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芝離宮恩賜公園













 

 

 

 

 

 































 





 

 







浜離宮公園







東京都浜離宮恩賜庭園の大手門




	浜離宮恩賜庭園 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	旧浜離宮庭園の石碑東京都立浜離宮恩賜庭園(とうきょう とりつ はまりきゅう おんし ていえん)は、東京都中央区
	浜離宮庭園にある都立公園である。もとは甲州藩の下屋敷の庭園であったが、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下さ
	れ都立公園として昭和21年(1946年)4月1日開園。公園の広さは、250,165.81m2。ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線、
	都営地下鉄大江戸線の汐留駅から徒歩。また水上バスが浅草などとの間に就航している。
	東京湾に面し、汐入の庭の典型といわれる。園内には、海水を引き入れた潮入の池など多数の池があり、また松やケヤ
	キ、花畑などが整備され、憩いの場となっている。また江戸時代、徳川家宣が改修したときに植えられたと伝わる園内
	の三百年の松は東京都内最大の黒松である。桜の木も多く、春はライトアップされ、夜間まで開園する。種類も多く、
	見頃も比較的長い。オフィス街が近いため、訪れる人も多い。




	江戸幕府が開かれて暫くは将軍家の鷹狩の場であったが、承応3年(1654年)に甲府藩主の松平綱重がこの地を拝領し、
	埋め立てて別邸を立てた。その後は甲府藩の下屋敷として使用された。このため甲府浜屋敷、海手屋敷と呼ばれるよう
	になった。綱重の子である徳川家宣が6代将軍になると、将軍家の別邸とされ浜御殿と改称して大幅な改修が行われ、
	茶園、火薬所、庭園が整備された。幕末、外国人接待所として石造洋館である延遼館(幕府海軍伝習屯所)が建設され
	た。延遼館は、明治維新後も鹿鳴館が完成するまでは迎賓館として使用された。

	明治維新後、宮内省の管轄となり名前も浜離宮と改められた。明治天皇も度々訪れ、明治12年(1879年)には、当時
	のドイツ皇太子フリードリヒや前アメリカ大統領であったユリシーズ・S・グラントが日本を訪問した際、ここで明治
	天皇との謁見が行われた。延遼館は、1889年に取り壊される。昭和20年(1945年)11月3日、GHQの要求により東京都に
	下賜され、昭和27年(1952年)旧浜離宮庭園として特別史跡・特別名勝に指定される。2000年に入り、旧汐留貨
	物ターミナルが再開発され汐留の高層ビル群が林立し、景観は著しく変わってしまった。しかし「都市的風景」として
	評価する向きもある。

	◇住所   :  〒104-0046 東京都中央区浜離宮庭園1-1 
	◇アクセス :  都営大江戸線・ゆりかもめ「汐留駅」より徒歩7分。
			 JR「浜松町駅」「新橋駅」より徒歩10分。
			 都営大江戸線 『築地市場駅』より 徒歩約7分。
			 東京メトロ銀座線・都営浅草線 『新橋駅』より 徒歩約10分
	◇水上バス :  浅草→浜離宮→日の出桟橋 両国→浜離宮→葛西臨海公園 
	◇営業時  :  9:00〜17:00 (入園は16:30まで) 
	◇休業日  :  年末年始(12/29〜1/1) 
	◇利用料金 :  入園料 300円/65歳以上150円/小学生以下と都内在住・在学の中学生は無料 
	◇TEL    :  03-3541-0200  駐車場 約40台 (有料) 

 


