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王子・稲荷神社 2006年9月








	「名主の滝」から王子駅に戻ると右側に(反対に王子駅から北の方に向かって歩くと左手に)、4〜5分で「いなり幼
	稚園」が現れる。ここが王子稲荷神社である。本殿は石段の上にあるが、その下の境内が幼稚園になっている。その園
	内というか境内を横切って「王子稲荷」の石段を上るのだが、幼稚園が開園しているウィークディは門が閉まっている。
	従って正面石段を登れるのは日曜日だけである。狐が狛犬のように至る所に建っている。





ここには幼稚園が併設されているので、ウィークデイの開園時は門を閉ざしている。日曜のみこの門から入場できる。


	<王子稲荷>
	王子稲荷神社は今から一千年の昔、平安中期に「岸稲荷」としてこの地にまつられた神社で、祭神「稲荷大明神」を祀
	っている。社記に「庚平年中、源頼義、奥州追討の砌り、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む」とあり、平安中頃
	には相当の社格を有していたものと考えられる。元享2年(1322)に領主豊島氏が、近隣の地に紀州の熊野神社を勧請
	し王子神社を祀った処から、地名も王子と改まり、当社も王子稲荷と改称された。
	ここは関八州の稲荷の総司で、「関東稲荷総社」の格式を持ち、江戸時代より庶民に親しまれてきた。広重の「江戸名
	所図絵」にも描かれている。「装束の榎まで持つ王子なり」(東鳥)と言う句もある。
	「稲荷大明神」はもともと衣食住の神で、古来産業の守護神として、広く庶民から信仰された。大晦日、稲荷の使いで
	ある狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがある。徳川将軍家代々の厚い保護と
	共に、大老田沼意次が立身出世したのは屋敷に稲荷が祀ってあったからという評判もあって、庶民の間に稲荷信仰が盛
	んになり、中でも王子稲荷の「商売繁盛」と「火防せ」の神徳は広く知れわたるところとなった。
	(「王子稲荷由緒記」) 

	王子稲荷は、商売繁盛の神として町人から厚い信仰を受けたが、関東の稲荷信仰では常陸の笠間稲荷と並ぶものがあっ
	た。稲荷の門前には参拝に来る人々の休息茶屋が次第に増え、現在でも玉子焼きで有名な扇屋のように料亭に成長した
	ものまで現れた。

 


	本堂の拝殿には、天井を見上げると鳳凰の絵が見れる。以前は江戸幕府の御殿絵師の谷文晁の竜の絵が掲げられていた
	が、今は境内の史料館に収められているそうである。ここへは2度来たが、2度とも資料館は閉まっていてその絵は見
	れなかった。史料館には日本画家、蒔絵師として有名な柴田是真(しばたぜしん)作の重要美術品の「額面著色鬼女図」
	もあるそうだが、一般公開はしていない。



院展同人の画家・関口正男筆の「鳳凰図」





重要美術品の「額面著色鬼女図」(通称『茨木』)。

	日本画家、蒔絵師として有名な柴田是真が、天保十一年(1840)に描いた大きな絵馬。この図柄は、源頼光の家臣・
	渡辺綱が、その昔羅生門に出没して、京の民衆をおびやかしていた茨木童子の退治に出かけ、女に化けた鬼女の腕を切り
	落とした。その7日後、鬼女は渡辺綱の伯母に化けて訪れ、その折に切り落された自分の片腕を取り返すやいなや、元の
	鬼女の姿に戻り、地をけって空に舞い戻ってしまったという説話の場面を描いたものである。この絵は、見た者を慄然と
	させ、是真の出世作となった。後に、歌舞伎化されたときに是真が描いた「茨木」の看板絵が浅草寺に奉納されている。
	この絵馬を納めたのは、当時、天保の改革で各方面の粛正をしていた幕府に専売権を奪われていた、住吉明徳講という砂
	糖商人の組合で、伝説になぞらえ専売権を「取り戻したい」と祈願して納めたものだという。その後商人たちに専売権は
	戻ったといういうからご利益はあるのかもしれない。この絵馬は、正月3が日と2月の午の日(10:00- 16:00)に、社殿
	斜め向かいの史料館で公開されている。昭和9年9月1日、重要美術品に指定されている。

