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王子神社 2006年9月




 


	<王子神社>
	王子神社は、元亨2年(1322)この地の領主であった豊島氏が、紀州熊野三社より勧請したことにはじまり、王子権現
	として親しまれてきた。王子の地名はここに由来するといわれている。ここの大イチョウは、都の天然記念物に指定さ
	れている。この王子神社には「関神社」があり、百人一首で有名な蝉丸法師を祭っている。又この神社は「髪の祖神」
	として知られ、全国のかつらやさんや理容業界の神とされている。
	本殿は徳川幕府により、江戸城天守閣を建てた木原杢之丞らを棟梁として、寛永11年(1634)に建てられた。しかし、
	太平洋戦争の空襲で焼失し、現在の権現造りの社殿は昭和38年の再建である。 




	この神社のお守りは「槍」で、これは2cmくらいの三角の槍先に、15cmくらいの細い柄をつけ、これで身体の悪
	い部分を撫でるとたちどころに治るとある。この槍は戦前まで行われていた。この社の祭礼槍祭の流れを汲んだもので、
	7月13日の祭礼に、参拝者は小さい槍を社殿に奉納して、先に納めた人の槍と交換して持ち帰り、火災盗難のお守り
	として、次の年にもう一本を加えて奉納するのである。

		槍祭稲も穂先の揃ふ頃(川柳)
		槍持ちの参詣もある十三日(川柳)
		王子と水木名の高い槍踊り(川柳)
		あつらえた槍で息子は啌(うそ)をつき(川柳)

	水木とは、元禄の頃、市村座で槍踊りを舞って好評を博した名優水木辰之助のことで、最後の句は道楽息子が、この日
	参拝せずに、手に入れた槍で遊里に遊んだことをごまかす様を読んでいる。




	田楽は、広い意味では五穀豊穣を祈って催される中世芸能と言われる。しかし日本各地に今も残る田楽をみると、必ず
	しも稲作に関係したものばかりとは言えない。寺社の中で行われる田楽は、田遊びや田植え踊りの要素よりも、大陸起
	源の色濃い曲芸的な品玉・跳躍などの動作に代表される田楽踊りの系統を引くものが多くみられる。王子田楽は田楽踊
	りの系統に属するもので、中世に伝来した。以来、王子権現社(現在の王子神社)に伝承された民俗芸能である。

	江戸時代には、金輪寺十二坊から田楽法師を出し、旧暦の7月13日に境内の舞台(現在は滅失)で花笠を被り、衣装
	を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが、当時の地誌など多くの見聞記録に記されている。華やかな衣装と雅
	やかな踊りは、江戸の人々を大いに楽しませたことだろう。
	戦争で長らく中断していた王子田楽だったが、地域の人々の努力により昭和58年に復興を果たした。現在は毎年8月、
	王子神社の例大祭最終日の午後、境内の仮設舞台で、地域の子供たちが躍り手となって王子田楽が執り行われている。




	岸村に「御子神若一王子社(みこがみわかいちおうじしゃ)」が勧請されてから王子村と改めた。王子とは熊野権現の
	遥拝所のことで、今も和歌山県には多くの王子がある。単なる遙拝所ではなく、休憩所、簡易宿泊所のような機能を持
	っていたようだ。かっては、大阪の天満橋から熊野へ詣でる間に九十九の王子があったというが定かではない。平安朝
	に最盛期を迎えていた熊野詣でも、鎌倉・戦国時代には廃れ、そのうち王子の場所もわからなくなった。江戸時代の紀
	州藩が、荒れていた王子を相当整備し有る程度復活したようである。




	王子権現がいつ東京の王子へ勧請されたのか、いつ王子村に改めたのかははっきりした記録はない。八幡太郎義家が、
	奥州征伐の折に社頭に甲冑を納めたという伝説によれば平安時代ということになるし、豊島氏が承久の変の手柄で紀州
	は三上庄の地頭職(じとうしき)を得て、豊島庄を京都東山新熊野社に寄進、その時に勧請したというのを信じれば、
	鎌倉時代ということになる。豊島氏が勧請したが、その時期は別当金輪寺に奉納された大般若経の奥書によって文保二
	年(1318)以前であることが判る。豊島系図では景村が建てたとするが、これは勧請ではなく、普請(建築)と考え
	られる。いずれにしろ、豊島氏以来紀州との繋がりがより深くなり、王子・十条・飛鳥山・音無川などの名が紀州から
	もたらされたと考えられる。

