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泉岳寺
2006.12.4 東京都港区高輪




	泉岳寺駅

	泉岳寺駅(せんがくじえき)は、東京都港区高輪2丁目16-34にある、都営地下鉄(東京都交通局)、京浜急行電鉄の駅。
	東京都交通局の管轄駅である。地下鉄の駅番号はA-07。
	駅名の由来は赤穂浪士の墓所として知られる泉岳寺に近接していることから。「泉岳寺前」の意味であり、「泉岳寺」と
	いう地名ではない。地元では地名のようにも扱われているが、行政上の区分ではない。このため、開業後に泉岳寺側が、
	この駅名を使うことについて、不当競争防止法、法人の氏名権、商法21条を根拠に使用差し止めを求めて提訴した。この
	裁判は、二審で原告の敗訴になっている。この提訴は、泉岳寺に泉岳寺駅関係の問い合わせ(運賃・忘れ物等)が多数寄
	せられ、通常の寺業務に支障を来たしたからとされている。泉岳寺はA2出口から徒歩1分、約200m。





駅の改札を出ると、地下の通路入り口に赤穂浪士四十七士の名前を書いた木板が飾ってある。






	泉岳寺	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆。

	本堂 所在地 東京都港区高輪2-11-1 
	山号 萬松山 
	宗派 曹洞宗江戸三箇寺 
	本尊 釈迦如来 
	創建年 慶長17年(1612年) 
	開基 門庵宗関、徳川家康(願主) 
	別称  
	文化財 浅野長矩・赤穂浪士墓 
 
	 泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪(「月の岬」の麓)にある曹洞宗の寺院で江戸三箇寺の1つ。慶長17年(1612年)
	に徳川家康が、桜田門外に門庵宗関(もんなんそうかん:今川義元の孫)和尚を招いて創建するも、寛永の大火(1641年)
	で焼失したが、将軍家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名により、現在の高輪の地で再建された。完成の後、
	檀家赤穂浅野家はこの寺を江戸表における菩提寺とした。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもの。
	浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られていることで有名であり、現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年12月13日、12月14日に
	は義士祭が催される。義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、
	あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある。また、境内には学寮があり、後に吉祥寺の旃檀林学寮、青松寺の獅子
	窟学寮と統合して駒澤大学に発展したほか、現在においても僧侶は境内の学寮で寮生活を行いながら大学に通学している。
	住職も駒澤大学教授。この寺は、赤穂藩主浅野長矩と大石良雄をはじめとする義士の墓(国史跡)で知られるが、かっては
	江戸の寺院の三分の一を支配する大寺院であった。


					中門(上左)と山門(右)

	<中門>
	この門は総欅造りで天保7年(1836年)、35世大?梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもの。また昭和7年に大修理
	が施されている。「萬松山」の額は中国清代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書 。

	<山門>
	この門は天保3年(1832年)34世大道貞釣(だいどうていきん)和尚代に再建された。二階部分には十六羅漢が安置され、
	一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれている。下の、「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者
	であった大野約庵による書。






	<大石内蔵助良雄銅像>
	この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていたが、泉岳寺に寄進され、
	大正10年12月14日に除幕した。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじ
	っとにらんでいる姿を表したもの。





	<本堂>
	旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい焼失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築。本尊は釈迦如来、他に
	曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められている。本堂
	では坐禅・読経などの修行が住職をはじめとした修行僧により厳粛に勤められている。正面に掲げられている「獅子吼」の
	額は「ししく」と読み、釈迦の説法のことを指す。




	泉岳寺は曹洞宗の寺院で、曹洞宗の本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総
	持寺である。道元禅師の主著は、仏教の神髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物で、我が家でも父が読んでいた。
	創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一
	つとして名を馳せていた。その家風は引き継がれており、現在も人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行
	を勤めるという若い修行僧がいる。 