	この地はもと将軍家鷹狩の場所であったが承応年間 松平綱重の別邸となり、甲府浜屋敷または海屋敷といわれた。
	ついで六代将軍徳川家宣これを改めて浜御殿と改称し大いにに改修を行い景観を整えた園内には、茶屋、火薬所、織殿
	等が営まれ幕末には、石造洋館、延遼館の建設をみた。維新後、宮内庁所管となり、園地を復旧し、皇族宴遊の地にあ
	てられ、名も浜離宮と改められた。諸外国貴賓来訪の際には、延遼館はその迎賓館にあてられ明治天皇も賜宴のためし
	ばしば本園に行幸せられ、特に明治十二年、米国前大統領グラント将軍が、わが国を訪問せられた際には親しく本年中
	の島茶屋において引見せられた。園は江戸時代に発達した大名庭園の代表的なものであって現存する汐入の庭の典型的
	なものとして貴重な文化財である。	昭和二十三年十二月 文部省 




	潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変
	えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式である。旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入
	の池だった。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけ。浜離宮は、この潮入りの池や、池や鴨場を中
	心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別される。この地は、寛永年間(1624〜1644年)までは、将軍家
	の鷹狩場で、一面の芦原だった。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年
	(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得た。その後、綱重の子供の綱
	豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められた。以来、歴代将
	軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成した。



	浜離宮恩賜庭園内のコスモス畑と、汐留のビル群と、そのビル群を背にして歩くSEIZANさん。ここは大規模な再開発が
	続く汐留の高層ビル群に隣接しており、四季の花が咲く都会のオアシス的なのどかな散策スポットになっている。実は、
	私が今年の4月まで働いていた会社の本社は、ここにあった。出張で東京本社へ来たとき、事務所の窓からこの離宮が
	見えていた。


 














	「お茶屋で一服」

	汐入の池中央にある『中島の御茶屋』で、抹茶を飲んだ。元々は6代将軍徳川家宣が作ったものだそうだ。現在のは昭
	和58年に再建したもので、池を眺めながらのどかな風景を満喫できる。抹茶と和菓子のセットで5百円也。デートや
	観光の一服タイムに最適のようで、老夫婦や、魅惑的な(charmming )外人のお姉ちゃん達が神妙に座って飲んでいた。
	高知県産の総檜造りの『お伝い橋』を渡って行く。東京湾の海水を引き入れた「汐入の池」と2つの「鴨場」があり、
	汐の干満によって池の趣を変える様式で、池にはボラやセイゴ、ハゼ、ウナギなどの海水魚がいる。池では多くの魚が、
	まるで敵から追われるトビウオのように、ピョンピヨン跳ね上がっていた。その魚たちをねらってまた多くの鳥たちも
	群れていた。







私が勤務していたビルの、25階の食堂から見た浜離宮。低層階の事務所からも池が見えていた。


画像:浜離宮公園航空写真1989 国土画像情報(カラー空中写真:国土交通省)を元に作成。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






芝大神明(芝大神宮)












 



神社で作業をしていた建築業者のトラック。驚いた。まだまだ「め組」健在だ。














増上寺





	<三解脱門>
	一般に「三門」と呼ばれる。増上寺の中門にあたる高さ21mの壮大なもの。箱根駅伝の時にテレビに出てくる2階建
	ての大きな楼門である。慶長十年(1605)徳川家康の建立で、都内では古い建造物の一つ。三解脱門とは、本来禅
	宗寺院の正門を指し、空門・無相門・無作門の三つの解脱、仏の道の悟りを得るために入る門という意味を持つ。
	構造は高さ21m、間口19.5m、奥行9m、左右に山廊があり、楼上には、正面中央に釈迦如来坐像左に普賢菩薩、
	右に文殊菩薩の3体のいずれも寄木造り金箔置きの仏像を安置する。そのほか、四天王、左右には8体づつの十六羅漢
	像を安置してある。これらも寄木造り極彩色であって、その功徳や威力によって、その形体が表されている。大門から
	の距離は48間、阿弥陀仏の48願を表す。大殿までの距離は108間で、煩悩を表している。御成門は裏門として作
	られ、将軍参詣の際用いられた。明治30年(1897)までは、今の御成門交差点にあった。