	ちなみに、茨木童子、「茨木」というのは大阪府の茨木市の事で、茨木市の城跡公園には茨木童子の石像が建っている。
	また渡辺綱の出身地は今の東京都港区三田である。



本殿



「いなり坂」を登ってきた門の側に立っている狐。漫画のような顔をしている。



参拝後本殿の右脇を抜けて丘を登ると本宮があり、またその奥の階段を登ると、そこが「狐の穴跡」である。



ウィークディはこの門は閉まっている。








	小田原北条氏は当社を深く尊崇し、朱印状を寄せており、江戸時代には徳川将軍家の祈願所と定められて栄えた。代々の
	将軍の崇敬は極めて篤く、社参は勿論、3代将軍家光は、寛永十一年(1634)社殿を造営し正遷宮料として金50両、
	その他諸道具一式を寄進し、次いで5代将軍綱吉は元禄十六年(1703)に、10代将軍家治は天明二年(1782)
	に、社屋をそれぞれ改修した。さらに11代将軍家斉は、文政五年(1822)に新築再建した。八棟造り極彩色の華麗
	な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋を伝え、当時の稲荷信仰の隆昌が偲ばれる。しかし残念なことに第二次
	大戦中の昭和20年4月13日、アメリカ軍の空爆によって本殿などは大破した。その後同35年に本殿の再建が行われ
	たので、現在の社殿は、拝殿幣殿は文政五年の作、本殿は昭和の作ということになる。また同62年、165年振りに総
	塗り換えが行なわれ、神楽殿も新規に建て替えられた。

 


	拝殿をぐるっと廻って奥へ進むと、「本宮」があり、奥に末社と「願掛けの石」がある。上の写真が「御石様」と呼ば
	れる願掛け石である。「願い事を念じつつ持つ石の軽重により御神慮が伺える」とある。



さすがにと言うか、全く狐だらけである。

 



 

狐の穴跡


	ここから見上げたところに「狐の穴跡」がある。かつて狐が住んでいた跡は、「お穴さま」として今も保存されている。
	ここはほんとに狐が住んでいたのだそうだ。これが化かし損ねたあの母狐一家が住んでいたの所かもしれない。

	沿革をみると、江戸時代は所謂「神仏習合時代」で、祭神についても『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図絵』などに、
	「本地は聖観世音、薬師如来、陀枳尼天なり」と記されている。明治維新まで禅夷山東光院金輪寺が別当として王子権現
	(王子神社)とともに管掌し、住民は「王子両社」と称して等しく氏神として崇めて来た。現在は明治政府の神仏分離政
	策により廃仏棄釈が行なわれ、金輪寺そのものは2坊を残して廃寺となっている。遠方よりの参拝者が多く、諸方の街道
	筋に「王子いなりみち」という標石や、奉納石灯籠が建てられて、参詣人の道標を務め、また飛鳥山の桜の花見をかねて
	の行楽客もあり、門前には茶店、料理屋等が数多くあった。そのうちの一軒は今でも現存しており、道標の灯籠の一部は
	昭和32年に移築保存されている。境内は台地の中腹にあって、約2000坪、今では市街を見渡す眺めのよい高台だが、
	昔はこんもりと茂った杉の大木に包まれて昼の暗く、山中には沢山の狐が安住し神使として大切にされていた。その跡が
	「お穴さま」として保存されているのである。狐に因む伝説は数多くあるが、料理屋と狐を舞台にした「王子の狐」の落
	語は当時の様子をよく伝えている。成田山信仰については知られている市川団十郎が「暫」の上演のときには、王子稲荷
	に祈願して、大当たりをしたといわれている。

		稲荷ふ神位は旧き正一位(川柳)
		仰ケ只関八州の王司なり(川柳)
		お幟も五社五社と立つ王子道(川柳)
		王子から出たはおやまの正一位(川柳)



ここでの解説の出典は、以下の「王子神社社報」である。












なな、なんと、ここは新潟から出てきた田中角栄が土木技術を学んだ、あの「中央工学院」だ。校長にもなっている。
校舎は周辺に分散して幾つもあるが、本部は王子稲荷神社と王子神社の間にある。





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