但馬国府・国分寺館
2005.9.11(土)
兵庫県豊岡市日高町祢布808
時々投稿している「国分寺友の会」という掲示板に、ここ「但馬国府・国分寺館」の学芸員・前岡さんも時々投稿して
くる。そこでのやり取りの中で、「今度、うちで但馬地方の銅鐸展示をやるので来ませんか?」とお誘いがあった。同
じ会のコマツさんも過去たずねて行ってるし、私もいちど行きたいなと思っていたので、家族同伴で行ってみることに
した。(そのあたりのいきさつ・紀行記は「歴史倶楽部」の中、「但馬・丹後半島再び」にある。)
この博物館は建物の構造が変わっている。箱を並べたような格好をして、おまけに真っ黒だから最初コンテナが捨てて
あるのかなと思ったほどだ。しかし、見慣れるとなかなか味わい深くも見えてくる。
但馬国府・国分寺館は国史跡但馬国分寺跡、但馬国府跡(祢布ヶ森にょうがもり遺跡)に隣接した場所に建てられた博
物館である。多くの博物館や埋蔵文化財センターがそうであるように、おおきな遺跡の近くに、これらの施設がつくら
れる事がおおいが、ここは名前からもわかるように、モロ、国府と国分寺のための博物館である。従って、他の博物館
のように、人類の歴史や日本の歴史、町の歴史を時系列に解説したりはしていない。殆ど、両遺跡からの出土品を中心
に展示してある。
日高町は、古代の但馬国の役所である国府、聖武天皇の詔によって造られた国分寺が置かれるなど、但馬国の政治・文
化・交通の中心として栄えていたところだ。この全国的にもユニークな、但馬国府・国分寺をテーマにした博物館「但
馬国府・国分寺館」がオープしたのは、今年3月のことである。
また日高町は、平成の大合併で豊岡市、城崎町、竹野町、出石町、但東町と一緒になって、新しい豊岡市という広範囲
の行 政区域になったので、この博物館の重要度はいやまして高まっていると言える。丹後地方の、先人たちが残し
てくれた貴重な歴史遺産を守り、次代の人たちに継承していくための拠点となる施設なのである。だとすれば、将来は
国府・国分寺のみならず、この地域の総合文化センターとして一大発展する博物館なのかもしれない。招待してくれた
学芸員の前岡さんにとっては、きわめてやりがいのある職場であると同時に、ごっつ忙しくなる可能性もある。前岡さ
ん、がんばってね。
<利用案内>
●開館時間 : 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
●休館日 : 毎週水曜日、年末年始(12月28日〜翌年1月4日) 水曜日が国民の祝日のときは開館。その翌日が休
館。
●入館料 : 大人 500円 400円(団体)
高校生 200円 150円(同)
小・中学生 150円 100円(同) 兵庫県内の小中学生は無料。
65歳以上 250円 200円(同)
●交通案内 : JR山陰線「江原駅」下車、西0.8km 但馬空港より南8km
播但連絡有料道路「和田山I.C.」下車、北24km
<但馬国>
但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。現在の兵庫県北部にあ
たる。但州と呼ぶこともある。但馬北部・北但(ほくたん)と但馬南部・南但(なんたん)とに二分される。7世紀に、
丹波国に8つあった「郡」を分割して成立した。初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭遺跡にあてる説と、気
多郡、現在の豊岡市日高町のどこかにあったとする説とがある。延暦23年(804)に気多郡高田郷に国府が遷(うつ)
った。現豊岡市役所日高総合支所(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布が森(にょうがもり)遺跡が、これにあた
る。但馬国には、朝来郡、養父郡、出石郡、気多郡、城埼郡、美含郡、二方郡、七美郡があって、これは現在の豊岡市、