田村邸で浅野内匠頭が切腹をしたときにその鮮血がついたとされる石。












	<「四十七士の墓」の門>(上右)
	この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものである。



			天野屋利兵衛は男でござる

	<天野屋利兵衛> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	天野屋利兵衛(あまのやりへえ、寛文元年年(1661年) - 享保18年8月6日(1733年9月13日))は、赤穂藩お出入りの
	大阪商人で、商人ながら義に厚く、吉良邸討ち入りの支援をしたと伝わる人物。実在の人物だが、赤穂藩とのつながりは確
	認されていない。名は直之(なおゆき)。

	巷間伝わる天野屋利兵衛物語は、

	赤穂浪士討入りのため、大量の武器を調達したのが天野屋利兵衛である。いわば忠臣蔵の影の英雄といえる人物であろう。
	利兵衛は、赤穂の浅野家に出入りする商人で、家老の大石良雄から絶大な信頼を寄せられていた。妻子にさえ秘密にしてい
	た仇討ち計画をうちあけられた利兵衛は、大石良雄に協力し大量の武器を調達にかかった。しかし、一介の商人が大量の武
	器を注文するなどおかしいと、役人に捕らえられて拷問を受ける。それでも利兵衛はひるむことなく大見得をきった。
	「天野屋利兵衛は男でござる」芝居や講談で有名な一場面である。実は、大石良雄が利兵衛の本心を知るために利兵衛を捕
	らえさせたともいわれているが、とにかく、利兵衛は牢内で討入りが成功したことを知ってから、初めて大石良雄の名を口
	にしたという。

	元禄時代の大阪の商人に天野屋利兵衛は確かに存在している。しかし天野屋がお出入りになっていたのは熊本藩細川家と岡
	山藩池田家の大阪屋敷だけである。元禄3年の「平野町宗旨改帳」に天野屋利兵衛は北組惣年寄となっているのが確認できる。
	また元禄7年には天野屋の通しの称である九郎兵衛を襲名しており、これ以降、元禄14年の赤穂事件の際にも天野屋利兵
	衛ではなく天野屋九郎兵衛になっていた。元禄8年になると遠慮を申し渡されており、このときに惣年寄も解任されたよう
	だ。のちに松永土斎と称し、享保18年(1733年)8月6日に死去した。享年73才。京都市北区大将軍の昆陽山地蔵院椿
	寺に墓があるが、京都一番のにぎやかポイントである四条寺町の聖光寺、赤穂浪士討ち入りにゆかりのある人たちが眠って
	いる、大阪市中央区の薬王寺などにも墓がある。
	このように赤穂藩とは何の関係も見出せない人物であるが、吉良邸討ち入り後、かなり早い時点から赤穂義士を支援してい
	た義商として英雄化された。吉良邸討ち入り直後に書かれた加賀藩前田家家臣杉本義隣の「赤穂鐘秀記」においても「大阪の商
	人天野屋次郎左衛門、赤穂義士たちのために槍20本つくったかどで捕縛され、討ち入り後に自白した」などと書かれている。
	赤穂浪士切腹から六年後に津山藩士小川忠右衛門によって書かれた「忠誠後鑑録或説」の中にも「大阪の惣年寄の天野屋理兵
	衛が槍数十本をつくって町奉行松野河内守助義により捕縛され使用目的を自白させるために拷問にかけられたが、答えず、
	討ち入りが成功した後にようやく自白した」などと書かれている。その後、これをソースにして各書に伝播していき、「仮名
	手本忠臣蔵」のなかにもこの話が採用されたため、完全に定説化したという流れのようだ。










	<浅野内匠頭長矩の墓>

	冷光院殿前少府朝散太夫吹毛玄利大居士 浅野内匠頭 源長矩朝民 元禄14年辛巳年3月14日 行年 35歳
	四十七士は切腹して死んだため戒名に「刃」の字を付けられたのに、浅野内匠頭の戒名にはそうなっていない。その為江戸
	の庶民が川柳で、「御主君は一人無刀の御石塔」 と詠った。


