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饒速日命(にぎはやひのみこと) の墳墓を探して

平成18年11月21日 奈良市在住・今崎さんと







	平成16年10月30日、歴史倶楽部第89回例会で生駒市を訪ねた。その時のテーマは、「高天が原から近畿へ降った饒速日命
	(にぎはやひのみこと)の軌跡を追い、神武天皇と長随彦(ながすねひこ)の戦いの地を往く。」というものだった。雨の中、大
	阪府の私市(きさいち)から生駒市までを歩いたが、そのときはとうとう饒速日命の墓を発見することができなかった。雨も激し
	くなってきて、我が歴史倶楽部の例会としては、真夏に大阪市の天王寺付近を歩いた時に続いて2回目の、午前中で終了した例会
	となった。そのときの例会は、磐船神社、鳥見白庭山、長随彦本拠地、鵄山(とびやま)、饒速日命(にぎはやひのみこと)墳墓
	地などの旧蹟を訪ねる予定だったが、述べたように雨のため、鵄山と饒速日命墳墓見学を断念したのだった。

	そのうち、以前からmailをやりとりしていた奈良市の今崎さんが、その例会のHPを見て、「私は行ったことがありますから、良
	かったらご案内しましょうか?」と言ってくれた。今崎さんとは「天皇陵巡り」をきっかけにしてmail交換が始まったのだが、ま
	だお会いしたことはなかった。また、そのお話を頂いた今年の夏前ころは、今崎さんも職場を変わられて忙しく、私は会社を辞め
	て別の会社へ行く予定でバタバタしていたし、そのうち東京へ3ケ月行く羽目になって、しばらくそのことは忘れていた。11月
	に入ってそれを思い出し、またmailをやりとりして、今日の「登美(鳥見)散策」が実現したと言うわけである。

 


	「白庭台」(しらにわだい)駅。この駅は今年の3月にオープンした新しい駅だった。近鉄けいはんな線が、「生駒」から「学研
	奈良登美ヶ丘」まで新線として営業を開始したのである。当然私は初めて乗ったし、生駒を出てからのトンネルも、大阪から来て
	生駒に入る直前のトンネルと同じく、エラい長さだった。近畿の鉄道では一番長いトンネルではなかろうか。今崎さんとはこの駅
	のそばにあるセブンイレブンの駐車場で待ち合わせをした。



駅前に立っている看板。





前回は上の地図を頼りに歩いたのだが、これではとうとう「饒速日命墓」は探し出せなかった。


	駅に降り立った時、「おかしいなぁ、こんな駅あったかなぁ?」と自分の記憶の曖昧さが不安だったが、今崎さんから今年三月に
	出来たというのを聞いてホッとした。良かった、まだボケて無かった。日本の古代史、特に記紀に詳しい方には釈迦に説法だが、
	初めてこのHPへ来られた方のために、

	ニギハヤヒ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ニギハヤヒノミコトは、日本神話に登場する神。『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命と表記する。『先代旧事
	本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と
	いいアメノオシホミミの子でニニギの兄であるアメノホアカリと同一の神であるとしている。
	「古事記」では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹
	のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジ
	ノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗
	れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
	『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)
	の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考え
	られる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話
	に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に王権が存在した
	ことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。『新撰姓氏録』では
	ニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、アメノホアカリは天孫(天照の系)とし両者を別とする。

	別名
	饒速日命(にぎはやひのみこと) 
	櫛玉命(くしたまのみこと) 
	アメノホアカリと同一視
	天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと) 
	アメノホアカリの別名
	天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと) 
	天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり) 
	天火明命(あめのほあかりのみこと) 
	彦火明命 
	膽杵磯丹杵穂命 
	天照御魂神 
	櫛甕魂=大物主命(ニギハヤヒの別名、櫛玉命と同じとする論者がいる。) 
	ゆかりの主な神社
	照玉命神社 
	石切剣箭神社 
	國津比古命神社 
	物部神社 
	矢田坐久志玉比古神社 
	飛行神社 - 大正時代に飛行機の神として創建。 
	祭神同一視神社
	真清田神社 - 尾張国一宮。(祭神の天火明命は本名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と社伝にいう) 
	籠神社 - 元伊勢の最初の神社。(祭神の彦火明命はニギハヤヒの別名と社伝にいう) 
	大神神社 - 最古の神社といわれる。(祭神の大物主大神はニギハヤヒの別名との説がある) 

	つまり、神武天皇が日向を発って近畿を平定しに来たとき(神武東征)、立ち向かった豪族が長髄彦(ナガスネヒコ)で、彼はこ
	の地方に住んでいたということになっており、ナガスネヒコの主人がニギハヤヒなのだ。そのニギハヤヒも、記紀によれば天照大
	神の孫で、神武に先立って(古事記では後を追って)、高天原から近畿へ天下ったということになっている。枚方から南部、生駒
	市・奈良市の北部には、この事績に関する地名や伝承が多く、この地方がニギハヤヒの降臨地とされているのである。そしてその
	墓もこの地にあり、前回の歴史倶楽部例会はそれを探しに来たのだった。




	
	上がセブンイレブンの駐車場からみた桧窪山(旧本には日の窪山ともある)。右方の鉄塔の根元に「ニギハヤヒ命」の墓がある。
	おそらく駅から一直線で登るルートがあると思うが、ご覧のように駅前全体が造成中で、しかたなく一番左端の方から登った。
	それでも10〜15分ほどで着いてしまった。



	
	上写真の左側方向、工事現場の囲いが終わった所の幌の隙間から、今崎さんが登り口を探しに行く。しかしどうみてもまともなル
	ートではないので、もっと左の方に登り口はないかと探したら、どうやらそれらしいものが公園の向かいにあった。
	今崎さんは以前にもニギハヤヒの墓を探しに来た人を案内して登ったことがあるそうだが、そのときは今のような造成工事は開始
	されておらず、もっと近いところから登れたそうだ。



上がその公園。「北の広場」とあった。上左と下右がつながる。公園の向かいが、桧窪山の南の端。





高いポプラの木がこの公園の目印。


上の入り口を、ここだと決め打ちして登っていく。

	ここでちょっと一言、私の歴史観について言及しておきたい。

	記紀の神話や、古代文献(風土記等)の神話や事績記事などにあまり信憑性を置かない立場から言えば、本日私が行なっている
	探索などはまったくの無意味な行動と言うことになるのだろうと思う。記紀神話や大和朝廷の成立譚などは、後世、天皇家の正
	当性を主張するために造作されたものだという立場に立てば、神武天皇などは架空の人物であり、その人物が行なった事績など
	も作り事の域を出ず、その旧蹟を訪ね歩くなどと言う行為は戦前の皇国史観への逆行だと非難されるのかもしれない。
	津田左右吉の影響もあって、いま、多くの歴史学者・考古学者たちがそういう立場に立っていると思われる。戦前の教育の反動
	で、第二次大戦後に皇国史観が徹底して糾弾され、あらゆる「神話的」なものが教育の現場から姿を消し、我が国は、自国の神
	話を子供達に教えない、世界でも極めて希な民族国家になってしまっている現状では、「古事記、日本書紀に書いてある。」と
	いうだけで胡散臭そうな顔をする大学教授などがいるのも事実である。記紀に軸足を置いた論文などを書けば、右寄りだとか、
	戦前への逆行であるとか非難される。

	しかしよく考えて貰いたい。神話はほんとに歴史の核を含んでいないと言えるのか。記紀神話はほんとに古代人が想像で書き上
	げた物語なのか。わたしにはとてもそうは思えない。次々に発見される考古学上の成果は、記紀に記述されている事象が真実で
	あった事を幾つも証明しているし、伝承や地名は、千年以上に渡って地方地方で受け継がれている。西日本ほぼ全域に、記紀神
	話と同じ地名をもった場所があり、それは西日本の地名を集めた大和朝廷が、その地名にあった物語を次々にこしらえていった
	と解釈するより、その地がその地名に相応しい事績を持っていて、その発祥譚を朝廷が収録したと考える方がはるかに合理的で
	ある。勿論、なかには地名の方が先にあり、そこに事績を当てはめた例もなくはない。神功皇后譚はそのきらいが少なからずあ
	る。しかし記紀全体がそうであるとはとても思えない。むしろ記紀は、古代の歴史的な事績を、形を変えて伝えている可能性の
	方が高いと思う。

	神話が歴史的な事実を含んでいた例は世界中に幾つもある。シュリーマンのトロイの発掘や、聖書に書かれた古地名の実在など
	は列挙にいとまがない。環太平洋に広がる洪水神話は、かって大規模な津波が太平洋で発生した事象があり、それが伝承されて
	いったものだという説は、民族学では既に定説である。なぜ日本の神話に限って、すべてが造作なのか。記紀の記述の正当性が
	確認されたからと言って、それがどうして皇国史観への逆行になるのか。記紀よりも遙か昔に書かれた魏志倭人伝はそのまま信
	用して、記紀をどうして否定するのだろうか。私にはそのあたりがどうしても理解できないし、私は、神話は何らかの歴史的な
	事実を含んでいると考える立場に立ちたい。
	勿論、磐船が空を飛んだとか、金色の鵄(トビ)が目もくらむスペクトル光線を放ったなどという事象を盲目的に信じる訳はな
	い。それこそ皇国史観である。私は戦後生まれであるし、物理や化学など、自然科学の初歩的な教育は受けたつもりである。そ
	れらの知識を基に、考古学や民俗学、年代測定やDNA鑑定などの自然科学、ありとあらゆる科学的な学問の成果を集めて論理
	的に歴史観を構築したいと考えている。そして、記紀に書かれた内容が、どこまで史実の核を含んでいるのかを明らかにしたい。
	それによって「我々日本人はどこから来たか?」という大命題を解き明かしたいと切に願うものである。



