SOUND:across the universe
国分寺友の会・七夕サミット
勢山社・見学記
2006.7.7 大仏師工房
「国分寺友の会」のメンバーである、渡辺勢山(せいざん)さんの工房を見学する機会にめぐまれた。東京からきた同じ
く同会のメンバーであるコマツさんと一緒に、梅雨の合間の七夕の日、半日、渡辺さんに工房をご案内いただいた。
勢山さんは「大仏師」という、日本でも数人しかいないと言われる仏像彫刻師である。これまでに納めた作品の主なもの
を勢山さんのHPから拾ってみると、
大 磯 妙大寺 大磯の妙大寺に一尊四士像が奉安
世田谷 豪徳寺 豪徳寺三重塔に招福猫児観音像などが安置
東松山 曹源寺 東松山・曹源寺の「はなまつり」を訪ねて
足 利 善徳寺 足利の善徳禅寺に美しく生まれ変った薬師如来
栃 木 太山寺 大平山太山寺の古佛が美しく
八王子 観栖寺 八王子の観栖寺に美しいお堂と佛さまが誕生
焼 津 全珠院 日本最大の千手千眼観音さん完成披露会
などとなっている。勿論他にもたくさんあるのだろうが、このうち世田谷の豪徳寺・三重塔の塔建設現場の見学にもお招
きをいただいて参加したことがある。(歴史倶楽部下段の「江戸の旅」参照。)

勢山さんの工房がある山の中腹は今開発ブームで、廻りは別荘やコテージ風のロッジのような家々でいっぱいである。そ
の中に勢山さんの工房が建っている。想像していたよりもデカイ。大きな仏様などを作るにはやはりこれくらいの建物が
要るのだろう。3階建てで、数人のお弟子さん達がここに住んでいる。作業が佳境に入ったときなど、勢山さんも時々こ
こに泊まるらしい。


修学旅行生など、団体の見学客を案内するため大型バスまである。お弟子さんたちにも大型免許を取得させているそうだ。




数日後に関東のどこかのお寺に納品するという観音様があった。汚れないようにラップが巻いてあって、納品直前だった
のではないかと思うが、勢山さんはラップをはすして完成形にしてくれた。手や光背(こうはい)などは後から付けるの
か。


柳の葉を手に持っていて、「楊柳観音」という名前の観音様である。

神々しいお姿に見とれるコマツさん(上中)。コマツさんは還暦を過ぎてからスキューバダイビングに凝り出した行動派
のお人だが、歳相応に仏様にも興味があるようだ。仏様を前にして、自分の半生を悔い改めているのかもしれない。

工房裏の、原木の貯蔵場所を案内してくれる勢山さん。

勢山さんが使用する原木は木曽檜で、まだ山中に立っているときに買って、名古屋へ運んで来る。筏に組んで、熱田神宮
近くの貯蔵池にしばらくおいた後ここへ運んでくる。ここでも数年寝かせる。乾燥し、ひずみも無くなって彫刻に使用で
きるようになるまでには何年もかかるのだ。ここにおいてある原木が、いわば勢山さんの「原料」だが、これだけでもン
千万円だそうだ。フイェーッ!

大型の仏様を製作するにはもちろん工具も大型のものが要る。まるで製材所のような機械が並んでいる。勢山さんに言わ
せると、「結局、ドイツ製が最高ですね。」との事。日本製に比べて小回りがきいて、使う方の身になって製造してある
そうだ。木の文化に長い歴史のある日本でも、製材機械はドイツにかなわないのか。


これは修復を依頼されている南北朝の頃の仏像。バラバラになっている。

多くの仏像は「寄せ木造」で作られている。1本の木を掘り進んでいく「一本彫り」と違って、多くの木の部品を組み合
わせて最終的に一つの作品が完成するこの手法は、平安時代の定朝(じょうちょう)の時に基礎ができた。「この手法が
あるから、現代のように大木が無くなってしまった時代でも大きな仏像などが作れるのです。」と勢山さんも言う。
「完成したときの木目や木の色合いなどを、後から見てもわからないように考えて組み合わせるので結構大変です。」