	浅野長矩 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆
 
	時代 : 江戸時代中期 
	生誕 : 寛文7年8月11日(1667年9月28日) 
	死没 : 元禄14年3月14日(1701年4月21日) 
	別名 : 又一郎(又市郎)、犬千代(幼名)。浅野内匠頭(通称) 
	諡号 : 梅谷 
	戒名 : 冷光院殿吹毛玄利大居士 
	官位 : 従五位下、内匠頭 
	藩  : 播磨赤穂藩主 
	氏族 : 浅野氏 
	父母 : 父:浅野長友、母:内藤忠政の娘・波知 
	兄弟 : 弟:浅野長広(浅野大学) 
	妻  : 正室:浅野長治の娘 

	浅野 長矩(あさの ながのり)は江戸時代前期の大名。播磨国赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下、内匠頭。受領名から
	浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)と呼称されることが多い。忠臣蔵における“悲劇の殿様”として、江戸期の最も有名な
	大名の一人である。
	長矩は、寛文7年(1667年)、時の赤穂藩主・浅野長直の子、浅野長友の長男として生まれた。母は譜代大名の内藤忠政
	(志摩国鳥羽藩主)の娘・波知(正室)。まさに赤穂浅野家の嫡男たる出生である。幼名の又一郎がそれを物語る(これは
	祖父・長直、父・長友と同じ幼名である)。この赤穂浅野家は、広島浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男長重を祖とす
	る家柄である。ことのはじまりは浅野長政が慶長11年(1606年)に、長男幸長の紀伊37万石(のち広島藩42万石)とは別に、
	自らの隠居料として常陸真壁に5万石を支給されたことであった。慶長16年(1611年)の長政の死去後、この5万石の家督
	を継いだのは、三男の浅野長重であった。この長重はその後、元和8年(1622年)に笠間藩主に転じ、寛永9年(1632年)
	に死去。その嫡男の長直が笠間藩主の地位を相続したが、長直はさらに正保2年(1645年)に赤穂藩主へと転じる。これが
	赤穂浅野家5万石のはじまりであった。赤穂藩主となった浅野長直は赤穂城築城、城下の上水道の設備、赤穂塩開発などを
	おこない、赤穂藩の基礎を固めた名君として名を馳せた。その長直の嫡男に長友が生まれ、さらに長友の嫡男として長矩が
	生まれることになる。

	<生涯>

	・運命の日まで

	寛文7年(1667年)、浅野長友の長男として江戸に生まれる。寛文11年(1671年)3月に父・長友が藩主に就任したが、
	その3年後の延宝3年(1674)年1月19日に長友は死去した3月25日に長矩が9歳の幼少で浅野家の家督を継ぎ、第3
	代藩主となる。4月7日には四代将軍徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。延宝2年(1675)4月には、
	浅野因幡守長治(備後国三次藩主)の娘阿久里姫との縁組が取り決められた。延宝8年(1680年)8月18日に従五位下に叙
	任し、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられた。
	天和元年(1681年)3月、幕府より江戸神田橋御番を拝命。またこの年の8月23日、15歳にして山鹿素行に入門して山
	鹿流兵学を学ぶようになる。天和2年(1682年)3月には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通
	信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島にて饗応した。なおこの時三島宿で一緒に饗応にあたっていた大名は、の
	ち赤穂藩が改易された際に城受け取り役となる備中国足守藩主木下肥後守公定であった。
	天和3年(1683)2月には、勅使饗応役を拝命し、3月に江戸下向した花山院定誠・千種有能の饗応にあたった。このとき
	も高家吉良上野介義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野はこのときの勅使饗応役については無事務め上げている。
	このお役目の直後、阿久里と正式に結婚。またこの年の6月23日にはじめて所領の赤穂に入り、国家老大石内蔵助良雄と
	対面した。以降参勤交代で一年交代に江戸と赤穂を行き来する。
	貞享元年(1684年)8月の江戸在留中に弟の浅野大学長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出しているが、翌年に素行は
	江戸で亡くなる。元禄3年(1690年)12月の江戸在留中には本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名と
	して活躍した。元禄6年(1693年)12月に備中松山藩の水谷家が改易になった際には、その居城備中松山城の城請取役に
	任じられ、元禄7年(1694年)2月18日に無血で同城を受け取った。その後、大石内蔵助良雄らをここに在番させ、翌年
	に安藤対馬守重博が新城主として入城するまでの1年半の間、浅野家が松山城を管理した。
	また元禄7年(1694年)8月21日、阿久里との間に子がなかったため、弟の浅野長広を仮養子に迎え入れるとともに新田
	3千石を分知して幕府旗本として独立させ、さらに翌年(1695年)12月には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥った
	ため、長広を正式に養嗣子として万が一に備えた。
	しかしその後、長矩は容態を持ち直して、元禄9年(1697年)5月に完治。この直後に火消し大名としての活躍から本所材
	木蔵火番に任じられる。元禄11年(1698年)8月1日に再び神田橋御番を拝命。さらに元禄13年(1700年)6月16日
	には桜田門御番に転じた。
	そして元禄14年(1701年)2月、二度目の勅使饗応役を拝命することとなる。


