Music: Carpenters
晩秋の南山城を歩く 2005.11.27(日) 歴史倶楽部 第103回例会 京都府南山城地方(相楽郡木津町・山城町・精華町)








三角縁神獣鏡が大量に出土!

	<日時>: 
		11月27日(日)  JR「木津駅」AM9:30集合
	<行程>:
		JR木津駅 − 平重衡の墓 − 和泉式部の墓 − 泉大橋 − 泉橋寺
		 − 高麗寺跡 − 京都府立山城郷土資料館 − 椿井大塚山古墳 − 
		祝園神社 − 近鉄新祝園駅 	( 合計 : 8−9km)
	<費用>:往きのみ
		<大阪組> JR大阪 − JR「木津」まで 840円
		8:15 JR大阪駅発 −(環状線)− 8:22京橋着 : 京橋発8:25 
		− (JR片町線快速) − 9:14 JR「木津駅」着
		<奈良組> JR奈良 − JR「木津」まで 190円
		9:00JR奈良発 − (JRみやこ路快速) − 9:14JR木津着
	<持ってくる物>:弁当・雨具、防寒具、その他(特に防寒具は必要かも?)
	<みどころ>






	JR木津駅の西側は、東側に比べて寂れた小さな田舎町のようだ。ここから今日の探訪がスタート。今日はこの駅から出
	発して、またここへ帰ってくる「山背古道を歩く ウォーキング」という催しが行われていて、途中ずいぶんそのラリー
	の参加者たちに道を教えた。山背は「やましろ」と呼ぶ。一説では山城は、平城京から見て後ろ(背中側)にあたること
	から、「やまのうしろ」と呼ばれていたものがやがて「やましろ」となり、「背」の字をあてていた。だが、都が平安京
	へ移り、もう「うしろ」ではない事から「城」の字が使われるようになった、という。今日の散策ルートは、一部分この
	山背古道を歩く。





JR加茂線を横切って、木津駅から北側へ5,6分歩くと「御霊神社」がある。けっこう大きな神社である。



ここから西へさらに2,3分で安福寺があり、ここに「平重衡の墓」がある。


	平重衡の墓
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	学研都市線木津駅から北へ学研都市線の踏み切りを渡り、10分ばかり歩いたところに御霊神社・安福寺があり、安福寺の
	境内を入った左手に、平重衡の墓と書かれた十三重の石塔がある。平重衡は南都焼討を行い、南都焼討に怒った東大寺・
	興福寺の宗徒の要求で重衡が木津川の河原で処刑された。

	【安福寺】 哀堂(あわれどう)と称されてきた。平清盛の5男で、一ノ谷の戦いで捕らえられ平重衡が,南都焼打で興
	福寺・東大寺を焼き払った罪で、1185年(文治元)木津川の河原で斬首され、その菩提を弔うために創建された。
	当初は哀堂と称された。

	《南都焼討》 1180年(治承4)平氏政権が行なった奈良の寺院勢力討伐事件。源平の争乱のなかで、反平氏勢力と
	して蜂起した南都の寺院勢力に対し、平重衡を大将とする討伐軍は、12月28日の夜、奈良市中に火を放ち攻略した。
	これにより、東大寺大仏殿をはじめ東大寺・興福寺の堂舎や僧房はことごとく焼失した。1184年(寿永3)一ノ谷の
	戦いに敗れ捕虜となって鎌倉へ送られる途中、1185年東大寺・興福寺の宗徒の要求で奈良に送られ、木津川の河原で
	処刑された。 




