この特別展は、京都府内の主要な古墳(規模、副葬品など)の概要を紹介し、そこからの代表的な遺物が展示されている。 これらの古墳はその内容からして、その地域で有力な豪族だったと思われ、やがて「王」になっていったという視点の元 に、その変遷がわかるようになっている(ようだ)。 今回の特別展で展示されている出土品は以下のようなものである。 京丹後市奈具岡遺跡玉作り関連遺物(重要文化財) 京丹後市赤坂今井墳丘墓首飾り 京丹後市大田南2号墳画文帯神獣鏡(府指定文化財) 5号墳青龍3年鏡(重要文化財) 京丹後市奈具岡北1号墳陶質土器・須恵器(府指定文化財) 岩滝町大風呂南1号墓ガラス腕輪(レプリカ) 福知山市広峯15号墳景初4年鏡(重要文化財) 綾部市私市円山古墳甲冑(府指定文化財) 丹波町塩谷5号墳巫女埴輪(府指定文化財) 園部町垣内古墳鏡・石製腕飾り(重要文化財) 園部町今林古墳群鏡・甲冑 長岡京市恵解山古墳武器(府指定文化財) 宇治市二子山古墳鏡・装身具・甲冑(府指定文化財) 宇治市瓦塚古墳金の杖・銀の杖 城陽市芝ヶ原墳丘墓鏡・銅腕輪・首飾り(重要文化財) 城陽市車塚古墳鏡(レプリカ) 八幡市ヒル塚古墳鏡・武器 京田辺市堀切7号墳鯨面男子埴輪 山城町椿井大塚山古墳鏡(レプリカ) 木津町瓦谷古墳群鏡・甲冑・円筒埴輪 これらの古墳のいくつかは、歴史倶楽部の例会で、あるいは個人的に訪問見学したことがある。それらは「遺跡めぐり」 のコーナーか、歴史倶楽部の例会の中にある。特に丹後半島の古墳・遺跡については、ここに展示されている古墳の殆ど を訪問した。ここでの解説に、そこで書いた文章も転記しているので、ある部分重複しているがご了承をいただきたい。
大田古墳群(弥栄町と峰山町の境界に位置する) ■大田南5号墳 弥生時代終末期〜古墳時代前期初頭(4世紀終末〜5世紀初頭)の方墳。竹野川西岸の丘陵に広がる古墳群だが、現在、 古墳群は崩壊寸前である。切り崩されつつある採石場の頂に古墳群が並んでいるが、その根元はブルドーザーが削り続け ている。この調子で削られたら山そのものが、何時かなくなってしまうのではないだろうか。 被葬者は複数の石材を組み合わせた棺に葬られ、頭の右側に銅鏡が、足元には鉄刀が納められていた。平成6年1月、石 棺の中から、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235)銘を持つ青銅鏡「方格規矩四神鏡」が見つかった。こ れは中国の三国時代・魏の年号であり、玄武・青龍・朱雀・白虎と十二支銘も刻まれている。魏志倭人伝に、239年に 卑弥呼の使者が中国から「魏の鏡」を百枚持ちかえったという記事があることから、その時の鏡ではないかと騒がれた。 大阪府高槻市の「安満宮山古墳」からも、同型の鏡が出土していることから、中国大陸−朝鮮半島−丹後半島−大阪摂津 地方となんらかの交流があった事が推測され、何となく継体天皇の近畿入りなどを思い浮かべてしまう。鏡は通常、宮津 市の「京都府丹後郷土資料館」に展示されている。平成8年に、国の重要文化財に指定された。
■大田南2号墳 5号墳のすぐ北の大田南2号墳からは、中国も含め10数例しか出土がないという竜形のつまみのある「画文帯環状乳神 獣鏡」が出ている。古墳時代前期の築造で鉄剣も出土した。石室内には舟底状の木棺が納められ、棺内から「画文帯環状 乳神獣鏡」(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)が出土した。この鏡は、中央(鈕)に龍の文様が描かれた 珍しいもので、国内では初めての出土例であり2世紀後半(後漢)に中国で製作されたもののようだ。 ■大田南6号墳 古墳時代前期後半頃の円墳で、墳頂の平坦面には巨大な墓壙(墓穴)があり、墓壙内には木を組み合わせた棺を納め、遺 体の安置部分には丁寧に小石が敷かれていた。棺の中からは石製の腕輪[石釧(いしくしろ)]や鉄鏃などの鉄製品が見 つかっている。
