Music: Lion King



2006.1.25 熊本県熊本市





	
	大阪城、名古屋城とともに、熊本城は日本三名城の一つに数えられる。加藤清正が慶長6年(1601)から7年余りの年月を
	かけて造った豪壮な構えの城である。しかし名城というのはその美しさや華麗さではない。難攻不落の名城という意味であ
	る。名将の誉の高い加藤清正が、その実戦経験をもとに築城技術のすべてを投入して築きあげたといわれる。城郭は周囲9
	Km(築城当時)、広さ約98万平方mで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えである。
	なかでも「武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名で、また自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術がみら
	れる。

	<熊本城歴史年表>
 
	1496年(明応5年)	鹿子木親員、茶臼山西南麓(現在の古城)に築城
	1550年(天文19年)	大友宗麟が城主を鹿子木氏から城親冬にかえる 
	1587年(天正15年)	豊臣秀吉が佐々成政を肥後の領主とする
	1588年(天正16年)	加藤清正、隈本城に入城
	1601年(慶長6年)	茶臼山に築城着手
	1607年(慶長12年)	新城完成、隈本城を熊本城に改称
	1611年(慶長16年)	清正死去、加藤忠広が相続
	1632年(寛永9年)	細川忠利肥後54万石領主として熊本城入城
	1871年(明治4年)	廃藩置県により肥後藩が熊本県となる鎮西鎮台を熊本城内に設置
	1877年(明治10年)	西南の役で熊本城炎上
	1927年(昭和2年)	宇土櫓解体修理、長塀改築
	1933年(昭和8年)	熊本城全域を史跡に、建造物を国宝に指定
	1950年(昭和25年)	国宝建造物が重要文化財に指定(文化財保護法改正)
	1955年(昭和30年)	史跡熊本城跡が特別史跡に指定
	1960年(昭和35年)	熊本城天守閣が復元落成
	1989年(平成元年)	数寄屋丸二階御広間復元
	1991年(平成3年)	9月の台風19号で甚大な被害を受けたため、天守閣を大改修
	1993年(平成5年)	旧細川刑部邸を東子飼町から三の丸に移築復元















	
	<加藤清正像> 
	熊本の礎を築いたセイショコ(清正公)さん。 
	市民会館・国際交流会館のすぐ近くに、往時の治水工事指揮姿の清正座像が、熊本城をバックに建っている。加藤清正の
	肥後入国は、天正16年(1588)、今からおよそ400年前。当時27歳だった清正は、肥後国衆一揆で乱れ果てた領土を、
	持ち前の指導力と才で見事に統治、今日まで熊本市民に清正公(セイショコ)さんと呼ばれ親しまれるほどの数々の偉業
	を成し遂げた。古名「隈本」が、現在の「熊本」に変わったのもこの時である。虎退治のエピソードで知られる朝鮮半島
	の出兵は、入国4年後の事だった。清正が天下の名城熊本城を築いた事はあまりにも有名だが、この他にも治水・土木工
	事・交通路の整備、産業の振興などあらゆる方面に優れた手腕を発揮、熊本の礎を築いた。ことに治水・土木の天才であ
	った事はよく知られ、入国以来県内各地の河川、田畑、新田開発に大きな実績を残している。しかも自ら陣頭指揮にたっ
	て工事にあたり、清正独特の治水技法を生みだした。













	
	上司の営業本部長が交代した。新しい本部長を熊本のお客さんに紹介するため、担当の部下とともに熊本を訪れた。挨拶
	が済んだ後、時間があったので熊本城に寄った。熊本には何度か来ているが、いつも時間がないのでそのままトンボ帰り
	か、JRですぐ福岡へ向かうのが常だった。今回は実に37年ぶりに熊本城を訪れた。
	37年前、高校を卒業して大学へ入るまでの春休みに一人旅に出た。前夜は阿蘇の山腹で、寝袋一つで草原に寝て、翌朝
	この熊本城に来たのだった。その日は島原へ渡って、雲仙で駐在さんに壊れたケーブルカーを紹介して貰って、その中で
	寝た。貧乏旅行の極みだったが、初めて一人で時刻表を片手に家を出た旅で、すべてが新鮮な興奮に満ちていた。
	今回、熊本城はもう全く記憶に無かった。初めて訪れたのと同じだった。

