	
	獣道のような細い道を登ってゆく。一応踏み跡が付いているのでここが道だろうと思うが、あるいは高圧線を敷いていった関電
	の道かもしれない。2,3分登ったら石垣があった。何かの遺跡とも思えないので、おそらく昔この辺りにいた住民の畑の跡だ
	ろうと思う。登り口付近はいま新興住宅街で、昔からの家などは皆無なので、この畑を作った人はおそらくどこかへ移住したも
	のと思われる。




さらに2,3分で第一の高圧線鉄塔の下へでる。そこから更に5,6分も歩けば
やがて第二の鉄塔が見えてきて、その根元にニギハヤヒの墓碑が立っている。



今崎さん。中学校で物理を教えている。物理と言えば理科系なのに、御陵印を集めているし、記紀や古代史にも興味があるようだ。
	
	三度目の正直でやっと探し当てた饒速日(ニギハヤヒ)命の墓。後ろの、光の明るい部分が切り開かれていて、ここに関電の鉄
	塔が立っている。墓柱の背後には大小の小石が小高く積まれていて、ここは墳墓だぞと示しているように見えるが、おそらくこ
	れは石柱を立てたときに積んだものではないかと思う




	<先代旧事本紀巻第五・天孫本紀>

 	天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)、またの名を天火明命、
	またの名を天照国照彦天火明尊、または饒速日命、またの名は胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)。

	天照大日霊女尊(あまてらすおおひるめむちのみこと)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのお
	しほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘・豊秋津師姫栲幡千千姫命(とよあきつしひめたくはたちぢ
	ひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を生んだ。天照大神、高皇産霊尊の両方の子孫として生まれた。
	そのため、天孫といい、また皇孫という。天神の御祖神は、天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)十種を饒速日尊に授けた。
	そうしてこの尊は、天神の御祖先神の命令で、天の磐船にのり、河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。さらに、
	大倭(やまと)の国の鳥見(とみ)の白庭山に移った。天降ったときの随従の装いについては、天神本紀に明らかにしてある。
	天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て、天降った。すなわち、『虚空(そら)見つ日本(やま
	と)の国』と言われたのは、このことだろうか。

	饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を妻として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)を生
	んだ。まだ子が生まれないときに、饒速日尊は妻に言った。「お前がはらんでいる子は、もし男の子であれば味間見命(うまし
	まみのみこと)と名づけよ。もし女の子であれば色麻弥命(しこまみのみこと)と名づけよ。」男の子が生まれたので、味間見
	命と名づけた。
	饒速日尊は亡くなった。高皇産霊尊が速飄の神(はやかぜのかみ)に詔(みことのり)してのべた。「私の神の御子である饒速
	日尊を、葦原の中国につかわした。しかし、疑わしいところがある。お前は天降って復命するように。」速飄の神は天降って、
	饒速日尊が亡くなっているのをみて天に帰りのぼって復命した。「神の御子は、すでに亡くなっています。」高皇産霊尊はあわ
	れと思って速飄の神をつかわし、饒速日尊のなきがらを天にのぼらせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しみ、天上で葬った。
	饒速日尊は妻の御炊屋姫に夢の中で教えて言った。「お前の子は、私の形見のものとするように。」すなわち、天璽瑞宝をさず
	けた。また、天の羽弓矢、羽羽矢、また神衣、帯、手貫の三つのものを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。饒速日尊は、
	天上にいたとき天道日女命を妻として、天香語山命(あまのかごやまのみこと)を生んでいた。天降って、御炊屋姫を妻として、
	宇摩志麻治命が生まれた。

	饒速日尊は大和に移ってから、鳥見の豪族長髓彦の妹・御炊屋姫を妃として宇麻志麻治尊を誕生させる。また、それ以前に天道
	日女命を妃にし、天香語山命が誕生していたと言う。天孫本紀は、宇麻志麻治命(物部氏祖)と天香語山命(尾張氏)の系譜を
	主として記述した巻である。饒速日の墓は高天原にあり、大和には三つの形見の品が遺体の代わりに葬られたことになっている。
	先代旧事本紀の巻三「天神本紀」や、巻五「天孫本紀」には、次のように記されている。「饒速日の尊は河内の国の河上の哮峰
	(いかるがのみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見(とみ)の白山(または白庭山)にうつった。」
	また、先代旧事本紀の巻五「天孫本紀」には「(饒速日の尊がなくなったとき)天の羽弓矢(はゆみや)、羽羽矢(ははや)、
	神衣帯手貫(かむみそおびたまき)を、登美(とみ)の白庭の邑に埋葬して、墓とした。」とある。 
	先代旧事本紀によれば、饒速日の尊は登美の白庭の邑を墓所としたことになる。白山(白庭山)はここ奈良県生駒市の北部とす
	る説が有力である。ここには現在も「白庭」という地名があり、饒速日の尊の伝承がある土地である。また「とみ」は、神武天
	皇が長髓彦(ながすねひこ)と戦ったときに、金の鵄(とび)がやって来て弓の先にとまった逸話から来た地名であるとされる。 



	
	この石碑に名前のある「藤澤章」という人物は、前回白庭台の辺りを歩いたとき「鳥見白庭台」の石柱にもその名前があった。
	(下写真)。浪速とある。してみると、おそらく、大坂の町でも以下にある「金鵄会」と連携した組織があって、呼応して石碑
	を建てていったものなのか。あるいは、「藤澤章」なる人は、「金鵄会」の趣旨に賛同し石碑の費用を負担した篤志家だったの
	かもしれない。どなたか、その当たりの事情をご存じの方は是非ご連絡ください。

 

	
	その後今崎さんが「生駒市誌」等で調べてきてくれた所によると、

	 ・大正3年、生駒郡北倭村(現在、生駒市)に「金鵄会」が発足し、日本神話に登場する土地を 聖蹟として顕彰する立場か
	  ら、地元の聖蹟を特定して盛んに顕彰に努めた。
	 ・金鵄会により、「金鵄発祥史蹟考」という冊子が発行された。この中に「饒速日墳墓の所在」と題して墳墓「制定」の記述
	  がある。
	 ・昭和15年、当時の文部省が行った聖蹟地調査にもとづき、鳥見白庭山、長髄彦本拠地、鵄山(金鵄発祥の地)などが特定
	  されて、石碑が建てられた。その際、国定教科書の扉に写真が載せられる。
	 ・敗戦に際し、米国(米軍)より、石碑の破壊を言い渡されるが、会の解散と引き替えに石碑の破壊を免れた。

	そうである。この墓柱も、後で見て頂く鵄山の石碑「金鵄発祥之処(処は旧字)」も、「神武天皇聖蹟鵄邑顕彰之地」の石碑も、
	この時建てられたのだろう。今ではこれらの石碑は省みられず、我々のような歴史マニアを除けば訪れる人とてまばらで、鵄山
	の石碑などはヤブ笹と雑木の中である。前回の訪問時に見た「長髄彦本拠」と「鳥見白庭山」の石碑は、建っていたもとの場所
	がニュータウン開発のため、白谷集落の中心地に移転したものだそうだ。


	<饒速日墳墓の所在> 金鵄発祥の史蹟考・池田勝太朗(金鵄会代表) 

 	白庭山■墟の白谷に存すること上述の如くなれば則ち饒速日命の墳墓も其域内に存すべきこと疑を容れず、大和國陳迩名鑑圏に
	大字上(北倭村)なる眞弓山長弓寺境内を以て白庭山の■墟と為し同寺境外眞弓塚を以て饒速日墳墓と為せるも眞弓塚は聖武天
	皇神亀五年三月御猟遊事の際真弓長弓なるものを葬らせたまへる墳墓にして真弓山長弓寺は即ち真弓長弓の非命に死するを憫み
	たまひ僧行基に勅して門剏せしめられし寺院なれば饒速日事蹟と相関するものあることなし、唯々真弓塚なる名稱が饒速日の遺
	物葬劔と偶然の暗合あるを以てしかく想像せる臆説に過ぎず確たる根拠あるに非るなり、今白谷の地を検するに四■の山嶺其尤
	も高峻なるを檜窪山といふ即ち白庭の西南に聳えて近くは鳥見一郷の村落山野を脚下に俯瞰し遠くは大和平原及び近畿諸山を指
	呼するを得。蓋し鳥見郷の主山にして其西麓には南田原村社岩船明神、(今按ずるに其祭神は饒速日命なれども明治維新の際誤
	って住吉神社と称するに至れり、蓋し岩船明神の奮■稱を誤解して之を船舶守護の住吉大神なりとし遂に今日の社名に改められ
	たるなり)及び社頭の古刹岩藏寺あり(今按ずるに岩藏は磐座の借字にて神明鎮座の義なり而して其本尊毘沙門天王、王妃吉祥
	天女、王子禅膩師童子の古像三躯は饒速日父子及び御炊屋姫の本地仏として安置せしものならむ)而して桧窪山の山嶺には山伏
	塚と稱する古墳を存せり、其形状は片石を推積して■家を成し苔蘇蒼白にて二千数百年以前の古塚たること疑を容れず、其名稱
	山伏塚は山主塚の訛音にして白庭山の故主饒速日の墳墓たることを推知するに足れり、則ち旧事紀に見ゆる登美白庭の墳墓は之
	を措きて他に求むべからざるなり。