青龍三年銘 方格規矩四神鏡 古代丹後地方には、邪馬台国や大和政権に支配されない独自の文化を持つ強大な国があり、大陸との交流も盛んに行われ ていたのではないかと思われる証拠が、最近相次いで発見されている。最古の玉作り工房跡といわれる奈良岡遺跡、一大 製鉄コンビナート跡の遠所遺跡をはじめとする広大な遺跡群。神明山(丹後町)・網野銚子山(網野町)・黒部銚子山など大 型の前方後円墳のほか、青龍三年鏡が出土した大田南5号墳等、数多くの古墳群があり、かつての「丹後王国」の存在を 彷彿とさせる。大田南5号墳から出土したこの「青龍三年(235年)」の年号を持つ国内最古の紀年銘鏡、「方格規矩四 神鏡(ほうかくきくししんきょう)」は、大阪府高槻市の「安満宮山古墳」から出土したものと同型鏡である。同型鏡と は、鋳型は違うが同じ鏡をいう。つまり元になった文様が同じで、ひいては同じ工人或いは工房で製作された可能性が大 きいことを物語っている。この事は全国的に話題になり、丹後と北大阪に何らかの交流があった事を推測させる。
下2枚の写真は、私が買ったこの大田南5号墳出土の方格規矩四神鏡のレプリカである。後漢前半の方格規矩鏡をモデル につくられたもので、偏平な半球状の鈕のまわりを方格で区画し、内部に直線的な交字で十二支を配している。内区には 線描の「玄武」「青龍」「朱雀」「白虎」の4神と瑞獣を置き、四方の要所にTVL字形の規矩文を配している。L字は 正L字形で、外区は鋸歯交と、珠点付複波文と、鋸歯文で構成されている。銘文は時計回りに七言句で、「青龍三年 顔 氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王」と鋳造された39文字が並んでい る。方格規矩鏡の型式変化の流れからすると、本鏡は復古的な意匠を示すものといえる。直径は17.4cm。
下は、高槻市から7千円で買った「安満宮山古墳」出土の方格規矩四神鏡レプリカ。大田南5号墳出土のものと全く同じ 文様で、レプリカながらちゃんと青龍三年と読める。ちなみに大田南5号墳出土のレプリカは、どっかの業者から買った 物でたしか4千円くらいだった。
邪馬台国問題に詳しい人なら、「三角縁神獣鏡」をめぐる論争は既にご存知だろうと思う。この鏡が、卑弥呼の鏡であるか どうかをめぐって一大論争が展開されている。そしてそれは「九州」か「近畿(奈良)」かといういわゆる「位置論」にも 発展して、未だに決着はついていない。三角縁神獣鏡が、卑弥呼の使いが「魏」から貰ってきた「銅鏡100枚」だとする 人たちは、これが主に近畿から出土する事から「邪馬台国」はやっぱり近畿なのだと主張し、そうではないという立場の人 たちは、現在、日本からは既に500枚以上も三角縁神獣鏡は出土し、いくらなんでも多すぎる、これは日本で製作された 国産鏡だと反論するのである。論争の要点をまとめれば以下のようになる。 <邪馬台国=畿内説>(三角縁神獣鏡は卑弥呼の使いが魏から貰ってきた鏡である。) ・鏡に、卑弥呼が魏に使いを送った景初3年や正始元年の銘がある。(魏鏡説) ・500枚超という数については、幾度にもわたる朝見のためその都度貰って(或いは買い集めて)きたためだ。 (239〜266年間で6〜7回以上渡海しており、1回に100枚持って帰れば600枚になる。) ・中国本土で1枚も出土しないというが、これは(三角縁神獣鏡)日本向けの特注品だからである。(特鋳説) <邪馬台国=九州説>(三角縁神獣鏡は国産品) ・銘のなかに、魏には存在しない「景初4年」という年号を持った鏡もある。