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馬高遺跡・三十稲場遺跡
新潟県長岡市関原町
2005(平成17年)10月8日(土曜日)




東京から新潟へやってきて、雨の中、新潟県埋蔵文化財センター、新潟県立歴史博物館と見学してここに寄った。




	新潟県立歴史博物館からは歩いても5,6分のところにある。国史跡に指定された縄文時代中期・後期の大規模な集落跡で、
	特に馬高遺跡は「火焔土器」(かえんどき)発祥の地として全国的にも著名である。火焔土器はその後も新潟県信濃川流域
	を中心に各地で発見されるようになるが、ここで最初に発見された。
	そもそも、この遺跡そのものの発見は明治30年前後といわれ、関原町の素封家近藤家では、勘太郎・勘次郎・篤三郎と三
	代にわたって遺物の表面採集や発掘調査を行なっていたのである。そして昭和11年(1936)の大晦日、青年近藤篤三郎は
	関原町馬高の丘で発掘をしていた。そして粉砕した土器の破片を見つけた。彼によって発見された土器の破片はひとつひと
	つ丁寧に接合され復元されたが、今まで見たこともないような独特な形状を待つ土器だった。篤三郎が発見した深鉢形土器
	A式1号は、口縁部の大きな突起部分が、炎を思わせることから「火焔土器」と名付けられ、のちに縄文文化の象徴として
	世界に知られることとなった。

 

雨の中、タクシーの運転手さんに待ってもらって、花の中を遺跡へ歩く。何やら高いモニュメントが見えてきた。




	<馬高・三十稲場遺跡(うまだか・さんじゅういなばいせき)>

	馬高遺跡は縄文中期の、新潟県内最大の集落跡である。沢をはさんで隣接する三十稲場遺跡(縄文後期)とともに昭和54
	年(1979)に国の指定史跡と認定された。JR長岡駅から柏崎駅行きバスで16分、関原下車、徒歩5分。車は長岡インタ
	ーチェンジから5分である。馬高 ・ 三十稲場遺跡は長岡市関原の南方に発達している信濃川左岸の河岸段丘上に、小さな
	沢をはさんで東に馬高遺跡、西に三十稲場遺跡とわかれて所在している。馬高は県内でも最大級の縄文中期(約4,500
	年前)の集落址で、その規模は東西150m、南北250mである。多数の住居跡や火焔土器・王冠形土器・装飾品・大形
	土偶などの遺物が出土している。馬高で生活した人々は次の縄文後期(約4,000年前)になると三十稲場に生活の場を
	移した。三十稲場は、それまでも近在の旧家近藤氏父子やオランダ人グロートなどによって調査が行われてきた。この遺跡
	は馬高と同じ規模をもつ大集落址で、ダルマ形の石囲炉や住居址、いわゆる三十稲場式土器などの多くの出土品は、馬高に
	匹敵する内容をもっており、馬高とともに新潟県を代表する縄文時代の遺跡である。




	近藤勘治郎・篤三郎父子による調査、およびその後の発掘調査の結果、縄文時代中期を中心とする遺物や石組炉を持つ住居
	跡が確認された。中でも鶏頭冠など独特な形態を持つ土器は、のちに「火焔土器」と呼ばれるようになったが、この「火焔
	土器」第一号は国の重要文化財に指定されている。主な遺物には火焔型土器、王冠型土器、深鉢、鉢、カップ形土器、土偶、
	滑車形耳飾、三角柱状土製品、三角形土版、玉、石鏃、小形石槍、石匙、石棒、打製石斧、磨製石斧、凹石、石皿などがあ
	る。昭和45、47年には、北辺部の発掘調査、遺跡の範囲を確認するボーリング調査を長岡市教育委員会が実施し、47
	年(1972)の調査では、長径約70mと50mの二つの環状集落が連接して存在していることが推定された。出土遺物では、
	縄文中期(5,000 〜4,000 年前)前葉〜中葉の土器が主体で、有名な「火焔土器」は、この時期の遺物である。ボーリング
	調査では100 基を超える石組炉の存在が確認され、住居跡は馬蹄形状に展開すると思われる。




