Sound: grow old with me



2006.11.30 兵庫県猪名川町



第115回例会 「近畿の銀山・多田銀山をゆく」




	<日時>: 12月3日(日)8:45AM 阪急電車「梅田駅」紀伊國屋書店前(PANASONIC TV画面前)集合
	<交通>: 適時、定刻までに梅田までお越しください。
	<持参するもの>: 弁当・水筒・雨具・その他
	<行程>: 
		@阪急梅田駅(9:00発)−−−(阪急宝塚本線急行・宝塚行き)−−−川西能勢口(9:22着)(9:26発)−−−
		(能勢電鉄妙見線・妙見口行き)−−−山下(9:43着)(9:47発)−−−(能勢電鉄日生線)−−−−
		(9:50着)日生中央
		A日生中央(9:59発)−−−(阪急バス川西バスターミナル行き)−−−銀山口下車
		B銀山口(10:30頃出発)−−代官所跡−−高札場跡−−明治時代の精錬所跡−−甘露寺−−代官所の門−−平炉跡
		 −−金山彦神社・神宮寺(昼食)
		 青木間歩−−水抜通風穴−−日本鉱業事務所跡−−大露頭−−台所間歩−−山中鹿之助一族の墓−−猪名川道の駅
		 −−屏風岩−−東光寺
		C屏風岩−−(阪急バス)−−日生中央(このバスは1時間に1本です。)
		梅田にて適時解散


銀山口バス停。日生中央駅から20分くらい。ここへ来るバスは1時間に1,2本しかない。カラリと晴れた秋晴れのいい一日だった。




	<多田銀山>

	古くは奈良東大寺大仏建立に利用されたといわれている銅を産出している。1570年豊臣秀吉により開発され、最も栄えた
	時代でもある。大阪城築城にあたり台所をうるおした事から、現在でも台所間歩(坑道のこと)、瓢箪間歩などの坑口がいた
	るところに残っている。青木間歩は一般公開されている。当時、集落には、大勢の人が住み、今もなお「本町」、「新町」な
	ど、山里とは思えない地名が残っている。江戸時代には、銀山周辺は天領となり、代官所が設置された。最も栄えたときには
	世帯数3千、人口1万5千人を数えたといわれ、江戸時代以降、紆余曲折を経て明治41年に休山となった。昭和19年に再
	び採鉱が始まり、昭和48年に閉山。現在では、すぐ近くまで大阪のベットタウンとして新興住宅地の開発が進んでいるが、
	住所表示の銀山町という名が示すように今もその名残をとどめている。梅田から阪急と能勢電鉄を乗り継いでおよそ1時間。
	日生中央駅からバスで銀山口まで。そこから徒歩約30分で入り口に到着する。



右にお寺(名前は忘れた)と神社の杜を見ながら、田園と畑のなかを進む。






	途中にあった供養塔(上)。このあたりの有志の方が建てたものらしい。その先に、「多田銀山顕彰会」という看板を掲げた
	家があったので覗いてみると、オジサンが色々と教えてくれた。近所の人の話だと、どうやらこのオジサンは多田銀山のぬし
	みたいな人らしい。並べられた鉱石を見ると、どうやらこのオジサンもかっては山を掘っていたようである。



上左の写真で、背後に聳えている山が明治時代の精錬所の跡のある処だという。



納屋の中に、掘ってきた鉱石やイベントで使った資料が所狭しと置かれていた。





江戸時代の多田銀山古地図も、デカイのが飾ってある。



「これこれ、キラリと光っているところが銀の鉱脈ですよ。」「ヘェー、これかぁ。」「溶かしたらどないなるんやろ。」
「なんぼくらいかな?」「山行ったら今でもありますか?」「ありますよ。みんな掘ってます。」「ヒェーっ。」









公民館だったところが工事中で、来年「銀山資料館」が建つらしい。建ってからくれば良かったかな。








	多田銀山は、東大寺の大仏鋳造のために銅を献じたといわれる銀や銅の産地で、実際には銀の産出量は多く無く、銅を主体と
	した鉱山だったようだ。豊臣秀吉の時代に最も栄え、「台所間歩」や「瓢箪間歩」などの名前が付けられた坑道跡が数箇所残
	っている。江戸時代に設置された代官所の跡が、資料館予定地とは銀山川を挟んで反対側の、山の麓に残っている。