	その縁からか、紀州熊野の鈴木族の一派が王子村に来て、豊島氏が勧請した紀州五十太祁(いそたぎ)神を王子権現内
	に祀った。これが「紀州神社」である。後に天正年間(1573〜92)に豊島村と王子村で争論が起こり、その紀州
	神社を王子権現から引き取って豊島村馬場(豊島5丁目団地)に移し、さらに現在の王子町に祀った。




	豊島氏縁の古社ということと、城北地区を代表する神社なので、明治天皇の奉幣を受けて准勅祭十社の内に入った。
	『江戸名所図会』によると、康家・清光父子の祠もあったようだが、アメリカ軍の空爆で燃えてしまった。「関の明神」
	だけが、戦後美容の神として復活した。境内に「王子田楽の碑」、社殿改修記念碑がある。かつてはひるなお暗いほど
	鬱蒼と樹木が繁っていたという。



「髪の祖神」




	<関神社>

	祭神に蝉丸・逆髪姫・古谷美女。戦災で焼け、昭和34年社殿再建、同36年毛塚造立。同45年社殿新築。平成10
	年「毛塚」も建て替えられた。病で髪が抜けた蝉丸が古谷美女に命じて、姉の髪で鬘を作って貰い隠したという伝説に
	基づいて祭神としたもので、氏子は映画六社、かつら組合、人毛組合、床山組合、美容組合などである。




	荒川に落ちる支流、音無川の左岸高台に王子権現(王子神社)がある。かなり遠方からでもこのイチョウは見え、付近と
	異なる風致地区を形成している。大正13年の実測によると、目通り幹囲は6.36m、高さは19.69mであったと
	いう。枝はあまり多くないが、うっそうとしており、樹相はきわめて立派である。当社は豊島氏の旧跡であり、このイ
	チョウも、その当時植えられたものであると伝えられている。  (東京都教育委員会)

 








	権現坂(ごんげんざか)とは、この坂を下った交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道をいう。権現という
	坂の名称は、王子権現社の権現から採った名前だが、これは、神仏分離以前の王子神社が王子権現と呼ばれていた点に
	由来している。坂の下の交差点付近は江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道の路上にあたり、ここ
	は、三本杉橋という橋も架かっていた。三本杉橋は橋の袂(たもと)に三本の杉があったのでつけられた名称といわれ
	ている。  (北区教育委員会)




	王子神社から、JR王子駅の方へ権現坂を下りてきたところに、小さな「子育て地蔵」という祠があった。説明板には
	「山本家」の祖先が祀ったという記事もあるが、どうやらその子孫は健在で、今もこの地蔵様をあがめているようであ
	る。しかし説明板の字はなんとかならんかね。



 

 




	釈迦如来が没してから弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するまでを、仏教では無仏時代といいますが、地蔵菩薩は、この時
	代に衆生(しゅじょう)を救済する菩薩と信じられてきました。ここの地蔵尊は、安山岩系の石を丸彫した像の高さ122.0
	センチメートルの石造地蔵菩薩立像(せきぞうじぞうぼさつりゅうぞう)です。昭和20年4月14日の戦災によって火を浴び、
	像の表面が剥落(はくらく)しており、造立した年代や造立者はわかりません。
	 しかし、昭和3年(1928)12月に出版された『王子町誌』253頁の記事によれば、子育地蔵尊は、王子大坂にあって山本家
	の祖先が誓願して室町時代の末期に造立したと述べられています。また、当時の堂宇は元禄時代に改築したものだとも記
	されています。この記述は当時の執筆者が聞き取った伝承を、そのまま書いたものだろうと考えられ、これから俄かに現
	在の像の造立年代を判断するには裏付けの資料が不足しております。
	 しかし、その信仰については「古来、子育及商売繁盛の地蔵尊として信仰せられ、毎月、四の日の縁日には参拝する者、
	実に夥(おびただ)しく、縁日商人の露店を張るものも頗(すこぶ)る多いので、その賑ひ、真に筆紙の及ぶところでない」
	とあり、昔から子育地蔵として信仰を集めていたことが知られます。  (北区教育委員会)







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