	この文章は、饒速日命の墳墓は、ここ「桧窪山の山伏塚」以外にはあり得ないと断じている。



今崎さんと私。ニギハヤヒの尊に写してもらう。



鉄塔の側から墳墓を見る。



ここを掘って、弥生時代の人骨でもあったら大騒ぎになるんだろうなぁ。



供花代の上にはみかんとチョコレートが乗っていて、昨日は一日中雨だったので、
おそらくこれは今日、我々が訪れる前に誰か他の人が置いていったものだろうと今崎さんと話した。



	
	ここがこの桧窪山の一番高い地点のようである。ここが白庭山ではなく「桧窪山」であり、この塚名は「山伏塚」という事は、
	後で今崎さんからのmailで判明した。鉄塔の向こうは緩い崖になっていて、藪コキして進めば、団地造成現場を抜けて「白庭
	台駅」のほうへ降りていくようになる







鵄山(トビヤマ)



月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画
	神武天皇の弓の先に止まった鵄(トビ)から金色の光線が放たれ、長髄彦の軍勢は目がくらんで戦意を失う。この鵄が金鵄(き
	んし)であり、かっては皇国の栄誉の象徴であって、戦中は「金鵄勲章」などもあった。またタバコや紙幣や当然教科書などに
	も印刷されていて、広く国民にはポピュラーな存在であった 。




	
	古事記 中卷  

	故爾邇藝速日命參赴 白於天~御子 聞天~御子天降坐故 追參降來 即獻天津瑞以仕奉也 故邇藝速日命娶登美毘古之妹登美
	夜毘賣 生子 宇麻志麻遲命【此者物部連 穗積臣 臣祖也】 故如此言向平和荒夫琉~等【夫琉二字以音】 退撥不伏之人等
	而 坐畝火之白梼原宮 治天下也

	故、爾くして邇藝速日(にぎはやひ)の命、參い赴きて、天つ~の御子に、「天つ~の御子、天降り坐すと聞くが故に、追い參
	い降り來つ」と白して、即ち天津瑞(あまつしるし)を獻りて仕え奉りき。 故、邇藝速日の命、登美毘古の妹の登美夜毘賣
	(とみやびめ)を娶りて生みし子は、宇麻志麻遲(うましまぢ)の命【此は物部の連・穗積の臣・の臣の祖】。 故、如此(か
	く)荒(あら)夫(ぶ)琉(る)~等【夫(ぶ)琉(る)の二字は音を以ちてす】を言向け平らげ和(やわ)し、伏(まつろ)
	わぬ人等を退け撥いて、畝火(うねび)の白梼原(かしはら)の宮に坐しまして天の下治しめしき。

	
	古事記では、天つ神の御子(神武)が来たと聞き、(邇藝速日が、後を)追ってきたとなっている。そして神武に仕える。邇藝
	速日は登美毘古(長髄彦:ナガスネヒコ)の妹、登美夜毘賣(トミヤヒメ)を娶り、宇麻志麻遲(ウマシマジ)が誕生して、彼
	が物部の祖となる、と記す。神武天皇はこうして抵抗勢力を抑えて、畝火(うねび)の白梼原(かしはら)の宮で即位して天下
	を治めるのである。




	日本書紀・神武天皇の条は、神武東征に先立ち、天磐船に乗って大和に飛来した者があり、その名を饒速日(ニギハヤヒ:藝波
	椰卑)と伝える。饒速日は土地の土豪・長髓彦(ナガスネヒコ)の妹三炊屋媛(ミカグヤヒメ:鳥見屋媛)を娶り、子、可美眞
	手命(ウマシマジ:于魔詩耐)をもうける。

	日本書紀 卷第三 ~日本磐余彦天皇 ~武天皇 即位前紀 戊午年十二月

	十有二月癸巳朔丙申 皇師遂撃長髓彦 連戰不能取勝 時忽然天陰而雨氷 乃有金色靈鵄 飛來止于皇弓之弭 其鵄光曄状如流
	電 由是 長髓彦軍卒皆迷眩 不復力戰 長髓是邑之本號焉 因亦以爲人名 及皇軍之得鵄瑞也 時人仍號鵄邑 今云鳥見是訛
	也 昔孔舍衞之戰 五瀬命中矢而薨 天皇銜之 常懷憤 至此役也 意欲窮誅 乃爲御謠之曰 瀰都瀰都志 倶海能故邏餓 介
	耆茂等珥 阿波赴珥破 介瀰羅苔茂苔 曾廼餓毛苔 曾禰梅屠那藝弖 于笞弖之夜務 又謠之曰 瀰都々々志倶梅能故邏餓 介
	耆茂等珥 宇惠志破餌介瀰 句致弭比倶 和例破輸例儒 于智弖之夜務 因復縱兵急攻之 凡諸御謠 皆謂來目歌 此的取歌者
	而名之也 時長髓彦 乃遣行人 言於天皇曰 嘗有天~之子 乘天磐船 自天降止 號曰櫛玉饒速日命 【饒速日 此云藝波椰
	卑】是娶吾妹三炊屋媛 【亦名長髓媛 亦名鳥見屋媛】遂有兒息 名曰可美眞手命 【可美眞手此云于魔詩耐】故吾以饒速日命
	爲君而奉焉 夫天~之子 豈有兩種乎 奈何更稱天~子 以奪人地乎 吾心推之 未必爲信 天皇曰 天~子亦多耳 汝所爲君
	是實天~之子者 心有表物 可相示之 長髓彦速取饒速日命之天羽々矢一隻及歩靫以奉示天皇 々々覽之曰 事不虚也 還以所
	御天羽々矢一隻及歩靫 賜示於長髓彦 長髓彦見其天表 益懷 然而凶器已構其勢不得中休 而猶守迷圖 無復改意 饒速日命
	 本知天~慇懃 唯天孫是與 且見夫長髓彦稟性愎 不可ヘ以天人之際乃殺之 帥其衆而歸順焉 天皇素聞饒速日命 是自天降
	者 而今果立忠效 則褒而寵之 比物部氏之遠祖也

	12月4日、磐余彦尊(神武)の軍は長髄彦と闘うが、戦いは長引きなかなか決着がつかなかった。終盤、戦いの最中に急に空
	が急に暗くなり雹(ひょう)が降り始め、そこへ金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は
	光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というの
	は元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、
	鳥見というのはこれがなまったものである。以前、孔舎衛(くさえ)の戦いにおいて、五瀬命(いつせのみこと)が矢に当たっ
	て戦死したが、磐余彦尊はこれを忘れず常に仇を討とうと考えていた。その機会をここに見つけた磐余彦尊は歌を詠んだ。

	「みつみつし 来目の子等が 垣本に 粟生には 韮一本 其根が本 其ね芽繋ぎて 討ちてし止まず」
	(御稜威(みいつ)を背負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、栗が生え、その中に韮(にら)が一本混じっているその韮の
	根本から芽まで繋いで、抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ってしまおう。)

	また次のように歌った。

	「みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒 口疼く 我は忘れず 打ちてし止まず」
	(御稜威(みいつ)を背負った来目部の軍勢のその家の垣の本にに植えた山椒、口に入れると口中がヒリヒリするが、敵の攻撃
	の手痛さは、今も忘れない今度こそ必ず撃ち破ってしまおう。)

	また兵を放って急追した。すべて諸々の御歌を来目歌という。これは歌った人を指したものである。長髄彦はここで磐余彦尊に
	使いを送って言った。「昔、天神の御子が天磐舟に乗って天降られた。御名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)と
	いわれる。私は、饒速日命に仕えているが、天神の子がふたりもおられるのか。どうして天神の子と名のって、人の土地を奪お
	うとするのか。あなたは偽物であろう。」
	神武は答えて、「天神の子は多くいる。もし、お前が仕えている人が天神の子なら、必ず天の端(しるし)のものがあるから、
	それを見せよ。」磐余彦尊が使いの者に返答すると長髄彦は、饒速日命の持つ天の羽羽矢と歩靫(かちゆき)を磐余彦尊に示し
	た。磐余彦尊はそれが本物だと認め、自分のものを示す。長髄彦はそれを見て、恐れ畏まった。しかし戦闘はすでに開始寸前で、
	もう回避することは難しかった。
	そして長髄彦の軍は、間違った考えのまま改心の気持ちがなかった。饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵
	尊の子孫だけだということを知っていた。また長髄彦は性質が曲がっており、天神と人とは全く異なるところがあるのだという
	ことを説いても無駄だと思い殺害した。そして饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順した。磐余彦尊は饒速日命が天から降りて
	きた事が事実だと知り、いま忠誠を示したのでこれをほめて臣下に加えて寵愛した。この饒速日命が物部氏の先祖である。


	ニギハヤヒは、古事記では磯城攻略後、疲れと飢えで動けなくなった神武への救援者として登場し、書記では抵抗者として登場
	している。記紀を見る限り、ニギハヤヒが飛来した所はこの地にあると考えるしかない。先代旧辞本紀は、ニギハヤヒを天孫ニ
	ニギの兄とし、高千穂への天孫降臨以上の威容をもって河内国哮峰(現在の大阪府大阪市の生駒山付近、或いは大阪府交野市私
	市の哮ケ峰か。)に天降ったとする。そこにはニギハヤヒを祀る磐舟神社がある。