下の絵図に描かれた石垣の跡は、今も川の土手に残っている(上)。







銀山川に架かる銀山橋。ここを渡ってすぐ左側へ入っていけば代官所の跡である。その先にも幾つか間歩(まぶ:坑道)がある。



上右は銀山川上流。



橋のたもとに変わった石塔が建っていた。高札場の跡だ。









川に沿って10mも行けばすぐ代官所跡である。

	多田銀山は、天平時代(724〜748)に摂津多田銀山領(宝塚の一部を含む猪名川、川西、箕面、豊能、能勢などの広い範囲を
	指す。)で和銅が発見され、天禄年間(970年)には銀山発祥の地である金懸間歩から発掘が始まり、昭和49年の日本鉱業の
	閉山まで続いた。千余年にわたる歴史のある鉱山である。なかでも天正年間(1573年〜)の豊臣秀吉時代が一番の隆盛期であ
	り、秀吉が海外から導入した採掘、精錬技術「南蛮吹き」と言う精錬方法は、当時としては画期的な技術革新で金、銀、銅の
	産出量を急激に増やし、経済力を貯え、豊臣政権の基礎を築いたと言われている。
	ちなみに当時、銀山から産出される自然銀は一トンあたり5000g〜6000gの含有量があったそうで、これは一時的であったと考
	えられるが、江戸時代の一トンあたり1300g〜3000g、日本鉱業採掘時の1300g〜1500gの含有量と比較すると、当時は純度の高
	い高品質の銀の産出地であったことがよくわかる。
	銀、銅以外にも銀山から産出される鉱石は多く、斑銅鉱、方鉛鉱、黄銅鉱、褐錫鉱、錫石、藍銅鉱、青鉛鉱などがある。有名
	な日本画の一大流派、狩野派の絵師、狩野山楽は、銀山から採れる紺青石でつくった銀山特有のあざやかなブルーの青色顔料
	を用いて、多くの優れた作品を生み出している。
	又銀山は、日本最大の埋蔵金伝説の地でもある。豊臣秀吉が晩年に家督を継ぐ幼い秀頼を案じて、短期間に多数の囚人を使い
	21ケ所に分散埋蔵し、作業終了時には囚人全員を抹殺したと言い伝えられている。その金額は、4億5千万両(現在の約2
	00兆円に相当)と言われている。まさに「銀山」は黄金伝説の郷でもあるのだ。



銀山川を挟んで、建設中の資料館が。














	銀山町の側溝に浮かんでいた紅葉。晩秋の爽やかな空気に包まれて、いまは静かで落ち着いた山里である。日本人に生まれた
	ことを感謝したくなるのは、全くこういう処を歩いている時だ。





代官所の門を移築した家。





金山彦神社の手前、銀山川のすぐ上に「炉跡」の標識が建っている。代官所の門から50mほど。














	銀山代官所の門を右に見て進むと金山彦神社。橋の前に解説板がある。銅を採掘していた平安時代の971年に、鉱山の守り神の
	石神をご神体として建立された。現在残っている石垣や灯籠には、かつての有力者の名前が見受けられる。





「山神宮」とはまた変わった額だ。





山門の中に、見事な達筆の由来書きがあった。上は感心して魅入る錦織さん。











小春日和とはいかないが、気持ちのいい陽気の中で昼食。



神社から下へ降りてきたら小さな祠があって、「神宮寺」の由来が書いてあった。




	神宮寺から川を渡りかけたが、「青木間歩」はこっちと標識があったのでまた川を渡って、そこからさらに進むと右手に青山
	間歩がある。昭和29年から48年まで、日本鉱業が多田銅山として採掘していた坑道が近年整備され、午前9時から午後5
	時までは無料で入れる。鉄格子のドアがあるが、ちゃんと電気もついているので安心して入れる。










	生野銀山、石見銀山に比べると、この坑道はアッという間に行き止まりになる。生野は民間会社が観光地化しているし、石見
	は地方自治体が世界遺産入りをめざしているが、ここは猪名川町の管理なのでおそらく予算がないのだろう。しかし、なにも
	しないのがかえって、当時の鉱山が寂れていく様相を醸し出していて、これはこれで趣がある。