	浄土宗の大本山。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式呼称。増上寺創建は不明だが、
	宗春大僧都との説がある。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられ、当
	時は光明寺と称えていた、七堂伽藍の整備した真言宗の大霊場だったが、数度の兵火に見舞われ荒土となったが、建
	武の頃(1334〜5)西誉が再興して、北朝の至徳二年(1385)に浄土宗に改めた。
	明徳四年(1393)浄土宗第八祖聖聡上人によって三縁山増上寺に改称した。室町時代から戦国時代にかけて、増
	上寺は浄土宗の東国の要として発展していった。文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土
	宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与するところ著しいものがあった。 



	天正十八年(1590)徳川家康が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として指定された。
	家康が時の住職源誉存応(げんよぞんのう)上人とは、三河国以来の旧知だった為に深く帰依し、慶長三年(1598)
	現在地に移転、大伽藍(がらん)が造営された。江戸幕府の成立後には、家康の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は
	大隆盛へと向かって行った。徳川家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆した。
	さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなった。



	<東京タワー>
	東京タワーは高さ333mのアンテナからテレビ用電波8波を発信しているテレビ塔で、テレビ放送の要。FM用波
	やその他の公共通信波をあわせると、発信されている電波は合計60数波に及ぶ。また近くの愛宕山のNHK放送博
	物館は日本最初の放送局JOAKの跡地で、ラジオしかなかった時代の放送の中心地であった。
 


	<グラント松>
	三解脱門を入った右前にあるヒマラヤ杉の大樹。明治12年アメリカ合衆国第18・19代大統領グラント将軍が訪
	日の際、参拝記念に植樹したもの。グラント将軍と言えば、確か南北戦争に勝った北軍の将軍やね。

 

今のエテ公のような大統領ではなく、そのダデイーの方です。

 

 


	江戸時代増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達した。全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをは
	じめ、関東十八壇林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山知恩院に並ぶ位置を占めてい
	た。壇林とは僧侶養成のための修行道場および学問所で、常時三千人もの学僧がいたと考えられる。寺領は1万余石。
	25万坪の境内に坊中寺院48、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」を誇った。経蔵、大殿の建立、三大蔵経
	の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もあった。
	家康は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿した。

 


	明治維新以後は、徳川家の菩提寺であることが災いして苦難の時代となった。明治6年と同42年の二度に渡って大
	火に遭い、大殿ほか貴重な堂宇が焼失。また芝公園地指定を名目に境内の大半を収納され、一時期は残酷な新政府の
	命令により、神官の養成機関が置かれるなど憎悪剥き出しの事態も生じた。大久保利通は徳川家殲滅・徳川色一掃の
	みを心に東京の行政を進めていった。浅草寺と違って増上寺は目の敵にされたのである。

 


	しかし明治8年には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文など新たな壇越(だんのつ=檀徒)を迎え入れて、増上寺復
	興の兆しが見え始めた。明治大正期に行われた増上寺復興の営為を一瞬の内に無に帰したのは、昭和20年のアメリ
	カの無差別空襲だった。終戦後ゼロから始めて、同27年には仮本堂を設置、同46年から4年の歳月と35億円の
	巨費を費やして壮麗な新大殿を建立。平成元年には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して開山堂(慈雲閣)を再建し、
	現在焼失を免れた三解脱門や黒門など数多くの古くからの建造物をはじめ、鐘楼・経蔵・安国殿などが、1万6千坪
	の境内に立ち並んでいる。




	<徳川家墓所>
	墓域には、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂6人の将軍の墓所が設けられている。
	初代家康は久能山、慶喜は谷中墓地、残り7人の将軍は寛永寺霊廟だ。墓所には各将軍の正室と側室の墓も設けられ
	ているが、その中には家茂公正室で「悲劇の皇女」として知られる静寛院和宮(かずのみや)も含まれている。戦災
	によって徳川家の将軍やその一族の霊廟は焼失し、焼失をのがれた三門・経蔵(きょうぞう)・黒門などを含む境内は、
	昭和49年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備された。現存する徳川家墓所は、門が本来家宣公の墓前に
	あった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)で、内部に各公の石塔と各大名寄進の石灯籠が配置されている。