	◇平重衡[たいらのしげひら] (1157-1185)◇
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	平清盛の五男。兄弟の中でも優れた武勇を持ち、不敗の将として活躍する。1180年の以仁王の反乱時には兄・知盛や叔父
	・忠度らとともに参戦し、以仁王や源頼政を打ち破った。この際、五智院但馬や筒井明秀らの武勇に感激し、彼らへの追
	撃を止めている。この後、反平氏の南都・東大寺と興福寺の寺院勢力の平定を進言し、向かうも、重衡軍の放った火矢の
	炎が広がり、大仏が焼け落ちるという事件が起こり、平家反発感情が募る結果となってしまう。1181年に反乱を起こす源
	行家の軍を破るなどの活躍を見せるも結果都落ちとなる。拠点である屋島へ進軍する途中の源義仲軍を途中の水島で倒し、
	撤退させる。この勝利の後、平家は再び都へ戻ることを企てて、一ノ谷に陣営を敷く。しかし、重衡は梶原景時・景季親
	子が放った弓に馬をやられ、そのまま捕縛されてしまう。その後、平家壇ノ浦の敗戦後、頼朝の元へ送られ対面するが、
	そのときの重衡の態度のすばらしさに心惹かれた頼朝は彼を客として手厚く扱ったとされるが、最期は南都の僧兵らの要
	望によってそのもとへ送られ、焼き討ちの罪を一手に背負い、そこで首を落とされた。享年29(?)歳。
	<父/清盛>  <兄/重盛、基盛、宗盛、知盛>  <弟/知度、清房、清貞>



平重衡の墓 と 安福寺








	安福寺前の道路を、学研都市線に沿って10分ほど歩くと、木津川の堤防へ出る道と交差したところに出る。この角に、
	「和泉式部の墓」がある。墓そのものは、寺風の建物の後ろに隠れているが、以下にあるように、はっきり和泉式部の
	墓だと証明された遺跡ではない。あくまでも「伝 和泉式部の墓」である。それにしてもこの建物については全然説明
	がないが、いったい何だったのだろう。人も居るような感じではなかった。




	和泉式部の墓
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	京都府相楽郡木津町。恋愛体験豊富な、今で言う「飛んでる女」だった和泉式部。最初の夫が和泉守だったので、和泉を
	名乗り、実家の父親の官職名が、式部だった事から「和泉式部」と呼ばれる。もともとの名前が何だったのかは定かでな
	い。最初の夫と別れ、二度目の夫と結婚するまでの間に「和泉式部日記」を書いたようである。その再婚までの間に、ど
	うやら、冷泉天皇の2人の親王と、浮き名を流していたようだ。2人の親王にも、死別していることから、あまり男運が
	なかったのかもしれない。その恋愛が、物語に昇華されている。その後、一条天皇の中宮・彰子に仕えたことから、その
	時の権力者、藤原道長の家司だった保昌と出会い、丹後に移ったようである。丹後以降の足取りははっきりしない。その
	ためか、「和泉式部の墓」と呼ばれるものは各地にあり、京都にも2ケ所以上あるようだ。さて、ここ木津の和泉式部の
	墓は、中世の頃の五輪塔のようだが、この墓は、前述のように伝承の域を出ていない。墓にあわせて寺も建立されたのか
	もしれないが、式部の五輪塔の横にあった石碑には、誠心院と刻まれており、これが、式部の法名だそうである。

 






	和泉式部日記
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	和泉式部日記(いずみしきぶにっき)は中古三十六歌仙の一人、小倉百人一首にもその歌が収められている歌人和泉式部
	によって記された日記であり、女流日記文学の代表的作品である。平安時代を代表する歌人である和泉式部にふさわしく、
	日記のなかに和歌の贈答の場面が頻出し、この作品を大きく特徴付けている。作者は和泉式部の本人自筆の作品とされる
	こともあるものの、かつては『和泉式部物語』とも呼ばれたこともあり、また主人公であり筆者であるはずの和泉式部本
	人を「女」という三人称的呼称で扱っていることから別に作者がいるのではないか、との意見もある(この説に従うなら
	和泉式部の恋愛に仮託した日記風歌物語、ということになる)。一巻。寛弘4年(1007年)ころ成立か。

 


