとは動物の首にぶら下げていたベルということになる。銅鐸の
	起源は、3千500年前の中国・殷(イン)の時代といわれるが、私案では、これは西域から入ってきたベル(呼び
	鈴)だろうと思う。
	そのベルが日本へ伝わって巨大化し、次第に五穀豊穣を祈る農耕祭祀に用いられた祭器となって装飾が施されるよう
	になった。もともとは3,4センチ前後のものだったものが、日本では最大1.3mを超える巨大なになった。この
	あたりについては「銅鐸の謎」に書いたので、そちらを参照いただきたい。

	なお、ここに展示されていた銅鐸は、現物はすべて上野の東京国立博物館にあるので、兵庫県西宮市にある辰馬考古
	資料館からレプリカを借りてきたのだそうだ。あそこは確かに銅鐸博物館として有名だが、こんなレプリカも持って
	るんだ。












	豊岡市気比出土3号流水文銅鐸

	日高町久田谷よりも早く豊岡市気比で発見された銅鐸が、大阪の茨木市にある奈良遺跡で鋳造されたものであること
	がわかっている。発見当時、近畿地方の遺跡では鋳型ははじめて出土したので大newsとなり、発見者たちはこの鋳型
	で製造された銅鐸はないかと、日本中の博物館・資料館を訪ねて歩いた。そして上野で見つけたのだ。奈良遺跡で作
	られ、途中の経緯はわからないが、最終的には但馬で埋められた。2つの地が、互いに関連があるのは自明だが、果
	たしてどのような交流圏に属していたのかはわからない。しかし、同時期に、銅鐸と言う祭器を信奉していた集団に
	属していたのは間違いないだろう。但馬で銅鐸が見つかったのは、この2ヶ所のみだが、まだ未発見のまま埋められ
	ている可能性も高い。


















銅鐸については以下のコーナーでも詳細に検討しているので、ご興味のある方はどうぞ。

日本古代史を取りまくなぞ ・・・・・ 「銅鐸の謎」



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