これは魏の年号が変わった事を知らない 日本の工人が作ったものである証拠である。(国産説) ・既に国内で500枚以上が出土している。この数は「銅鏡100枚」をはるかに超えており、日本で量産したあかしだ。 ・三角縁神獣鏡は呉の工人が日本で作ったもので(呉鏡説)、卑弥呼の鏡は「漢」時代の「方格規矩神獣鏡」などの方が可 能性があり、前漢鏡・後漢鏡は九州から多く出土する。 ・三角縁神獣鏡は中国から1枚も出土しない。いくら特注品だと言っても、1,2枚はサンプルとしてあるはずだ。 とまぁ、こんな感じである。何の先入観もなしにこの論争を聞くと、どうも九州説のほうに分がありそうである。卑弥呼が 使いを送った年の年号よりも、もっと古くから存在していた鏡を100枚貰ったと考える方が自然ではなかろうか。 「青龍三年」銘鏡の出土は、こういう論争の中での出来事だっただけにその反響は大きかった。西暦235年銘の銅鏡が出 土したのである。卑弥呼が朝見した景初三年(238)の3年前の年号である。これこそ年代から判断して卑弥呼の鏡だと する人達も多かった。この鏡は「方格規矩四神鏡」(ほうかくきくししんきょう)とよばれる、中国の戦国時代後期(紀元 前300年頃〜221年)から前漢(紀元前202年〜西暦8年)、後漢(西暦25年〜220年)そして三国時代(西暦 220年〜280年)にかけて大流行した鏡である。勿論中国にも多く存在し、北部九州でも多数出土している。紀年の無 い方格規矩四神鏡は以下のように西日本各地で出土している。 ・佐賀県桜馬場遺跡 ・同 寄居古墳群 ・同 椛島山一号及び二号石棺墓 ・同 横田遺跡 ・福岡県一貴山銚子塚古墳 ・福岡県平原遺跡 ・奈良県天理市天神山古墳 ・京都府椿井大塚山古墳 ・香川県高松市鶴尾神社4号墳 ・高知県田村遺跡群 ・兵庫県豊岡市森尾古墳 ・大阪府茨木市府紫金山古墳 等々 青龍三年銘鏡はその後、大阪府高槻市の安満宮山古墳からも出土し、さらに2002年になって茨城の収集家が保有してい た鏡も青龍三年銘を持つ方格規矩神獣鏡と確認され(東京国立博物館、都文化財研究センター)、計3面となった。今後さ らに出現する可能性はあるが、この1種類の鏡だけが、各地から100枚に達するほど出土するとも思えない。「卑弥呼の 鏡」は、それまでのいろいろな種類の鏡を取り混ぜて100枚にした可能性もある。 いずれにしても、現在では未だ邪馬台国の所在はあきらかになっていないということである。卑弥呼の鏡は、九州地方から 多く出土する「漢鏡」か、それとも畿内から多く出土する「三角縁神獣鏡」なのか。しばらくはまだ論争に決着が着くとは 思えない。もしかしたら卑弥呼は、まだ誰にも知られず、100枚の鏡を胸に抱いたまま、人知れず「径100歩」の墓の なかで眠り続けているかもしれないのである。
青龍三年鏡 新たに発見、学会で発表 邪馬台国資料として注目 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 中国・三国時代の魏の年号「青龍三年」(235年)の銘文が入った銅鏡が新たに見つかり、19日、東京で行われた 日本考古学会の例会で詳細が発表された。同型の鏡は3例目。出土地が不明という難点があるが、邪馬台国の所在地論争 に結びつく新資料として注目される。東京都台東区の東京国立博物館で展示されている。 鏡は直径約17・3センチで、「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」と呼ばれる形式。茨城県のコレクター が古美術商から入手した。車崎正彦・早稲田大非常勤講師が調査したところ、94年に京都府の大田南5号墳でまた97 年に大阪府の安満宮山(あまみややま)古墳で見つかった青龍三年鏡と大きさ、重さともほぼ同じで、3枚は同じ型から つくられたことが分かった。