仏像やその彫刻方法、寄せ木造りの起源などに興味を持ったので、HPでちょっと検索してみたらすごいページがあった。
<仏師(ぶっし)>
正式名称は造仏師と言い、623年に製作されたとされる法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背に、司馬鞍作首止利仏師(しばのく
らつくりのおびと) と銘が入っているのが最初である。白鳳・天平時代には、これらの佛師たちは官僚であり、建立され
る官寺の造仏に派遣される形態をとっていたが、平安時代以降は各寺院が佛師を採用して独自に像佛所を持つようになる。
当初は僧自身が造佛や仏画を手がけ佛師僧などと呼ばれていたが、康尚(こうじよう・定朝の父)を境に職業佛師(僧籍に
は在る)が活躍するようになる。
職業佛師が独立し独自の工房を持つ様になり、定朝の頃には大仏師・小仏師という呼び名が定着する様になる。東大寺大
仏の造立を担当した国中(連)公麻呂は大佛師の称号で呼ばれたが、これは敬称であり平安以後の大仏師は正式な資格と認
知されたものである。
また寄木造の発達等から流れ作業や、東大寺の金剛力士像に代表される多くの部品を集合するアッセンブリ―産業の始ま
りとも言えるシステム化は、米国フオード社のT形開発に先んずる事800年以上も前に行われ、20世紀に於いて日本
の工業立国として栄えた礎を見る思いがする。
<司馬鞍作首止利(しばのくらつくりのおびととり)> 生没年不詳
通常は止利(鳥)仏師と呼ばれている。出目に諸説があり定かでは無いが、百済もしくは南梁からの渡来系の子孫と見られ
鞍作止利とも呼ばれており、工芸関係に於ける技術者集団の中心的存在の人物と推定でき、父多須奈は仏師として坂田寺
を建立したとの伝もある。
蘇我一族と関係が深く元興寺(飛鳥寺)の銅像(飛鳥大仏)と繍佛を制作したとされる、しかし光背裏に刻銘がある法隆
寺釈迦三尊と比較して久野健氏の別人説が正しいと思われる。その他止利仏師の作とされる像に東京国立博物館の四十八
体仏中の如来坐像や法隆寺伝法堂の薬師如来像などがあるが定かでは無い。
また父多須奈は仏師として坂田寺を建立したとの伝もある。
<定朝(じょうちょう)> 不詳〜1057
11世紀前半に活躍した大仏師で日本彫刻史上屈指の名匠とされる。仏師僧康尚(こうじよう)の子とされ1020年康尚と
共に藤原道長発願の無量寿院(法成寺阿弥陀堂)の9体の丈六阿弥陀像を制作、特に藤原一門の造仏に多く関与した。
1022年法成寺造仏の功により仏師としてはじめて僧綱位の法橋を受ける。1048年には興福寺造仏の功労で法眼に
昇進している。1053年に平等院鳳凰堂の阿弥陀如来座像を像造したが、法界寺など多くが失われ定朝唯一の確実な現
存作品である。仏像の需要が急増した平安時代に流れ作業が可能な寄木造の採用で量産を可能にした。特徴として膝は広
く低く安定感を示し衣文線も流れる様に浅く平行に流すという和様式を完成した。この様式は定朝様と呼ばれて長く日本
の彫刻の規範とされていた。
以上、「古寺散策らくがき庵」から転載させて頂いた。作者の堅田さんに深謝します。

そうか、勢山さんは「大仏師」だからエラいんや。ホンマやったら私などは近寄れない存在なのかも。でも勢山さんは
その性格のせいかザックバランで気さくだし、タメ口をきいても怒らないし、いっぱい冗談も言う。時代かもしれない
が、あるいは人間のできた「大仏師」かもしれない。(と、ちょっとヨィショしすぎ? かな。)
内部を刳りぬいてあるのは、制作時に木の乾燥度合いを均一化させるためだそうだ。頭部だけでも下のように3つの部
分を組み合わせる。これがぴったり合うのだからすごい。