	・殿中刃傷までの経緯

	元禄14年(1701年)2月4日、浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の饗応役に任じられた。饗応指南役は天
	和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこのとき吉良は高家のお役目で上京しており、2月29日ま
	で江戸に戻ってこなかった。そのためそれまでの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、こ
	の空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と見るむき
	もある。
	一方、東山天皇の勅使柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使清閑寺熈定の一行は、2月17日に京都を立った。勅使の品川
	到着の報告を受けて長矩も3月10日に伝奏屋敷入り。そして11日に勅使が伝奏屋敷へ到着した。まず老中土屋政直と高
	家畠山基玄らが勅使・院使に拝謁し、この際に勅使饗応役の浅野も紹介された。勅使饗応役の任務の始まりである。12日
	には勅使・院使が登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍綱吉に下賜する儀式が執り行われ、13日には将軍主催の能の
	催しに勅使・院使を招くというイベントが行なわれた。この日までは無事役目をこなしてきた。
	運命の3月14日。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式がおこなわれる幕府の一年間の行
	事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。ところが、儀式直前の午前10時頃、江戸城本丸大廊下(通称
	松の廊下)にて、吉良義央が旗本梶川与惣兵衛と儀式の打ち合わせをしていたところへ、長矩が背後から近づいてきて、突
	然吉良義央に対して脇差でもって刃傷に及ぶ。梶川与惣兵衛が書いた「梶川筆記」によれば、この際に浅野は「この間の遺恨
	覚えたるか」と叫んだという。しかし浅野は本来突く武器で有るはずの脇差で斬りかかった為、義央の額と背中に傷をつけ
	ただけで、しかも側にいた梶川与惣兵衛が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見
	て駆けつけてきた院使饗応役の伊達左京亮宗春や茶坊主達たちも浅野の取り押さえに加わり、高家品川伊氏や畠山義寧らは
	吉良を別間に運んだ。こうして浅野の刃傷は失敗に終わった。