また、平尾良光・東京文化財研究所化学研究室長の分析で、国内で多数出土している三角縁 神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と同様の材料でつくられていることも判明した。 「魏志倭人伝」によると、邪馬台国の女王・卑弥呼は239年、魏に使いを送り、「銅鏡百枚」をもらった。この百枚 について、「邪馬台国畿内説」論者は近畿を中心に分布する三角縁神獣鏡だと主張する。しかし、中国で1枚も出ないこ となどから「九州説」論者は否定している。94年の新発見以降、遣使直前の年号を持つ青龍三年鏡も候補の一つに挙げ られる。 畿内説の福永伸哉・大阪大大学院助教授は「今回、3枚の青龍三年鏡の製法の解明が進み、三角縁神獣鏡ともつくり方が 共通していることが分かった。三角縁神獣鏡の魏鏡説を補強する資料だ。青龍三年鏡は卑弥呼の使いが下賜された100 枚とは別に現地で入手したものではないか」と述べる。一方、九州説の奥野正男・宮崎公立大教授は「方格規矩鏡が卑弥 呼の鏡の一つの可能性が強いと以前から指摘してきたが、その材料がまた一つ増えた」と話している。 [毎日新聞1月19日] ( 2002-01-19-19:25 )
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由良川中流域には、1,000基を超える古墳がある。大半は、小さな方墳または円墳である。全長100mを超えるような大型の 前方後円墳などは存在しない。しかしながら、聖塚古墳や私市丸山古墳のように前方後円墳に匹敵する巨大な方墳、円墳が 存在し、当地域独自の古墳文化を形成している。由良川に注ぐ各支流が、それぞれ小世界を形成し、各々の古墳群を分布さ せている。それらは、集落を母体として古墳群を形成している。
広峯古墳群は、福知山駅の南に広がる丘陵に約40基の古墳が点在し、おもに古墳前期から中期にかけて形成されたと考えら れ、円墳や前方後円墳を中心とした古墳群が丘陵稜線に連なって造られている。なかでも15号墳は、丘陵の最高地に作ら れ、景初4年銘の入った『盤龍鏡』が出土したことで一躍有名になった。全長30mの前方後円墳で、古墳前期の4世紀末 頃の築造と考えられる。古墳全長31.5m、後円部直径20.5m、後円部高さ2.5m、前方部高さ1.5m。埋葬施 設の半分は、すでに失われていたが、長大な木棺の痕跡が確認された。棺内には、鮮やかな朱が塗られており、棺内から1 枚の銅鏡が見つかったのである。景初四年銘鏡は現在、重要文化財に指定されている。現在は、実物の4分の3の大きさの 前方後円墳が現地に復元されており、東屋やベンチもあり、夜はライトアップされる古墳公園となっている。
私市丸山古墳は、作り出しをもつ大型の円墳である。墳丘の規模は、全長で81m・高さ10mを測り、京都府内では最大規模 の円墳であり、由良川流域では、前方後円墳を含めても最大の規模。墳丘は、由良川から運んだ河原石を葺石として敷きつ め、三段築成で構成され、二列の埴輪列を巡らす。作り出しは、葺石で方形に区画され、その内側と外側に円筒埴輪を樹立 している。造り出しでは、家形・短甲形等の形象埴輪や土師器が出土した。私市丸山古墳は、墳丘規模の大きさに加え、外 表施設に埴輪・葺石を有するなど、墳丘の築造にあたって、莫大な労力が費やされていることが理解できる。被葬者の強大 な政治的権力をあらわすものと考えられる。私市円山古墳には3人が埋葬されていた。