	和泉式部(いずみしきぶ)は平安時代中期の歌人。生没年不詳、天元 (元号)| 天元元年頃(978年?)出生とするのが通
	説。中古三十六歌仙の一人。越前国|越前守大江雅致の女。和泉国|和泉守橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官名を合わ
	せて「和泉式部」の女房名をつけられた。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘小式部内侍は母譲りの歌
	才を示した。はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれた太皇太后宮昌子内親王付きの女房だったらしい。まだ道貞の妻だっ
	た頃、冷泉天皇の第三皇子為尊親王(977年 −1002年)との熱愛が世に喧伝され、身分違いの恋だったとて親から勘当を
	受けた。

 


	為尊親王の死後、今度はその同母弟敦道親王(981年 −1007年)の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃
	が家出する因を作った。親王の召人として一子永覚を儲けるが、親王は寛弘四年(1007年)に早世した。寛弘末年(1008
	年 −1011年)、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕。四十歳を過ぎた頃、主君彰子の父藤原道長|道長の家司で武
	勇を以って知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後国に下った。




	万寿二年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが、晩年の詳細は分らない。恋愛遍歴が多く、
	道長から「浮かれ女」と評された。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的
	な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人藤原公任にも賞賛され、正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。
	敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』があるが、これは彼女本人の作であるかどうかが疑わしい。
	ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存する。 『拾遺和歌集
	/拾遺集』以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ、死後初の勅撰集『後拾遺和歌集|後拾遺集』では最多入集歌人の
	名誉を得た。


	今日、「和泉式部の墓」や供養塔と称するものが近畿一円に存在する(京丹後市、京都市、伊丹市、大阪市等々)のは、
	かって中世頃、和泉式部を信奉する宗教団体のようなものがあって、彼らが近畿圏を布教(?)して廻った為という説が
	ある。上の写真、右から来て、和泉式部の墓を見て左側へ歩く。左の道をまっすぐ行くと木津川につきあたる。





	泉橋と泉橋寺(恭仁京と行基)

	泉橋
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	恭仁京遷都に伴い天平13(741)年,木津川を越えて新京を造るため泉河にいくつかの橋がわたされた。その中で行基が
	優婆塞(ウバソク)らの弟子を率いて同年の7月から10月にかけて,現在の国道24号線,木津町と山城町とを結ぶ泉大橋
	の近くに造営したのが泉橋である。 足利健亮氏によると泉橋によって結ばれた南北に伸びる道は恭仁京右京の中心道で
	あり,山背国府の中央道だった。 現在泉橋寺の西を真直ぐに走る道路(作り道)がその名残りである。橋は度々流失し
	たので,平安時代には泉橋寺に渡船が備えられた。 渡船は明治26年12月に先代の泉橋が架橋されるまで続いした。この
	橋の橋脚は現在,泉橋寺の300メートル下流に残っている。尚,現在の泉大橋は国道24号線の開通に伴い戦後に架けら
	れたものである。
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	【木津川】
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	古くは輪韓鼻河(わからがわ)、山代河、泉河(いずみがわ)と呼ばれた。鈴鹿山脈、布引山地を源とし三重県西部、
	京都府南部を西流し、八幡市橋本で淀川に流入する。古代から近江、山代、大和、摂津の四国を結ぶ水上交通の中核と
	して利用されており、木材などが盛んに輸送された。




	泉橋寺
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	泉橋寺は行基建立畿内49院の一つで泉河架橋のために建立された泉橋院(発菩提院・隆福尼院)を前身とする。泉橋
	院が創建された天平12(740)年は聖武天皇によって恭仁京遷都が始まった年にあたる。翌年には行基とその弟子
	達の手により泉橋が架橋された。恭仁京はわずか4年で廃都となったが,泉橋寺はその後も木津川で命を落とした人々
	の供養をし,救済する寺院としての活動を続けた。浄土宗知恩院派。
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	泉橋寺のお地蔵さん
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	鎌倉時代に入ると奈良,般若寺の僧,真円上人が泉橋寺に地蔵石仏を造立した。これが今に残る「泉橋寺のお地蔵さん」
	である。この時建てられた地蔵堂はのちの応仁の乱で大内政弘に焼き払われてしまう。江戸時代に入って頭部と両手が
	修復され,今に伝わる姿となった。鎌倉時代は今よりも少し大きく,台座や光背を備えた立派な姿であったようだが、
	今も鎌倉時代の風格をもつ日本最大の地蔵石仏として雄大な姿をとどめている。