「炉跡」の近くに、「水抜き穴跡」というのが地図にあったが、あそこの風穴だろうか。それにしてはエラい遠いが(500m以上ある)。













こんな処に事務所があったとは思えないような場所だが、エレベーターもあったんや。






	山肌にへばりついてなにやら岩を叩いている集団がいたので何をしているのか聞いてみたら「銀を掘ってます。」との返答。
	子供も混じっているし、まさか溶かして銀を抽出する訳でもあるまいから、やっぱ鉱石採集だろうね。





正面からだと光って見えないので斜めから写してみた。しかし読みにくいね。この先にある「台所間歩」「瓢箪間歩」の説明。




	上の看板から右に林道を進んで10mばかり行くと「台所間歩」がある。ここの採掘銀銅で大阪城の台所の経費をまかなって
	いたことからそう呼ばれる、重要な坑道跡だ。 



台所間歩の坑道口。埋まってなかへは入れない。






	銀山川を挟んで台所間歩の反対側に「久徳寺跡」と「山中鹿之助一族の墓」があった。なにゆえこんな処に「山中鹿之助一族
	の墓が?」とみんないぶかったが、誰もそのあたりには詳しくなかった。久徳寺跡というのはおそらく山中鹿之助一族の菩提
	寺なのだろうと思われるが、寺跡はもはや何もなく、墓はものの見事に荒れ果てていた。


	山中幸盛(鹿之助)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	山中 幸盛(やまなか ゆきもり、天文14年8月15日(1545年9月20日) - 天正5年7月17日(1578年8月20日))は、戦国時代の
	山陰地方の武将。出雲国能義郡(現島根県安来市広瀬町)に生まれる。戦国大名尼子氏の家臣。実名は幸盛(ゆきもり)だが、
	通称の鹿介、鹿之介(しかのすけ)のほうがよく知られる。ただし、講談の類では「鹿之助」とされたため、山中鹿之助なる
	表記が誤って広まっている。幼名は甚次郎。「山陰の麒麟児」の異名を取る。

	[ 生涯 ] 
	山中家は尼子氏の庶流にあたり、山中幸久を初代とする。幼少から尼子氏に仕えた。講談などによると、尼子義久が毛利元就
	に攻められ、次第に勢力を奪われていく中で、尼子十勇士の一人として活躍したという。
	いずれにせよ活動が明らかに知られるのは1566年に尼子義久が毛利氏に降り、戦国大名尼子氏が滅びて以降のことである。尼
	子氏が衰亡していく中、御家再興のため、鹿介が「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は講談など
	によりよく知られる。山中鹿介の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。

	<第一回  永禄11年(1568)〔24歳〕〜元亀2年 (1571.8.21)〔27歳〕>
	1568年、鹿介は尼子氏を再興するために京都で僧籍にあった尼子国久の孫勝久を還俗させて擁立した。立原久綱・横道兵庫助
	・牛尾弾正忠・三刀屋蔵人・遠藤甚九郎ら尼子遺臣団は、山名豊祐の家老垣屋播磨守を頼り、但馬国を経由し奈佐日本之介の
	手を借りて隠岐に依る。隠岐の豪族・隠岐為清の協力を得、1969年には海浜の出雲忠山を占領する。その後、出雲の尼子遺臣
	の勢力を吸収し、新山城を攻略してここに本営を設置。毛利氏の拠点となっていた月山富田城を除き、出雲一国をほぼ手中に
	収めんとするまでに勢力を伸張した。
	しかし、その後は隠岐為清の離反を招き、布部山の戦いに敗北すると衰勢著しく、1571年8月には最後の拠点であった新山城
	が落城する。この闘いで、鹿介は毛利元就の次男吉川元春に捕らえられた。ところがこの時、腹痛を装って何度も厠に入り、
	油断した監視の目を逃れるために厠から糞にまみれながらも脱走したといい、勝久とともに再び京都に逃れた。