	ニギハヤヒの存在は、神武東征の前に、すでにある勢力が大和に存在していたことを物語っているし、ニギハヤヒに随行してき
	た多くの随員達とその出自については、「邪馬台国大研究本編」のなかの「12.文献は語る −その5」の中でやや詳しく検
	証した。その結果から言えば、物部氏の祖先達は北九州の遠賀郡・鞍手郡あたりにいた一族である可能性が大である。近畿より
	西にあった高天原から、大集団が古代河内湖に上陸し、この地方一帯に根付いたものと考えられる。そして、やがて生駒山西麓
	を南下し現在の東大阪から八尾市にかけての河内国を本貫地としたものと考えられる。
	物部氏本宗家が蘇我氏らに攻め滅ぼされたのは587年であるが、守屋がたてこもったのは八尾の地である。石切剣箭神社をは
	じめとして生駒山地の東西に饒速日命をまつる神社は数多い。饒速日命が河内国川上哮峰に天下ったという神話も、この地域に
	物部氏が勢力を張ったという事績を物語っている。ニギハヤヒは生駒山地の西側を起点として一帯を支配し、長髄彦は生駒山地
	の東側を根城にし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうか。

	今崎さんは、物理の先生のくせに、「え、西ですか。そうかなぁ、やっぱり空から降りてきたんと違いますか。」なんて言って
	いた。奈良県地場の人はこれだからなぁ、まったく。「全ては奈良から湧いてきたんですよ。」んな、アホな。






	ニギハヤヒは物部氏の祖先とされるが、物部氏の氏族伝承を伝える「先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒは物部一族を連れて
	天の磐船で空を駆け巡り、河内国の哮峰(いかるがのみね)に天降ったという。河内国の哮峰というのは、東大阪市の生駒山付
	近とされている。神武の軍勢がいったん大和川沿いに大和に侵入しようとしたとき、ニギハヤヒの家来の長髄彦に撃退されたの
	は、東大阪市日下(くさか)町付近である。ここには石切剣箭(いしきりつるぎや)神社があり、現在も、ニギハヤヒを祖神と
	して、直系の神主が百代以上に渡って仕えている(という)。ニギハヤヒの本拠地は本来このあたりであったようだ。一方、ニ
	ギハヤヒについては、丹後の天橋立の「籠神社」に伝わる「海部氏系図」という国宝の系図によれば、ニギハヤヒは河内の国に
	天降ったあと、大和国の鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移ったという。そこで長髄彦の妹を娶っている。




	神武東征譚は、日向から来た神武が三輪王朝を誕生させる物語のようにも思われるが、神武の前に生駒山一帯を支配し、王権と
	までは言えないにしても何らかの支配領土を築いていたのがニギハヤヒである。その支配範囲がどのあたりへ及んでいたのかは
	はっきりしないが、西から来た勢力に敢然と立ち向かった代表格なので、すくなくとも生駒西山麓から三輪山麓当たりまでを治
	めていたと見ていいだろう。見たように、ニギハヤヒは生駒山の河内側から大和側の鳥見(登美)に移っている。これは大和川
	を見下ろす地点を大阪側から奈良側に移しただけである。つまり、大和と河内を結ぶ大和川沿いを押さえていたことを意味して
	いる。当時の交通の要衝を押さえていたとなれば、その範土は三輪山周辺へも及んでいたと考えられる。
	それは、神武の軍勢が紀州から大和に侵入し大和内を平定していく過程でも、三輪山付近の戦いが記述されていないことにも証
	明されている。磯城や葛城、天理市付近を押さえたことは記述されているがほかはよくわからない。長髄彦との戦いも、古事記
	には「登美の長髄彦」とか「登美彦」とあるように、鳥見(登美)の勢力との戦いである。大和盆地西部が戦いの舞台になって
	いる。ということは、この地方を治めていたのはニギハヤヒ以外にはいなかったと見ていいだろう。
	そしてそのニギハヤヒも、遠い昔に天孫として高天原から(おそらくは西から)、近畿へやってきた一団の長だったことはほぼ
	間違いない。




	物部氏は朝鮮半島の百済とも関係が深い氏族とも言われるが、その名が頻繁に登場するようになるのは5世紀頃である。これは
	河内王権の拡大と歩調を合わせていて、河内から大和に進出し、河内王権を支える武力勢力として基盤を確保していく。物部氏
	はやがて、石上神宮の管理を受け持つようになり、武官的な性格のほかに祭祀者的な性格も備えるようになる。その後、6世紀
	末には勢力がいったん衰えるが、7世紀半ばには復活し、7世紀末(天武13年)には朝臣姓を与えられる。この頃に氏族名を
	物部から石上と改めたようである。それからは石上朝臣として律令制下で大きな勢力となっていく。このように、7世紀末から
	8世紀初めという大和朝廷によって中央集権化が進む段階、ちょうど記紀が出来あがってくるときに、物部氏は朝廷内で大きな
	発言力をもっていたと考えられることから、ニギハヤヒは、物部氏の祖先顕彰のために創られた架空の人物という説もあるが、
	物語の流れとしては、いわば神代を人代へとつなぐ役割を持っていて、そのモデルとなる具体的な人物がいた可能性が大である。




	島根県大田市に石見国一ノ宮の物部神社がある。ニギハヤヒの息子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を主祭神とする神社
	である。6世紀の継体天皇の勅命によって創建されたと伝えられる。三輪王朝や河内王朝の時代ではなく、継体王朝と関係があ
	るとなればそれほど古いとは思えないが、物部氏が権勢誇示のために大和朝廷を動かして建てた神社とも考えられる。





石柱の文字を何とかして読もうとする今崎さん。正面は読めたが、側面、裏面は判読できなかった。




	後日今崎さんが調べたところでは、この石柱は「郵便局東方にあった「金鵄発祥の地」の石碑は大正3年、大阪探勝わらじ会が
	建てたもの。」という事だった。図書館、ネットでさんざん調べたが、この会については何の情報も得られなかった。ご覧にな
	っている読者の方で、何か情報をお持ちの方は是非教えて頂きたい。



石柱は藪の中で、これではただ探しに来ても見つかるものではない。我々も古い土地の人に聞いてやっとたどり着いた。



「金鵄発祥之處」




石碑のすぐ下は崖で、崖下は田圃である。その向こうに富雄川が流れていて、正面の山の向こうが白庭台だ。写真には何やら金鵄の光が・・。





鵄邑(トビムラ)顕彰碑





	岩波版日本書紀の「鳥見」の注には、「奈良県生駒市の北部から奈良市の西端部にわたる地域。この地は続記、和銅7年11月
	条に登美郷として現われ、以後平安・鎌倉・室町・江戸の各時代を通じて鳥見庄または鳥見谷の名を伝え、その地内を貫流する
	富雄川も、もと富河または鳥見川と呼ばれていた。」とある。昭和十年代前半に、この鵄邑の本家争いがくりひろげられたそう
	である。生駒市上、奈良市富雄、桜井市外山、吉野郡川上村など「鳥見」という地名をもつ奈良県内の各地が名乗りをあげた。

	昭和15年、この年神武天皇即位二千六百年を記念して「紀元二千六百年奉祝会」という組織が作られ、各地で記念行事が行わ
	れた。その一環として文部省は同会からの委託を受け、文献と現地の伝承を基にして神武天皇の旧蹟を特定する、という現地調
	査を行った。この文部省の調査で、生駒市上地区(旧北倭村)が「御聖跡」の指定を受けた。この記念碑はその指定に基づき、翌
	16年、生駒市上、奈良市富雄両地区の境界線付近に建てられたのである。

	戦後、進駐軍からこの碑の取り壊し命令が来た。各地で忠魂碑や銅像などが撤去された。村人達は、碑を守ってきた「金鵄会」
	を解散するかわりに、碑の存続を願い出て今日に至っている。




	神武天皇聖績調査報告 編集・文部省(1942年)
	
	18.鵄(とび)の邑(むら)

	神武天皇聖跡鵄の邑は、奈良県生駒郡にあって、その地域は北倭(きたやまと)村および富雄(とみお)村にわたる地方と認め
	られる。(図22 省略)
	「日本書紀」によれば、鵄の邑はもと邑の名を長髄(ながすね)といい、神武天皇はすでに諸族を平定し、ついに戊午年(つち
	のえうまのとし:即位前三年、紀元前六六三)十二月皇軍を率いて先に孔舎衛(くさえ)の坂において天皇を拒んだ長髄彦(な
	がすねひこ)の軍を討伐したところである。はじめ皇軍は苦戦を重ねたが、ときにたちまち天が曇って氷雨(ひさめ:雹)がふ
	り、金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて天皇の弓の「弓耳」(はず:一字)にとまった。その鵄の光は稲妻のように照り輝
	いたので、賊軍はみな目がくらんで戦うことができなくなってしまった。こうして時の人は皇軍が鵄の瑞兆を得たことにちなん
	で、長髄の邑の名をあらためて鵄の邑と名付けたが、後に訛って鳥見というようになったとある(*1)