養父市、朝来市、美方郡新温泉町、香美町にあたる。
日高町は兵庫県の北部にある人口2万人弱の小さな町である。歴史は古く、奈良時代には但馬国府・但馬国分寺が置か
れており、近年の発掘調査によって往時の概容が判明した。他にも、行基の開山である「進美寺(シンメイジ)」、初夏
には千株の牡丹が咲き「ボタン寺」として有名な「隆国寺」、県下でも枯山水の名園として名高い「旧大岡寺庭園」、
珍しい「散り椿」の「長楽寺」などがある。また冬には、近畿地方で本格的にスキーが楽しめる神鍋(かんなべ)高原
が有名。近年、神鍋は神奈備(かんなび)ではないかという説が出て、この高原はかって古代に神々が居住していたの
ではないかととりざたされている。
上左は、前岡さんに撮ってもらったこの博物館エントランスでの我が家族。娘は北海道から夏休みの帰省。セガレはプ
ータロー(当時)だったので、夕日が浦温泉での、「うまい魚が腹いっぱい」というのにつられて付いてきた。上右が
私と前岡さん。まったくまじめな好青年だった。
壁に縦型の引き戸のようなものが格納されていて、引っ張り出すと説明版になっている。これだと場所をとらずにすむ
のだろう、最近ちょこちょこ見かける。
<図書コーナー> 4000冊を超える蔵書があり、自由に学習することができる。
学習室では、見学者が触ったり振り回したりできるように古代の道具が置いてある。
<さわってみようコーナー> 実際に出土した約1200年前の瓦や土器を、手にとってさわることができる。
<総合学習室> 郷土の歴史もこのなかにある。
< 国 府 >
今から1200年以上前、聖武天皇の時代には、日本は60余国に分かれていた。それぞれの国には、いまの県庁にあ
たる役所「国府」が置かれ、都から国司と呼ばれる役人が派遣され、国を統治していた。では、但馬の国府はどこにあ
ったのだろうか。但馬国府の所在地は、但馬古代史の長年の謎とされていた。前述したように、初期の但馬国府は未だ
に謎である。
木簡が大量に出土した、出石町の「袴狭遺跡」に比定する説と但馬国正税帳の記録から気多郡内にあったとする説が有
力だが、まだ結論はでていない。しかし、延暦23年(804)に、但馬国府を気多郡高田郷に移すという記録があり、
この高田郷に置かれた国府は、現在の日高町祢布(にょう)に比定されるので、後期の但馬国府が日高町にあったこと
はぼぼ確定している。平成7年(1995)、日高町祢布地区で大型建物の遺構が発掘され、ヒノキ柱が規則正しく配
置された建物や、四脚門を持つ築地塀、それに白磁や青磁などの高級食器が数多く出土し、発掘調査からも、ここが延
暦23年に移された第2次(?)但馬国府であることが裏づけされた。
<国分寺>
奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は国状不安を鎮撫するために各国に国分寺・国分尼寺の建立を命じた。奈
良の東大寺を筆頭に全国各地に造られ、正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこ
くのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。64ケ国(だったかな?)に分かれていた当
時の国々には、国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに建てられた。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建
築物であった。大和国の東大寺が総国分寺、法華寺は総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけ
られた。律令体制がゆるみ、国からの財政支援がなくなると、国分寺・国分尼寺は廃れた。その後再建され、当初の国
分寺とは性格の異なる寺として、現在まで存続しているところもある。かっての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存