	<第二回  元亀3年(1572.8)〔28歳〕〜天正4年(1576.5.4)〔32歳〕>
	京へ戻った鹿介らは、織田信長に謁し、中国攻めの先方となることを誓ったとされる。尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて
	山名氏の軍勢に加わり、山名氏に謀叛して鳥取城に篭った武田高信と闘い、因幡国を転戦、「甑山城での戦い」にて決定的な
	勝利を得た。もっとも、その後に武田氏に味方した鳥取城を毛利氏に奪われた。
	この頃の山陰は勢力地図が頻繁に変わる時代であったが、その一つの要因は、山名氏が毛利と織田の二大勢力に翻弄されてい
	たことにある。織田氏と気脈を通じていた尼子遺臣団は、当時毛利寄りであった山名氏を離反する。天正2年1574年ごろには
	因幡国の諸城を攻略し、織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城を確保。一時的に尼子氏を再興することに成功
	した。しかし、天正3年〔1575〕9月には毛利方が私都城を攻略し、古くからの尼子遺臣であった横道兄弟・森脇久仍・牛尾
	大炊助らが毛利氏に降るという事態が発生した。また、1576年には情勢の変化からか、織田信長は鹿介を庇護しない旨を吉川
	元春に伝えている。重臣と庇護者を同時に失った尼子遺臣団は、居城の若桜鬼ヶ城を支えることができずに丹波方面へ落ち延
	びることとなった。織田氏の処置は、本願寺などの諸勢力との闘いが続く中で、毛利氏との軋轢を一時的に軽減するための政
	治的な目的があったと考えられる。この後、尼子遺臣団は再び中国方面軍に編入されることとなる。

	<第三回  天正5年(1577.9.27)〔33歳〕〜天正6年(1578)〔34歳〕>
	1577年、信長の命により羽柴秀吉の中国遠征が始まると、その先鋒として播磨国に送り込まれ、上月城に拠って尼子氏の再興
	を目指した。しかし、翌1578年に毛利軍に攻められた際、織田軍が北の上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため播磨から軍
	を引いたため、上月城は孤立し「打倒尼子」の意気に燃える毛利軍の包囲攻撃を喰らい、尼子主従は城を支えきれず降伏した。
	この時、主君の尼子勝久は自害したが、鹿介は自害せず、毛利氏に降った。しかし毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合
	の渡(岡山県高梁市)の阿井の渡しにて謀殺された。通説によれば、鹿介はいつも生き延びて、尼子氏を必ずや再興するとい
	う執念を胸中に抱いていたため、これを生かしておくと危険と見た吉川元春が先手を打ち、鹿介は殺害されたと言われている。
	鹿介の死を以って尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。殺害現場である、現在の高梁市の高梁川と成羽川との合流
	点付近の国道313号沿いに墓所(胴塚)があり、首級は備後国鞆の浦に在していた時の室町幕府15代将軍足利義昭や毛利
	輝元により実検が行われ、その後地元の人たちが手厚く葬った首塚が現在も残る。(鞆の浦・静観寺境内)

	[ 評価とその後 ]
	信長公記には、信長が事実上見殺しにしたことを羽柴秀吉が悔やみ、嫡子の織田信忠に対して「信長の名声に傷がついた」と
	嘆く一節がある。もっとも、信長の鹿介ら尼子遺臣団に対する措置は最初から冷酷と言っていいほどで、その事績をたどると
	ほぼ捨て駒として使われていることが窺われる。それとは対称的に、秀吉は上記のような発言をしていることからしても尼子
	遺臣団に対してかなり好意的・同情的であった。鹿介の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、尼子遺臣団の完全な解体とは
	ならなかった。上月城陥落時、亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従っていたために難を逃れていたのである。尼子遺臣団の一部は
	この亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。その後は東軍に属して関ヶ原の戦いでも前衛の部隊とし
	て参戦、徳川幕藩体制に組み込まれ、幕末を迎えた。また、鹿野の大名となった亀井茲矩により、菩提寺として幸盛寺が建立
	されている。
	幸盛の行動は忠誠心溢れるもののように感じられるが、尼子氏の嫡流で当主である尼子義久らは毛利氏の監視下にあり、ある
	面から見れば幸盛の行動は主君の命に関わるものでもあった。事実尼子3兄弟は20年近くに渡って軟禁状態に置かれるので
	ある。そのことを勘案するならば、幸盛が忠誠を誓ったのは「尼子」の血脈ではなく、あくまで大名家としての「尼子家」で
	あったと言えるかもしれない。衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続けたことはほぼ史実が裏付けており(ただ、その理由は
	定かではない)、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将として
	の側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が作られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした
	明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用された。
	なお、次男山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移
	住して江戸時代以降の豪商鴻池家の祖となったとする説がある。その為か、鴻池家では毛利家への財政支援を行わなかったと
	いう。