	「日本書紀」によれば、鵄の邑(鳥見邑)はもと長髄といい、長髄彦は長髄邑、すなわち後の鵄の邑に磐踞(ばんきょ)してい
	たものであって、神武天皇はこれをその根拠地で撃ったと考えられる。
	大和国内で古く「トミ」と言われた地は、今の磯城(しき)郡と生駒郡との二カ所にある。前者は大和平野の東南隅に、後者は
	その西北隅に位置し、整然と対称的な位置を占めている。いま磯城郡についてみると、城島(しきしま)村大字外山(とび;旧
	外山村)付近は江戸時代以来鵄の邑の故地として注意されてきたが、戊午年(つちのえうまのとし)十二月長髄彦の軍討伐のさ
	いには、天皇はすでに今の宇陀郡、吉野郡地方から磯城郡地方を平定していたのであるから、長髄邑(鵄の邑)を外山付近とす
	る事は不当である。したがって鵄の邑は生駒郡内の「トミ」の地にこれをあてるべきであろう。またこれより先、天皇が難波の
	崎を経て河内の国の盾津(たてつ)に上陸し、胆駒(いこま)山をこえて中州(なかつくに)に入ろうとしたとき、長髄彦が孔
	舎衛の坂において阻止したことからみても、大和国の西北部、河内国に接するこの地方に鵄の邑をもとめるのは至当である。
	「万葉集注釈」に引かれた「伊勢国風土記」に、
	「はじめ天日別(あめのひわけ)の命は、神倭磐余彦(かむやまといわれひこ)の天皇(すめらみこと;神武天皇)が、あの西
	の宮からこの東の洲(くに)を征したとき、天皇にしたがって紀伊の国熊野の村にいたった。ときに金の烏(からす)の導きに
	したがって中州に入り、菟田の下県(しもつあがた)にいたった。天皇は大部(おおとも)の日臣命(ひおみのみこと)に「逆
	賊、胆駒の長隋を早く征ちころせ」と命じた。」とあるのは、その傍証とすることができるであろう。
	生駒郡中、旧添下(そうのしも)郡の地内に属するおよそ北倭(きたやまと)村、富雄村(*2)の両村にわたる地方は、古来
	鳥見、登美といわれたところであって、「続日本記」和銅七年(714)十一月の条に、
	「大倭(やまと)の国添下郡の人、大倭忌寸果安(やまとのいみきはたやす)、添上(そうのかみ)郡の人、奈良許知麻呂(な
	らのこちまろ)、有智(うち)郡(宇智郡)の女、日比(四比(しひ)の誤りか)信紗(しなさ)に対し、それぞれ終身その租
	税負担を免除した。それによって孝行と節操を表彰したのである。
	果安は父母に孝行をつくし、兄弟に親しみ、もし病気や飢餓で苦しんでいる人があれば、自分で食料を用意して訪ねて行って、
	これらの人々を看病したり食事を与えたりした。登美(とみ)・箭田(やた)二郷の人々は、ことごとくその恩義に感じて、果
	安を敬愛することが親に対するようである。」
	とあるのをはじめとし、以後平安、鎌倉、室町、安土、桃山、江戸の各時代を通じて、鳥見庄或いは鳥見谷など、「トミ」とと
	なえられた証拠があり(*3)、その地内を貫流する富雄川も、もと富河または鳥見川とよばれていたのである。(*4)
	すなわちこの地方は皇軍が兇族の首長長髄彦の軍を撃破した古戦場として、由緒のきわめて深いところといわなければならない。
	なおこの地域の中で、金の鵄の印があらわれた地点については、近年北倭村大字上のとび山をあげるものもあるが、地名にもと
	づく憶測にすぎない。
	地は大和の国の西北部に位置し、東は大和平野との間に丘陵地帯が横たわっている。西は松尾山脈によって天野川、生駒川の流
	域の地と接している。南は郡山町付近においてわずかに大和平野につらなる。北倭村北部の山間に源を発する富雄川は両村のだ
	いたい中央部を南へ貫流して、その流域に狭長な平地がつづき、おのずから南北に長い一境地を画している。
	古くこの域方はいつに鳥見谷ともよばれていたが、よく地形の特徴をあらわしている。そして生駒山脈は天野川、生駒川の流域
	の地を隔てて南北に連なり、その山容を望むことができる。生駒山脈を越えて河内の国に通ずる山路のうち「直越(ただごえ)」
	は古来著名である。天皇がはじめ胆駒山を越えて中洲(なかつくに)に入ろうとした意図もしかるべきことと察せられる。

	備考
	つぎの地は、神武天皇聖跡鵄の邑として調査の結果、その証拠が十分でなく、聖跡の箇所と決定しがたかったものである。
	一、奈良県磯城(しき)郡城島(しきしま)村
	  大字外山(とび;旧外山村)付近は、古く「トミ」といわれた地であって、元禄年間に記された貝原益軒の「和州巡覧記」
	  に「昔の名長須根(ながすね)村は、長髄彦の住んだところという」とある。また「神武巻藻塩草」などにおいて、その地
	  名にもとづき鵄の邑に擬されたが、すでに述べたように、「日本書記」によれば、このとき天皇はすでにこの地方に拠って
	  いた兄磯城らを誅伐しており、この地一帯は皇軍の手中にあったのであるから、鵄の邑の地となすのは適当ではない。

	保存顕彰施設
	神武天皇聖跡鵄の邑の保存顕彰施設については、その実施箇所として、奈良県生駒郡北倭村において、富雄村との村境に近い大
	字上(かみ)字峰ノ浦にある富雄川左岸の高所を選定し、そこに顕彰碑を建設して、碑の表面には、
	「神武天皇聖跡鵄邑顕彰碑」  裏面には、
	「神武天皇戊午年(西暦紀元前六六三)十二月皇軍ヲ率ひきヰテ長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ時ニ金鵄ノ瑞ヲ得サセ給ヒ
	 シニ因リ時人其ノ邑ヲ鵄邑ト称セリ聖跡ハ此ノ地方ナルベシ」(戊午年・つちのえうまのとし(西暦紀元前六六三)瑞・みず)
	と刻することとし、その意見を紀元二千六百年奉祝会に回付した。よって同会は、これにもとづきその地に西南に面して標準型
	顕彰碑のやや縮小したるものを建設する事を決定し、工事はその施工を同会から奈良県に委嘱し、昭和十五年(1940)十二
	月着工、翌十六年四月に竣工した。(図23,図24)



注釈: (*1) (*2) (*3) (*4) 
	<季刊邪馬台国82号より転載。 現代的文章へのリトライ「季刊邪馬台国」編集部>




		「神武天皇聖跡鵄邑顕彰碑」 		「神武天皇戊午年十二月皇軍ヲ率ひきヰテ
							    長髄彦ノ軍ヲ御討伐アラセラレタリ
							    時ニ金鵄ノ瑞ヲ得サセ給ヒシニ因リ
							    時人其ノ邑ヲ鵄邑ト称セリ聖跡ハ此
							    ノ地方ナルベシ」



	---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
	神話時代の鳥見郷上村(上町)         ー「生駒市誌」参照ー 
	---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
	上村(上町)から斑鳩まで続く矢田丘陵(斑鳩三十六峰)のような長くのびた地形を長層嶺(ナガソネ)と呼び、そこの部族の
	長が長髓彦(ナガスネヒコ)だったようであり、登美彦(トミヒコ)とも呼ばれた。彼は長くこの地方を占拠していたが、饒速日
	命(ニギハヤヒノミコト)が天磐船に乗って河内の国から斑鳩の峯をこえて白庭山に来たので、この命を奉じて益々勢盛となっ
	た。命は天照大神の皇孫で、長髓彦を帰順させ、その妹の御炊屋(ミカグヤ)姫を娶って、可美真命(ウマシマデノミコト)と
	いう男児をもうけた。その後、神武天皇が九州を発ち、瀬戸内海を東征して大和へ攻め込もうとしたが、長髓彦が地利のよい生
	駒山を盾にこれを迎え撃って、天皇はついに、難波からは大和にはいれなかった。そのため、天皇は紀州を廻って大和に入り、
	東からこの地を奇襲攻略した。この時に金色の鵄(トビ)が飛び来たりて天皇の弓にとまった。その鵄の光が流電の如く輝いて、
	長髓彦の軍兵が目がくらんでしまって戦えなくなった。この話が有名な金鵄伝承である。神武天皇は、自分が饒速日命と同族
	(天孫)であることを知ったが、長髓彦を斬って帰順させた。後には物部氏として饒速日命の子孫が栄えたという。
	これが、鵄山、鵄邑(鳥見村・富雄)の起源である。一説によると、トビ・トべ(その変化としてのトミ)またナガ(ナカ)は
	「蛇神」をさす呼称であり、金色の鵄は本来、長髓彦(登美彦)側の神であり「金色の蛇(トビ)=金色の鳥(トビ)」である。 
	---------------------------------------------------------------------------------------------------------------



神武天皇像(御嶽山大和本宮)




	「私の中学校の裏にデカイ神武天皇像がありますけど見に行きます?」と今崎さんが聞く。「え、神武天皇像?誰が建てたんで
	すか?」「ううん、何か宗教団体ですけどね。デカイですよ。」「行きましょう。」




	<奈良サンケ情報館HP>
	御嶽教は木曽節なかのりさんで有名な木曽の霊峰「御嶽」を信仰の根本道場として発生し、昭和57年開教百周年を迎えた歴史と
	道統を持つ、山岳宗教中随一の宗教団体であります。