していることもあるようだ。国分尼寺の方はそうした復興を受けなかったため、どこにあったのかも判明していないと
ころが多い。
国分寺にちなむ地名の例(国分寺がこの地にあったことからこの名称が付けられた自治体。)
東京都国分寺市 - 武蔵国
栃木県国分寺町 - 下野国
香川県国分寺町 - 讃岐国
神奈川県海老名市国分 - 相模国
千葉県市川市国分 - 下総国
千葉県市原市国分寺台 - 上総国
千葉県館山市国分 - 安房国
新潟県佐渡市国分寺 - 佐渡国
大阪府大阪市北区国分寺 - 摂津国
大阪府柏原市国分 - 河内国
兵庫県姫路市御国野町国分寺 - 播磨国
兵庫県豊岡市日高町国分寺 - 但馬国
鳥取県鳥取市国府町国分寺 - 因幡国
鳥取県倉吉市国分寺 - 伯耆国
岡山県津山市国分寺 - 美作国
山口県防府市国分寺町 - 周防国
鹿児島県薩摩川内市国分寺町 - 薩摩国
国分尼寺にちなむ地名の例(国分尼寺(法華寺・法花寺)がこの地にあったことからこの名称が付けられた地名。)
新潟県上越市三和区法花寺 - 越後国
富山県滑川市法花寺 - 越中国
愛知県稲沢市法花寺町 - 尾張国
兵庫県豊岡市法花寺 - 但馬国
奈良県奈良市法華寺町 - 大和国(総国分尼寺)
奈良県橿原市法花寺町 - 大和国
鳥取県鳥取市国府町法花寺 - 因幡国
<伽藍復元模様型>
天平文化が花開いた奈良時代当時、この地方は「但馬国」と呼ばれ、但馬国府があったとされる現在の日高町に「但馬
国分寺」が建てられた。当時の但馬国分寺は、現在残されていないが、発掘調査から多くの事が判明している。国分寺
は通常、講堂、金堂、中門、南大門が南北に並び、周囲を溝や築地が取り囲んでいる。但馬国分寺跡では昭和48年か
ら現在までの、21回におよぶ発掘調査がおこなわれているが、現在までに金堂、塔、中門が確認されている。寺域の
北東と南東の端を示す溝や築地跡の発見で、寺域は一町半(約160m)四方だったが、これは他の国分寺の二町(約
220m)より小ぶりだった。発掘調査で一番多く出土したのは瓦で、浅く曲がった平瓦と土管を縦に割ったような丸
瓦がほとんどを占めているが、全国でも珍しい当時の「釣瓶」など貴重な資料も出土している。
平安中期以降、律令制の崩壊とともに国分寺・尼寺はしだいに衰退の一途をたどり、但馬国分寺は続日本紀の宝亀8年
(777)「但馬の国、国分寺の塔に震す」とあり、落雷に見舞われたことが記されている。その後、天正8年(1580)の
豊臣秀吉の但馬国攻略の際金堂を消失してしまい、のちに国中を托鉢して宝暦13年(1763)に堂を再建したことが、
現在の護国山国分寺(日高町国分寺)に残された棟札に書かれている。
国府・国分寺の造られるまでの但馬の歴史を、出土品と年表で紹介している。710年、都は平城京へ遷され、政治・
経済・文化の中心として大いに栄えていた。都の文化と但馬の文化を比べながら、発掘調査で見つかった数多くの出土
品から但馬国分寺の壮大な姿を思い浮かべ、日高町内にあった国府の時代に想いをはせることにしよう。
<木簡> 木の板に人名や施設名が書かれている。木簡は歴史の生き証人である。
<人形(ひとがた)> (下左) 古代の祭祀・占祭(まじない)の道具。表裏に顔が墨書きされている。
<但馬国正税帳>
正税帳とは、税金出納帳ではなく、役所の収支決算報告書のことである。国府の置かれた国ごとに作成し、年に一度都
へ報告していた。これには、但馬の国が管理していた儀式の内容や物品、物価などの多くの情報が記載されている。国
司クラスの役人には、一日酒2升も支給されていた。(ただし当時の1升は現在の4合。)
国府・国分寺館でもらった資料を基に、この正税帳に載っている情報のいくつかを以下に列記する。
■但馬の国が所有する武器類の補修費
・竹の矢331本の補修費 ・・・・・ 糸2斤10両
・漆塗りの「ふるい」の補修費 ・・・ 綿3斤15両