	[ 実像 ]
	勇猛な美男子であったといい、毛利軍で猛将として知られた菊池音八や、有名な品川大膳との闘い、松永久秀の家臣河合将監
	をいずれも一騎打ちで討ち取ったという逸話が知られる。しかし講談以外の資料によると品川大膳との一騎打ちでは、逆に討
	ち取られそうになったところを仲間の支援を得て討ったと記録されている。後者の方が話が具体的であり、信憑性が高い。講
	談として語られる中で、付託・創作されていったのだろう。


銀山川を渡って対岸の藪の中に踏み込むと、なにやら石碑らしいものが遠くに見えている。


	鴻池善右衛門	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもんは、江戸時代の商家である鴻池家で代々受け継がれる名前である。遠祖は尼子氏家
	臣の山中鹿介(幸盛)であると言われている。兵庫県伊丹市で造酒業を営んでいた鹿介の子の鴻池新六幸元から、初代の正成、
	2代目の之宗、3代目の宗利と続き、摂津国鴻池醸造業から、初代正成が1619年に大坂へ移り、25年には大坂‐江戸間の海運、
	蔵物輸送や酒造などを手がけ、56年には酒造を廃業して両替商をはじめ、大名貸、町人貸、問屋融通など事業を拡大。3代
	目宗利は新田開発や市街地整備も手がけ地代を得る。上方落語の「鴻池の犬」に鴻池善右衛門の名前が登場する。

	鴻池善右衛門 (10代目)
	江戸時代後期から明治、大正まで活躍。名は善九郎、幸富、丑之助。1841年、鴻池家の別家である山中氏の長男として生まれ
	たが、後に宗家の養子となった。1851年、家督を継いで10代目の善右衛門の名を襲名する。この頃、篠崎小竹の弟子となって
	勉学を学んだ。豪商であったため、幕府から海防費の名目で御用金供出を命じられ、新撰組の芹沢鴨から500両の軍用金を
	供出するように脅迫されるなど、幕末期は苦難を極めた。1877年、第十三国立銀行を創設する。そしてその後は日本生命保険
	の初代社長に就任するなど日本における金融界、貿易界の創設・発展に尽力した。1920年、80歳で死去。

	尼子十勇士 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)は、戦国大名尼子氏の家臣のうち十人の優れた武士を列記したもの。山中鹿介などが含ま
	れ、立川文庫などの講談により有名になったが、江戸時代からその呼び名は知られていた。『後太平記』(延宝五年1677年刊、
	草稿は元和三年1617年に完成していたというが疑いがある)に既に「尼子十勇士」の文言がみえるが、鹿介らの同時代史料に
	はない。その後『常山紀談』や『陰徳太平記』など、数々の軍記物に登場するようになったが、十人の氏名は各書ばらばらで、
	実在の人物ではなさそうな名前も多い。

	『後太平記』(山中鹿之助、秋宅庵助、寺本生死助、尤道理助、今川鮎助、藪中荊助、横道兵庫助、五月早苗助、植田稲葉助)
	『常山紀談』(山中鹿之介、薮原荊之介、五月早苗介、上田稲葉之介、尤道理之介、早川鮎之介、川岸柳之介、井筒女之介、
		   阿波鳴戸之介、破骨障子之介)


	NETその他で調べても、どうしてここに山中鹿之助一族の墓があるのかわからなかった。前項ウィキペディアによる解説の、
	摂津国川辺郡鴻池村で酒造業を始めて財をなし、という部分が、わずかにそれらしい手がかりのような気もする。しかし鴻池
	の発祥は伊丹市のはずで、こんな山の中の寺にどうして葬ったのだろうか。全盛期に、この鉱山に鴻池も家屋敷を構えていて、
	山中幸元(鴻池新六)がここを菩提寺としたのだろうか。どなたかご存じの方があったら教えて欲しい。或いはその当たりを
	書いた文献でもどこかにないだろうか。



山の際に墓石が散乱している。そして側には苔むした石碑が立っていて、なにやら刻んであったのだろうがもう全く読めない。



「子孫はおらんのかね?」と誰かが言っていたが、鴻池が子孫なら少しは綺麗にしそうなもので、鴻池になった子孫とは別口かもしれない。




	2007.1.9(火)追記

	年が明けて程なく、このHPをご覧になった鳥取県の「ネコッチさん」(ハンドルネーム希望)から早速以下のようなメール
	をいただいた。この情報の源はある寺の住職さんからだそうだが、なぜかその住職さんは「久徳寺」について語ることは避け
	ておられるようで、そのあたりの事情はわからないが、おそらくメールの最後にある訴訟問題とのからみで、過去に何か嫌な
	思いをされて関わり合いになりたくないのかもしれない。