熱心にお地蔵さんを拝んでいる近所のおじさん。ずいぶん長いこと拝んでいた。


	泉橋寺から24号線へもどり、「福寿園」(お茶の伊右衛門を作っている。昼食後に寄った。)を左に見て、木津川沿
	いに高麗寺と山城郷土資料館を目指す。車道から田んぼの中へ入っていく道沿いに高麗寺はあった。この道を木津川に
	沿ってさらに東へ行けば、聖武天皇の恭仁京(くにきょう)跡へ行く。私はもう二度行った。



	高麗寺(国史跡)  渡来人・高麗(こま)氏・狛(こま)氏と高麗寺(こまじ)跡
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	7世紀初頭(飛鳥時代)に創建されたわが国最古の仏教寺院の一つである。この地がかって相楽郡大狛郷に属すること
	から、朝鮮三国のうちの高句麗からの渡来系氏族・狛氏とのかかわりが指摘されており、文献資料からは、天平年中
	(奈良時代)に存在したことが「日本霊異記」に記されている。伽藍は、木津川を見下ろす台地に南面して立地し西に
	金堂、東に塔を持つ発起寺式の伽藍配置で塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装しており、講堂の両翼から伸びた回
	廊は塔、金堂を囲んで中門に接続する。寺域は東西約200m、南北は190mの規模を持ち、その周辺には諸堂塔に葺かれ
	た瓦を生産した高麗寺瓦窯や高井手瓦窯が存在し、北方には高麗寺造営氏族のものと考えられる大規模な居館跡(上狛
	東遺跡)が発見されている。





	高麗寺跡は1934年(昭和9年)、山城町の上狛に住む中津川さんが発見した。ここもまた高麗氏が渡来して開いたとこ
	ろである。創建については諸説があり、確かなことは未だ不明であるが、飛鳥時代に南山城に勢カを伸ばした渡来氏族
	高麗氏・狛氏によって創建されたと推定されている。1938年(昭和13)の発掘調査で、東に塔、西に金堂、北に
	講堂を配する法起寺式伽藍配置が確認された。 高麗氏・狛氏は高句麗から渡来した氏族。高句麗滅亡時に渡来した者
	が特に多いと考えられる。



今でもまだ、道の両側を発掘していた。テントの中に発掘道具があるのだろう。出土品を入れるトロ箱は空っぽだった。

 



下はこれから行く「山城郷土資料館」にある、この遺跡からの出土品と展示。







 

 



 

塔心の柱跡に立つ高野さん(上左)と錦織(上右)さん。





さすがに道路は掘れないが、道路のすぐ脇を掘っている。昭和15年に国の史跡に指定されていて、まだ掘ったら何か出るんだろうか。



 

「遺跡」の文字はもう地中に埋まっている(上左)。


	
	遺跡の全体。左側、田んぼ畑の向こうを木津川が流れている。ここから山城郷土館までは歩いてすぐである。狭い地道か
	ら車の往来が多い車道へ出て5,6分である。






	ふるさとミュージアム山城「京都府立山城郷土資料館」
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	南山城地域の歴史、考古、民俗資料の収集、展示を行っている。椿井大塚山古墳の鏡も一部展示されている。
	京都府相楽郡山城町上狛千両岩  電話 0774−86−5199  FAX  0774−86−5589 
	開館時間 午前9時〜午後4時30分  休館日 毎週月曜日 祝日の場合は開館し、翌火曜日休館 
	入館料 一般 200円、小中学生 50円 (特別展示 一般250円小中学生70円)
	交通案内 JR奈良線上狛駅下車徒歩20分 JR関西本線・学研都市線木津駅下車タクシー5分
	近鉄京都線山田川駅下車タクシー10分