	アメリカ軍の無差別空爆によって燃やされた旧徳川家霊廟は、現在の大殿南北(左右)に建ち並ぶ壮麗なものだった。
	昭和33年夏文化財保護委員会が中心となって、発掘した土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、品川区桐ヶ谷に
	て荼毘にふされ現墓所に改葬された。正面右側に2代秀忠の宝塔があるが、焼失前の宝塔は、東京プリンスホテル・
	パークタワーのところにあった霊廟室内に祀られ、大変大きなものだったが、木造のため惜しくも、アメリカ軍の無
	差別空爆の標的とされた。現在は内室崇源院(正室)と合祀されている。


芝東照宮


 


	芝東照宮由緒

	一、祭神 徳川家康公    末社(分祀)丸山稲荷 
	一、例祭 四月十七日 
	一、神紋  三つ葉葵 
	一、社宝  御神像(東京都重要文化財) 大公孫樹 

	(創祀・沿革) 

	当宮は、当初、増上寺境内に勧請された。増上寺は、天正18年(1590)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公
	の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められた。当時は日比谷にあつたが慶長3年(1598)江戸城拡張工事に伴い、
	現在地に移転した。以後幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持った。
	元和2年(1616)、家康公が薨去されると、その遺言により同寺において法要が行われたが、十月二日には、霊
	廟造営の工事が始まり、翌年二月竣工。建物の大ききは六十六州の国を永く守るために、との遺言で六十六畳敷とな
	り、敷地も本堂後方との遺言によって、丸山の地に定められた。竣工後の3月17日には二代将軍秀忠が参拝してい
	る。 
	この増上寺境内の家康公を祀る廟は、一般に安国殿と称された。これは、家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社
	崇誉道大居士」によるものである。安国殿の御神体は、慶長6年(1601)正月、60歳を迎えられた家康公が自
	ら命じて彫刻された等身大の寿像で、公は生前、駿府城において自らこの像の祭儀を行っていた。死に臨んで公は、
	折から駿府城に見舞いに参上した増上寺の僧侶(観智国師たち三高僧)に、「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守
	護なさん。」と仰せになり、この像を同寺に祀るよう遺言していたもので、安国殿の創建の時に造営奉行であった土
	居大炊助利勝(後の大老・土居大炊頭利勝)の手により駿府から護り送られたのである。祭祀は江戸時代を通じて別
	当の安立院が奉仕した。 
	その後、寛永10年(1633)には安国殿を造替し旧安国殿は開山堂となったが、寛永18年(1641)には家
	光によって三度目の造替がなされ、敷地も丸山の東下の地に移された。規模は壮大で、惣門は駿府城から移したもの、
	鳥居は筑前国(福岡県)福岡藩主の黒田侍従右衛門佐忠忠之が奉納。拝殿、唐門、透塀をめぐらした中に、5間四方
	の本殿があり、内外部とし漆塗・極彩色の豪壮・華麗なものであった。 
	なお、増上寺は徳川家の菩提寺であった関係から、寛永10年には、二代将軍秀忠の霊廟が境内に創建された。その
	後六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の霊廟も造営されている。従って江戸時代を通じて、将
	軍の参詣は数多く行われていた。 安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分れて東照宮を称し、御神像を
	本殿に安置・奉斎した。明治6年(1873)には郷社に列し、社殿は、寛永18年の造替当時のものが維持してお
	り、本殿は大正4年(1915)旧国宝に指定され、昭和5年(1930)天然記念物に指定された神域内の公孫樹
	と共に、伽藍の美を誇っていたが、昭和20年(1945)5月25日の戦災により、御神像の寿像と天然記念物の
	公孫樹を除いて、社殿悉く焼失した。 戦後、昭和36年(1961)、氏子・崇敬者により復興奉賛会が結成され、
	一方寿像は、同38年(1963)東京都重要文化財に指定されて、仮還宮の後、昭和44年(1969)8月17
	日、遂に神殿の完成を見て今日に至る。 

    (芝東照宮しおり より)