	-----Original Message-----
	From: ■■■■■■■ [mailto:■■■■■■■■■]
	Sent: Saturday, January 06, 2007 2:15 AM
	To: himiko@zeus.eonet.ne.jp
	Subject: はじめまして

	はじめまして、多田銀山のホームページを見せて戴きました。そのホームページの中に、久徳寺と山中鹿介の由来をご存知の
	方は教えてほしいと書かれてありましたので知っている事をお知らせします。
	久徳寺の建立された年月日は不明ですが、■■■町の■■■の末寺として建立された本山が、知恩院の浄土宗の寺院でしたが
	明治初年に起こった廃仏毀釈の影響を受け廃寺となりました。

	久徳寺と山中鹿介の由来「あくまでも伝承です」。上月城落城後、豊臣秀吉は山中鹿介の妻子を引き取り大切に保護したそう
	ですが、その後、豊臣家の直轄領として栄えた多田銀山の地に山中鹿介の妻子を住まわせたと伝えられています。
	山中鹿介の子とされる山中和十郎幸正が、秀吉の援助を受けて父である山中鹿介と、主君であった尼子義久夫妻の菩提追善の
	為に久徳寺を建てて、山中鹿介と尼子義久夫妻の3人の位牌を祀つり、久徳寺の初代住職となったそうです。
	久徳寺の寺名の由来は尼子義久の戒名「久徳院殿勇譽義宣大居士」(久徳寺過去帳より)の院号を寺名としたと伝えられてい
	ます。
	看板には、「山中鹿之助一族の墓」と記されていますが、山中鹿介一族の墓というのは誤りであり、久徳寺に葬られている山
	中鹿介の縁者は、山中鹿介の妻と久徳寺の初代住職となった山中幸正の2人のみです。現在、久徳寺跡は荒れ放題のため、鹿
	介の妻子の墓を見つける事は不可能です。久徳寺には、いろいろな説があるそうですが、はっきりと言える事は山中鹿介の縁
	者が豊臣秀吉の援助を受けて建立した山中鹿介と尼子義久夫妻の菩提寺であるという事は間違いありません。

	鴻池家は、山中鹿介の子孫だと書かれていますがこれは誤りです、鴻池家の系図は信憑性に乏しくはっきりと子孫であるとは
	いえません。鴻池家の始祖である鴻池山中幸元は鹿介の長男となっていますが鹿介には男子は無く、鹿介の実子は娘の八重の
	みです。昭和12年に鹿介の娘、八重の直系の子孫である山中三郎氏と鴻池家が、どちらが正統な山中鹿介の直系の子孫か争い、
	裁判になったそうです。結果、鴻池家は正統な山中鹿介の子孫ではなく、山中三郎氏が正統な山中鹿介の直系の子孫であると
	判決がでたそうです。

	以上です。


	ここにある、鴻池と山中三郎氏の裁判については、新聞に載った当時の記事をネコッチさんも見たそうなので間違いはないと
	の事である。また、現在、久徳寺の資料、文献は一切無く、■■■に久徳寺の過去帳が残っているのみと言う。


	----- Original Message ----- 
	From: 筑前 
	To: ■■■■■■■ 
	Sent: Saturday, January 06, 2007 5:54 AM
	Subject: RE: はじめまして

	ありがとうございます。そうでしたか、詳細に教えて頂きありがとうございます。このmailの内容をHPに追加したいのです
	が掲載して宜しいでしょうか? OKであれば、これも宜しければですが、お名前(漢字表記)、住所(府県と市町村あたり
	までで結構ですが。)を教えて頂けないでしょうか? 
	また、ご指摘の内容は、何か書かれた書籍でもあるのでしょうか?もしおわかりなら教えてください。
	遅ればせながら、あけましておめでとうございます。今後とも「邪馬台国大研究」宜しくお願いします。
	大阪府吹田市 井上筑前



瓢箪間歩(ひょうたんまぶ)





