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平塚神社 2006年9月






正面の森が平塚神社で左手の奥に城官寺がある。この切り通しの道は本丸と二の丸とを区切る空堀跡とも考えられる。



	平塚神社は、京浜東北線「上中里駅」より蝉坂を上がって徒歩約50m右手にある。坂を写そうと思って、旗がじゃま
	だなぁとつぶやいたら、その旗を立てた写真屋の親父が前に立っていて、じろっとにらまれた。






	<平塚神社>
	1丁目47番にある平塚三所明神。上中里駅南側の高台にあって豊島氏の平塚城の一部(二の丸)と伝わる所に
	建つ。祭神は、「武略神に通じ、騎射神の如し」と謳われた平安末期の八幡太郎源義家(はちまんたろうみなも
	とよしいえ)と2人の弟。「平塚明神縁起」によれば、後三年の役(1083〜1087年)を鎮圧した源義家が、奥州
	からの帰路、凱旋の折に土地の豪族平塚城の豊島氏の元に立ち寄り、甲冑(鎧)一領と守り本尊の十一面観音像
	を与えた。平塚城に宿泊した源義家・義綱・義光の三兄弟が、近義の厚いもてなしに感謝し、そのお礼として下
	賜したそうである。これを豊島氏は元永年間に塚に納め、城の守護神としたが、その塚が平らだったため、「平
	塚」となったという。これが平塚神社の起源といわれる。
	拝殿の裏手に義家の鎧が埋められている「甲冑塚」があるらしいが、ご神体のため一般には非公開。西ヶ原一帯
	は、元は平塚城の一部であった。




	<祭神>
		「八幡太郎 源義家命」
        平安後期の武将で、源頼朝・義経、足利将軍家の先祖。岩清水八幡宮で元服したので、八幡太郎と号さ
		れた。前九年の役・後三年の役を始め、数々の戦で活躍した。「天下第一武勇之士」と称えられ、全国の
		武士が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたと言われ、義家公の弓矢は、魔除け・病除けとし
		て白河上皇に献上された。

        「賀茂次郎 源義綱命」
        義家の次弟。賀茂神社で元服したので、賀茂次郎と号された。

       	「新羅三郎 源義光命」
        義家の三弟で、武田氏・佐竹氏・小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので、新羅三郎と号された。笙
		の名手としても有名。



狛犬(上左)と「甲冑塚」(上右)

	獅子は、子獅子を谷底へ突き落として、這い上がってきた強い者だけを育てるという話を元に作られたと見られ
	る狛犬。突き落とした子獅子が、断崖絶壁を這い上がろうとするさまを睨み付けて、威嚇する親獅子。狛犬は通
	常、整然と台座に鎮座しているものだが、ここのは変わっている。



立派なイチョウとケヤキの並木が参道にあり、節分には盛大な豆まきが行われるそうだ。








	この平塚神社は平塚城跡でもある。平塚城は、中世の豊島郡一帯に大きな勢力を張った豊島氏の居城といわれて
	いる。平塚神社一帯は豊島郡の郡衛があった所で、平安末期に豊島近義がここに平塚城を築いていた。しかし、
	栄華を誇った豊島氏と平塚城も、豊島泰経の時代の文明10年(1478)太田道灌に攻められ落城。程なくして豊
	島氏は没落してしまった。




	平塚城址  北区西ヶ原、平塚神社境内
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	平塚神社の一帯。小名に角櫓、橋に外輪橋、坂に攻め坂(蝉坂)などの呼称があるので、ここが城址とわかる。
	この城が一躍世に知られるようになったのは、関東を大きく戦乱の世に導いた、山内上杉家執事職を巡る長尾景
	春の乱の時だった。文明9年(1477)以来、豊島荘を支配した豊島氏の当主豊島泰経は景春と結び、これに
	呼応した古河公方足利成氏とも連合した。当時江戸城にあった太田道灌は、すぐに鎮定軍を編成すると平塚城を
	攻め城下に放火した。石神井・練馬城の泰経の軍勢は道灌出撃を知ると、道灌の留守を狙って江戸城を攻めるべ
	く出陣した。しかし道灌はすかさず兵を返して江古田・沼袋にこれを迎え撃って破り、さらに進んで石神井城を
	も攻め落とした。翌年、改めて平塚城を攻めて豊島一族を滅亡させた。 