 











	
	<武者返し>
	豪壮優美に幾重にも重なる見事な石垣は、熊本城の最大の特色である。裾がゆるやかで上に行くほど垂直になる独特の組
	方は“武者返し”と呼ばれ、美しいカーブと優れた技術が高く評価されている。積み上げられた石の頼もしいほどの整然、
	そして時には空を切り裂くほどの鋭い角度。まさしく「城は石垣、城は人…」である。

	江戸時代の儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)はその著書「ツ禄(けんろく)」享保12年(1727年)の中で「石垣ハ加藤
	清正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覚兵衛。三宅角左衛門ヲ両カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。石垣ヲ築クニハ、幕ヲ
	張テ、一円ニ外人ニ見セズト云。今ハ町人ノワザトナリ、武士ハ皆其術ヲ不知。清正ノ築ケルハ大坂・尾州・肥後ノ熊本ナ
	リ」と熊本城の石垣のことを述べている。熊本城は明治になって、建物が次々と取り壊され、西南戦争では貴重な天守閣や
	本丸御殿も燃えてしまったが、石垣はほとんどが残っている。熊本城の最大の特徴はなんと言ってもこの石垣である。
	優美にして堅牢な石垣は「清正流」と呼ばれ江戸時代から名を馳せていた。江戸時代の「甲子夜話(かっしやわ)」には、
	「加藤清正ハ石垣ノ上手ニテ、熊本城ノ石垣ヲ見タルニ、高ケレ共、コバ井ナダラカニシテ、ノボルヘク見ユルママ、カエ
	上ルニ四五間ハ陟ラルルガ、石垣ノウエ頭上ニ覆ガヘリテ空見エズ」とその偉容が描かれている。熊本市ではこの石垣を永
	遠に子孫に伝えるため、毎年計画的に痛んだ石垣の積み替え工事を行い、保存管理に努めている。



















	
	<天守閣>
	地上50m、3層6階の天守閣は、白と黒を基調に造られた雄大重厚な構え。屋根の部分に曲線で構成された華麗な唐破風
	が4ケ所に配され、優雅さを与えている。最上段からの景色は遠く阿蘇の山々、熊本市街が一望でき、熊本平野の雄大な景
	色を満喫できる。市内からの天守閣の眺めはその位置、角度、そして四季折々の姿を楽しませてくれる。





 



 





 

 

 

 

 





	
	<宇土櫓>
	400年近い風雪に耐え、往時の姿を今に伝える宇土櫓。建築上の特徴から、天守閣とは築城期が異なるとされ、小西行長
	の居城・宇土城を移築したとの説もあり、呼び名の由来ともなっている。城本来の実質さを残す内部は、天守閣にも優る評
	価を受けている。

















	
	いま、熊本は、新幹線全線開通をひかえ、新たな飛躍の時を迎えている。2007年には、熊本のシンボル熊本城が
	築城400年を迎える。熊本城400年の歴史の中で育まれた豊かな文化遺産を再発見し、活力と魅力あふれる熊本
	を復活させる、これが熊本城400年と熊本ルネッサンス県民運動である。

















 

 

 

 

 

 











	
	現在の熊本城は、かつて茶臼山と呼ばれた小高い丘陵地を切り崩して造られている。熊本市内を見下ろし、肥後一国の要衝
	の地でもあったため、中世、ここには幾つかの山城があった。応仁年間(1467年〜1469年)、菊池一族の出田秀信(いでた
	ひでのぶ)が、茶臼山の東端に千葉城(ちばじょうを築いた。次に明応5年(1496年)、同じく菊池一族の鹿子木親員(か
	のこぎちかかず)が、茶臼山西南麓に「隈本城」を築いた。文献にその名が見えるだけなので、城の規模やはっきりした場
	所は判然としないが、現在、古城(こじょう)と呼ばれる一帯にあったようである。