 
上右、大きな木の陰で木津川を眺めながら昼食を取った。少し風が吹くと寒いような天気だったが、川べりは気持ちが良かった。
国道24号線へ戻り、車道を避け脇道を入り山背古道を通って椿井大塚山古墳を目指したが、脇道を入った所に福寿園があった。



	京都福寿園(きょうとふくじゅえん) サントリー「伊右衛門」の工場
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	福寿園は知らなくても、お茶の「伊右衛門」を知らない人はあまりいないだろう。ペットボトルの真ん中がへこんだ形
	をしていて、お茶も緑茶のなかでは、なかなかおいしい。私も愛飲家だ。サントリーは、この福寿園がここでお茶にし
	たものを受け取って、「伊右衛門」のラベルを貼って販売している。福寿園は、寛政二年(1790)創業の茶業家で、伊
	右衛門とは、福寿園の創業者の名前である。木津川の土手で昼食をとった後、山背古道を北を目指して歩き出した所に
	福寿園の資料館があった。覗き込んでいると「本部長」という名札をつけたおじさんが車から降りてきて、「ご案内し
	ましょうか?」と言う。急ぐ旅でもないし、いつぞやは宇治で「上林家」の資料館も見たので、ここも見学させてもら
	うことにした。





今は近代的な工場になっている「福寿園」。(写真は福寿園のHPから)









福寿園の資料館を出て山背古道へ出たところで、山城茶業組合(だったかな?)がキャンペーンをやっていた。








	山背街道沿いに「環濠集落」があるはずだというのでだいぶ探したが見つからなかった。河内さんがどうしても見たい
	というので、山城町役場まで行って訪ねたがわからなかった。「案内の看板にまで載ってるのに、役場がわからんのか
	い!」と河内さんはご立腹だったが、な、なんと、役場を出て古道へ入ったとたんにこの看板があった。これから先の
	集落全体がかっての環濠集落だった。環濠はいまやその面影は無く、ただの溝にしか見えなかったが、確かに大きく集
	落を取り囲んでいる。大きな集落だったのだ。中世にこの地方を支配していた狛氏(こまし)の居館もこの環濠集落に
	あったと説明にある。









環濠集落の中にあった「西福寺」歴代狛氏の墓があった。狛氏一族の菩提寺だったのだ。















山背古道を行く。この古道をあるくラリーの参加者たちと、このあたりで沢山すれ違った。ここから椿井大塚山古墳はすぐだ。










	祝園(ほうその)と武埴安彦(たけはにやすひこ)
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	武埴安彦が斬殺された祝園(ほうその)一帯では多くの者が命を失ったため,この地を「はふりその」と呼ぶようになっ
	た(祝園の語源)。また、記紀の記述では武埴安彦は弓で射られて死んだことになっているが、別の伝承では木津川の
	ほとりで斬殺され、首は対岸まで飛んでいったとされている。戦乱の後も彼の霊が天災、疫病となって人びとを悩ませ
	たので、首の飛んで来たところに湧出宮が、胴体が遺されたところに祝園神社が建てられ、武埴安彦をはじめ、戦いで
	散った者たちの霊をおさめ、農作物の豊作を祈念しした。祝園神社の居籠りまつりは、毎年正月の申の日から3日間行
	われる。祭りの期間中、氏子は身を清めて、物音をたてず、居籠る。悪霊を鎮め、今年も平和で、稔り豊かであること
	を祈るのである。





