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生野の変 2006.5.5(金)兵庫県生野町



	生野の変 (1863)
	生野の変(いくののへん)は、江戸時代後期の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷
	(尊攘)派が挙兵した事件である。「生野義挙」あるいは「但馬の変」とも言う。

	文久3(1863)年8月14日、尊攘激派の圧力により出された孝明天皇の「大和行幸の詔」に呼応し、公卿中山忠能の
	子・中山忠光を擁した、土佐勤王党の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石、及び三河の松本奎堂を指導者とする「天誅組」が、
	攘夷勅命の先鋒を奉ると称し京都を出て大和で討幕の挙兵をする。
	孝明天皇はそれ知らなかったと言われるが、大和行幸の詔の下りた翌日14日、19歳だった中山忠光は京都・方広寺
	に同志を集めた。忠光はかねてから尊攘激派と交わり、真木和泉・久坂玄瑞・寺島忠三郎・吉村寅太郎らの激派の来訪
	を受けて天下を論じていた。方広寺には総勢38名が集結し、「数千の義民を募り候て御親征御迎えに参上仕り候」と
	の決意をもって大和挙兵を決した。一行は京都を脱出して伏見に到着し、吉村寅太郎が用意しておいた武具を船に積み
	込み、淀川を下り、17日には大和国に入った。その日のうちに大和五條の代官所を襲撃し代官の首を討ち、大和を朝
	廷領とするとを宣言した。しかし、その翌日、禁門の政変(8月18日の政変:大和行幸中止)が起き、京都の尊攘派
	勢力は失墜した。孤立した天誅組は高取城攻撃にも失敗し、朝命・幕命による諸藩の追討を受けて転戦を続け、9月下
	旬、頼っていた農民義兵たちにも去られ、吉野で壊滅した。吉野を脱出した中山以下7名が長州に逃れた。




	10月上旬、尊攘派の福岡藩士・平野国臣らが禁門の政変で都落ちして長州に滞在中の七卿のうち、沢宣嘉を擁して、
	但馬・生野で挙兵した。
	平野国臣はそもそも、天誅組の挙兵をやめさせるべく大和へ赴いたのであるが、すでに代官所襲撃はなった後だった。
	大和挙兵中止説得に失敗した平野は、五条から引き返して京都に戻ったが、「8・18の政変」が勃発し、浪人取締が
	厳しくなったため、大和義挙応援のため、京都を脱出して但馬に向った。但馬には平野らの画策によって朝廷から農兵
	召募の許可が下りていたからである。9月19日、農兵組織化の中心となってきた有志ら三十余名は、天誅組の大和挙
	兵に呼応する討幕挙兵をすることを決めた。翌20日、平野は都落ちした七卿を首領に戴くため、長州に向った。平野
	らは七卿に面会し、七卿の一人、沢宣嘉が密かに長州を脱出し、挙兵に加わることになった。10月2日、平野らは、
	沢宣嘉と彼に従う河上弥市・戸原卯橘ら奇兵隊隊士を含む37名と共に長州を脱した。途中、天誅組壊滅の報に接し、
	一行は平野らの挙兵中止派と河上弥市・戸原卯橘らの挙兵派とに別れて議論となったが、挙兵派が勝ち、一行は11日
	に生野に到着した。生野では、再び挙兵の是否について議論になり、平野らはここでも挙兵中止を主張したが、結局、
	挙兵に決した。

 


	翌10月12日未明、彼らは代官所を無血占拠し、沢の諭告文を発表して農兵を募った。

	「先年開港以来、御国体を汚し奉り、小民ども困窮いたし候を、御憂い遊ばされ、度々関東へ攘夷の勅諚下され候えど
	も、終に受け奉らず、朝廷を蔑如し奉り、度々毒薬を献じ候処、皇祖天神の保護に依り、玉体恙なく在らせられ候処、
	去る八月十七日、奸賊松平肥後守、偽謀を似て、禁門に乱入し、関白を幽閉し、公卿正義の御方々参内を止め、御親兵
	を解き放ち、言路を隔絶し、恐れ多くも今上皇帝、逆賊の囲中にあらせられ、実に千秋一時の一大厄を、恣に処置いた
	し候始末、倶に天を戴かざるの仇に候。嗚呼卒土の浜誰人か涕泣せざらんや、男子胆を張り、身を擲ち候は此時に候、
	但馬国は、人民忠孝之志厚く、南北の時節にも賊足利に与せず、皇威を揚げ、国体を張り候条聞召し上られ、兼ねて頼
	もしく奇特に思しめし候。早々馳せ集まり、大義を承り、叡慮を奉し、奸賊を平らげ宸襟を安んじ奉るべく候事。
	沢主水正亥十月但馬国旧家有志人々へ」