 

	
	その後は肥後の国も戦国時代を向かへ、九州の豪族達、立花、菊池、大友、島津、龍造寺、秋月などが争う戦乱の時代とな
	る。天文19年(1550年)には、大友氏の配下城親冬(じょうちかふゆ)が隈本城に入るが、天正15年(1587年)豊臣秀
	吉の九州平定により、佐々成政(さっさなりまさ)が領主として肥後に入国する。しかし、佐々は検地の強行などにより国
	衆(こくしゅう)一揆を引き起こし、切腹させられてしまう。その後を秀吉の家臣となっていた加藤清正(かとうきよまさ)
	が引き受けるのである。



	
	加藤清正(かとうきよまさ)は、永禄5年(1562年)尾張国中村の生まれで、秀吉とは同郷で親戚に当たるとも言われる。
	清正の父・忠正は岐阜の斎藤氏の家臣だったが、清正は秀吉の配下となる。9歳の頃から秀吉に仕え、元服してから加藤虎
	之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗った。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで武功をたて、「七本槍」の1人に数え
	られてから勇名をはせた。天正16年(1588年)、清正はそれまでの侍大将から、いっきに肥後の北半国19万5千石の領
	主となる。27歳であった。佐々成政が難儀したように、清正が入国した当時の肥後は、国衆と呼ばれる土豪がひしめき、
	長引く戦乱で国内は荒れ果てていた。当時肥後を訪れた宣教師が、「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残してい
	るほどである。



	
	熊本城は、入府した加藤清正が慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)にかけて、7年を費やして築城した城である
	が、同時に清正は築城以外にもさまざまな施策を施し、治山治水、新田開発などにも力を入れ、また南蛮貿易に乗り出すな
	ど、積極的に領地経営を進めた。そのかいあって肥後北国は豊かになり、領民からは神様のように慕われるようになったと
	いう。秀吉死後、関ヶ原の合戦では、石田三成、小西行長らとの確執から東軍につき、戦後肥後南半国も拝領して、肥後一
	国54万石の大大名となるが、東軍についたとはいえ、豊臣家への恩顧の想いは強く、慶長16年(1611年)には二条城で
	秀頼と徳川家康の会見を実現させた。清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城に戻って死ぬ。にわかの発
	病ゆえに、西軍の再起を恐れた家康が毒殺したという風説も流れた。享年50歳。奇しくも、生まれた日と同じ6月24日
	であった。豊臣家も、清正の没後わずか4年後の大坂夏の陣において滅亡する。



	
	清正の死後、次男忠広(ただひろ)が肥後を受け継ぐが、忠広は当時10歳と幼く、家老5人の合議制で藩の存続が許され
	た。しかし合議制をとった肥後藩では、早速派閥争いが起こり、家老の加藤美作守(かとうみまさかのかみ)と加藤右馬允
	(かとううまのすけ)が争い、元和4年(1618年)には江戸城の将軍秀忠の面前で評定が行なわれる騒ぎとなった。結局美
	作守派の失脚で幕を閉じるが、寛永9年(1632年)5月、加藤家は突然幕府から21か条の罪状を突きつけられ、「諸事無
	作法」として、出羽庄内に1万石で流配され、承応3年(1654年)忠広が酒田で病没し、その一月後に唯一残った男系子孫
	である正良(まさよし)が、配流先の沼田で自刃した。ここに、豊臣譜代の大名加藤家も滅亡した。幕府は、正良の自刃を
	確認したのち、「加藤家終末」と記録したという。
	ちなみに、忠広の妹あま姫は、紀州徳川家の徳川頼宣の正室として輿入れし、その孫は8代将軍吉宗となる。