	銀山川を渡ってもとの道へ戻り、さらに竹林を進むと左にあるのが「瓢箪間歩」だ。足利時代から採掘されていた坑道で、秀
	吉時代に良質の銀銅が豊富に産出し全盛をきわめた。鉱脈を発見した原丹波、原淡路父子に秀吉から馬印の千成瓢幟を与えら
	れ、それを坑口に立てたことからこの名がついたという。検分に来た秀吉はこの坑道を馬に乗ったまま入ったというが馬に乗
	って入れるかな。馬が入っていかないような気もする。









何枚か坑道内を写しているのだが、どれも何かの力が働いているかのようにピンボケで、
まともに写っていない。変だ。もしかしてここが埋蔵金のありかでは?
	多田源氏

	この地方の猪名川の南、川西には多田神社があり、多田源氏(ただげんじ)の発祥の地であるとも言われる。多田源氏は、平
	安時代中期に摂津国川辺郡多田(兵庫県川西市多田)の地に下向し居城を構え、初めて源氏武士団を形成した源満仲(多田満
	仲)に始まる。摂津源氏において多田の地を本拠とした系統である。
	摂津源氏において最初に多田を称したのは、清和源氏の武士団を摂津国多田の地に形成した源満仲(多田満仲)だが、満仲の場
	合の多田は号であり、苗字ではない。満仲の嫡男の源頼光と、その子の源頼国は源姓であり、頼国の子の源頼綱、その子の源
	明国は多田を名のるが、この場合も号である。多田明国の弟の源仲政は、馬場仲政と馬場を号し、その子の源頼政や、源仲綱
	ら頼政の子は源姓であり、多田明国の子も源行国と源姓である。源行国の子が多田頼盛であり、その子が多田行綱だが、以降、
	子孫は苗字として多田を名乗っており、そのような経緯から、苗字としての「多田」は多田頼盛にはじまると言えよう。また
	頼盛の弟頼憲も「多田蔵人」を名乗っている。





	多田銀山見学を終わってもとの道へ引き返し、屏風岩方面を目指して歩き出す。池の畔あり、栗林の中あり、田圃の中ありと、
	久々のトレッキング気分を味わえた。今回は、前半が遺跡探索、後半はハイキングといった感じの例会になって、OUTDOOR派の
	私としては、非常に満足度の高い例会だった。















季節はずれのサクラが咲いて。



放流マス釣りの太公望で賑わう猪名川へ出た。




	ここからのバスも1時間に1本で、もうじきバスが来るというので、東光寺と屏風岩は割愛した。また機会が有れば行ってみ
	たい。

	●東光寺 
	行基の開基と伝えられ、大江山の鬼退治で知られる源頼光が道中立ち寄り、必勝祈願をしたと言い伝えられており、「大井の
	乳薬師」として多くの人々に親しまれている。
	●屏風岩 
	北摂第一の名勝といわれ、その形が屏風を立てた姿に似ているところから名前がついた。





大井のバス停でバスを待つ皆さん。このバス停は病院だったようだが、上から岩が落ちてきて移転したもののようだ。



日生中央の駅へ戻り、猪名川町の観光案内板を見る。どうせなら、はじめに見ておけばいいものを。

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	<日本3大埋蔵金> 埋蔵量、信ぴょう性、これまでチャレンジした人の多さで群を抜く。
	1.豊臣秀吉の黄金(埋蔵量ナンバーワン)  

	【場所…兵庫県川辺郡猪名川町多田銀山跡】

	 1598(慶長3)年夏、豊臣秀吉が死の床についたとき、後継ぎの秀頼はまだ6歳。政権を託すにはあまりも幼く、せ
	めてもの不安の解消策として、秀吉は勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させたという。それは、朝鮮出兵
	の軍用金の残り、天正長大判4億5000万両と金塊3万貫(112.5トン)で、場所は現在の兵庫県猪名川町の多田銀
	山の坑道内。もし本当なら、金の地金としての値打ちだけでも5兆円以上。天正長大判は1枚5千万円もするので、これで
	計算したら天文学的な金額となる。太平洋戦争後、三重県と大阪府のある旧家から発見された埋蔵秘文書をもとに、長い間
	さまざまな人によって探索が続けられてきたが、まだ黄金はかけらも見つかっていない。奈良時代から銅や銀の採掘が行わ
	れてきた多田銀山には、無数の坑道があり、中には埋まっている部分や水没しているところもあるので、黄金を探し当てる
	のは並大抵のことではないだろう。大判4億5000万両というのはとてもありえない額だが、なにがしかは隠されていて
	もおかしくない。
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	秀吉の軍用金が埋蔵されている? (川西書店組合発行「川西の歴史散歩」より) 