	農兵は続々と集結し、たちまちその数は2千人を越えた。しかし、代官所占拠の報を受けた出石・姫路二藩は直ちに出
	兵し、翌13日には出石藩兵900余人、14日には姫路藩兵千余名が生野に侵攻した。生野の一党は生野に立てこも
	らず、街道の南北を防御した。平野らは播磨口(南)に、河上弥一は奇兵隊隊士・農兵一隊を率いて天然の要害である
	妙見山(北)に陣を張った。本陣では再び挙兵中止論が再燃したが、本陣からの使者に対して河上は動かず、解散説は
	立ち消えとなった。しかし13日夜、首領の沢が、元出石藩士の多田弥太郎・入江八千兵衛らとともに本陣を脱出した。
	多田らに情勢の不利を説かれたからだという。沢は生野本陣の机上に、「頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつ
	は今朝の 夢にてありぬる」という一首を残して生野を去った。




	沢脱出を聞いた河上らは妙見山に留まり、諸藩の兵と一戦して討死する覚悟を決めた。しかし、翌14日朝になって、
	沢脱出を知った農兵達が、一党を偽浪士と罵り、ついには彼らを襲撃し始めた。農兵に包囲され、鉄砲を打ち込まれた
	河上ら13名は、もはやこれまでと自刃した。
	河上弥一は、長州藩出身で時に21歳。この挙兵では平野とともに総督に任じられた。彼らは山伏岩に「今月今日討死」
	と血書して8人は切腹。残るは討死した。河上は腹巻に「おくれては梅も桜に劣るらん 魁けてこそ 色も香もあれ」
	と書いていたという。
	播磨口の平野は、沢の脱出を知ると同志に解散を告げた。脱出に成功した者もいたが、平野は捕縛された。その他の者
	も、切腹・戦死・捕縛され、捕縛された平野ら11名は翌元治元年1月には京都の六角獄に送られた。7月、禁門の変
	の大火の際、囚人の市中解き放ちをおそれた奉行所役人に獄中で殺害された。残党は諸藩の追討を受けて四散し、多く
	は長州に逃れた。





	<多田弥太郎顕彰碑>

	多田弥太郎は、文政九年(1826)出石藩多田義徳の長子として生まれる。江戸で藤沢東咳、古賀同庵、そして昌平黌
	に学んだ。のちに長崎に出て高島秋帆に西洋砲術を学ぶ。藩主の継嗣問題で執政を批判して捕らえられ投獄された。
	獄中にあって四十部に及ぶ「海防策」を著し、世に名を知られることになる。文久二年(1862)、藩主直々の藩政改
	革によりようやく赦免された。翌年文久三年(1863)の生野挙兵に馳せ参じたが破れ、一度は京都に逃れた。




	生野の挙兵に破れると、多田弥太郎は同郷の高橋甲太郎に命じて、伊予田岡俊三郎、阿波森源蔵らと澤宣嘉を守って
	長州に落ち延びさせた。高橋甲太郎は明治まで生き長らえることになった。中條右京は、阿波出身の長曽我部太七郎
	とともに、追上峠から姫路街道を落ちていったが、その途中神崎町猪篠で農兵に囲まれ銃弾を受けて斃れた。中條右
	京は享年二十一歳、長曽我部太七郎は十八歳であった。
	多田弥太郎は京都から引き返して伯耆、因幡の同志を募るため養父郡寄宮の旅籠に泊まっていたところを密告する者
	があり、出石藩の手で捕らえられた。養父から出石に送られる途上、浅間峠にて斬殺された。三十九歳であった。




	もとは八鹿側と出石側を結ぶ道のりの、一番険しい峠である浅間峠にこの顕彰碑は建てられていたが、トンネルの開
	通とともに下へおろされ、現在は出石から八鹿に通ずる県道2線沿いに移転されている。八鹿側から行くと、トンネ
	ルの出石側の出口すぐ左に立っている。

 





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