中央主体部の木棺内からは、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・錣・鉄刀・鉄鏃・農工具・鏡・玉類(勾玉・ 管玉・小玉・臼玉)・竪櫛等、豊富な副葬品が出土した。北側の主体部は、2段墓壙内に組合式の木棺を安置し、棺内から 、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・頸甲・肩甲・草摺の武具一式、帯金具・胡?金具・鉄剣・鏡・玉類(勾 玉・管玉・小玉・棗玉)・竪櫛等の副葬品が出土した。私市丸山古墳の築造された時期は、出土した副葬品や埴輪から、古 墳時代中期中頃(5世紀中頃)と考えられている。この古墳は、その規模や内容から、由良川中流域における最大の首長墓 といえる。平成6年(1994)3月23日に国史跡に指定された。
この地域では、前期にあっては、弥生時代の墓制を色濃く残している。すなわち、副葬品等に充実がみられるものの弥生時 代の方形周溝墓の系統をひく小規模な方墳が主流である。広峯15号墳の前方後円墳のような、新しい萌芽があるものの、 そのまま発展することはなく、古墳時代中期前半まで方墳優位の時代が続く。中期に入ると畿内的影響を強く受け、聖塚古 墳や私市円山古墳のような古墳として定型化したものが登場し、ここに当地の古墳時代が花開くことになる。そして、後期 の前方後円墳と群集墳の時代へとつながっていく。
園部町の北東部で、園部盆地を見下ろす位置にある平山丘陵では、京都縦貫自動車道や、京都新光悦村の建設に先立って、 長期にわたり発掘調査が行われてきた。この一連の調査によって、当地における弥生時代後期から古墳時代後期にいたる 時期の状況が判明した。またこの地方には、古代、琵琶湖にも匹敵するかという「丹波湖水」という大きな湖があって、 縄文・弥生を通じて多くの恵みを人々に与えていた、と考えられている。弥生時代の遺跡としては「曾我谷弥生遺跡」や 「半田遺跡」があり、出土した土器には畿内弥生後期の特徴である「タタキ技法」が極めて強く表れており、畿内地方と の強い結びつきが示されており、また、現状では曾我谷遺跡が「タタキ技法」の北限をなしている。弥生後期に「丹波湖 水」の水が抜けたようで、鍬山神社縁起に「出雲の神、亀岡湖水を開き、国土を開拓す」とある。
園部町ではこれまで、垣内古墳や黒田古墳といった全国的にも名の知られた前期古墳の発掘調査が行われてきた。そのほ か、近年では岸ヶ前2号墳や徳雲寺北古墳群などが発掘調査され、当地域での中期古墳の様相も明らかとなってきた。 古墳時代の前期古墳(4世紀)としては、黒田古墳、中畷古墳、垣内古墳などがあり、垣内古墳は口丹波地方(大井川水 系)では最大の古墳で、全長84m、後円部直径約50m、前方部幅約9m)で、大和の持つ高い技術と文化をみること ができる。中期古墳(5世紀)としては園部高校から出土した小桜古墳であり、近世になって園部城築城の際に取り壊さ れたようだ。後期古墳(6〜7世紀)としては、北部に熊崎・熊崎墓地・新堂池・瓜生野、中部に尾谷(上木崎)・穴武士 (黒田)・山の井(曾我谷)・小山(小山東)・天神山(小山東)・温井(横田)・安谷(半田)・中殿(半田)、南部 に普済寺(若森)・にわとり塚(埴生)などの各古墳群が町の中心部を取り囲むように同心円状に分布している。また、 窯跡群も多く発見されており、城南町の「壺ノ谷」から小山西町「桑ノ内」「高杭」「大向」、小山東町の「徳雲寺窯跡」 に至る窯跡、そして口司鎌掛峠にも窯跡が確認されている。これらは古墳時代から平安時代のはじめに至るまで操業され た口丹波で最も古い窯である。
園部垣内(そのべかいち)古墳 全長82mの南丹波地域最大の前方後円墳で、割竹形木棺の周りを囲んだ粘土郭から、三角縁三仏三獣鏡ほか中国製の鏡 3面や石製腕飾類、玉類、武器や武具などの鉄製品が多量に出土した。被葬者は、豊富な装飾品と大量の武器類を持って いたことから、大和政権との密接な関係を背景に、丹波地域南部を支配した「王」であったと思われる。