	湧出宮(わきでのみや)
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	祝園神社の、木津川対岸の棚倉には、湧出宮が鎮座している。境内に縄文遺跡を有する湧出宮の森はいまなお多くの木
	々が鬱蒼と繁り、太古からの人の営みを今に伝えているが、ここでも毎年2月に居籠りまつりが行われている。居籠り
	という点で共通することが多いものの、こちらは、祝園よりもより、農耕文化の起源と中世の宮座の様子をよく伝えて
	いる。二つの居籠りまつりはともに京都府無形民俗文化財に指定されている。いずれも冬という死の季節に終わりを告
	げ、生命の再生の季節、春の訪れを言祝ぐ行事である。






	日本書紀 −巻五第三話 武埴安彦の反乱

	一部では、わが国初の実在天皇ではないかともされている崇神天皇。記紀によると、彼は崇神十年の九月、大和朝廷の
	更なる封土を求めて、「四道将軍」を各地へ派遣する。四道将軍とは、北陸担当の「大彦命(おおひこのみこと)」、
	東海担当の「武渟川別(たけぬなかわわけ)」、西道担当の「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと:吉備津彦)」、
	丹波担当の「丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)」である。諸国のまつろわぬ者どもを征討するための将軍派遣
	であるが、これは崇神天皇の時代、まだまだ大和朝廷による王権の確立がなしえていなかったことを物語っている。葛
	城から生駒山麓、山城地方を根拠地とする武埴安彦は、妻の吾田媛(あたひめ)と南山城で兵を挙げる。武埴安彦は大
	日本根子彦国牽天皇(第8代孝元天皇)の皇子であり、これは葛城王朝が王権奪取を目指して大和政権に起こした反乱
	であるという見方もある。




	北陸を担当する大彦命が、和珥の坂(今の奈良県天理市近辺)にさしかかると、一人の少女が歌をうたっているのを耳
	にした。

	「御間城入彦(ミマキイリヒコ)はや 己が命を 殺せむと ぬすまく知らに 姫遊すも」

 


	御間城入彦(崇神天皇)は自分の命をねらっているがのあるともしらず、女遊びにふけっているよ、というのである。
	大彦命はあやしんでその意味をたずねたが、少女はなにもいわずに消え去った。そこで大彦命はすぐに天皇のもとへ立
	ち帰り、この話をしたところ、倭迹迹日百襲姫がただちにいった。「これは武埴安彦が謀叛するという前兆です。かれ
	の妻吾田媛がひそかに香久山の土を取って帰ったということも聞いています。これは大和の土地を盗みとってやろうと
	の魂胆にほかなりません」

 


	そこで天皇は戦の準備をすすめていると、そこへ武埴安彦とその妻の軍勢が押し寄せてきた。天皇はこれを迎え撃ち、
	まず吾田媛を吉備津彦の軍が大坂で破り、武埴安彦は山代川を隔てて、大彦命と和珥(わに)氏の先祖、彦国葺(ひこ
	くにぶく)の軍と戦いを挑み、祝園で殺された。この合戦で天皇軍が山へのぼり草木を踏みならしたので、いまの(大
	和を)奈良山といい、この川を「挑み川」(泉河)と呼ぶようになった。山代川も泉河も木津川の旧称である。

 

紅葉はもう終わりで、最後の赤がその鮮やかさを際立たせている。「赤とおっさん」。



「居籠り祭り」が伝わる山城町棚倉の湧出宮





上の写真も一人後から追加した合成写真。これは誰を追加したかすぐわかりますね。



	また、戦いで敗れた兵が逃げるとき屎(くそ)が褌(はかま)より漏れた。そこで甲を捨てて逃げようとしたが、逃げ
	られないことを知って地に頭を着けて許しを乞うた。甲を脱ぎ捨てた地を伽和羅(かわら)といった。また兵が逃げる
	とき屎が褌より漏れた地を屎褌(くそばかま)といった。今、樟葉(くすは)というのは、これがなまったものである。
	また兵が地に頭を着け許しを請うた地を我君(あぎ)といった。