	
	加藤家が改易されたあと肥後藩主となったのは、豊前小倉城主細川忠利である。祖父は当代一流の文化人として知られる細
	川家初代藤孝(ふじたか)、父は戦国武将忠興(ただおき)、母は明智光秀の娘、玉(別名ガラシャ)である。細川家は信
	長、秀吉、家康に仕えて戦国乱世をくぐり抜け、丹波、豊前と国替えを重ねて肥後藩主となった。忠利が肥後に入国するに
	あたって一番気を使ったのが、加藤家に礼を尽くすことだった。国入りのときに行列の先頭には清正の位牌を掲げ、入城す
	る際は大手門(おおてもん)で深々とぬかずき、天守に登って清正の眠る本妙寺(ほんみょうじ)に向かい頭を下げたと伝
	えられている。この気遣いは細川家代々伝えられ、自分の事跡も「清正公のお陰」としたこともあったようで、熊本で清正
	人気が根強いのも、このあたりにあるのかもしれない。
	忠利は親譲りの文人でもあり、また武道にも秀でていた。剣術は柳生宗矩(やぎゅうむねのり)に師事し、二階堂流の奥義
	も極めていたと伝えられる。宮本武蔵を肥後に招いたのも忠利である。宮本武蔵は寛永17年(1640年)、57歳のとき、
	藩主細川忠利に招かれ、城内千葉城で晩年を過ごした。武蔵はこの地で、「兵法三十五ヶ条の覚書」「五輪書」などを著し
	た。



 



 

 















 

	
	熊本城は、以後細川家11代(239年)の居城となって明治維新を迎える。維新に乗り遅れた肥後では、「神風連」が明
	治9年10月、その年の3月の「帯刀禁止令」、同6月の「散髪令」に憤激し挙兵する。熊本鎮台を攻め、鎮台司令長官種
	田政明(たねだまさあき)や県令安岡良亮(やすおかりょうすけ)らを襲撃して、多くの官憲を殺傷した。最初劣勢であっ
	た鎮台兵は、やがて落ち着きを取り戻して反撃を始め、乱は一日で鎮圧された。最終的には戦死28人、自刃86人を出し
	て惨敗、残った者もすべて捕縛された。その4日後には福岡で秋月の乱、その翌日には山口・萩の乱が勃発するが、いずれ
	も官軍の新式銃の前には「とうろうの蟷螂」だった。
	ちなみに、司令長官種田の愛妾小勝が、東京の父宛に打った「ダンナハイケナイワタシハテキズ」(旦那はいけない。私は
	手傷。)の電文は後に都々逸になり、小勝の名前とともに全国に広まった。上左は「神風連の乱」を首謀した太田黒伴男の
	「奮戦の地」碑。







	
	西南戦争薩軍総攻撃の3日前、明治10年(1877年)2月19日午前11時頃、御天守御廊下付近から出火し、天守閣と本
	丸御殿一帯が焼失した。原因は台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台(ちんだい)自ら火を付けたとする「自焼
	説」などがあるが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷干城(たにかんじょう)が命じ、
	参謀の児玉源太郎(こだまげんたろう)が火を付けた、という説が有力という。





	
	明治10年(1877)の西南の役に際しては、熊本場内の官軍は、薩軍を相手に50日余も籠城し、熊本城は、難攻不落の城と
	しての真価を発揮した。城内には歩兵第13連隊を中心に、3500人が守りにつき、かたや薩軍は1万3千人が鹿児島を
	出発していた。熊本城を囲んだ薩軍は、2月22日午前7時総攻撃を始めたが城内に入ることはできなかった。田原坂へ転
	戦した薩軍は激戦の末敗れるが、鹿児島へ敗走した西郷隆盛は、終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない、清正公
	に負けたのだ。」とつぶやいた話などが、まことしやかに伝えられている。



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