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森カシ谷遺跡

2005.5.29(日)




























	【森カシ谷遺跡】

	平成14年12月17日高取町教育委員会は、高取町大字森の「森カシ谷遺跡」の丘陵上に物見櫓(やぐら)と見られる
	柱穴や、大型の高床式建物跡、周囲に巡らされた柵跡(さくあと)などが見付かったと発表しました。7世紀後半に建て
	られたとみられ、古代幹線道路である紀路沿いの、飛鳥の内と外を分ける境界にあり、「飛鳥を守る砦」であると見られ
	ています。飛鳥の都の出入り口を監視する役目を果たしていて、望楼の下に生木を貯蔵する穴があり、狼煙(のろし)を
	あげ、飛鳥の宮と連絡を取り合っていたと考えられます。

	森カシ谷2号墳

	平成15年2月14日高取町教育委員会は、高取町大字森の「森カシ谷遺跡の砦跡」の丘陵南斜面から7世紀末に築かれ
	た円墳(終末期古墳)が見付かったと発表しました。土を何層にも突き固める版築(はんちく)工法で築かれており、築
	造時期などから被葬者は天武天皇の皇子か皇女の一人であろうと考えられます。南に大きく開く立地は風水思想の反映と
	考えられます。石室は残っていないが、下部に十字の排水溝が設けられており、排水溝の長さから直径約14mと推定さ
	れます。






	■紀 路(紀州への道)6世紀末−8世紀初頭

	古代の道、五条から和歌山へ通じる古代からの重要路。古代の紀路を偲びながら歩く。飛鳥から高取町域を経て西南方向
	へのび、遥か紀ノ川河口に達する古代には「紀路」と称され沿道にある天皇陵などが、万葉集に詠われている。紀ノ川河
	口は6世紀末まで大和朝廷の外港として重要な機能を果たし、異国の文物や渡来した人々は、紀路を経由して大和に入っ
	てきた。


		[大和古代ニュース] 

		高取で前・中期 古墳群   asahi_com  MYTOWN 奈良(2004/12/15)
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		古墳時代前期と中期の古墳群が見つかった薩摩遺跡=高取町薩摩で

		橿考研「紀路の重要度を裏付け」 薩摩遺跡と命名 珍しい文様の銅鏡も

		県立橿原考古学研究所は14日、高取町薩摩で古墳時代前期と中期の古墳群が出土したと発表した。周辺で
		遺跡が確認されたのは初めてで、地名から薩摩遺跡と命名した。国内では似た例のない文様を描いた国産の
		銅鏡が見つかるなど副葬品は豊富で、同研究所は「和歌山と大和を結ぶ『紀路』が古代の重要ルートだった
		ことを裏付ける遺跡」とみている。
		国道169号高取バイパスの建設予定地約6千平方メートルを調査した。古墳時代前期(3世紀後半)と中
		期(5世紀)の二つの時期の古墳群が見つかり、墳丘はすべて中世の水田耕作のために削られてなくなって
		いた。
		前期の古墳群には円墳と方墳が2基ずつ計4基あり、周溝(墳丘を巡る溝)に墳丘から落ちたとみられる土
		器があった。その後、一帯には集落が形成されたとみられ、竪穴住居跡3棟が出土した。

		
		古墳時代中期の方墳の周溝から見つかった珍しい文様の銅鏡
 
		中期には集落が再び古墳群に変わったとみられ、円墳や方墳など5基が出土した。周溝からは埴輪(はにわ)
		や朝鮮半島の様式をまねた土器などが見つかった。1辺10メートルの方墳跡では、4カ所に獣の文様を配
		した類例のない銅鏡(直径9・5センチ)1面や漆塗りのくし、鉄製甲冑(かっちゅう)、刀剣類などの副
		葬品が出土した。木棺跡はなかった。
		同研究所の北山峰生技師は「古墳時代中期に中国や朝鮮半島から渡来した人々が和歌浦から続く紀路を通っ
		て物や情報を大和へ運んだのだろう。被葬者はその恩恵を受けた有力首長で、豊富な副葬品がそれを表して
		いる」と話している。現地説明会は18日午前10時〜11時半。近鉄吉野線市尾駅から北東約600m。



森カシ谷遺跡(上右部分)。




	森カシ谷遺跡(2004年調査)のスライド。ここは谷の斜面に大壁遺構があった。森カシ谷遺跡は高取町大字森に所在
	する遺跡で、古代の官道「紀路」を見下ろす丘陵上にある。佐田丘陵から派生する尾根全体で遺構が検出された。尾根先
	端の頂部には6世紀に築造された古墳の墳丘を再利用して土郭(土段)をつくっている。





	土郭のまん中には東西4m、南北3m、深さ2.2mの土杭があり、内部には数カ所の柱穴があった。土杭の西側には通
	路がとりつき、周囲には柱穴がめぐる。土郭の北西低部には掘立柱建物跡があった。建物前面と側面の三方向には柵列と
	考えられる柱穴があった。建物下の平地にも柵列と思われる柱穴があった。これらの柱穴からは、僅かに須恵器・土師
	器の破片が出土している。


	「ここにこういう物見櫓が建っていたんじゃないでしょうかね」と野村さんが復元図を見せてくれる。この遺跡のある場所
	は、土が建材として非常にいいらしく、この遺跡の発見も土取りの最中に発見された。今も土を取る作業は続いているの
	で、やがてこの遺跡は消滅してしまう運命にある。 ここから紀路を通って岡宮古墳・束明神古墳を目指す。




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