    その後の発掘や研究によって、縄文時代中期(約4500年前)には新潟県全域で火焔型土器が流行し、特に信濃川流域で
	めざましく発展を遂げていたことが分かった。信濃川流域はまさに「火焔土器のクニ」であり、長岡周辺はその中心地のひ
	とつだったのである。この火焔土器を一躍有名にしたのは、かの美術家・岡本太郎である。彼は	火焔土器を見て「心臓が
	ひっくり返る」感じを受けたと言い、「そこに日本がある」とも言った。火焔土器は、まさに古代日本を象徴するエネルギ
	ーの露呈と彼の目には映ったのである。そしてその鑑識眼は誰もが認めるところとなった。

 


	信濃川によって形成された中位段丘(標高60m)の関原面に遺跡は位置している。現状は平坦な畑地だが、南後方には糠山
	の丘陵が延び、東側の台地下には信濃川が流れている。遺跡の西側は西山丘陵が遠望でき、隣の谷地田から「縄文の泉」が
	湧きでている。古代馬高人にとって、ここは狩や漁・木の実採集など、食料の確保には恵まれた自然環境だったと考えられ
	る。馬高人たちはここで狩りをし木の実をとって、長い長い縄文生活を謳歌していたに違いない。

 

	
	火焔土器様式には、火焔型土器や王冠型土器などの分類がある。火焔土器様式のもっとも大きな特徴は、縄文土器でありな
	がら縄目文様がないこと。また鶏頭冠や短冊形突起と呼ばれる4つの突起、口縁部に袋のように付く袋状突起などがあり、
	さらにはトンボ眼鏡、S字状文、渦巻状文など、独特の文様が一定のパターンで施されていることが大きな特徴である。新
	潟県下の遺跡から出土する火焔土器群は、このような複雑な特徴をきちんと守って作られている。これは、それぞれの特徴
	に意味があり、全体を通した物語があるからこそ、すべてを忠実に再現できるのだと考えられる。火焔土器様式は新潟県域、
	特に信濃川流域を中心に出土する。これは、現在の新潟県の行政区分が縄文時代の文化区分とちょうど重なっていたことを
	表している。
	火焔土器様式では、火焔型土器と王冠型土器という2つのタイプが双璧をなす。一つの遺跡からは、必ずこの両者が揃って
	出土する。縄文人が、ニ者を対立させるという考え方を持っていたことが分かる。両者は、上で紹介したような数々の特徴
	を持ち、強い共通性がある。その一方で、火焔型土器に鶏頭冠や鋸歯状突起があるのに対し、王冠型土器には短冊形突起が
	あり鋸歯状突起がないなど、相容れることのない独自性も堅持している。つまり、それぞれのルールをかたくなに守ってい
	るのである。これは、二者が意図的に作り分けられたということを表す。少なくとも同じ用途ではなく、それぞれに別の目
	的があったことを意味するのである。
  
	「フォーラム火焔土器街道往来 2004 」より 「小林達雄 火焔土器とはいかなるモノか ?」

	● 小林達雄 	Tatsuo Kobayashi 1937年新潟県長岡市生まれ
	  新潟県立歴史博物館 館長
	  國學院大學文学部教授、博士
	  日本考古学協会員
	  1990年濱田青陵賞受賞
	  近著「世界の中の縄文〜対論 佐原 真・小林達雄(新書館)、「縄文土器大観」全4巻編著(小学館)、
		「縄文土器の研究」(小学館)、「縄文人の世界」(朝日新聞社)等 多数




	<火焔型土器> 火焔土器 王冠型土器 
	文化財指定 種別    国指定 記念物 史跡 
	指定日 昭和 54 年 2 月 21 日 
	所在地 長岡市関原町1丁目 			99年に行われた試掘調査では、小型の火焔型土器も出土した。




	現在馬高遺跡は、「火焔土器」のモニュメントや説明板があり、史跡内を散策できる公園になっている。平成11年には史
	跡整備の基礎資料を得るための発掘調査が実施された。また、平成12年には馬高遺跡の脇に駐車場とトイレが設置され、
	公園として整備された。以下は、平成12年度の長岡市教育委員会による調査結果。