■公使の乗る馬12頭の購入費
・稲3350束(12頭のうち、7頭は単価300束、5頭は単価250束)
■但馬の国が派遣した公使の出張手当
・公使延べ10人、40日。従者延べ15人、67日。合計25人、107日。
<要した費用の合計>
・稲 ・・・・・ 36束1把(1日あたり公使4把、従者3把)
・塩 ・・・・・ 1升8合5撮(1日あたり公使0.2合、従者0.15合)
・酒 ・・・・・ 4斗(一日あたり公使1升)
<使途費用の内訳>
・年に2度、進物を都へ届けるために派遣した公使の費用。
(公使は、中臣葛連千稲と中臣連弥伎比等。従者はそれぞれ二人。旅程10日。)
・恩赦の書状を持ってくる公使のための費用。
(丹後の国の公使、檜前村主稲麻呂と従者2人。旅程3日。)
・一人1日あたり、米5升、酒1升。
(因幡国へ赴く但馬国の公使、忍海部広庭と従者2人。旅程3日)
(略)
■但馬の国を経過した公使のための費用
・公使延べ47人、102日。従者延べ17人、42日。合計64人、144日。
<要した費用の合計>
・稲 ・・・・・ 53束4把(1日あたり公使4把、従者3把。)
・塩 ・・・・・ 2升6合7勺(1日あたり公使0.2合、従者0.15合)
・酒 ・・・・・ 1斗2升(一日あたり公使1升)
(以下、略)
ごらんいただいていかがでしょうか?実にこまごまと記録されているのに驚かれたかもしれない。我々はこういう記録
をみるとすぐ、「ヘェーこんな昔に。」と思ってしまうが、実は古代人も現代人も、人の頭の中はそう変わらないので
ある。道具や技術が新しいだけで、人間の感情や考え方はそう変わってはいないのが、歴史を勉強するとよくわかる。
今の瞬間に突然2000年前へ逆行して自分の祖先に出会ったとしても、その男(女)がまともな思考能力をもった人
物なら、おそらく2000年の垣根をとっぱらって理解しあうことができると思う。先祖の大祖父に出会ったとき、恥
ずかしくない生き方をしていたいものだ。
<風鐸> 塔跡から出土した。
上右は「斎串」。まじないの道具である。
出土した鬼瓦の破片(上右)。これを見ても、ここが並みの建物ではなかったことがわかる。
平城宮(京)でも多くの木簡が見つかっているが、その中から但馬の国に関連したものをいくつか、紹介しよう。出典
は前出と同じ。
奈良時代の都、平城宮や平城京からは但馬の国に関係した木簡が多く出土している。その多くは付札(つけふだ)木簡
と言って、税などの荷物を運ぶ際に、差出人や荷物などの中身を書いていた。ちょうど今の宅配便の伝票のようなもの
である。木簡には今から1200年前の地名や人名、制度、慣習など、多くの情報が詰まっている。奈良の都から見つ
かった木簡には何が書かれていたのだろう。そこから何がわかるのだろうか。
■但馬国城崎郡那佐郷官府(*)雲龍神護景雲□年□□月二方部豊嶋 六斤 (*)月+昔 ・・・きたいと呼ぶ
・神護景雲3年(770)、城崎郡那佐郷(きのさきぐんなさごう:奈佐川流域。現豊岡市栃江・宮井・福成寺・辻・
目坂周辺)から、雲龍を6斤(約4Kg)、都へ税として運んだ際の荷札である。「きたい」とは干した肉のこと。
雲龍はウニではないかとされる。なおこれは官符(国の命令)によって出された品物だが、「符」の字を「府」と間
違っている。
■但馬国養父郡老左郷赤米五斗 村長語部広麻呂
天平勝宝七歳五月
・天平勝宝七年(755)、養父郡老左郷(やぶぐんおさごう:養父市八鹿町小佐周辺)から、赤米を五斗、都に税と
して運んだ際の荷札。荷物を運ぶ責任者は、老左郷の村長(むらおさ)語部広麻呂だった。
■但馬国衛士車持足月養銭六百文府置死人分
・但馬出身の衛士(えじ:平城宮で働く警備員)の車持足月さんの給料は600文だった。通常、衛士の給料は出身地
から送られてくるが、この場合は違う。死亡した衛士の未払い分の給料を、足月さんに支給していたのだ。ちなmに