	1641(寛永18)年創建。本殿の右手前には三代将軍徳川家光の御手植えと伝えられるイチョウの大木があり、東京都
	の木として親しまれている。平成5年の計測で、高さ21m50cm、目通り6.5m、根元周り8.3mあったとあ
	る。とにかくでかい。寛政六年(1794)1丈7尺6寸、明治16年2丈8寸だったとか。当然国の天然記念物。
	本殿中には都の有形文化財である家康公の座像が安置されている。坐像、寄木造りで、玉眼、着色してある。像高約
	1m、作者は判らないが、家康が慶長六年(1601)に作らせて、元和二年(1616)に遺命によって増上寺安
	国殿(芝東照宮)に移したもの。以前はここが増上寺の安国殿だったそうだが、明治の神仏分離の際に切り離され、
	東照宮となった。芝の東照宮と呼ばれるが、上野の東照宮に比べると貧相な感じがする。社殿は昭和44年の造営。



宝珠院・閻魔大王像













	「国分寺友の会」の掲示板で、かって閻魔様や地獄が話題になっていた。みなさん博学で、私はその議論には入っていけ
	なかったのだが、閻魔様がほんとは地蔵菩薩なのだとは知らなかった。

	<閻魔> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	閻魔天(えんまてん、サンスクリット語:Yamaの音訳)は仏教において地獄を守護する天部。 閻魔大王、閻羅王、閻魔羅
	闍(えんまらじゃ、らじゃは王の意味)とも言う。
	本来はインド・イラン共通時代にまで遡る古い神格で、アヴェスターの聖王イマと同起源である。 リグ・ヴェーダでは人
	祖ともされ、ヤマとその妹ヤミーとの間に人類が生まれたという。人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となった。
	インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた。しかし後には死者を裁いて地獄に落と
	す恐るべき神と考えられる様になり、ついには単なる死神としても描かれる様になった。
	中国に伝わると、道教の冥界思想と関連付けられていた泰山府君と習合、やがて晩唐に撰述された偽経である『閻羅王授記
	四衆逆修生七往生浄土経』(略して『預修十王生七経』)により十王信仰と結び付けられ、地獄の裁判官の一人として「人
	が死ぬと裁く」という役割を担う事になり、信仰の対象となった。
	日本仏教においては後に閻魔の本地とされる地蔵菩薩が奈良時代には『地蔵十輪経』によって伝来していた。しかし、現世
	利益優先の当時の背景では顧みられる事は稀であった。
	平安時代になって末法思想が蔓延するにしたがい源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教され
	るようになり、鎌倉初期には預修十王生七経から更なる偽経の『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が生
	み出されるに至った。これにより閻魔の本地が地蔵菩薩であるという事になり、地蔵のみならず十王信仰も普及するように
	なった。閻魔は地獄と浄土を行き来できるとされる。
	なお、同じルーツを持つ者に十二天の焔摩天がある。中国では閻魔天が閻魔大王に習合されていたが、日本に伝わった時に
	それぞればらばらに伝わったため同一存在が二つに分かれたと考えられている。日本では、嘘をついた子供を叱る際「閻魔
	様に舌を抜いて貰う」という言い方がなされた。



ここでもひとしきり「閻魔談義」に花が咲いていた。

 




青松寺








	<青松寺>
	曹洞宗江戸3ヶ寺の1つ。文明八年(1476)雲岡舜徳が開山し、開基は太田道灌。当初は、麹町貝塚(今の国立劇
	場・最高裁判所の辺り)にあり、「江戸貝塚青松寺」と称された。その後慶長五年(1600)徳川家康が江戸城の内
	濠を造る際に現在地へ移った。そこは愛宕山の南に続く丘陵で含海山と呼ばれる。寺内に「獅子窟学寮」を擁し、幾多
	の人材を輩出してきた。明治8年獅子窟学寮内に曹洞宗大学専門本校を開校し、翌年高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の
	吉祥寺学寮「栴檀」と統合し、今日の駒澤大学へと発展した。最近では東京工業大学の上田紀行助教授を招いて「仏教
	ルネッサンス塾」や「ボーズ・ビー・アンビシャス!!」を開くなど、現代社会に求められる仏教・僧侶の在り方を模索
	している。山門の入り口には「愛宕グリーンヒルズ」が聳え立ている。