それにしても、こんなにバラバラになった南北朝期の仏像が、一体どんな風に修復されるのだろうか。完成後の姿を是非
見てみたい。

勢山さん、そう思うのは私一人ではなく読者の皆さんも同じ思いじゃないかと思うので、修復完了時には是非その写真を
送ってください。ここに掲示したいです。


上左は仏像の原型。大型の仏像の場合、これらをまず作って、部品部品をそれぞれ拡大して製作するわけだ。その後合体
させる。上右は江戸時代の駕籠。こんなのも修復するんだなぁ。


上はお弟子さんの一人が作っていた観音様。なんと色っぽい。あたらしいVサインかと思ったらちゃんと仏教の流儀にあるという。


いろんな社寺からの「仏像製造所の免状(?)」。「宮内庁御用達」のようなものかな。


ここらも修復中の仏像等々。額まで修復する。



お弟子さん達が座ってここで小物の彫刻作業をやっていた。小物は大物の製作が入るとどうしても後回しになるそうで、
大物製作がとぎれている今、それまでたまっていた依頼をこなしているのだそうだ。それにしても旨いもんだ。私もバー
ドカービングで鳥の彫刻をやっていたが、細部のところがどうしてもうまくいかずロクな作品はできなかったが、ここの
仏様たちはみんなきれいだ。

お弟子さん達の中に、私と同じ会社を数年前に辞めていた人がいたのには驚いた。もっとも、私の会社は合併で今の会社
になったので、彼がいた頃には違う会社ではあったのだが。それにしても通信会社から仏師になるとは。何か思うところ
があったのだろうな。若い兄ちゃんの一番の原因として考えられるのはまず「失恋」だが、立ち入ってそこまでは聞けな
かった。

上は、冒頭で見た楊柳観音のもう一対の仏様。

勢山さんはいろんなものの製作を引き受けているが、下はある養豚団体(自治体?)から依頼された豚の像。馬も彫るそうだ。


コーヒーをいただきながら勢山さんから寄せ木造りなどのレクチャーを受ける。


この仏様も原型。実物は下右の写真のように大きい。勢山さんが光背の上に乗っている。


寄せ木造りはどうやっって作るのかを、資料を見ながら教えて貰う。なるほど、なるほど。おもしろい作業だが大雑把な
私には難しそうである。「お弟子さんはやはり一人前になるのは5年10年とかかりますか?」という質問に勢山さんは、
「いや1年経ってダメなもんは何年やってもダメですね。」と簡単。「そんな時間を費やすより違う道を探して貰った方
がいいですね。」うう〜ん、そうなんや。もう悠長な時代じゃないもんなぁ。


下左は工房の玄関口にあった、曼荼羅を模した陶器の壁飾り。上中央には大日如来があったのだがとれている。自宅にも
同じものがあって、こっちにはちゃんと大日如来様が鎮座していた(下右)。


コマツさんが「お城のような」と形容した勢山さんの自宅。奥の二階建てが奥様の載方(さいほう)さんの工房。仏像の
着色はここで行われる。載方さんも絵画教室を開いていて、多くのお弟子さんたちがここでレクチャーを受ける。載方さ
んは他にも大津市の文化教室などで仏画の講座を引き受けたりしている。
この日は「中外日報社」という日刊の仏教新聞の高橋記者も訪問していて、高橋さんも入れて蹴上の老舗のうなぎ屋さん
で会食となった。日刊で仏教の新聞があるとはしらなかった。高橋さんにはもっぱらカメラマンをお願いするはめになっ
てしまった。

渡辺さんは神奈川県藤沢市の出身である。小学生の時、新宿の小田急百貨店で開催されていた仏像彫刻展で、ある仏像を
見てその美しさに目覚めたのだそうだ。仏像を好きな小学生!確かにちょっと変わってはいたのだろう。その後中学の修
学旅行で奈良へ行き、薬師寺でまた薬師仏に魅入られた。バスの集合時間を忘れて見入っていたというから驚く。こうい
う情熱がその後の「大仏師」を産むのだ。
大学へ入ったが仏像への思い断ち切れず、とうとう中退して美術学校へ進む。その後、京都蹴上の松久朋琳(ほうりん)
仏師の弟子になり、ここで10年の修行の後独立した。奥さんの載方さんも仏画家だが、この弟子時代に知り合ったのだ
そうだ。