	こうして武埴安彦の反乱は鎮圧された。と書紀は記録している。



湧出宮すぐ前の、JR棚倉駅前では、山背古道を歩くラリーを当て込んで出店や勧誘テントがひしめいていたがもう店じまいのようだった。





棚倉駅西側のロータリーには石の十二支がぐるりと並べてあった。馬と来年のえと、イヌを写した。



木津川に落ちて行く夕陽。この大橋をわたればすぐ祝園神社である。今日の例会もそこが最終目的地だ。今日は久々によく歩いた。




	祝園神社(ほうそのじんじゃ) 京都府相楽郡精華町祝園
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	祭神: 天児屋根命【あめのこやね)
		健御雷命(たけみかずち)
		経津主命(ふつぬし)
	創建: 詳細は不明であるが、延喜式内社で、奈良時代にはすでに存在していたと考えられている。
	祭礼: 1月庚申の日から3日間行なわれる神事いごもり祭(京都府指定祝園の居籠祭)はよく知られている。

	「日本書紀」によると、武埴安彦(たけはにやすひこ)が崇神天皇に背いてこの地で討たれ、反乱軍の屍が溢れたので、
	羽振苑(はふりえん)と呼ばれるようになったとあり、それが後に転訛して祝園(はふりえん)という地名になったと
	いう。居籠祭は武埴安彦の霊を鎮めるために始まったと伝えている。第48代称徳天皇(718〜770)の命で、亡
	魂を撲滅し戦死者の霊を弔うために創祠されたとされる。

 

 


	武埴安彦と大王(天皇)軍とのいくさの戦場は、現在の京都府相楽郡の木津町、山城町、精華町から京田辺市を経て大
	阪府枚方市樟葉にまで及んでいる。武埴安彦の軍が天皇軍に破れたことで、三輪山麓を根拠地とする勢力が大和の中心
	となったと考えられる。初期大和政権はここにその誕生を見たのかもしれない。

 
	武埴安彦が斬殺された祝園(ほうその)一帯では多くの者が命を失ったため,この地を「はふりその」と呼ぶようにな
	り、これが祝園の語源という。また、記紀の記述では武埴安彦は弓で射られて死んだことになっているが、別の伝承で
	は木津川のほとりで斬殺され、首は対岸まで飛んでいったとされる。戦乱の後も彼の霊が天災、疫病となって人びとを
	悩ませたので、首の飛んで来たところに湧出宮が、胴体が遺されたところに祝園神社が建てられ、武埴安彦をはじめ、
	戦いで散った者たちの霊をおさめ、農作物の豊作を祈念した。これが二つの神社でいまも行われている「いごもりまつ
	り」のおこりである。ということになる。しかし、湧出宮で呼んだ由来では、胴体が遺されたところが湧出宮で、首が
	飛んでいったのが祝園神社と書かれていた。




	神功皇后摂政前紀の条には、「忍熊王(おしくまおう)とかご坂王(かごさかおう)が、応神天皇に対して群臣が皆従
	っていることに不満を持ち、我ら兄がどうして弟などに従えようかと不満を持ち反乱を起こした」と記され、神功皇后
	紀にはその戦いの様子も詳しく記述されている。結果的には応神天皇がその戦いに勝利するのであるが、この2度の反
	乱後、木津川・淀川流域の勢力が大和朝廷の勢力に屈服していったとも考えられる。



「居籠り祭り」が伝わる精華町祝園の祝園神社

 



服部さんが持っていた懐中電灯で照らしてもらったが、デジカメの限界をみたこの神社の由来。






	祝園神社をでてすぐのところにある、武埴安彦(たけはにやすひこ)が斬首されたという場所。伝承の力は恐ろしい。
	この土地の人々は、いったい幾世代にわたってそれを伝えてきたのだろうか。






	今回は「西大寺」で反省会。地図では6,7kmのような今日の行程だったが、実際歩いたら10kmは優にあった。
	皆さんお疲れ様でした。今日はゆっくりとお休みください。ありゃとやんした。








邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 /晩秋の南山城を往く