【奈具岡遺跡(弥栄町)】 弥栄町の奈具岡遺跡では、水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んにおこなわれ、大量の玉が生産された。弥生時代中期 (約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。この遺跡からは、水晶をはじめとする玉製品の生産工程の各段階を示す未 製品や、加工に使われた工具類などが多数出土した。生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉である。こ こでは、原石から製品までの一貫した玉作りが行われており、国内有数の規模と古さを誇る。大規模な玉造工房が稼動して いたのである。 ここでは、鉄製の工具が使われ、玉の穴をあけるにも、鉄針を用い効率良く生産された。この生産と交易が丹後の経済力の 基盤となった。鉄片が8kg発掘されているが、この鉄片は素材から作った製品の端切れであって、単純に計算すれば、平 均的な弥生時代の鉄斧なら300個分はあろうという素材の量だという。玉造には鉄錐という加工道具を用いるがそれだけ の為ではなく、広範な交易を目的に生産された証拠だと言う見方もある。しかし、それだけの鉄素材を一体どこから入手し ていたのだろうか。 水晶玉などの装身具は本来中国では高位の人々の習慣だった。紀元前一世紀頃、漢代に衣服に綴じ付けたり女性が着用する 風習が生まれたと言われる。朝鮮半島そして日本海沿岸地域も、ほぼ時を同じくして同じ文化が移入して来たような感があ る。稲作に鉄具が用いられる前に玉造りに鉄製工具が普及したという説は、ここ丹後半島においては妙に納得させられる。 弥生・古墳時代を通じて玉は至極の宝石であり、その風習は現代に至っても続いている点を考えると、古墳に多く残されて いるのも理解できる。 丹後では、紀元前から培ってきた内外の交易を結びつけるノウハウ、先進技術を駆使して素材を加工する技術などを基盤と して、やがて弥生後期には、大宮町三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、岩滝町大風呂南1号墓、峰山町赤坂今井墳丘墓など、豊 富な鉄とガラスを副葬品に持つ首長墓を生み出す。弥生後期の首長墓のようすは、北部九州や畿内地域よりむしろ、出雲や 因幡を加えた日本海中西部地域の首長層の方が、弥生後期の日本列島内では有力な存在であったように思える。 また後期には、畿内地域と東海地域で作られた巨大な銅鐸がともに丹後地域にも出現する。分布圏の中心から遠く離れた銅 鐸の存在は、おそらく両地域から丹後の先進物資の入手のためにもたらされたものであろう。ただ、弥生中期後葉から後期 にかけてこれほどの外来物資を集めることのできた丹後地域ではあるが、なぜか同時期の中国後漢代の銅鏡はあまり発見さ れていない。大陸交渉の門戸として発展した北部九州で多数の中国鏡が出土していることとは対照的である。この事実は、 丹後地域にもたらされた鉄素材などの外来物資が、鏡の豊富な北部九州を経由したものではないこと、つまり丹後の首長層 がいわば独自の大陸交渉ルートを持っていたことを示唆している。そしてその交渉先は、豊かな鉄資源を持ついっぽうで中 国鏡は少ないという同じ特徴がみられる、朝鮮半島南部の伽耶地域に求められる。 奈具岡遺跡では、100点以上もの鉄製品が出土している。ここでは、堅くて加工が難しい水晶玉造りのために、鉄製工具 を使用していた。そしてそれを自前で生産していた事が、鍛冶工房跡の発掘によって判明している。