	「ことなくば世々に伝えよ白銀の 山に黄金の花は咲くとも」 

	「大事あれば掘り出てもみよ摂津多田 白銀の山に眠る宝を」 

	豊臣秀吉は大阪城が徳川氏の手に落ちることを恐れて、城中にたくわえていた金貨四億数千両と金塊3万貫を多田銀山に埋
	蔵させたという伝説があり、この2首の歌が伝えられています。平安時代から採鉱がはじめられた多田銀山は、十数キロ四
	方に広がった鉱脈を持ち、豊臣時代(16世紀)になって秀吉は、陣屋を立てて奉行を置き管轄させたそうです。
	この頃、南蛮人がつたえた製錬法で、銅と銀を分離できるようになり最盛期を迎えました。しかし、慶長3年(1598)に秀吉
	が病に臥せると突然「銀山払い」と称して、付近一帯に強制疎開が命ぜられ、囚人達を使って密かに「鉱山の閉鎖と軍用金
	埋蔵」の作業が行われたといわれています。そしてすべての作業が終わると、作業に従事した囚人達は観音像を拝ませた後
	処刑されたといわれ、その時の観音像は近隣の陽泉寺に今も残されているそうです。この地域も、その後徳川時代になりや
	がて生産高が減少して衰退しましたが、現在も坑道や製錬所跡(右の写真)に当時の名残りをとどめています。はたして秀
	吉の埋蔵金は本当にあったのか? 今も地下に眠ったままなのか・・・・ 
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	しまった。今回は反省会の模様を撮らなかった。梅田へ帰ってきて阪急近くの居酒屋へ入った。皆さんお疲れ様。
	さぁ次は忘年会ですよ!



	秀吉4.5億両の埋蔵金伝説の地…坑道ロボ出動 多田銀銅山  2011.8.23 14:06 sankei.web

			
			坑道の中に入る遠隔操作型坑道探査用ロボット。カメラやレーザーで構造を立体的に把握できる
			=23日午前10時半、兵庫県猪名川町(野々山暢撮影)

	 豊臣秀吉が開発し、大量の銀が採掘された兵庫県猪名川町の「多田銀銅山」で23日、遠隔操作できる坑道探査用ロボットによる測量
	調査が始まった。崩落の危険から人が立ち入ることができない坑道をロボットが調査することで、これまで見つかっていなかった新たな
	坑道の発見につながることが期待されている。

	測量の目的は…

	 兵庫県教委によると、多田銀銅山は兵庫県川西市、宝塚市、猪名川町、大阪府池田市、箕面市、能勢町、豊能町の7市町を中心に10
	数キロ四方に広がる鉱山で、坑道跡は約2千カ所にのぼるという。
	 中でも猪名川町の銀山地区は豊臣秀吉が晩年、跡継ぎの秀頼のために4億5千万両を埋めたとされる「豊臣秀吉の埋蔵金伝説」の舞台
	としても知られている。
	 今回の調査は埋蔵金発掘目的ではなく、対象となるのは新名神高速道路建設に伴う6月の調査で発見された高さ0.9メートル、幅
	0.6メートル、奥行き6メートルの坑道。終点とみられた場所から上に掘られた立穴の存在も確認されており、10月下旬までかけて
	詳細に調査することになった。
	 この日登場したロボットは、松江高専(松江市)の久間英樹教授が開発した全長約60センチの遠隔操作型坑道探査用。カメラやレー
	ザーを搭載した従来の坑道探査用ロボットをより進化させた新モデルで、前後に取り付けたセンサーでより正確に奥行きなどを計測でき
	る。立穴に光を当てて形状や傾斜角を測定し、採掘時期や採掘方法、他の坑道につながっていないかなどを探査するという。
	 久間教授は「ロボットが中に入ることで、断面図や入り口の形だけでは分からないことが解明できる。新たな立穴や坑道が見つかる可
	能性もある」と話している。


邪馬台国大研究HP/ 歴史倶楽部例会/ 多田銀山