奈良時代前半の米1升(現在の4合)の値段は、銭五文。米1キロ400円として計算すると、足月さんの給料は、
わずか3万円弱だったようだ。
(以下、略)
上左端の土器が、<釉緑彩の耳皿>。土師器。椀の底部に墨で絵(落書き?)が書かれている。
<貨幣>さまざまな時代の貨幣。
<但馬国分寺跡の大型井戸>
ヒノキで造られたもの。使われた井桁材に樹皮が残っていたことから、763年伐採の木(年輪年代法)であることが
判明している。奈良・平安時代のものとしては、全国でも最大級である。縦横、1.7m、深さ2.7m。但馬国府跡
や国分寺跡からはいくつか古代の井戸が見つかっている。井戸は役目を終えると「ゴミ箱」になる。古代人たちは、使
わなくなった井戸の中にいろいろなモノを捨てた。そのゴミが現代では、歴史学・考古学にとっては「宝」になった。
但馬国府は延暦23年(804)に移転したことが記録によってわかっている。移された原因やどこから移したのかに
ついては記述がない。しかし移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)
遺跡であると考えられるようになった。役所跡と判断する理由としては、
・塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと
・庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと
・但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったこと
などどがあげられる。
<奈良時代の食事の復元>
最近の博物館では、奈良時代や平安時代に人々がどんなものを食べていたかのレプリカが展示されている。残された文
献や木簡、出土物から推測して製作されているが、一番情報が多いのは木簡のようである。この小さな木片には実に多
くの情報がつまっている。木簡を研究している学者の本や書物を読むと、どこの国からどんな物を租(税)として都へ
おくったかとか、誰にどれだけ配布したかとか、集税に赴いた役人の出張手当や、運んできた役人に対する食料の支給
など、当時の徴税と分配の実態が、他の多くの情報とともに明らかになっている。
当時の税金の多くは物納の「租」である。海辺の国からは魚や鮑や昆布などが、山辺の国からは、稲は当然、野菜や木
の実や鳥類・小動物(主にイノシシ)の肉などが都へ納められている。そして役人たちの給料も、これら物納された
「租」から支給されている。「稲束一束」とか「二束」と記録されているのだ。
これらの情報から復元された毎日の食事の内容を見ると、貧富の差はもろにエンゲル係数として顕れ、貴族・高級官僚
は贅沢なものを食し、農民は「よくこんなんで生きてたなぁ。」と思うほどまずしいものを食べている。多くの農民が
高い税に苦しんでいたことは、どの教科書にも載っているし、最下層の農民たちは自分たちが作った食物でさえ、自分
の口には入らない様な生活をおくっていたのである。これが「奈良時代の農民像」である。そしてそういう状態は、中
央集権国家が成立して、封建制度が完全に崩壊するまで、約1500年もの長きに渡って続いていた。わが国で、全国
津々浦々に渡って、飢餓で死ぬ人々がほぼ完全にいなくなったのは、ほんのここ7、80年前のことである。
では、復元模型による奈良時代の農民の食事を見てみると、ほとんどの博物館が、玄米の主食に、汁、そして野菜の副
食。いわゆる、一汁一菜のメニューで、これでは一食からわずかなカロリーしか得られまい。奈良文化財研究所が復元
した庶民の食事(一汁一菜)によると、一食407Kカロリーという。当時の食事は朝と晩の一日二食が原則なので、
このメニューでは、まず人は生きていけないだろう。実際には農民も、これらの食事以外からもカロリーを摂取してい
たと想像できる。河に近い集落では川魚を食べ、山辺の集落ではウサギやいのししも食べていたに違いない。出土した
遺物の分析からは、