	<馬高・三十稲場遺跡(うまだか・さんじゅういなば)> 

	所 在 地: 長岡市関原町1丁目字中原・遠藤
	立  地: 信濃川左岸の段丘上、標高約60m。
	調査期間: 平成12年6月7日から11月15日まで
	調査面積: 約3,500平方m
	時  代: 縄文時代中期(馬高)・後期(三十稲場)、平安時代(三十稲場)
	種  別: 集落跡(1979年2月国指定史跡)
	調査成果:
	馬高・三十稲場遺跡は、「火焔土器」発祥の地として全国的に著名であり、国の史跡に指定されています(指定面積約45,000
	平方m)。長岡市では、遺跡環境整備事業の一環として、史跡整備に向けた基礎資料を得るための発掘調査を進めています。
	以下に、平成12年度に行った発掘調査の概要をまとめてみます。

	<馬高遺跡の調査:>
	史跡範囲を縦断・横断する試掘トレンチを複数設定し、遺物や遺構の有無を確認しました。また、遺跡の中央部分(約600平
	方m)では、遺構の検出と精査を目的とした発掘を行いました。遺構には、竪穴住居跡、炉跡(地床炉、石組炉、複式炉)、
	土坑(貯蔵穴、墓坑)、ピット(柱穴、掘立柱柱穴等)、埋設土器などが見られます。遺物の総数はコンテナで約150箱で、火
	焔型土器や王冠型土器を含む縄文時代中期の土器が多数出土し、各種石器(石鏃、石錐、石匙、打製石斧、磨製石斧、石皿、
	磨石類など)、土製品(土偶、三角形土版、耳飾り)、石製品(大珠、石棒)、炭化種子なども発見されました。
	遺物や遺構の分布は、遺跡北部〜中央部で大規模な馬蹄形状、遺跡南部では小規模な馬蹄形状の広がりを示すようです。前
	者は縄文時代中期前葉〜中葉、後者は中期後葉の土器が多く認められます。中央部の竪穴住居跡は、楕円形・長方形・円形
	の平面形態が認められます。その炉跡には地床炉と石組炉があり、地床炉をもつ方が時期的に古い傾向を示しています。ま
	た、遺跡の南側には平面楕円形の土坑がまとまって分布し、形状や規模から墓坑と考えられます。そのうちの1基から滑石
	製大珠2点と琥珀製?大珠1点の計3点が出土し、その周辺から発見された縦穿孔の硬玉製大珠1点とともに注目されます。
	
	<三十稲場遺跡の調査:>
	史跡範囲の全域を対象に、10〜20mの間隔で試掘坑を設定し、遺物や遺構の有無を確認しました。その結果、竪穴住居跡、
	炉跡(石組炉、地床炉)、土坑(貯蔵穴)、ピット(柱穴等)、掘立柱建物柱穴、埋設土器、大形土坑状遺構などが見つかってい
	ます。出土した遺物の総数はコンテナで約 150箱を数えます。縄文時代後期の土器が最も多く、平安時代の須恵器や土師器
	も発見されました。また、各種石器(石鏃、石錐、打製石斧、磨製石斧、板状石器、石錘、石皿、磨石類など)、土製品
	(土偶、土製円板)、石製品(玉類、石棒)も出土しています。特に石鏃と石錘が多いのが特徴です。
	遺跡の北側は縄文時代中期終末〜後期前半の土器が、また南側には後期後半の土器が多いようです。縄文時代の竪穴住居跡
	や貯蔵穴などの遺構群は、東側の沢に向いた馬蹄形状に展開する様子が推測されます。確認された竪穴住居跡は、直径約3.
	2mの円形で地床炉をもっていました。また、遺跡の北東部には多量の土器が堆積する地点があり、土器捨て場の可能性が
	考えられます。遺構のなかで特筆されるのは、遺跡の南側で発掘された大形土坑状遺構です。その平面形は不整な楕円形状
	で、長軸6m・短軸4m・深さ2.6m以上の規模をもっていました。その形状や堆積状況などから土器づくり用の粘土を
	採掘した土坑の可能性が考えられます。一方、東側の沢沿いには平安時代(9世紀後半)の竪穴住居跡を含む遺構や遺物が
	出土し、小規模な集落跡が広がっていることも明らかになりました。





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