	平塚城は戦国時代の豪族豊島氏によって、平塚神社の境内や隣接する農業総合研究所のある辺りの崖の上に築か
	れた城だった。しかし練馬の石神井城に続いて太田道潅に攻められて落城し、鎌倉時代以来続いた豊島氏最後の
	城となった。城の東北側は隅田川沿いの低地を見下ろす崖で、西北は低地から切れ込んだ谷で、現在は滝野川公
	園のテニスコートなどになっている。さらに南東側は、この辺りで唯一の崖の上下を結ぶ道が切り通しになって
	いる。また社殿背後の林が2mほど高くなっていて、平塚の地名の元にもなった甲冑塚がある。豊島氏の城は、
	今や「兵(つわもの)どもが夢の跡」である。



上右は菓子屋の「平塚亭」。内田康夫の小説「浅見光彦シリーズ」で、浅見光彦が母・雪江の
機嫌をとるためによく訪れる。浅見・内田ファンのためのノートには、内田康夫氏のサインもある。








	<城官寺>
	真言宗豊山派の寺。平塚山と号す。元々は平塚三所明神に属する小庵だったが、筑紫安楽寺の僧が訪れて阿弥陀
	仏を祀り、浄土宗から真言宗に改めた。






	寛永十年(1633)将軍家光が病に倒れたとき、かって家光に仕えた上中里村出身の針医で、当道座検校(とう
	どうざけんぎょう)でもあった山川城官貞久(やまかわじょうかんさだひさ)が、平塚神社に病気平癒の願をかけた
	ところ、幸い病いが癒えたので、感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、
	買った田地を城官寺に寄進する。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この
	内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させた。




	住職の登城時には檀家を集めてにわかの武士行列を作り、住職は駕籠に乗ったという。土地の人々は住職を旦那
	と呼び、耕作時に住職を目にすると後ろを向いて見ぬ振りをし、土下座することを避けたという。維新後は、震
	災も難から免れたものの、昭和20年アメリカ軍の無差別空爆により全山烏有に帰したが、辛うじて城官供養塔
	と多紀家代々の墓は残った。ここに徳川家の侍医・多紀桂山一族の墓があり、東京都指定史跡となっている。 
	明治以前は、神社の経営には特定の寺院があたり、こうした寺院を別当寺と呼ぶ。城官寺は平塚神社の別当寺に
	あたる。




	平塚神社は、北区指定有形文化財の「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」(しほんちゃくしょくひらつか
	みょうじんならびにべっとうじょうかんじえんぎえまき)、古文書「平塚神社文書」(ひらつかじんじゃもんじ
	ょ)を所蔵している(非公開)。 
	原題は「武州豊島郡平塚郷上中里村平塚大明神の社并別当城官寺縁起絵巻」といい、上・中・下の3巻から構成
	されている。平塚明神の別当であった城官寺の、中興住職とされる真惠を中心に製作され、元禄5年(1692)に
	完成した。詞書の撰文・清書は真惠が行い、絵は狩野信良という人物が描いたことが確認されているが、信良が
	どのような人物であるか、詳しいことはよくわかっていない。絵巻では、江戸時代に山川城官貞久によって平塚
	明神・城官寺が再興され、寛永17年(1640)に幕府から50石の朱印地が寄進されるまでの経緯を、平塚地域
	に残る伝承や歴史を織り込みながら描かれている。こうしたところから、地域の政治史的・文化史的な特徴を視
	覚的に理解する上で貴重な資料であるとして平成3年に北区指定有形文化財(歴史資料)に指定された。 



何故ここにピカチューが? 子供の参拝が多いのかな。



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