左から、私、コマツさん、勢山さん、奥様。
楽しい会食だった。接待や義理で参加する会食に比べると、気心が知れて共通の話題がある人たちとの会食は何倍も楽し
い。ここは蹴上の古くからのうなぎ屋さんで、私も前の道は琵琶湖に行くとき何回も通ったが、裏にこんなところがあっ
たなんて全然知らなかった。酔いに任せていろんな話をした。仏像、仏教、国家、教育などなど。もう内容は殆ど覚えて
いないが、それでも勢山さんやコマツさんとは波長が同じだなと感じた。
戦後教育で自然科学を学んだら、理論的に、死後の世界や天国などが物理的に存在しているという者はいないだろうと思
う。人は死んだら個体として消滅するのであり、霊魂やオーラが存在して現世に何らかの影響を及ぼす事などありえない。
しからば、人はなぜ仏様の像を見たら手を合わせて拝むのか。キリスト教徒はなぜ毎日曜ごとに教会に集まって歌うのか。
人が人しかいない世界が全てだとしたら、目いっぱい金儲けをして、法律など気にせずに、好き放題やって死んでいくの
が一番のはずではないか。もっとも、最近はそういう傾向があるにはあるが、それでも大多数の人々はそうではない、金
や権力や名声を超えたものの存在を信じたがっている。
そうなのだ。人々はそういう人智を超えたものの存在がほしいのである。それが無ければ、人間は人間たり得ず、ただの
少し賢い動物と同じである。人類には「神」が必要なのだ。「仏様」に天から見ていてほしいのである。本当は、それは
とりもなおさず自分の心の中にあるのであるが、それを認識・再確認するために仏像や教会は必要なのだ。
もし世界には自分しか居ないのだとしたら、自分が死んだら世界は終わりだとしたら、そもそも「軍隊」などという組織
はあり得ない。軍隊では十中八九、自分の死が前提だから、「死」を超えて守るべきものの価値をどこかに見いだしてこ
そ、人は軍隊に参加できる。それは家族であったり国家であったり、人によってさまざまかもしれないが、死を超えたも
のの存在を信じるからこそ死ねるのではないか。そこには自分以外のものの存在がある。
人は仏像を目の前にして、天国やあの世を考えるのではない。今の自分を考えるのである。「自分、ちゃんと生きてるか?
お天道様に恥ずかしくない生き方をしているか? 精一杯生きたか、やりたいことはもう無いのか?」
人が自分だけで生きてるのではなく、それを超えた存在があって自分もあるのだという事を思い知るために、特に我々日
本人には仏像が必要なのだろう。それが仏と向き合うということなのかもしれない。
酔いに任せてそんな事を喋っていたような。

ほんとは今日、私のWIFEも同行する予定だったのだがヤボ用で参加できなかった。後で様子を聞き悔しがっていた。鰻うまかったなぁ。
渡辺勢山さん製作の仏像

仁王尊

達磨大師

弁才天女





「勢山社」では今若い新人を求めているそうです。仏像彫刻に興味がある方、仏師になりたい方。一度以下のアドレスへ
メールを送ってみてください。あたらしい世界が開けますよ。wseizan@yahoo.co.jp
久保田夫妻・大仏師工房見学記
2006.10.29 琵琶湖畔・勢山社にて
国分寺友の会の久保田さんが、近畿圏へ奥さん同伴で旅行に来た。東京から車で6時間かかったそうだ。いき
なり勢山さんの工房を訪ねると言うので、私も家内を連れて表敬に訪れた。嫁半は前回見逃した事を悔やんで
いて、「今度是非連れてって。」と言っていたのでいいchanceだったが、午前中同窓会に和服で出席し、その
ままここへきた。しかし仏様の前では和服や作務衣(さむい)が似合うような気がする。

