<鉱山資料館>
大同2年(807年)に開坑し、信長・秀吉・徳川幕府の時代を経て明治元年には政府直轄となり、その後は皇室財産にま
でなった大鉱山・生野銀山。その栄光の歴史を、パネル展示などにより紹介している。また徳川時代の雁木(がんぎ)
梯子、竹樋(坑内の水を汲み上げたポンプ)、精錬に使ったふいごをはじめ徳川時代の銀山の様子を詳細に描いた絵巻
物、坑内模型などの資料も豊富に展示されている。
前述したように、大同2年(807)と伝えられる生野銀山の開鉱については何も文献資料はない。ただ、延喜元年(901)
の「延喜格」にそれらしい記述があるようで、「延喜雑式にいわく、凡そ対馬の銀は百姓の私に操るに任せ、但馬の国司
は此例に非ず。」(但馬考)とか、「此処(このところ)銀ヲ出ス」(両朝平壌録、但馬国の項)とあって、これが生野
銀山のことではないかとされているようだ。しかし異論もあって、元禄時代にかかれた「山神社縁起」にも「生野ノ里ヨ
リ銀ノ出ル事、世ニ大同ノ頃ト言傳ヘドモ逅(タシ)カニ記セルモノ無シ」とかかれ、確証がもてないと記録しているの
である。その後、室町後期の山名氏が銀山経営に乗り出すまで、史実的な確証は出現しない。つまり、仮に大同2年開山
とすれば、約7世紀にわたる生野銀山の歴史は無いのである。
「銀山旧記」という古文書に、「山名右衛門督(やまなうえもんのすけ)祐豊(すけとよ)城主たり。惣講(そうがまえ)
掻(か)き上げ堀にして内堀一通りあり。三階の天守をあげ、角々(すみずみ)に矢倉(やぐら)を附(つけ)、追手は
北国町のうら今、柳二本ある処なり。搦手(からめて)は井口(いのくち)なり。一国守護の下なれば、侍屋舗(やしき)、
町屋、寺社繁昌(はんじょう)なりと云々」と言う文章があって、ここにいう山名祐豊の時代に生野銀山は開発されたよ
うである。同記には、「但州生野銀山は、天文十一年(1542)壬寅(みずのえとら)二月上旬に城山の南表に銀石初めて
掘出し蛇間歩(じゃまぶ:間歩とは抗口のこと。)と号す。」とある。
山名祐豊が築いたという城(平城?陣屋?)は、明治時代になっても存在していて、生野県庁発足時には庁舎としても用
いられていたそうであるが、大正年代に取り壊されたという。いずれにしても史実的には、この山名祐豊をもって生野銀
山の開祖とするのが正しいようである。
山名祐豊はその後弘治(こうじ)二年(1556)、家臣の竹田城主太田垣朝延(おおたがきとものぶ)の反逆によって生野
を捨て出石(いずし)に籠城、生野は太田垣朝延の支配下に入る。以後、信長、秀吉、家康と支配権は移り、徳川時代に
なって安定した鉱山経営が営まれるようになった。しかし山名氏時代以降、生野の産銀量は、徳川中期に正確な記録が残
るようになるまでまったく不明である。前出「銀山旧記」には、秀吉の家臣・伊藤石見守が生野代官であった時期のこと
を、「銀山の所務は石見守殿考へ次第に公納あり。山はみな売山にて一ケ月宛買請て掘る。請銀之内御公納(鉱山税)十
分の一とりて、残りは山本に給わる。」と書き、いわば伊藤石見守の意のままだったことがわかる。伊藤石見守が、慶長
二年分として伏見へ送った銀高は、2,677貫余(10,138.75kg。1貫 = 1000匁 = 3.75キログラム)、つまり約10ト
ンだと記録されている。しかし石見守が私蔵した分も相当あっただろうと想像できる。
上は、銀山坑道の巨大模型である。縮尺は15分の1、高さは568cm、幅は1440cm。まるで蟻の巣状に採掘の様子がジオラマ
で再現されている。「但州生野銀山々内緒山敷中品々道具類絵図」(たんしゅういくのぎんざんさんないしょざんしきち
ゅうしなじなどうぐるいえず)などをもとに道具を、また徳川時代の銀山絵巻などを参考に衣服を復元し、約 150体の人
形で再現されている。
私は若干高所恐怖症のきらいがあるが、こんな穴の中も耐えられない。私には山師はつとまらない。
ここまでが模型の総体である。14.4m。地表の作業場から、坑内の様子、そして地表に露出した鉱脈の部分までが一体と
なった模型だ。
<坑内の図>
昔の坑内は人一人が腰をかがめてやっと通れる程度の狭くて低い堀場であった。そして坑内で働く人達を称して下財(地
下の財宝を掘る人)又は芸才といった。
邪馬台国大研究HP/ 遺跡めぐり/ 生野銀山