	・切腹までの経緯

	捕らえられた浅野は、幕府目付の多門伝八郎らによって取り調べを受けたが、「多門筆記」によると、長矩は「お上に対する
	恨みはない。個人的な遺恨である。」とだけ述べ、あとは吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これ
	に対して多門は長矩を思いやって「老人であるから長くは持つまい」と答えると長矩に喜びの表情が浮かんだと書いている。
	午後一時ごろ、奏者番の田村右京大夫(陸奥国一関藩主)の芝愛宕下にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋
	敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派
	遣した。午後3時頃、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると田村邸
	へ送られた。
	この間、江戸城では将軍幕臣の間で長矩の処断について話し合われていたが、尊皇心が厚いことで有名な徳川綱吉は朝廷と
	の儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即断した。「多門筆記」によると、
	これに多門は反対し、慎重な取調べの必要性を訴えたが、柳沢出羽守保明に退けられたという。ここまで綱吉が浅野の切腹
	を急いだのは、長矩の処分を断行することで自らの朝廷への恭順の意思を示して綱吉生母桂昌院への従一位下賜がお流れに
	ならないようにしようという政治的意味合いもあったようだ。
	田村家でもまさか即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長矩の座敷のふすまを釘付けにする
	などしている。田村邸での長矩は犯罪人であるにもかかわらず煙草や酒を要求したが田村家では茶を飲ませるにとどめた。
	また、湯漬けを二杯所望したことが記録に残っている。その後、長矩切腹の正検死役として庄田下総守安利(大目付)、副検
	死役として多門伝八郎、大久保権右衛門らが田村邸に到着し、浅野に切腹と改易を宣告した。一関藩の『内匠頭御預かり一
	件』によると長矩はこれに対して「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有りが
	たく存知奉り候」と答えたと記している。そして長矩は、午後6時頃、幕府検死役の立会いのもと、田村邸庭先にて磯田武大
	夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。遺骸は高輪泉岳寺に埋葬された。

	「多門筆記」によれば、この際に「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という辞世を残した
	とされるが、他の書に長矩が辞世を残したという記述は全くない。刃傷の状況や、先に犯罪人の身であるにもかかわらず酒
	や煙草を所望したりしているところから歌など詠める精神状態ではなかったものと考えられる。「多門には虚言癖がある」
	という見方はかなり有力であり、この辞世を疑う説も根強い。また『一関藩内匠頭御預かり一件』の方には、「孤の段、兼
	ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を長矩の側
	用人片岡源五右衛門と礒貝十郎左衛門宛てに残したことが記されている。
	また多門の取り計らいで最後に一目、片岡源五右衛門が主君長矩と目通りできたとも言われるが、これも「多門筆記」のみに
	記されていることなので、事実かどうかは微妙なところ。しかし会えたと信じたいところではある。
	遺臣大石内蔵助たちのその後はあまりにも有名であるのでここでは省く。


	・刃傷の原因とは

	長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門伝八郎の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨
	の内容も語らなかった。そのため後世に様々な説があるが、どれも推測の域を出ていない。それらの推測で有名なものには
	次のようなものがある。

	対立の原因

	院使饗応役の伊達宗春より進物が少なかった(諸書)。 
	勅使饗応の予算を浅野家が出し惜しみした(諸書)。 
	赤穂塩の製造技術を吉良に教えなかった(諸書)。 
	吉良が皇位継承問題に介入したため尊皇家の山鹿素行の門下浅野が怒った(元禄快挙別禄)。 
	内匠頭夫人阿久里に吉良が横恋慕した(仮名手本忠臣蔵の影響で広まった)。 
	浅野の美少年な児小姓を吉良が望んだが、浅野が断った(誠忠武鑑)。 
	浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、浅野が断った(聴雨窓雑纂)。

	“イジメ”の内容

	勅答の儀の日の礼服は烏帽子大紋なのに長裃でいいと吉良が嘘を教えた。 
	料理について「勅使様の精進日であるから精進料理にせよ」と吉良が嘘を教えた。 
	増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに吉良は浅野にだけ教えなかった。 
	浅野の用意した墨絵を吉良は「勅使様に無礼である」として金屏風に変えさせた。 
	浅野は勅使を迎える位置についてたずねたのに吉良は教えてくれなかった。 
	しかし浅野はこれで二度目の勅使饗応役であったことを考えれば不自然なものが多い。ただ堀部安兵衛の私記には「伝奏屋敷
	において吉良上野介殿品々悪口致し」という記述があることから墨絵→金屏風説の可能性は若干あるかもしれない。


