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花が綺麗な當麻寺

2005.4.23 奈良県北葛城郡當麻町當麻



	<二上山 當麻寺>  (にじょうざん たいまでら)

	當麻寺は、用明天皇の皇子麻呂子王が、河内国交野に建てた万法蔵院に始まり、その後麻呂子王の孫當麻国見が、役行者
	ゆかりの現在地にうつしたもの。當麻氏の氏寺として、天武天皇のころ( 680年)、創建されたものとされている。境内
	には国宝指定の本堂・東塔・西塔などが独特の伽藍配置で立ち並んでいる。また、本尊の弥勒仏坐像を始めとして、寺宝
	も多い。 5月14日の二十五菩薩来迎会は、「當麻おねり」として名高く、またこの頃には有名なボタンの開花期でもありた
	いへん賑わう。  

	山  号 : 二上山 
	創 建 年: 伝・推古天皇20年(612年) 
	開  基 : 伝・麻呂古王 (役小角(えんのおづぬ))
 	宗  派 : 高野山真言宗・浄土宗
	本  尊 : 弥勒仏・當麻蓮糸大曼荼羅(ともに国宝)
	文 化 財: 東塔・西塔・曼荼羅堂・塑像弥勒仏坐像ほか(国宝)、
		   金堂・乾漆四天王立像・木造阿弥陀如来坐像ほか(国重文) 
	所 在 地 : 北葛城郡當麻町當麻 
	電話番号 : 0745-48-2004 
	交通機関 : 近畿日本鉄道南大阪線「当麻寺」駅下車(特急、急行は停車しない)。駅南側の道路を西の方向に道なり
		   に進む。駅から當麻寺仁王門まで徒歩約15分。
	駐 車 場 : 有り(個人・有料) 
	拝観時間 : 9:00〜17:00 (冬期は若干、早く閉める場合あり) 
	拝 観 料 : 500円 
	休  み : 無し 



	當麻寺境内の最も東側に位置しているのが「仁王門」(「東門」とも呼ばれている)であり(上の写真)、近鉄當麻駅か
	ら徒歩できた場合、この門から寺の境内に入ることになる。駅から15〜20分くらいである。「仁王門」は18世紀中頃
	の建造といわれ、風格のあるかなり大きな建物である。




	当麻寺 (當麻寺、たいまでら)は、奈良県葛城市にある奈良時代創建の寺院。山号は二上山(ただし、古代寺院には山号
	はなく、後になって付けられたもの)、本尊は弥勒仏、當麻曼荼羅である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となって
	いる。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。西方極楽浄土の様子
	を表わした「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練
	供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。東
	塔・西塔の2基の三重塔が創建後あまり時を距てない時期のまま残る、日本唯一の寺としても知られる。
	當麻寺は当初、三論宗の寺院であったとされているが、弘法大師が参籠してから真言宗に変わり、鎌倉時代になって浄土
	信仰の流行とともに、浄土宗が加わり、それ以降現在まで真言宗と浄土宗の両宗に属する珍しい形をとっている。
	治承4年(1180年)には平氏によって創建時の建物の多くは焼失破壊されたようであるが、鎌倉時代に再建され、當麻氏の
	衰退後は、庶民の阿弥陀信仰に支えられて寺は栄えたとされている。 



	現在の当麻寺には、南を正面とする金堂・講堂と、東を正面とする本堂が相接して建っている。これらの南方には東西2
	つの三重塔が建つが、金堂と東西両塔の間には後世に中之坊、護念院などの子院が建てられ、創建当初の伽藍配置は想像
	しにくい。上代の多くの寺院同様、創建当時は南が正面入口であったと思われるが、現在の当麻寺の入口は東大門であり、
	南側には門はなく、本来の伽藍配置や信仰の動線はわかりにくくなっている。創建当初の当麻寺は、金堂を中心とし、南
	北方向の中軸線に沿って、金堂の後方に講堂、前方には東西二つの塔を配する薬師寺式に近い伽藍構成をとっていたと思
	われる。その後、当麻曼荼羅に対する信仰が盛んとなり、曼荼羅を安置する堂が「本堂」と呼ばれるようになった。













	<中之坊(なかのぼう)>

	當麻寺最古の塔頭で、中将姫の師・實雅法印や弘法大師が教えを授けた實弁法印などの高僧が住房としていた寺院。特に女人
	の信仰を集める「導き観音」を本尊とする。

	・庭園「香藕園(こうぐうえん)」 国・名勝/史蹟−桃山時代
	 東塔を借景とし心字池を中心とした桃山期の名園で、古くから大和三名園に数えられる。極端に低い土塀が珍しい。
	・茶室「丸窓席」 国・重文−江戸初期 	 直径約1.8メートルにも及ぶ大円窓が見事な名席。 
	・霊宝館   白鳳・天平の遺物から近代美術に至るまで、幅広い宝物を展示する施設。
	 展示は入れ替え制で、特別展も定期的に行われている。