	全然知らなかったがこういう団体もあるんだ。山岳宗教!これぞまさしく日本古来の宗教ではないか。仏教が伝来してくる前の
	日本の宗教を守ってるのかな。




	御嶽教 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	御嶽教 (おんたけきょう) は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。創始者は下山
	応助とされている。信者は約50万人。長野県木曽郡木曽町に御嶽登拝の安全を祈願するための神殿である木曽大教殿がある。
	御嶽山を信仰根本道場としている。江戸時代に覚明行者が黒沢口登山道、普寛行者が王滝口登山道を開闢する。御嶽大神を崇拝
	する信仰者が集団結合して1882年に立教独立。経典は「御嶽教経典」と、準経典として「御嶽教神拝詞集」と「御嶽教信仰規範」
	がある。
	御祭神は 国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称し、木曽御嶽山の開闢大道彦たる
	覚明、普寛の二霊神を崇敬神として「開山霊神」と奉称する。また天神地祇八百万神を配祀神としている。



石段を登ると、なるほどデカい像が立っている。下からだとよくはわからないが5mは越えているだろう。


	<由緒> 御嶽教HPより

	江戸期、御嶽信仰の隆盛に伴い御嶽講の設立が幕府より認可されたことに因り、木曽の御嶽山は庶民の心の拠所として広く信仰
	されて参りました。その後 時が明治に移り、天皇勅裁による 御嶽教の開教が許されました。
	 開教の際 東京に設けられた大本庁は、先の大東亜戦争の戦禍を避けるが為に、長野県は木曽郡木曽福島町に疎開 、此処に木
	曽大教殿を建立し以後の教務を執り行っておりましたが、信徒の増加に伴い信徒が一同に会す大本庁としては狭小に成った為、
	全国の御嶽山信仰者が集い憩える神苑を望む声に応え、数々の候補地が検討される中、御神縁により神武天皇金鵄神話の霊地と
	して知られる大和の国、奈良市大渕町の此の地に、昭和40年9月建立御遷座なされました。
	この地は古より建国神話の舞台として語り継がれており、神武天皇東征の際、長髄彦との戦いに苦戦する神武天皇が金色に輝く
	霊鵄の奇跡により危地を脱し勝利を得た神話は殊に広く知られて居ります。
 



	御嶽山大和本宮が建立されました御土地は金鵄神話に縁ある場所として伝えられており、その御神縁を尊び奉りまして御嶽山大
	和本宮の境内 海抜110mの高所に高さ16mの御尊像をお祀りし、橿原神宮より御分霊の上で入魂鎮座なされました。



安本美典氏の「邪馬台国東遷説」に従えば、この像の主は我がふるさと(福岡県朝倉市)の大先輩と言うことになるのだが。





「天神地祇八百万神を配祀神としている。」ので、広い境内には色々な神様が祀ってある。知らない神もいた。











忍熊皇子旧蹟 (おしくまのおうじきゅうせき)


	御嶽山からの帰り、今崎さんから「押熊皇子の墓というのは行きました? もう例会で廻りましたか?」と聞かれた。すぐに
	は誰のことなのか思い出せず、また例会で廻った記憶もないのでそう答えると、「じゃ、そこを廻っていきましょう。」と遠
	回りして連れてきてくれた。そうか、応神天皇の異母兄だったか。




	■「八幡神社」 奈良市押熊町(おしくまちょう)

	「八幡神社」の祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)すなわち応神天皇である。創建は、はっきりしない。境内にある
	元禄13年(1700)の石灯籠に「八大龍王」とあり、中山町の「八幡神社」を勧請したそうである。元禄15年の「八幡宮四
	通ッ座次第押熊宮座衆」等の宮座記録が残っているそうで、かっては神宮寺として「和州御領郷鑑」に記載の「福成寺」が境
	内にあった。現在、境内のはずれに「香坂王子、忍熊王子 旧跡地」があるが、争った異母兄弟同士が同じ所に祀られている
	のはなかなか面白い。

	仲哀天皇 (古事記中巻)

	帶中日子天皇 坐穴門之豐浦宮 及筑紫訶志比宮 治天下也 此天皇 娶大江王之女 大中津比賣命 生御子 香坂王 忍熊
	王【二柱】 又娶息長帶比賣命【是大后】生御子 品夜和氣命 次大鞆和氣命 亦名品陀和氣命【二柱】 此太子之御名所以
	負大鞆和氣命者 初所生時 如鞆宍生御腕 故著其御名 是以知坐腹中國也 此之御世 定淡道之屯家也

	帶中日子(たらしなかつひこ)の天皇は穴門の豐浦の宮、及び筑紫(つくし)の訶(か)志(し)比(ひ)の宮に坐しまして
	天の下治しめしき。 此の天皇、大江の王の女 、大中津比賣(おおなかつひめ)の命を娶りて生みし御子は香坂(かぐさか)
	の王、忍熊(おしくま)の王【二柱】。 また息長帶比賣(おきながたらしひめ)の命を娶りて【是は大后(おおきさき)な
	り】生める御子は、品夜和氣(ほむやわけ)の命。 次に大鞆和氣(おおともわけ)の命、またの名は品陀和氣(ほむだわけ)
	の命【二柱】。 此の太子(ひつぎのみこ)の御名、大鞆和氣(おおともわけ)の命と負わせる所以は、初めて生れし時、鞆
	(とも)の如き宍(しし)、御腕(みただむき)に生り。 故、其の御名に著けき。 是を以ちて腹に坐しまして國に中りし
	を知りぬ。 此の御世に淡道の屯家を定めき。

	足仲彦天皇 仲哀天皇(日本書紀 卷第八)

	二年春正月甲寅朔甲子 立氣長足姫尊爲皇后 先是 娶叔父彦人大兄之女大中姫爲妃 生坂皇子・忍熊皇子 次娶來熊田造祖
	大酒主之女弟媛 生子譽屋別皇子




	第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)には、母は彦人大兄の女・大中媛(おおなかつひめ 大中津比売命)との間に香坂
	皇子(かごさかのみこ)と、忍熊皇子(おしくまのみこ)という2人の王子がいた。そして神功皇后(じんぐうこうごう)と
	の間には、九州で生まれた誉田別皇子(ほんだわけのみこと、後の応神天皇)がいた。香坂皇子と忍熊皇子は、誉田別皇子と
	は異母兄弟ということになる。

	古事記・日本書紀によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、新羅を討った翌年2月、神功皇后は穴門の豊浦宮に移り、仲哀
	天皇の遺骸をおさめて、海路より都に向かった。神功皇后が筑紫で誉田別尊(後の応神天皇)を出産したとの報に接した忍熊
	皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、兄の香坂皇子と共謀して、筑紫から新しく産まれた皇子とともに凱旋する
	皇后軍を迎撃しようとした。
	忍熊皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って播磨赤石(明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)・五十狭茅宿禰
	(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を向かわせた。ところが、菟餓野(とがの、兵庫県神戸市灘区の都
	賀川流域か?あるいは大阪市北区兎我野町との説も。)で、はかりごとが成功するかを占う神意狩を行った際、香坂皇子が突
	然現れた赤い猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉(神戸市)に後退した。
	一方の神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。忍熊王は更に退いて菟道(うじ
	京都府宇治)に陣立てし、武内宿禰(たけのうちのすくね)・武振熊(たけふるくま 和邇(わに)氏の祖)を将軍とする皇
	后軍に挑んだが、武内宿禰の策略(武器を隠し持ちながら、弓の弦を切り、武器を捨てたふりをして忍熊皇子と和睦を図る)
	によって弓・刀を失い、逃走の果て、近江の逢坂にて敗れた。逃げ場を失った忍熊皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に身
	を投げた。その遺体は数日後に菟道河で発見されたという。忍熊皇子の部下たちは、近江の狭狭浪(ささなみ)の栗林(くる
	す)で切られた。
	仲哀天皇・神功皇后の実在性が疑われる中で、皇子もその例外ではない。この反乱は、後の草壁皇子・大津皇子の対立をベー
	スとして応神天皇即位の正当性を示すために創作されたとする説もある。






	記紀は皇室を万世一系としているが、古代史の分野でも、系譜の詳細な検討や和風諡号(しごう)(おくりな)の比較などから、
	応神天皇を境に王朝が交代したとする学説が有力で、それぞれの始祖の天皇や根拠地から旧王朝を崇神王朝(三輪王朝)、新王
	朝を応神王朝(河内王朝)と呼ぶ場合もある。塚口義信・堺女子短大学長(日本古代史)は、考古学的にうかがえる盟主権の変
	動を投影した記述として、仲哀記、神功紀に見える忍熊王(おしくまのみこ)の反乱を挙げる。

	「仲哀天皇没後、神功皇后が三韓征伐を終え、生後まもない誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を伴い筑紫から大和へ帰還する際、
	皇子の異母兄の忍熊王らが「吾等(われら)何ぞ兄を以て弟に従はむ」と挙兵した。皇后は詭計(きけい)を用いて忍熊王を破
	り、誉田別皇子が皇太子となる。のちの応神天皇だ。「忍熊王の反乱の実体は、朝鮮半島政策を巡る4世紀末のヤマト政権の内
	部分裂で、その結果、応神が大王家の正当な後継者である忍熊王を打倒して河内王朝を樹立した。日向の諸県君(もろがたのき
	み)一族が河内大王家の姻族となっているのは、彼らが応神側に加担し勝利に貢献したことを物語っている」

	塚口氏はさらに、いわゆる神武東征――初代天皇を日向出身とする伝説も、5世紀の河内王朝の時代に、4世紀末の内乱をモデ
	ルに構想されたものとみる。つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身とすることによって、
	自らを正当化しようとしたというのだ。
	日向を出発した神武天皇の船団は、河内の草香邑(くさかのむら)の白肩之津(しらかたのつ)(東大阪市)に上陸する。この
	草香こそは5世紀代、諸県君一族の髪長媛(かみながひめ)と仁徳天皇の間に生まれた大草香皇子(おおくさかのみこ)ら日向
	系王族の拠点だった。
	「神武が日向を出発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。神武が大和の在地豪族長髄彦(ながすねびこ)を破り、橿原
	宮(かしはらのみや)(奈良県橿原市)で即位したとする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)(同)で即
	位したことに対応している」