<穀類>米・大麦・小麦・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・大豆・小豆・そば・ごまなど…
<野菜>カブ・チシャ・フキ・セリ・蕨(わらび)・ジュンサイ・タラの芽・ウリ・キュウリ・
冬瓜(とうがん)・ナス・里芋・山芋・大根・蓮根・筍・松茸など…
<海藻>ワカメ・メカブ・アラメ・昆布・海苔(のり)・もずくなど…
<果物>スモモ・桃・梅・枇杷・梨・みかん・胡桃(くるみ)・柿・棗(なつめ)・アケビ・
栗・椎(しい)の実・カヤの実・ヒシの実など…
<鳥>鶏・雉(きじ)・鴨・うずらなど…
<けもの>猪・鹿・牛・馬・兎・鯨・イルカなどなど…
<魚>鰹・鯛・サメ・鰯・スズキ・鯖(さば)・鯵(あじ)・鮪(まぐろ)・フグ・チヌ・
コノシロ・ボラ・シラウオ・鮎・鮒(ふな)・マス・鰻・鮭・ハモなど…
<貝>アワビ・サザエ・蛤・牡蠣(かき)・シジミなど…
<その他>イカ・タコ・ウニ・ナマコ・蟹・えび・スッポン・クラゲなど…
となっている。海の幸、山の幸であふれている。近くの川には鮎が泳ぎ、山に入れば猪や鹿に出会い、山には山菜や果
物が育ち、海には魚や貝、海藻などが、無尽蔵とも言えるほどある。われわれの想像以上に、古代の自然は豊かで実り
多かったに違いない。もちろん、主食は米だが、米を毎日食べていたわけではない。古代の農民は、田ばかりではなく、
畑を耕し、山菜や木の実を採り、魚や動物を捕まえていたのである。稲作ばかりに目を向けると、奈良時代の農民は実
態よりも貧しく見えるだろう。狩猟と採集という、縄文時代以前からの生活スタイルに、稲作・畑作が加わることで、
より自然な農民の暮らしが浮かび上がってくる。しかしながら、それが奈良時代の農民が豊かだったという結論にはな
らない。農民に課せられた税負担は膨大なものだったから、“豊かではないが、質素に生きていた”といえるだろう。
(但馬国府・国分寺館HPより。)
この見解はけだし的確である。現在われわれ日本人が滅亡しておらず、こうしてちゃんと生き残っているのをみても、
先祖が、質素につつましく、しかしながらたくましく今日まで生き残ってきたのがわかるし、そうやって生き抜いてき
た人々がわれわれの祖先であることに、現代日本人はもっと想いをめぐらせるべきであろう。
<但馬国分寺跡> 日高町・国指定文化財
天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、ここ但馬でも国司が中心となって建設が
進められた。昭和48年(1973)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、
寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかった。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれ
た文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいる。但馬国分寺にはどんな建物が建っていたのか?どんな活動をし
ていたのだろう?
ここでの遺跡の紹介は、東京の「国分寺友の会」のメンバーである久保田さんのHPをそのまま転載させてもらった。
国分寺跡は、いまや、人家の中の畑に塔礎石1個と史跡を示す石碑と説明板、そして金堂跡と書いた石があるだけであ
る。久保田さんに感謝。
「国分寺友の会」のHPより「但馬国分寺跡」
◆現在の名称 :但馬国分寺跡
◆所在地 :兵庫県豊岡市日高町国分寺
◆宗派 :−
◆交通 :JR山陰本線 江原駅 歩但馬安国寺跡説明板但馬国分寺跡
円山川とその支流稲葉川が形成した沖積地(国府平野)にあり、背後に祢布(によう)山がひかえる。国指定史跡。
「続日本紀」宝亀8年(777)7月14日条に、但馬国分寺の塔に落雷のあったことが記されていることから、この
