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名主の滝・金輪寺 2006年9月




	JR王子駅の南側(下左)から線路の下をくぐって北側へ出る。音無川に架かる橋の上(下右)で付近の案内図を見る。
	毎日通勤で通ったJR王子駅。ここから会社のあった神田までは17分である。家から駅までが歩いて7分だったから
	結局一番遠かったのは、JR神田駅から会社までの20分の歩きという事になる。それにしてもこの王子は、結構交通
	の便が良かった。地下鉄南北線も通っているし、池袋や新宿にも近い。東京に住むならこの辺りがいいかもしない。



	この右手付近が「森下通り商店街」で、王子の狐の扇屋などがあるが、商店街を右側へ線路に沿って赤羽方面へ進むと、
	「王子稲荷神社」を過ぎてすぐ同じく左手に、北区立「名主の滝公園」が現れる。「柳や小さん」も「王子の狐の」マ
	クラでこの名滝について喋るときもあった。うっそうとした木立の中に丘の斜面から吹き出す滝が3〜4ヵ所、緑の造
	園の中で水しぶきを上げている。見学客も殆どいず、何とも静かで良い景色の日本風庭園である。



上はJR王子駅前の看板に描いてあるこの滝の案内絵。当然、王子の狐も並んで立っていた。



南側の入り口は、どっかの料亭か割烹旅館のような佇まいである。下駄番のオジサンでも出てきそうな。




	<名主の滝>
	王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培し一般の人々が利用出来るようにしたのが始まりで、名称も
	それに由来している。この時期は定かではないが、實永3年(1850)の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた女
	滝男滝がそれとされ、畑野家が開放したのはそれ以前の事と考えられる。その後、所有者が何回か変わって今は東京都
	が所有し、整備され公園になった。昼なお暗い木立の中の滝である。男滝、女滝などが有って、その流れは川になり、
	池に集まっている。朝10時前に行くと、入園者は誰も居ず、庭園の景色全部が自分一人の為にあった。石神井川と同
	じく、ここも自然水が枯渇してしまい、今はポンプで水を循環して景観を保っている。



上右が實永3年(1850)の安藤広重による「絵本江戸土産」。こんな昔からあったんや。




	南側の入り口を入ってすぐ左に、古墳の石棺の身らしきものが置いてある。係員に聞いても、「さぁー、我々も何かわ
	からないんですよ。」と言っていた。ここに古代、古墳があったのかとも思うが、石棺の身にしては綺麗で小ぶりであ
	る。蓋にしては大きい。何か江戸時代のもののような気もするがよくわからない。






	実はココには2度来て、一日は小雨の日だった。写真の色調が異なるのは、雨の日と晴れた日があるからである。それ
	にしてもポンプで水を流しているとは。涸れてしまって仕方がないといえばそれまでだが、そうまでして残すほどの滝
	かなぁという気がするが、滝ではなく史跡として残しているのだと思えば納得できる。





それにしても実に鬱そうとした森である。江戸時代にはたくさん狐もいたんだろうな。
人がいなくなってこっそりここへ降りてきて、親子でここの水を飲んでいたのかもしれない。





江戸の庶民も、この前に座り込んで、お茶を飲みながら世間話でもしていたんだろう。
「よぉ、我とこ、今年ぁスイカの出来はどうじゃった?」「まだ、でぇ根の種は蒔きよらんか?」

 




	ここは安政年間(1854〜60)に近在の名主・畑野孫八によって開かれたものだが、敷地的には南半分は金輪寺の
	寺域だった。台地の斜面と低地を利用した回遊式庭園で、夏には、「男滝」は子供の天国、「女滝」は大人の納涼地だ
	った。女滝は垣内徳三郎苦心の作で、塩原の風景を模したものだという。他に「独鈷の滝」「湧玉の滝」がある。「王
	子七滝」の、現存する唯一の遺構である。孫八は、明治27年刊、年増山守正編『明治新撰百家風月集』に、王子で初
	めて茶を植えたとして、

		宇治に似よ 新茶に水や 王子園
		我が宿の 滝の白糸清ければ 繰り返しつゝ人のよるらん

	と載せている。現在は、崖上に名主の滝プールと児童公園がある。








	北側の入り口。どうやらこっちが正門のようである。この公園の管理事務所も門を入って左側にある。この辺りの字名
	は「岸」である。その由来は、かつて江戸湾が入り込んでいた当時、このあたりは海岸だったので岸村の名が起ったと
	いう。王子神社と名主の滝は、現在の「岸町」にある。


多少誇張は有るような気もするが、昭和15年でもこれだけの広さがあったとは。しかも遊園地まであったなんて。




金輪寺





	「名主の滝」と「王子稲荷神社」の間に金輪寺(きんりんじ)がある。金輪寺は、明治維新まで、現在の北区役所第二
	庁舎のあたり(王子本町1丁目2番地付近)にあった、古義真言宗(こぎしんごんしゅう)の寺である。王子権現(現
	在の王子神社)・王子稲荷と密接な関係を持ち、幕府から王子権現に与えられた200石の土地の管理も、別当寺(べ
	っとうじ)である金輪寺が行った。代々の徳川将軍は、日光東照宮への参内や鷹狩りの途中、金輪寺で休憩を取った。
	将軍が休憩する御座所は、三代将軍家光の時に設けられ、八代将軍吉宗の時に増築された。現在の金輪寺は、12ある
	子院の一つ「塔中藤本坊」が立っていた場所にある。

	金輪寺は、明治維新の神仏分離令で廃寺となったが、以前は王子神社の南下にかけてと名主の滝公園の南半分にあった。
	明治維新後に「塔中藤本坊」が金輪寺を名乗った。かってのこの寺では、万病に効くといわれる「五香湯」という薬を
	売っていた。この五香湯を買う時は、小声で頼むと弟子が調合した薬になるので、大声を出して住職の耳に届くように
	して、よい薬を調合してもらったという。またこの薬を求める者には食事を振舞ったらしい。

		五香呼ぶ声はつんぼを叱るよう(川柳)
		白狐のやうな粥を出す金輪寺(川柳)
		金輪寺お薬取りを食づかせ(川流)

	また、王子神社の祭礼には、同社の別当寺である「十二坊」から田楽舞が出張したそうだ。鎧をつけた法師が長刀を携え、
	7振の刀を帯して行進したり、白丁を着て立傘を持った者が金輪寺と王子神社と7度半走って往復したりした。

		かにの足ほど太刀を差す金輪寺(川柳)
		法師武者ほど下戸のさす王子道(川柳)
		叡山は三度王子は七度半(川柳)









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