Music: Hey jude


音無川を遡る
2006年9月



	かって部下だった宮崎君が大阪から出張してきたので、昨夜は元同僚達と飲んだ。例によってどんちゃん騒ぎで、新宿
	の夜を満喫した。十数年ぶりくらいの新宿だったが、すっかり様変わりしていて、黒人やアラブ人みたいなポン引きの
	お兄ちゃん達には驚いた。また店にも外国人のお姉ちゃん達が多い。しかも、来日して数ヶ月というのに、殆ど日本語
	がペラペラである。大阪でもそうだが、彼女らの適応性には全く驚く。
	お開きになって宮崎君に「ホテルどこ?」と尋ねると「いや、井上さんとこ泊まろうと思って。」ときた。王子は新宿
	から近い。タクシー代も3千円くらいだ。上布団を床に敷いて、私はベッドで、宮崎君は床に、狭い部屋で重なるよう
	にして寝た。まだ暑くて良かった。翌朝目覚めて、大阪へ帰る宮崎君に、音無川周辺を案内した。というより、私が行
	きたかったのに付き合わせたと言う方が正解かも。宮崎君は二日酔い気味で、早く大阪へ帰りたかったのかもしれない。




	<音無川>
	扇屋の脇を流れる川で、上流は滝野川、そのまた上流が石神井川と名前がかわる。落語「阿武松」の板橋宿の名の起こ
	り「板橋」が掛かっていた川が、この川である。石神井公園を経て東京都の最西・奥多摩まで続いている。下流はすぐ
	そこの隅田川に合流している。扇屋の前の川は親水公園で江戸時代をイメージして昭和63年に創られたもので、せせ
	らぎも湧き水を利用してポンプによって循環している。本流はその前の都電が走る明治通りの下をトンネルで抜けて、
	隅田川に合流する。江戸時代には渓谷の美しさは素晴らしく、いくつかの滝が流れ落ち、川の水は綺麗でその水で点て
	たお茶は最高であったと言われている。




	<音無親水公園・武蔵野の路石神井川コース(石神井川遊歩道)>
	音無川(石神井川:二十三ヶ村用水・下郷用水)は、音無橋下の石堰で分流し、暗渠となって鉄道下を越え、越えたと
	こから線路に沿って東南に流れ、田端駅前を通り、根岸・三ノ輪を経て、思川と今戸堀となり隅田川に流れ込んだが、
	50年代までに総て暗渠化された。音無親水公園は昭和54年の改修工事で完成し、江戸以来の滝野川名物楓(かえで)
	の植込みもある。
 

音無川に架かる音無橋。ここが明治通りの終点近くで、これを渡ってまっすぐ行くと池袋・新宿である。




クリックすると、音無(石神井)川流域案内が見れます。









金剛寺



	金剛寺  別名:紅葉寺(滝野川城址)

	王子神社から徒歩10分。入場無料。江戸時代は紅葉のスポットで、中世の滝野川城址という伝承もある。10分も
	あれば境内を見て回れる。不動明王を本尊とする、真言宗豊山派(山号は滝河山松橋院)の寺院で、正式名が金剛寺。
	江戸時代には滝野川八幡神社の別当寺だった。紅葉寺は明治時代38年、昭和20年、戦災で火災にあっており、本
	堂はその時に全焼してしまった。
	金剛寺のある立地は石神井川に三面を囲まれた立地になっており、特に堂宇の背面(西側)は大きく落ち込んだよう
	な地形になっており、古くから要害として知られた場所のようである。このため豊島氏一族の滝野川氏が城館を築い
	た場所とされるが、当然、現在ではまったく城址の面影はない。金剛寺創建後、江戸時代には徳川吉宗が付近一帯に
	100本のカエデを移植し、通称「紅葉寺」として名高かったようだ、こちらも全く見る影がない。
	なお、石橋合戦で敗れた頼朝が再挙兵し、陣を張ったところともされ、その時に戦勝を祈願した松橋弁天や弘法大師
	が彫ったとされる不動明王、七福神の石仏、宝永7年(1710)製作の風神雷神像など、多くの文化財がある。
 