	・長矩の性格

	長矩は生来短気であったといわれる。吉良の手当てをした栗崎道有の「栗崎道有記録」には、浅野長矩は癇癪持ちであったこと
	を記しているし、また長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病を持っていたともされる。
	幕府隠密が全国の大名の素行を取り調べた“土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)”には長矩について「智有って利発なり。家民
	の仕置きもよろしい故に、土も百姓も豊かなり」と褒める一方で、「女色好むこと、切なり。故に奸曲のへつらい者、主君の
	好むところにともなって、色能き婦人を捜し求めだす輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄をむさぼり、金銀に
	飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老に任す」、つまり「長矩は女好きであり、い
	い女を献上する家臣だけを出世させる。政治は子供の頃から家老に任せている」とも書かれている。
	また直接は関係ないのだが、延宝8年(1680年)6月26日には、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父に
	あたる内藤和泉守忠勝も永井信濃守尚長に対して刃傷に及んで、切腹改易となっている。長矩の母方の血は激情しやすい遺伝
	子なのかもしれない。
	史実の浅野長矩は、忠臣蔵のイメージとは程遠い暴君であった。赤穂は現在でも塩が有名な土地であるが、長矩は塩を専売制
	として売買を厳しく統制し、重税も相俟った過酷な収奪のゆえに、領民は長矩を憎悪することはなはだしかった。彼が切腹し
	たことが伝わると、領民たちが赤飯を炊いて祝ったと伝えられている。




	瑤泉院 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日))は元禄赤穂事件で有名な浅野内匠頭長
	矩の妻である。夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。その前は阿久里と称していた。
	初代備後国三次藩主の浅野因幡守長治が晩年に生んだ三女で、父の死後、その跡を継いだ浅野式部少輔長照の養女となった。
	母は浅野長重(浅野内匠頭長矩の曽祖父)の娘。 はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、さらに阿久里姫と改名した。
	三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たるが、この落合勝信は生涯彼女に仕えることになる。
	生まれてすぐに播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩との縁組が進められ、1677年(延宝5年)9月に婚約が成立、1678年(延宝6年)
	4月9日には結婚に備えて長矩の屋敷へ移っている。1683年(天和3年)1月に婚儀が執り行われて4月9日に正式に長矩室
	となった。時に阿久里10歳、長矩17歳。以降、殿中刃傷までの18年間、長矩と夫婦生活をいとなんだが、子には恵まれ
	ず、1695年(元禄8年)12月には長矩の弟浅野大学長広を養子としている。

	1701年(元禄14年)3月14日、夫長矩が吉良上野介に殿中刃傷に及び、切腹・藩改易となったため、16日には赤坂
	にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られていった。落飾し寿昌院と称して夫の菩提を弔ったが、のちに将軍徳川綱吉の生
	母だった桂昌院と「昌」の字が同じであることを憚って瑤泉院と称し直している。
	討ち入り直前に大石内蔵助が瑤泉院のもとに赴くという「南部坂雪の別れ」は映画やテレビなどでお馴染みだが、事実ではな
	い。浅野家改易後に大石内蔵助が彼女に拝謁したのは討ち入りからだいぶ前の1701年(元禄14年)11月14日の一度
	のみであった。「南部坂雪の別れ」は、大石内蔵助が瑤泉院の結婚時の持参金を、浅野家の家名再興や討入りの運動資金とし
	て使用していて、討入り直前にその収支決算書を瑤泉院の用人落合勝信に提出したことがヒントになっているようである。
	赤穂浪士四十七士が吉良を討ち取って幕命により切腹したのち、彼女は伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児たち(吉田伝内・
	間瀬定八・中村忠三郎・村松政右衛門の四人)の赦免運動に尽力し、1706年(宝永3年)8月に将軍家綱の二十七回忌に
	あたって三人の赦免を実現させた(間瀬定八は赦免の前年大島で病死)。1714年(正徳4年)三次浅野家下屋敷で死去。
	享年41(享年46説あり)。夫浅野内匠頭と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られた。




	元禄14年(1701)3月14日、勅使接待役浅野匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に刃傷におよび、即日一関藩
	主田村右京太夫の屋敷で切腹を命ぜられた。浅野家の断絶に対して吉良にはおとがめがなかったことから、喧嘩両成敗の原
	則に反するとして、家老大石良雄ら四十七は翌年の12月14日吉良邸に討ち入って主君の遺恨をはらし、翌日泉岳寺の主
	君の墓前に報告した。自首した46人は4家に預けられ、1703(元禄16)年2月4日に切腹を命ぜられた。(寺坂吉
	右衛門は、討ち入り後、大石の命で国元への報告のために別行動をとった。)




	赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬された。ただ、間新六の遺体は遺族が引き取って
	いった。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑶泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のち江戸に戻って自首したが赦さ
	れ、麻布・曹渓寺で83才の天寿を全うした。現在も曹渓寺に眠っている。泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一
	緒に建立されたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものである。また、いわゆる47
	士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓がある。
	(明治4年(1767年)9月建立)したがって泉岳寺の墓碑は48である。

	<寺坂吉衛門>
	討ち入りの時は36歳。一党引き上げまで行動を共にしたが、途中内蔵助の命を受け瑶泉院殿及び京都、赤穂、亀山、姫路
	等一党の遺族、関係者を歴訪して顛末を報じて後に江戸に戻り自首したが、時効であると取り上げられず余生を送った。
	遺骸は右曹渓寺に葬り戒名は「節岩了貞信士」泉岳寺の墓は慶応4年6月供養のため建てられた。

	遂道退身信士 吉田忠左右衛門組内足軽 寺坂吉衛門  行年83歳
 
	<茅野三平>
	茅野三平の供養墓と言い伝えられている。討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い、討ち入り前に切腹した萱野三平を
	偲んだ供養墓。
	
	刃道喜剣信士 中小姓十二両三人扶持 萱野三平 自害 行年28歳




	吉良義央の首級を挙げた浪士らは吉良邸に近い本所の回向院に入ろうとしたが、同院の僧に拒まれ、やむなく芝の泉岳寺を
	めざした。泉岳寺は「桶狭間の戦い」(永緑3年=1560)で討死した今川義元を供養するために徳川家康によって建立され
	たもので、曹洞宗の江戸における本山であり、浅野氏など大名数家の菩提寺でもあった。




	浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供えた浪士らは、同寺で幕府からの指示を待った。泉岳寺での浪士の行動については、
	隣寺の承天なる僧がまとめたという『泉岳寺口上(承天覚書)』という書が一般には知られているが、この書は明らかに偽
	書だといわれ、この時の浪士らの行動を比較的正確に伝えているのが、当時、同寺で修行中であった僧・自明(月海)の記
	録『自明話録』である。自明は浪士らに食事や策を給仕するかたわら、一人一人に頼み込んで詩歌などを書いてもらった。
	浪士らは食事を摂り、仮眠や歓談をしたりしたが、風呂を勧めても米沢藩からの追手を憂慮して入らなかったそうである。
	ただ、この『自明話録』については異本も多い。
	吉良邸から泉岳寺へ向かう途中、大石内蔵助は堀部安兵衛の進言を容れて副将の吉村忠左衛門と富森助右萄門とを大目付・
	仙石伯嘗守久尚邸に派遣し、討ち入りの顛末を報告させた。この前後に、寺坂吉右衛門の姿もみられなくなっていたから、
	泉岳寺に入った浪士は44名ということになる。久尚から幕府に通報されましたが、泉岳寺からも浪士らが入山したことが寺
	社奉行に届けられた。幕府からは奉行、目付が泉岳寺に赴き、仙石邸への移動が指示された。この時に仙石邸に向かった人
	数(44名)や行列の模様については請書に誤謬が多い。『自明話録』によれば、浪士らは泉岳寺の僧らに礼を述べた後、大
	石父子を先頭に、大部分は徒歩で仙石邸に向かっている。仙石屋敷は、芝西久保明舟町にあった。その屋敷跡には、浪士が
	足を洗ったという井戸の跡が残っている。
	その後浪士らは、肥後熊本藩(細川氏)に17人、伊予松山藩(松平氏)に10人、長門府中藩(毛利氏)に10人、三河岡崎藩
	(水野氏)に9人がそれそれ預けられた。