	塚口説によれば、大和を攻め滅ぼして即位したのは神武ではなく、河内王朝の応神だったということになる。また、そうならば
	長髄彦=忍熊王という図式になるのだ。まったく解釈っておもしろいね。






	福井県丹生郡越前町織田金栄山に鎮座する「剱神社」は、祀神が素戔嗚尊・気比大神・忍熊王で、以下のような由来に基づく。
	古来より、この地には素戔嗚尊が祀られていたという。伊部郷座ヶ嶽の山上にイソシキノイリヒコ命がつくらしめた神剣を伊
	部臣が鎮斎したものを神功皇后摂政13年(873)に、忍熊王が当地に祀ったことにはじまる。
	忍熊王は仲哀天皇の皇子であり、都を離れて越の国に遠征され賊徒を征討。悪戦苦闘の際に、霊夢によって伊部臣にあい、神
	剣を得て賊徒を平定。この神剣をもって素戔嗚尊の御霊代(都留伎日古命)としていつき祀り、忍熊王は神恩感謝の為に織田
	の地に社をいとなみ「劔大明神」としてまつられた。忍熊王が当地にて薨去されると、里民らは忍熊王をあわせて祀り、のち
	に父神である気比大神とともに祀ったという。この伝承では忍熊王は越前で死んでいる。




	忍熊王(おしくまおう)と香坂王(かごさかおう)

	日本書紀によれば、忍熊王と兄の香坂王は、仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の娘、大中姫(仲哀天応の妃)である。仲哀天
	皇崩御の後、神功皇后は新羅出兵を終え、筑紫に還り、誉田別皇子(後の応神天皇)をお生みになった。翌年春2月、皇后は、
	皇子とともに大和へ凱旋の途につかれたが、このことを知った忍熊・香坂両王は、皇位が幼皇子に決まることを恐れ、皇后軍
	を迎え撃とうと菟餓野(今の大阪市北区)に出て、その吉凶を占うと狩りを催した時、兄の香坂王は、突然、赤猪に襲われて
	亡くなられた。
	弟の忍熊王とその軍は、皇后軍のため次第に押され、菟道(宇治)まで退却。一方皇后軍は、3月の始めに山背(山城)へ進
	出し、菟道に至って河の北に布陣。戦闘を始めようとした忍熊軍は、謀略にあざむかれて敗走。山背と近江の堺の逢坂におけ
	る最後の戦にも敗れ、忍熊王は、瀬田の渡し場付近で入水して亡くなられた。 
	この日本書紀の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物・王の1人であったと考えられる。そ
	して、この地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」とのかかわりも考えてみる必要もある。古来よ
	り、連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域の歴史を忍ぶことができる。忍熊王子神社の祭日は、4月18日で、当日は、
	業を休み、「よもぎだんご」を作って祖先にお供えするとともに、近隣縁者の家に配る風習がある。
	
	ここ「押熊」は、鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の「添下郡京北三里の所に「秋篠押熊原」との地名がみえ、
	また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の記入があることにより、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であること
	に疑いはない。なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「カゴ坂」は、押熊の祖先が、香坂王に因んでつけた名称であろう。

					  




	忍熊王の反逆(古事記中巻)

	於是息長帶日賣命 於倭還上之時 因疑人心 一具喪船 御子載其喪船先令 言漏之御子既崩 如此上幸之時 香坂王 忍熊
	王聞而 思將待取進出斗賀野 爲宇氣比獵也 爾香坂王騰坐歴木而 是大怒猪出 堀其歴木 即咋食其香坂王 其弟忍熊王 
	不畏其態 興軍待向之時 赴喪船將攻空船 爾自其喪船下軍相戰 此時忍熊王以難波古師部之祖伊佐比宿禰爲將軍 太子御方
	者 以丸邇臣之祖 難波根子建振熊命爲將軍 故追退到山代之時 還立各不退相戰 爾建振熊命權而 令云息 長帶日賣命者
	既崩 故無可更戰 即絶弓絃欺陽歸服 於是其將軍既信詐 弭弓藏兵 爾自頂髮中採出設弦【一名云宇佐由豆留】更張追撃 
	故逃退逢坂 對立亦戰 爾追迫敗沙沙那美悉斬其軍 於是其忍熊王與伊佐比宿禰共被追迫 乘船浮海歌曰 

	 伊奢阿藝
	 布流玖麻賀
	 伊多弖淤波受波
	 邇本杼理能
	 阿布美能宇美
	 迦豆岐勢那和

	即入海共死也

	是に息長帶日賣の命、倭(やまと)に還り上りし時に人の心疑わしきに因りて、喪船を一つ具えて、御子を其の喪船に載せ、
	先ず「御子は既に崩(かむざ)りぬ」と言い漏(もら)さしめき。 如此(かく)上り幸でます時に、香坂(かごさか)の王
	・忍熊(おしくま)の王聞て、將に待ち取らんと思いて斗賀野(とがの)に進み出でて宇氣比獵(うけひがり)爲しき。爾く
	して香坂の王、歴木(くぬぎ)に騰り坐しまして是(み)るに大いなる怒り猪(い)出でて、其の歴木を堀りて、即ち其の香
	坂の王を咋い食みき。 其の弟、忍熊の王、其の態(わざ)を畏(かしこ)まずて軍を興して待ち向えし時に、喪船に赴きて
	空船を攻めんとしき。 爾くして其の喪船より軍を下して相戰いき。 此の時忍熊の王、難波(なには)の古師部(こしべ)
	の祖、伊(い)佐(さ)比(ひ)の宿禰を將軍(いくさのきみ)と爲し、太子(ひつぎのみこ)の御方は丸邇(わに)の臣の
	祖、難波根子建振熊(なにはねこたけふるくま)の命を以ちて將軍(いくさのかみ)と爲しき。 故、追い退けて山代に到り
	し時、還り立ちて各(おのおの)退かずて相い戰いき。爾くして建振熊の命、權(たばか)り云わしめて「息長帶日賣の命は
	既に崩りぬ。 故、更に戰う可き無し」。 即ち弓絃(ゆづる)を絶ちて欺陽(いつわ)りて歸服(まつろ)いぬ。 是に其
	の將軍、既に詐りを信(う)けて、弓を弭(はづ)し兵(つわもの)を藏(おさ)めき。 爾くして頂髮(たふさぎ)の中よ
	り設(ま)けし弦【一の名を宇(う)佐(さ)由(ゆ)豆(づ)留(る)と云う】を採り出し更に張りて追い撃ちき。故、逢
	坂(あふさか)に逃げ退きて、對(むか)い立ちてまた戰いき。 爾くして追い迫(せ)めて沙(さ)沙(さ)那(な)美
	(み)に敗り悉く其の軍(いくさ)を斬りき。 是に其の忍熊の王と伊佐比の宿禰、共に追い迫めらえて、船に乘り海に浮び
	歌いて曰く

	 伊(い)奢(ざ)阿(あ)藝(ぎ)
	 布(ふ)流(る)玖(く)麻(ま)賀(が)
	 伊(い)多(た)弖(て)淤(お)波(は)受(ず)波(は)
	 邇(に)本(ほ)杼(ど)理(り)能(の)
	 阿(あ)布(ふ)美(み)能(の)宇(う)美(み)邇(に)
	 迦(か)豆(づ)岐(き)勢(せ)那(な)和(わ)  

	 いざ吾君
	 振熊が
	 痛手負はずは
	 鳰鳥の
	 淡海の海に
	 潜きせなわ
 
	即ち海に入りて共に死にき。




	「忍熊王子、香坂王子旧蹟地」と彫った石塔が見える。忍熊皇子が死んだ場所は近江だし、猪に食われた香坂皇子は神戸か
	あるいは大阪で死んでいるのに、どうして奈良のここが忍熊皇子・香坂皇子2人の旧跡地として残っているのだろうか。
	奈良市押熊町という名前は確かに残っているし、「カゴ坂」「カゴ池」という地名もある。しかし記紀には2人がここに住
	んでいたような記述は無いようである。
	上記遺跡の説明板によれば、「古来より、連綿として忍熊王を奉斎してきたこの地域」と表現されているし、今でも「忍熊
	王子神社の祭日は、4月18日で、当日は、宮座の者が参列して古来の儀式によりお祭をする。」とある。同じく説明板に
	は「ここ「押熊」は、鎌倉時代に作成された「西大寺田園目録」の中の「添下郡京北三里の所に「秋篠押熊原」との地名が
	みえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の記入があることにより、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名で
	あることに疑いはない。」ともある。説明板は、「なお、この旧跡地に隣接する「カゴ池」「カゴ坂」は、押熊の祖先が、
	香坂王に因んでつけた名称であろう。」と結んでいるが、果たして押熊の祖先が名付けたのか、ずっと後世になって誰かが
	付けたのか、今となっては誰にもそれは証明出来ない。それが歴史を学ぶ醍醐味でもある。


	息長足姫尊 ~功皇后(日本書紀 卷第九)