しかしそのVodafoneもSOFTBANKになってしまうとは。まさしく盛者必衰やなぁ。
	ここに聳えている2つのビルディング、愛宕MORIタワーと愛宕フォレスト・タワーは、「愛宕グリーンヒルズ」の
	中核ビルであるが、ここは「青松寺」が地主である。つまりここの土地は青松寺のものなのだ。東京にはこういう「資
	産家」寺院が結構ある。京都は歴史があるから拝観料で儲けているが、東京は歴史が無い分、その広い敷地をビルにし
	て、大家として儲かっているのだ。


それにしても超近代的なビルだ。このビルの下に青松寺の駐車場もある。確かに、未来志向のお寺さんや。



	石段を上がると山門、2階建ての楼門、左右に四天王を安置。さらに石段を上がると広い空間となり、左に鐘楼、右手
	は駐車場。さらに石段を上がると中門、内庭となり、正面に壮大な鉄筋コンクリート造りの本堂がある。




	上右は、SEIZANさんの先輩が製作したという、池の中のお釈迦様と象の像。ゾーだゾー、なんちゃって。と言うことは、
	ここの仏様もその先輩が引きうけてる言うことやね。残念、seisanさん。お得意様が1つ減ったね。(seizanさんも仏
	師、つまり仏様を造る人なのです。)
	お釈迦様の右手は天を指し、左手は地面を指している。これはお釈迦様が、生まれ落ちるなりすっくと立って、この格
	好をして「天上天下唯我独尊」と喋ったという話に基づいている。つまり、「この世の中で仏様は私一人だ」という事
	である。




	文明8年(1476)太田道灌が現在の千代田区平河町に建て、慶長5年(1600)現在地に移った。江戸時代の美作津山藩
	の槍持、芦田勘助の墓は人を形どった珍しいものだという。近年、大正12年の関東大震災以前の伽藍が復活、坐禅堂、
	衆寮堂も再建され、21世紀の国際禅センターとして、誰でも参加ができる開かれた禅苑をめざしている。儒者井上金
	峨、肉弾三勇士の墓もここにある。「肉弾三勇士」なんか、今の若い奴は知らんやろなぁ。


愛宕神社












<愛宕の由来> 愛宕神社が桜田山に勧請されたことによる。

 





「桜田烈士」というのは何じゃ?と思って説明を読むと、桜田門外で井伊直弼を暗殺した水戸浪士達が、ここに終結したんだそうだ。






NHK愛宕山放送センター




愛宕神社の裏手にNHKの放送博物館があった。せっかくだから寄る事にする。













上右が玉音放送を録音したdisk(レコード)である。3枚製作され、後の2枚は宮内庁にあるそうだ。













熱心に説明してくれたおじさん。NHK現役時代はいい給料だったんだろうねぇ。















田村屋敷跡













コマツ御殿へ



	本日のコースを終了し、久保田さんの「友人」と新橋駅で分かれてからコマツさんの「隠れ家」へ向かった。浜松町
	から歩いて5分、銀座からも歩いて帰れるところにコマツさんは隠れ家を持っている。もっとも奥さん公認だから隠
	れ家というのは当たらないかもしれないが、しかし羨ましい。



	しこたま飲んだ後、WEBのカラオケ道場へつないでカラオケに興じた。しかしこれで可愛い子ちゃんが側にいたらもう
	銀座なんか行かんでもええねぇ。と言うことは、やっぱ我々は「可愛い子ちゃん」を求めて銀座や新地に行くんか。






隠れ家は高層マンションの5階だが、ベランダから見ると目の前をゆりかもめが走っていた。アーバンライフですなぁ。








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