奈具岡遺跡は「玉造総 合工場」であった。こうした奈具岡遺跡の存在は丹後の中でも非常に特殊であり、この遺跡の先進性を示している。 奈具岡遺跡で確認された竪穴式住居の総数は約100軒で、丹後地方では屈指の規模であるが、この遺跡は工房であって居 住空間ではなかったと言う説もある。ここでは水晶製と緑色凝灰岩製の2種類の玉造りが行われていた。緑色凝灰岩の玉造 りの方が先に、弥生中期中葉頃に始まったとされ、後葉に水晶造りが始まったと考えられている。これらの製作された水晶 玉はどこへ運ばれたのであろうか。 丹後地方で水晶玉を墳墓に副葬した例は、三坂神社墳墓群3号墓にしか見つかっていないので、丹後以外の何処かへ運ばれ たのは間違いない。人によっては、前述の鉄資源の入手のために、朝鮮半島伽耶地域へ運ばれたと言う意見もあるが、今の 所証明はされていない。現時点では、丹後の玉の行方はわからないのである。 もうひとつこの遺跡の特徴として、奈具岡遺跡はガラス生産も行っていたのである。ガラス製勾玉の破片や、小さなガラス 片が多出ている。丹後地方では、扇谷遺跡で中期初頭と考えられるガラスの塊が出土し、時期は不明だが途中が丘遺跡でも ガラス片が出土している。しかし、具体的なガラス生産の様子がうかがえるのは、ここ奈具岡遺跡のみである。鉄器工具、 玉、ガラスと、その生産活動の全てを工具製作から一貫して行っていた一大コンビナートが奈具岡遺跡なのである。
■竹野郡弥栄町奈具岡遺跡の玉作りと鉄製工具の導入■ 丹後半島のほぼ中央を貫流する竹野川は、幅狭い浸食谷を形成しつつ日本海へと注ぐ。奈具岡遺跡は竹野川の中流域、西岸 段丘上に立地する玉作りを専業とする(弥生)中期後葉の集落である。平成7,8年の調査では、74基もの竪穴遺構や竪 穴式住居跡が検出された。 碧玉、緑色凝灰岩や水晶など、50kg以上にもなる原石・未製品・失敗品・剥片類をはじめとした膨大な石材群とともに、 石錐・石鋸・筋砥石、鉄製工具などの加工生産具も出土し、原石から製品までの製作工程が明らかになった。鉄製工具類や その未製品も多量に出土し、鞴羽口や鍛冶炉の存在から玉作り用の鉄製工具の加工も集落内で行われていたことがわかった。 このような鉄製品のなかに、先述した漢で生産された夾雑物の少ない強靱な鋳鋼素材が見つかっている。拳大ほどの水晶結 晶体からわずか5mm以下の小さな玉に加工する際に、このような鋼素材で作られた各種鉄製工具が利用されたものと思われ る。奈具岡遺跡の水晶玉作りで復元される加工方法は次のようである。 すなわち、水晶の結晶面や不純物が嵌入した部分を打割除去し、直方体の素材石核を整える。その長辺を左右から交互に打 割して板状剥片を作出し、それを縦方向に分割して角柱体と楔形剥片を量産する。前者は調整剥離を加え四角柱体に整形す る。これを研磨した多角柱体の小口面から小玉の規格に分割して穿孔し、直径3〜5mm程の小玉数個を生産する。後者の楔 形剥片は、打点側を切り離して調整剥離を加えて穿孔して、直径3mmほどの算盤玉1個に仕上げる。このような玉作の工程 に各種鉄製工具が使われている。断面長二等辺三角形の鉄塊や先端がやや細くなる板状の工具は、水晶結晶体を分割する際 に楔として使われ、マイナス・ドライバーの先端部分に似た小さな棒状の工具は、角柱体の調整剥離と小玉の分割に使われ たものと思われる。 だが、玉の穿孔には安山岩や碧玉の石錐が依然として使われていた。日本海沿岸の諸地域では、後期後半以降に直径1mm前 後の針状の鉄棒が鍛冶によって製作され、これが錐として使用されることとなる。 ところでこのような碧玉・緑色凝灰岩や水晶の玉類を大量に生産するために奈具岡遺跡の弥生集落は営まれていたとみられ るが、水晶製装身具は、丹後地方では後期初頭の中郡大宮町三坂神社墳墓群3号墓第10号主体部で検出された16点のみ なのである。 