	即收天皇之喪 從海路以向京 時■坂王 忍熊王 聞天皇崩 亦皇后西征 并皇子新生 而密謀之曰 今皇后有子 群臣皆
	從焉 必共議之立幼主 吾等何以兄從弟乎 乃詳爲天皇作陵 詣播磨興山陵於赤石 仍編船?于淡路嶋 運其嶋石而造之 
	則毎人令取丘 而待皇后 於是 犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰 共隷于■坂王 因以 爲將軍 令興東國兵 時■
	坂王 忍熊王 共出菟餓野 而祈狩之曰 【祈狩 此云于氣比餓利】 若有成事 必獲良獸也 二王各居假? 赤猪忽出之
	登假? 咋■坂王而殺焉 軍士悉慄也 忍熊王謂倉見別曰 是事大怪也 於此不可待敵 則引軍更返 屯於住吉 時皇后聞
	忍熊王起師以待之 命武内宿禰 懷皇子 横出南海 泊于紀伊水門 皇后之船 直指難波 于時 皇后之船 廻於海中 以
	不能進 更還務古水門而卜之 於是天照大~誨之曰 我之荒魂 不可近皇居 當居御心廣田國 即以山背根子之女葉山媛令
	祭 亦稚日女尊誨之曰 吾欲居活田長峽國 因以海上五十狹茅令祭 亦事代主尊誨之曰 祠吾于御心長田國 則以葉山媛之
	弟長媛令祭 亦表筒男 中筒男 底筒男 三~誨之曰 吾和魂宜居大津渟中倉之長峽 便因看徃來船 於是 隨~ヘ以鎭坐
	焉 則平得度海 忍熊王復引軍退之 到菟道而軍之 皇后南詣紀伊國 會太子於日高 以議及群臣 遂欲攻忍熊王 更遷小
	竹宮 【小竹 此云之努】適是時也 晝暗如夜 已經多日 時人曰 常夜行之也 皇后問紀直祖豐耳曰 是怪何由矣 時有
	一老父曰 傳聞 如是怪謂阿豆那此之罪也 問 何謂也 對曰 二社祝者 共合葬歟 因以 令推問巷里 有一人曰 小竹
	祝與天野祝 共爲善友 小竹祝逢病而死之 天野祝血泣曰 吾也生爲交友 何死之無宜同穴乎 則伏屍側而自死 仍合葬焉
	蓋是之乎 乃開墓視之實也 故更改棺? 各異處以埋之 則日暉炳 日夜有別 ○三月丙申朔庚子 命武内宿禰・和珥臣
	祖武振熊 率數萬衆 令撃忍熊王 爰武内宿禰等 選精兵 從山背出之 至菟道以屯河北 忍熊王出營欲戰 時有熊之凝者
	爲忍熊王軍之先鋒 【熊之凝者葛野城首之祖也 一云 多呉吉師之遠祖也 一云多呉吾師之遠祖也】 則欲勸己衆 因以高
	唱之歌曰 烏智箇多能 阿邏々麻菟麼邏 摩菟麼邏珥 和多利喩祇? 菟區喩彌珥 末利椰塢多具陪 宇摩比等破 于摩譬
	苔奴知野 伊徒姑播茂 伊徒姑奴池 伊裝阿波那 和例波 多摩岐波? 于池能阿層餓波邏濃知波 異佐誤阿例椰 伊裝阿
	波那 和例波 時武内宿禰 令三軍悉令椎結 因以號令曰 各以儲弦藏于髮中 且佩木刀 既而乃擧皇后之命 誘忍熊王曰
	吾勿貪天下 唯懷幼王 從君王者也 豈有距戰耶 願共絶弦捨兵 與連和焉 然則 君王登天業 以安席高枕 專制萬機 
	則顯令軍中 悉斷弦解刀 投於河水 忍熊王信其誘言 悉令軍衆 解兵投於河水 而斷弦 爰武内宿禰 令三軍 出儲弦 
	更張 以佩眞刀 度河而進之 忍熊王知被欺 謂倉見別・五十狹茅宿禰曰 吾既被欺 今無儲兵 豈可得戰乎 曳兵稍退 
	武内宿禰出精兵而追之 適遇于逢坂以破 故號其處曰逢坂也 軍衆走之 及于狹狹浪栗林而多斬 於是 血流溢栗林 故惡
	是事 至于今 其栗林之菓不進御所也 忍熊王逃無所入 則喚五十狹茅宿禰 而歌之曰 伊裝阿藝 伊佐智須區禰 多摩枳
	波? 于知能阿曾餓 勾夫菟智能 伊多?於破孺破 珥倍廼利能 介豆岐齊奈 則共沈瀬田濟而死之 于時 武内宿禰歌之
	曰 阿布彌能彌 齊多能和多利珥 伽豆區苔利 梅珥志彌曳泥麼 異枳廼倍呂之茂 於是 探其屍而不得也 然後 數日之
	出於菟道河 武内宿禰亦歌曰 阿布瀰能瀰 齊多能和多利珥 介豆區苔利 多那伽 瀰須疑? 于泥珥等邏倍菟 




	「忍熊王子、香坂王子旧蹟地」

	・忍熊皇子(おしくまのみこ、? - 神功皇后元年(201年)3月)
	・香坂皇子(かごさかのみこ、? - 神功皇后元年(201年)2月)

	明治百年記念に建立された「忍熊王子、香坂王子旧蹟地」という石碑がある。香坂皇子は、香坂王、香坂王子とも、同じく
	忍熊皇子についても、忍熊王、忍熊王子とも表記される。この「香坂王子、忍熊王子 旧跡地」は、押熊町の八幡神社(奈
	良市押熊町287番地)より、東の鳥居(南にも鳥居がある)の、少し高台の竹藪のなかである。
	神社のように鳥居を持っているが拝殿はなく、写真のような小さな塚が旧蹟地になっている。地名としての「押熊」の由来
	は、奈良県の最北端にあるところから、クマは、「曲」「隅」という意味であり、いずれも、隅の方という意味だという。
	今崎さんによれば、ここから裏へ下っていく坂が「カゴ坂」で、その先に「カゴ池」があるという。この日は5時でもうま
	っくらになり、デジカメはフラッシュを炊いてもうまく写らなかった。上の写真は昼間の旧蹟。ちなみにカゴ坂のカゴは、
	書記では以下のようなややこしい字である。

	

	この旧蹟地というのは、墓なのかそれともここが本貫地と言うことで祀ってあるのかよくわからないが、ここが「押熊」と
	いう地名なので、ここに祀られたものと考えた方が良さそうである。香坂皇子と忍熊皇子が、明石で父の陵を造るふりをし
	た謀(はかりごと)の占いは、「菟餓野(とがの)」という地名だが、この場所は、大阪北区、神戸市灘区(都賀野川)の
	2つの候補がある。また、この2人の皇子の母、仲哀天皇妃の大中媛(おおなかつひめ:大中津比売命)の墓は、兵庫県宝
	塚市の安産祈願で有名な「中山寺」にあり、ここに忍熊皇子の墓もあるというが私はまだ見ていない。  
 
   





	-----Original Message-----
	From: imazaki-cosmos2 [mailto:]
	Sent: Sunday, November 26, 2006 5:49 PM
	To: 筑前
	Subject: ニギハヤヒ関係:今崎です。

	こんにちは。今崎です。
	さて、生駒市史を見ていくつかわかったことをお知らせします。

	@ニギハヤヒ命墓のある山の名は 桧窪山(旧本には日の窪山ともある)で、塚名は山伏塚
	A金鵄発祥顕彰碑は昭和16年に建てられた
	B富雄地区では王龍寺境内のトビ神社を白庭皇居、高樋の夫婦塚をナガスネ彦本拠と考えた。
	C夫婦塚は命の妻・御炊屋姫の塚ともいう。
	Dニギハヤヒ命の陵(弓などを埋めた)には山伏塚・長弓寺内の真弓塚(弓塚)・夫婦塚などが考証されている。
	E郵便局東方にあった「金鵄発祥の地」の石碑は大正3年、大阪探勝わらじ会が建てたもの。
	F大正3年、金鵄会が発足し、ニギハヤヒ・神武・金鵄等の顕彰活動をした。
	 ・「金し発祥史蹟考」という冊子の発行・・題字は藤澤章(そう、墳墓他の石碑にかかれていた人物です)
	 ・石碑を建てる
	 ・昭和15年の文部省調査で認定され、国定教科書の扉に写真が載せられる。
	 ・敗戦に際し、米国(米軍)より、石碑の破壊を言い渡されるが、会の解散と引き替えに石碑の破壊を免れた。

	以上が斜め読みして得た情報です。また他にもいくつか当時顕彰されていたところについても記載されています。この本は
	富雄川沿いにある生駒市の北コミュニテイー内の図書室で書庫から出してもらえば見られます。全5巻で通史と資料Tに記
	載されています。場所は先日車で通ったところです。碑のあった郵便局より南に500m位、富雄川の西岸にある大きく綺
	麗な建物です。

	私もまたゆっくり読んでみたいと思います。
	では失礼いたします。



	----- Original Message ----- 
	From: "筑前" 
	To: "imazaki-cosmos2" <>
	Sent: Tuesday, November 21, 2006 11:05 PM
	Subject: ありがとうございました。

	> 本日はわざわざありがとうございました。
	> これで心残りだったニギハヤヒ命の墓にやっと行くことができました。
	> ほかにも色々と案内いただいてほんとにありがとうございました。
	> 奈良はホントに歴史深くてまだまだ山ほど行くところがありますね。
	> 機会が有ればまた是非ご一緒したいです。ではまた。
	> 筑前
	>


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