石柱には「紅葉寺」と彫ってある。



北区教育委員会の、源頼朝の布陣伝承地の立看板。

	治承4(1180)年8月、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れました
	が、上総・下総を経て隅田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向い、ここから鎌倉に入って政権を樹立し
	ます。この途次(とじ)の10月、頼朝は軍勢を率いて瀧野川の松橋に陣をとったといわれます。松橋とは、当時の金
	剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って松や楓(かえで)があり、
	深山幽谷(しんざんゆうこく)の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀
	られていましたが、頼朝は、弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられ
	ます。金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これは、この地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由
	来するからです。 (北区教育委員会)



境内には石仏が幾つもある。読めない石碑を、宮崎君が必死に読もうとしている。








	本堂の右前には鉄筋コンクリート製の赤い柱と白い壁の弁天堂が(中には,極彩色に塗られた高さ60cm程の弁財天
	像が祀られていた)。本堂の右には向かって左から,恵比寿天,大黒天,福禄寿の石像が,その向い側には左より
	昆沙門天,布袋尊,寿老人の石像があるた。いずれも、高さ50cm程の古い石像である。寺前には「旧蹟 滝野
	川七福神」と書かれた石碑があるので、おそらく昔からここに七福神の石像を集めたものだろうと思う。



 

上左は七福神。境内に並んでいる。




	富士山は神のやどる霊山として古来から人々による崇拝による信仰をあつめてきましたが、登拝(とはい)すると数
	々の災難から逃れられるとも信じられ、富士山参詣による信仰が形成されてきました。冨士講は、これらを背景に
	江戸時代、関東地方を中心とする町や村につくられた信仰組織です。
	ここにある富士山をかたどった記念碑は冨士講の先達として活躍した安藤冨五郎の顕彰碑です。碑の表側には参と
	いう文字を丸でかこんだ講紋および「三国の光の本(もと)をたちいてて こころやすくも西の浄土へ」という天保
	8年(不明)月12日に没した伊藤参翁の和歌の讃が刻まれています。裏側の人物誌によれば、冨五郎は宝暦5年(1755)、
	滝野川村に生れたが,青少年時代から冨士信仰の修行をおこない、丸参講(まるさんこう)という講組織をつくって
	冨士信仰をひろめるのに努力した。その甲斐もあってか、中興の祖である食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子の小泉文六
	郎から身禄が姓とした「伊藤」という姓を許されて伊藤参翁と称した。富士への登山・修行は五十回におよび、冨
	士信仰にかかわる多くの人々から敬われ、80才を越えてもなお、顔立は早春に野山の枯草を焼く野火や紅色の雲の
	ように活気に満ち、嘘や偽りのない美しさを保っていたとあります。
	冨五郎が生きた時代、冨土信仰は、政治・経済の混乱や封建的な身分制秩序による苦難から人々が救われるには男
	女の平等や日常生活のうえでの人として守るべき規範を実践し、これによって弥勒の世を実現するべきだという信
	仰思想に触発され、人々のあいだに急速にひろまりました。 (北区教育委員会)



富士講先達の「安藤冨五郎顕彰碑」







松橋弁財天洞窟跡






	もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所だった。崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる
	弁財天像がまつられていた。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていた。『新編武蔵風土記稿』によると、こ
	の弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられているが、すでに太刀も弁財天像も失われている。また、現在都
	営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていた。旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの
	滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や
	『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれた。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのだ。
	滝は昭和初期には枯れていたようだが、像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行
	なわれるまで残っていた。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時
	の名所であったことをうかがわせる。(北区教育委員会)




	上の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」だが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨
	み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹
	介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかる。画面を見ると、岩屋の前に鳥居
	があり、その横に松橋が描かれている。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見
	て取れる。(北区教育委員会)








音無さくら緑地





	途中にあった吊り橋。なんでこんな所にと思ったが、かすれて読めない説明板によれば、どうやらここに昔吊り橋が
	あったもののようだ。ここは音無渓谷という深い谷だったようである。

 

 

付近は散歩するには落ち着いたいい雰囲気で、もし東京に長居するならこの辺りもいいかなと、宮崎君と話しながら歩いた。




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