原型を粘土で作ることもある。粘土の方が細かいところを描写できるし、すぐ作り直すことができる。これに
正確に線を入れて木材へ転写して行くのである。曲がった物体に正確に線を引いていく道具も考案してあった。

下左は、粘土の原型から木彫りにした制作中ものが後ろにある。日曜出勤していたお弟子さんが彫っていたの
だが、必ずしも粘土の原型通りにならなくてもいいそうだ。そのあたりは仏師のさじ加減の範疇なのだろう。

上下の右側は達磨大師を制作中。下左の千手観音は、本物は高さが数mになるそうだ。


下右の酒のビンのようなものは、隣の千手観音様が持つ備品の一つ。その脇は、その千手観音様が座る座卓の
蓮の花びら(の1枚)。デカイ。


上は修復を頼まれている群馬県(埼玉県だったかな?)の仏像群。

上2つの仏像はよく見ると何か違う。右側は、珍しく一木造りである。いずれもすばらしい出来だ。左の仏像
などは、じっと見ていると、その内この仏像に恋をしてしまうのではないかという気になる。赤江瀑の世界や
ね。

勢山さんの究極の仏像は、中空に浮かんでいるのだそうだ。雲に乗って遙かな天空から地上へ降臨してくる。
中国は敦煌の、「莫高窟(ばっこうくつ)に描いてある「飛天」に似てますね」、としばらく天女談義。しか
し空に浮くとなると物理的な仏像では難しい。「そうなんですよ、究極はCG製作のようなもので、レーザー
で空に浮かべる事になるかもしれないですね。」と勢山さん。そうなんか。それで勢山さんはPCや3G技術
に興味があるんや。現代の仏師はそのうち「IT仏師」になるのかもしれない。エラいもんやなぁ。

金箔塗りの行程も講義して貰う。0.05mmという薄い金箔は、指の上でもんでいると溶けて皮膚にしみこむのか無くなってしまう。

仏様はほんとに見ていて見飽きない。じっと見ているとどうしても色々なことを考えてしまう。これが「仏の力」なのか。

上下2枚の写真は、久保田さんが「国分寺友の会」の掲示板に投稿したモノを転載した。嫁半たちも嬉しそうである。


前回取れていた玄関の曼荼羅タイルの仏様は、今回ちゃんと鎮座していた。
鴨川サミットは、 投稿者:筑前 投稿日:10月30日(月)07時19分3秒
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時間が遅くなったので割愛しました。東京から運転してきた久保田さんに、大津からまた京都往復はつらそう
だったので、近場の大津で食事しました。浜大津港で船を見ながら台湾料理を食べました。遅くなりましたが、
seizanさん、ありがとうございました。お疲れの所、またまた、長時間説明してもらって、感謝です。
嫁藩も、久保田さんの奥様も大変感激していました。「いいねぇ、ああいう才能は、うらやましい。」としきり
に、彫刻技能をうらやましがっていましたよ。
久保田さんは、今日大阪でお一人拾って、福井県の芦原温泉へ向かうそうです。
久保田さん 投稿者:seizan 投稿日:11月 2日(木)03時20分24秒
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疲れたら、温泉に入り、おいしいもの!で栄養旅行。理想のゆったり旅行ですね。気を付けて、旅を続けて下
さい。ご報告の旅日記楽しみにしています。
見学会報告-2 投稿者:久保田 投稿日:11月 2日(木)20時15分14秒
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明日から写真の整理に入らなくっちゃ。筑前さん、大津の中華料理も美味しかったですね。わざわざ大阪から
出てきていただきありがとうございました。奥様にもお礼をお伝えください。
いいなあ 投稿者:コマツ 投稿日:11月 3日(金)09時18分35秒
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久保田さんお帰りなさい。奥さんとのドライブ旅行、すてきですね。いいなあ。久保田、井上両夫人のご尊顔
を拝し、まことに喜ばしい限り。いや、うらやましい限り。
そう言えば、去年の今日は鶴見の総持寺で勢山展が開かれた日でしたね。1年が経つのがなんと早いことか。
まさに光陰矢の如しです。
邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET / 大仏師工房見学記