今回の例会は、私は東京の王子にいて参加できなかった。当日関西は雨で、参加者も雨に濡れながら斑鳩を散策 されたようだ。当日の写真は会員の井上靖さん(あの大作家と同じ名前)に送ってもらったが、私は参加してい ないので captionがない。掲示板に井上さんが書き込んでくれたコメントを挿入する。また送っていただいた写 真はデカく、これでも40%に縮尺した。当日の参加者の皆さんも、是非コメントをお寄せください。ここに掲 載したいと思います。 送りっぱなしで 投稿者:新入の井上 投稿日:10月24日(火)00時13分31秒 >筑前さん 写真だけ送ってすみません。一緒に行ってなかったら何がなんだかわかりませんね。覚えてる説明 をまた送ります。 あの日、雨だったのですが、まず一軒目の神社で子ども会と老人会の餅つきを境内でやっていてあの辺りを見学 に来ましたと告げえると「まあ、お餅でも」とつき立ての餅を焼いてくれ黄な粉をつけていただきました。あと、 お神酒をいただければ最高でしたが <本日の順路> (1)法隆寺駅集合 (2)斑鳩ホール(藤木古墳のビデオと資料を見学)(3)素さのお神社(御餅を頂く) (4)成福寺 (5)調子丸古墳 (5)駒塚古墳 (6)法起寺 (7)法輪寺 (8)斑鳩神社 (9)法隆寺夢殿 (10)中宮寺 (11)法隆寺の前を通過 (12)西里の歴史町なみ (13)藤木古墳 (14)業平姿見の井戸(日切地蔵)[継子地蔵] (15)斑鳩大塚古墳 (16)王寺駅
「斑鳩町」は奈良県の北西部に位置し、聖徳太子ゆかりの地として、広く知られている。町のほぼ中央部にある 法隆寺は最古の木造建築として名高く、法起寺を含む周辺地域の仏教建造物群は、日本で初めて世界文化遺産に 登録された。隣接する法輪寺や中宮寺など由緒あるお寺もある。これらの寺々には飛鳥時代から中世、近世にい たる仏教芸術の粋といわれる仏像や仏画、工芸品があり、あたりのもの静かな雰囲気と相まって、歴史文化の余 香を今に伝えている。 ちなみに、この日私は曇り空の蒸し暑い東京で、一人王子の町を散策していた。落語の「王子の狐」で有名な王 子である。その模様は、同じく歴史倶楽部HPの「江戸の旅」の中に収録してあるので、是非そちらもご覧いた だきたい。
「いかるが」という名は、「日本書紀」用明紀元年の条に「斑鳩」の記事が見え「日本書紀通釈」には「斑鳩、 鳥を以て名をせしなり。・・・」 とあり、この地にイカルという鳥が群れをなしていたことからだといわれて いる。スズメ目アトリ科の鳥でムクドリぐらいの大きさである。この鳥は、漢字で斑鳩・鵤(いかるが)とも書 く。私の生まれ故郷九州では殆ど見たことはないが、関西ではよく見る。今私が住んでいる吹田市の万博記念公 園には、季節になるとイカルが群れをなしてやってくるし、平安神宮や嵐山でも見かけた。近畿圏ではポピュラ ーな鳥である。また、伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと)がこの地の神として祀られていること から「いかるが」という名が付いたという説もある。
藤ノ木古墳は、法隆寺に残る記録には、「ミササキ」「ミササキ山」と記されており、崇峻天皇陵と記すものも ある。その後、発掘調査が進むに従い、斑鳩地方に勢力を持ったと思われる物部氏、蘇我氏・平群氏等の諸説が 提示されているが、定説化したものはない。 古墳は円墳で直径48m、高さ9mの円墳である。出土品から、六世紀後半に築造された古墳であると考えられ ている。 1985年(昭和60年)の調査まで藤ノ木古墳は考古学の世界でもほとんど注目されることはなかった。この 第1次調査以降、墳丘の測量や横穴式石室内の調査が行われ、玄室内は奥壁に接近して、奥壁と並行する形で、 長辺を東西にして家形石棺がおかれており、未盗掘であるとみられた。石棺は二上山白色凝灰岩を使った刳抜式 で、箱形の身と屋根型の蓋を別々に造りあわせたものだった。石棺の全面には朱が塗布されていた。石室内には 石棺北側から馬具などが発見された。石棺内には埋葬後、攪乱を受けていない東枕にした2体の被葬者が確認さ れ、そのそばには、鏡や刀など豪華な副葬品が確認された。東アジアでもまれにみる優れた意匠や彫金技術を施 したもので、金具などにパルメット文など共通の文様を用い、鞍金具には竜・鳳凰・象・などの禽獣文や鬼神像 などを透かし彫りし、東アジアの様々な文様が集合したもので、仏教的要素・四神思想などの呪術的な世界の影 響をみることができる。
法起寺は、太子の岡本宮を太子の遺言により、その子山背大兄皇子が寺に変えたもので、地名から岡本宮、池の そばにあったので池尻寺ともいわれる。三重塔は、706年に完成したとされ、高さ24mの塔は最古のもので、 法隆寺伽藍と共に世界文化遺産に登録されている。創建当時のものは、三重塔だけで、三重塔としては、最古最 大であり飛鳥時代の建築様式を伝えている。
斑 鳩 神 社(いかるがじんじゃ) 住 所 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目11番 交 通 JR大和路線法隆寺下車 法隆寺より北5分 菅原道真公を祀る旧法隆寺村(西里・東里・三町・五丁・並松)の氏神。法隆寺とも関係があり、平安時代(938) 当時の法隆寺別当湛照僧都が道真公の後裔であったことから、境内に祀られた後に現在の場所に移された。毎年 10月の中頃には秋祭りが行われ、お祭りの日には、法隆寺境内の妻室前にお旅所が設けられ、そこに御渡りが ある。
中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的 な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残って居りましたのを、 先年発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは 丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍には なく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)からのものと同系統のものであることは、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として 初めから計画されたものと思われます。国宝弥勒菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)は其の金堂の本尊であり、天寿 国曼荼羅は、其の講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。 その後、平安時代には寺運衰退して、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して本尊のみ居ま すと云った状態でありましたのを、鎌倉時代に入って信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅繍帳を法隆寺宝蔵 内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。 その後度々火災に会い衰微し、無住となって法隆寺から見廻わって下さった事もあったようです。尚その後殆ど 寺観を留めず、大部分の佛像をはじめ鐘楼などが法隆寺に移管されました。そして室町時代の天文年間には、後 伏見天皇八世伏見宮貞敦親王皇女、慈覚院宮尊智女王(慶長7年薨)が御住職遊ばされる事になり、取り敢えず 法隆寺東院の山内子院を拝借し、旧地の伽藍石を庭に配し、整備し、次第に寺観を整えたのではないかと思われ ます。以来尼門跡寺院としての法統が今日迄伝えられております。 <中宮寺HPより>
法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。その創建の由来は、「金 堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文 によって知ることができます。それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ること を誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇の ご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼 ばれています)であると伝えています。 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。広さ約18 万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒をつらね、たくさんの 宝物類が伝来しています。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に 及んでいます。このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇 り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な 仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。<法隆寺HPより>
ここでの解説文は、中宮寺HP、法隆寺HP、いかるが町観光案内センター「法隆寺iセンター」のHPから転 載しました。記して感謝の意を表します。