戒名

役職

石高

 氏 名 

 享年 

忠誠院刃空場浄剣居士 家老 千五百石 大石内蔵助 45才
刃仲光剣信士 足軽頭郡奉行 二百石 吉田忠左右衛門 63才
刃峰毛剣信士 足軽頭 三百石 原 惣右衛門 56才
刃勘要剣信士 側用人 三百石 片岡源五右衛門 37才
刃誉道剣信士 大目付 二百石 間瀬久太夫 63才
刃以串剣信士 京都留守居 百五十石 小野寺十内 61才
刃泉如剣信士 吟味奉行馬廻 百石 間 喜兵衛 69才
刃周求剣信士 側用人 百五十石 磯貝十郎左衛門 25才
刃毛知剣信士 江戸留守居 隠居 堀部弥兵衛 77才
刃随露剣信士 馬廻 二百五十石 近松勘六 34才
刃勇相剣信士 馬廻 御使役 二百石 富森助右衛門 34才
刃竈空剣信士 馬廻 二百石 潮田又之丞 35才
刃破了剣信士 馬廻 百五十石 早水藤左衛門 40才
刃広忠剣信士 馬廻 二百石 赤垣源蔵 35才
刃察周剣信士 武器奉行馬廻 百五十石 奥田孫太夫 57才
刃法参剣信士 馬廻 百五十石 矢田五郎右衛門 29才
刃寛徳剣信士 武具役馬廻 百五十石 大石瀬左衛門 27才
刃上樹剣信士 部屋住 内蔵助長男 大石主税 16才
刃雲輝剣信士 馬廻 二百石 堀部安兵衛 34才
刃露白剣信士 祐筆馬廻 百石 中村勘助 45才
刃水流剣信士 馬廻代官 百石 菅谷半之丞 44才
刃観祖剣信士 浜辺奉行馬廻 二百石 不破数右衛門 34才
刃通普剣信士 御絵図役馬廻 百五十石 木村岡右衛門 46才
刃道互剣信士 馬廻 百石 千馬三郎兵衛 51才
刃回逸剣信士 物頭 二百石 岡野金右衛門 24才
刃電石剣信士 中小姓蔵奉行 十両二石参人持 貝賀弥左衛門 54才
刃無一剣信士 腰物方 二十五人扶持 大高源五 32才
刃袖払剣信士 勘定方中小姓 二十石五人扶持 岡島八十右衛門 38才
刃当掛剣信士 部屋住 忠左衛門嫡男 吉田沢右衛門 29才
刃性春剣信士 中小姓 十両参人扶持 竹林唯七 32才
刃鍛錬剣信士 扶持奉行中小姓 二十石五人扶持 倉橋伝助 34才
刃有梅剣信士 扶持方奉行広門役 二十石五人扶持 村松喜兵衛 62才
刃可仁剣信士 中小姓 七両参人扶持 杉野十平次 28才
刃量霞剣信士   十石参人扶持 勝田新左衛門 24才
刃補天剣信士 金奉行中小姓 十石参人扶持 前原伊助 40才
刃模唯剣信士 部屋住 喜兵衛次男 間 新六 24才
刃風颯剣信士 部屋住 十内養子 小野寺幸右衛門 28才
刃澤蔵剣信士 部屋住 喜兵衛嫡男 間 十次郎 26才
刃湫跳剣信士 部屋住 孫太夫養子 奥田定右衛門 26才
刃擲振剣信士 部屋住 故長助嫡男 矢頭右衛門七 18才
刃清元剣信士 部屋住 喜兵衛嫡男 村松三太夫 37才
刃太及剣信士 部屋住 久太夫嫡男 間瀬孫九郎 23才
刃響機剣信士 徒士横目 五両三人扶持 茅野和助 37才
刃常水剣信士 焔硝蔵奉行 五両三人扶持 横川勘平 37才
刃珊瑚剣信士 台所小役人 十五両三人扶持 三村次郎左衛門 37才
刃利教剣信士 徒士横目 五両三人扶持 神崎与五郎 38才



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