	<写仏道場>
	中之坊には約150枚もの絵天井に飾られた写仏道場があり、「写仏」や「写経」を体験することができる。「當麻曼荼羅」
	佛を描く体験は、なかなかほかではできない。知り合いの大仏師「渡邊勢山」さんと奥さんの絵もこの天井にあるというので
	見たかったが、訪れたこの日は何か催しが開催中で中には入れてもらえなかった。残念。

	<當麻寺中之坊>
	拝観時間 9:00−17:00
	拝観料 大人500円/小学生250円 ・ お抹茶 一服400円
	精進料理 11:00−14:00(予約制) 1000円−5000円(税別)











花だらけの當麻寺ではボタンも真っ盛りだった。











ここから三重の塔(西塔)が見えている。ほんとに花盛りの季節だ。














	<金堂> (重文)

	「仁王門」をくぐり、西の方向に進むと「金堂」が見える(上写真)。「金堂」の北側には「講堂」が建てられている。
	いずれも南側が正面になっている。「金堂」「講堂」共に、重要文化財に指定されている。入母屋造、本瓦葺。内陣の柱
	に文永5年(1268年)の田地寄進銘があり、これより以前、鎌倉時代前期の再建と思われる。藤原京や平城京の大寺の金
	堂に比較すれば小規模だが、創建以来の規模を保っているものと思われる。中世以降、当麻寺の信仰の中心は当麻曼荼羅
	を安置する本堂(曼荼羅堂)に移っているが、本来の中心堂宇が金堂であることは言うまでもない。
	「金堂」、「講堂」には重要文化財に指定されている何体かの仏像が安置されているが、中でも「金堂」に安置されてい
	る国宝の「弥勒仏坐像」が有名で、この「弥勒仏坐像」は當麻寺がこの地に創建された白鳳11年( 681年)と同時期に造
	像されたと考えられており、日本最古の塑像の一つとされている。しかし、「金堂」「講堂」共に、内部が公開されてい
	る時期は決まっている。







	<講堂> (重文)

	金堂の背後(北)に建つ。寄棟造、本瓦葺。棟木の墨書により鎌倉時代末期の乾元2年(1303年)の再建であることが知ら
	れる。本尊阿弥陀如来坐像(重文)のほか、多くの仏像を安置する。 





	<本堂(曼荼羅堂)> (国宝)

	「金堂」と「講堂」の間を西に進み短い石段を上ると「本堂(曼荼羅堂)」(下の写真)である。現存の「本堂」は棟木
	の墨書銘から平安時代末期、永暦2年(1161年)の建造といわれており、国宝に指定されている。解体修理寺の調査の結果
	から、平安時代初期(9世紀頃)に建てられた前身堂を改築したものであり、さらにさかのぼる奈良時代の建物の部材も
	一部転用されていることがわかっている。現在までに何回かの修理が行われているが、最近では昭和32年(1957年)から
	35年間もの期間をかけて解体修理が行われた。 
	本尊は仏像ではなく、「蓮糸大曼荼羅」(正式名は「綴織阿弥陀浄土変相図」又は、「綴織當麻曼荼羅図」であり、俗に
	「當麻曼荼羅」とも呼ばれている)であり珍しい。この「蓮糸大曼荼羅」は「中将姫」によって織られたものという言い
	伝えがある。姫の織ったと伝えられている「綴織當麻曼荼羅図」は、7世紀後半〜8世紀に織られたものと考えられてお
	り、国宝に指定されている。ただ、原本は破損が激しいため、別に保存されている。現在「本堂」の正面厨子内に納めら
	れているのは文亀2年(1502年)に模写された「文亀本當麻曼荼羅」といわれている。模写されたものといっても原本とは
	かなり図相が違っているらしい。この「文亀本當麻曼荼羅」は重要文化財に指定されている。





	「金堂」の前(南側)には木の柵で囲われた「石灯籠」が立てられている(上の写真)。この「石灯籠」は白鳳時代に松
	香石で造られたものといわれており、日本最古の石灯籠とされ、重要文化財に指定されている。灯籠の頂部が、比較的単
	純な傘形の形状をしているのが特徴と思われる。