他に生産地である奈具岡遺跡以外にはその出土例をみないことから、他地域への贈答品に供されたと考えるのが妥当であろ う。時期は下るが「魏志倭人伝」には、壹与が魏に献上した貢物として「白珠五千」が挙げられているが、このような水晶 の白い珠が鉄資源と交換された可能性も考慮すべきであろう。 日常の食料や衣類の獲得など、自らの親族や隣人達との互酬的な交換活動とは異なり、遠隔地の貴重な財産の入手には、そ れなりの社会の成熟が前庭となる。つまり交渉先との政治的関係を取り結ぶための情報収集はもちろんのこと、遠隔地との 贈答のために、返礼となる特殊な貴重財を生産しなければならない。それには労働力の集約的投入を行わねばならず、特殊 な生産技術の習得やその生産に関わる集団の編成を行うことが必要不可欠となる。外部社会との貴重財の交易とは、普段見 慣れない彼方の宝物を手に入れるためだけでなく、内部社会においては労働の集約化を促し、労働価値を新たな威信という 上位の価値体系に変換させる手段であるとも言える。後期には、このような彼方の地から来た貴重財の一部が首長の威信財 として利用され、かつ墓に副葬されはじめることになる。 【丹後地域における弥生時代の鉄をめぐって 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員 野島永 】 【平成14年4月13日 大阪府立弥生文化博物館発行 「青いガラスの燦き −丹後王国が見えてきた−」より】
5世紀中頃に造られた乙訓地方最大の前方後円墳。周囲に濠があった。前方部から多数の武器(鉄剣)が発見され全国的に 注目を浴びた。鉄剣の同時出土数としては日本最大。約700本(だったかな?)。この事から被葬者はこの地方の支配者 だったと推測される。この古墳はJR東海道線の南側に車窓から見ることができ、墳頂には石棺の復元もある。長岡市の埋 蔵文化財センターには詳しい解説や出土品の展示がある。
久津川車塚・丸塚古墳(くつかわくるまづか・まるづかこふん)〔国指定史跡〕 久津川車塚古墳は、5世紀前半に築造された南山城最大級の前方後円墳である。二重の周濠を含めた全長は約272m、墳 丘長は約180mを測る。墳丘は3段に築かれ、葺石と埴輪列が施されている。後円部からは、長持形石棺と呼ばれる巨大 な石棺がみつかっている。(このHP冒頭の写真) 石棺内からは、鏡7面や鉄剣類の他に多くの玉類が出土した。また石棺の両側に取り付けられた小さな石室からも多くの武 器や武具類が発見されている。南山城地域を治めた大首長(だいしゅちょう)の墓と考えられている。丸塚古墳は、久津川車 塚古墳の東約100mの所にある前方部が低く短い帆立貝形の前方後円墳である。墳丘長は約104mあり、葺石と埴輪列 を施している。西側クビレ部付近から出土した家形埴輪は、高さが約1mもある大型の埴輪である。出土した埴輪から、久 津川車塚古墳より先に築造されたことがわかっており、平川地域に最初に築造された大首長墳と考えられる。
ここに展示されている古墳の被葬者たちは、いずれもある時期、その地方の「王」だったのは間違いないだろう。近在の 弥生人たちを苦役させ築いた古墳に眠っているが、これらの王たちのなかから、やがてぬきんでた力をつけたものが次第 に他の王を従属させ、そして「中王」から「大王」となっていった。そして近畿圏を支配し、やがては大和盆地を中心に した統一国家を築くのである。しかしながら大和朝廷の成立はみても、各地方の「王」たちの抵抗もまだまだ根強く、こ れら「まつろわぬもの達」が完全に日本中からいなくなるのは、古墳時代から300年後の桓武天皇の御世になってから である。