時点ですでにその全容が整っていたものと想定されている。また昭和55(1980)年の寺域南東隅の発掘調査によって
36点の木簡が出土、そのうち年紀木簡から神護景雲(767−770)の頃には三綱などの役僧が置かれ、主な伽藍
は造立され、衆僧が住んで活動が開始されていたことが想定される。
しかし創建国分寺の存続期間については不明な点が多い。塔跡の発掘によれば建物は焼失したことがうかがえるが、こ
れを宝亀8年のことと判断する確証は得られていない。寺域は第16次調査により、南北は一町半(約160m)とみられる
にいたった。東西については西限が不明のため明らかでないが、確認調査の状況から推測して同規模の方形と見られる。
これまでに判明した伽藍配置は、塔は西に金堂は東に位置し、両建物南縁が一直線に並ぶ陸奥国分寺における配置と同
様のもので、それとは塔と金堂が東西入れ替わった配置となっている。また、金堂と中門が回廊によって結ばれる形式
であることも確認されている。
全面的調査が行なわれた塔跡からは瓦片が出土した。軒瓦は奈良時代の単弁16葉と8葉花文の2種類であり、軒平瓦は均
整唐草文(T)の一種のみで、笵型を異にする(U)二形式がある。円と平瓦のTおよびUがそれぞれ組合わさり、T
組が先行することが想定される。(日本歴史地名大系)
川とその支流稲葉川が形成した沖積地(国府平野)車で近くまで着いたが具体的な場所は見つからなかった。そこで近
くにある日高町役場に行き訊ねた。当日は2005年3月22日で市町村合併により日高町は4月1日から豊岡市と合
併することになっており、その引越し準備に入っているところであった。そこで受付の方に国分寺跡の場所を問い合わ
せると、知らないという。
近くにいた方々に聞いたが、同じく知らないそうで、教育委員会の担当者を呼んでくれた。その方に場所を教えてもら
ったのであるが、役場のすぐ近くで、国指定史跡を役場勤めの人たちが知らないというのも不思議なことである。
さて、国分寺跡であるが、人家の中の畑に塔礎石1個と史跡を示す石碑と説明板、そして金堂跡と書いた石があるだけ
である。成る程町の人たちの目にも止まっていないところなのかとも思った。でも、これから徐々に整備していくらし
い。そのうち成る程と思われる場所になるのであろう。
伽藍想定図(新修国分寺の研究:吉川弘文館) & 但馬国分寺を示す石碑
説明板の伽藍配置図発掘軒瓦(新修国分寺の研究:同)
塔跡
塔心礎金堂跡 & 中門跡
雪の但馬国府・国分寺館・国分寺跡
2006.2.5(日)
兵庫県香住町(現在香美町香住地区)に松葉ガニを食べに行った。大阪から3時間半。金曜まで雪の気配もなかった
のに、土曜・日曜には驚くばかりの雪景色。全く今年は数十年ぶりの「豪雪」と呼ぶにふさわしい。
さて、前日は行きがけに「生野銀山」を見ていって、今日の帰りには但馬の国分寺館を訪ねた。久しぶりに前岡さん
に会いたかったし、このHPのお詫びも直接言いたかった。何しろ「HPには載せないでくれ」という約束を破った
のだから。館長さんも前岡さんも黙殺してくれて助かっているのだし。
香住同様、但馬も雪の中だった。前回見逃した国分寺跡を訪ねた。一面雪の中で、塔跡などすべて雪に覆われていた
が、それでも、かってここに但馬の国分寺がそびえていたのだという想いは十分味わえた。いにしへに思いをはせる
には、雪景色もなかなかオツなものであった。
水中生物写真家(?)の加賀美館長にも挨拶してHPのお詫びを言った。前岡さんお忙しい所突然訪問してすみませ
んでした。またお会いしましょう。がんばって雪を乗り切ってください。お誘い通り、また夏にはイカを食べに行き
たいと思います。
実は国分寺館の訪問前にこのあたりをだいぶウロウロしたのだが
見つけられなかった。国分寺館で地図を貰ってやっとたどり着いた。
久保田さんいかがですか。 雪の国分寺跡もなかなかいいもんでしょう?
邪馬台国大研究・ホームページ / 博物館めぐり / 但馬国分寺館