	「中将姫」(上の写真は境内に立てられている中将姫の像)は奈良時代の右大臣、藤原豊成の娘で、本人の願いで當麻寺
	に入り、称讃浄土経一千巻を写経し17歳で中将法如として仏門に入ったとされている。姫は蓮糸を集め井戸に浸し、五
	色に染まった蓮糸を使い、一夜で一丈五尺(約4m四方)の「蓮糸曼荼羅」を織り上げたという。姫が29歳の時、阿弥陀
	如来をはじめ二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土に向かったと伝えられている。これに因み毎年5月14日には練供養
	が行われている。
	當麻寺はこの「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」である。この當麻曼荼羅は、今より
	1250年前の奈良時代、藤原家の郎女・中将姫(ちゅうじょうひめ)が写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土
	の光景を再現したもの。国宝の曼荼羅堂では室町時代に転写された當麻曼荼羅(重文)を祀っており、中将姫が感得した
	極楽浄土の光景を描く。また、壮麗な絵天井で知られる中之坊の「写仏道場」では、色鮮やかな平成當麻曼荼羅を祀って
	おり、この當麻曼荼羅に描かれた佛様を描き写す「写仏体験」をすることもできる。



	今は昔、藤原鎌足の子孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、
	幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺
	されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、ど
	うしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成
	と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて当麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の
	蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちま
	ち五色に染め上がった。当麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十
	五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。
	この話はよほど人気があったようで、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。









	當麻寺「本堂」の裏手を西の方に進むと「奥の院」がある。上の写真は「奥の院」への入り口である。「奥の院」は當麻寺
	の塔頭であるが、当初は當麻寺の寺院ではなかったようである。「奥の院」は応安3年(1370年)に京都の知恩院から法然上
	人坐像を移して本尊とし、知恩院の奥の院として建立されたといわれている浄土宗の寺である。現存の「奥の院本堂」は慶
	長9年(1604年)に建てられたものといわれ、重要文化財に指定されている。「奥の院本堂」の西側に、「浄土庭園」が拡が
	っている。庭園には十三重石塔、阿弥陀如来像、仏の像を写す極楽の池とされている宝池を配し浄土の地を表しているとい
	う。 
		御詠歌:「極楽をいずくととはば大和なる まるこのさとにゆきとたずねよ」







	<東塔・西塔> (国宝)

	當麻寺には「東塔」、「西塔」の二つの三重塔が建てられており、古代の東塔と西塔が共に現存しているのは唯一、當麻
	寺だけであり貴重な存在とされている。東塔は初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)
	であるのに対し、二重・三重を2間とする特異な塔である(日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るの
	は異例)。これに対し、西塔は初重、二重、三重とも柱間を3間とする。また、屋根上の水煙(すいえん)という装飾の
	デザインを見ると、西塔のそれはオーソドックスなものだが、東塔の水煙は魚の骨のような形をした、変わったデザイン
	のものである(ただし、創建当初のものではないらしい)。細部の様式等から、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて
	奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定される。





	「西塔」(上写真)は「本堂」の南側に、「東塔」と同じように丘陵の斜面に建てられており、それだけに敷地は狭く窮
	屈な感じがする。「西塔」は「東塔」より遅れ、平安時代初期8世紀後半の建立と考えられており、塔の建立には複雑な
	事情があったようで、完成にかなりの長年月を要したのではないかといわれている。「西塔」も修理の度に改造されてい
	る。「東塔」、「西塔」共に国宝である。







	<ぼたん園>

	牡丹(ぼたん)の大輪の花は、百花の王と賞される。百獣の王の獅子坐に座る大日如来への供花として、唐の都では多く
	の寺の庭に植えられた。弘法大師もその姿を目の当たりにし、現世の浄土を感じられたそうである。當麻寺でもそれに倣
	い、浄土のすがたの表現として、各僧坊の裏庭に牡丹(ぼたん)を植えている。中之坊をはじめ、護念院、西南院、千仏
	院、宗胤院など数ヶ寺で拝観でき、四月下旬から五月のはじめにかけて見頃となる。本日も、色とりどりのぼたんととも
	に、数多くのてっせん、珍しい白藤などが彩りを添えていた。








上左の写真が、右の写真の上にくる。三重の塔が池に写っているのだ。





西塔(上)と、その向こうに東塔が(下)。



上の右端を拡大したのが下の写真。というか、下を縮小したのが上右端やね。











抹茶を頂きながら、のんびりと庭園を眺めることもできる。ただし、花の季節の土日はさけたほうが良い。





まさしく百花繚乱や。









しゃくなげと東塔(上右)。




	「東塔」(上写真)は「金堂」の前を南の方向に進み念仏院に上がる石段の手前を左折した場所、丘陵の斜面に建てられ
	ている。「東塔」は奈良時代末8世紀の建立と考えられており、以来何回かの修理が行われ、その都度、かなりの部分が
	当初と比べ変更されているらしいが、建設には奈良時代の最新の技術が用いられている。 








東門から駐車場を出て県道へ出ると、二上山が見えている(上右)。








	河内(大阪)と大和(奈良)を結ぶ国道の峠に展望所がある。ここからは河内平野、奈良盆地が一望できる。この日は霧
	が立ちこめていて、これはこれで幻想的な光景だった。



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