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平野国臣・生誕地
2006.3.25(土)
福岡市中央区地行下町
平野国臣【ひらの くにおみ】 (1828〜1864) −幕末の勤王家。福岡藩士。生野の変の首謀者−
文政11年(1828)3月29日、福岡地行下町(福岡市中央区)に、足軽平野吉郎右衛門の次男として出生。母は都甲氏。
名は種言、種徳、のち国臣、号は月迺舎・友月庵等。通称は源蔵・次郎。一般には「平野次郎国臣」と呼ばれることが
多い。10歳で大音権左衛門の侍童になり、翌年の天保8年2月、11歳の時大塩平八郎の乱が起き、13歳にはアヘ
ン戦争(〜1842年) が起きている。天保12年、14歳で鉄砲組頭・小金丸彦六の養子となる。小金丸氏は、大蔵春実
の三男の大蔵種季の子の小金丸種量の子孫で、本姓は大蔵氏であり、平野国臣の正式名は大蔵種徳(おおくらのたねの
り)。わが故郷・筑前秋月藩の、秀吉に敗れて日向(宮崎県)高鍋町へ流された秋月氏と同祖である。
弘化2年(1845)、国臣は18歳で福岡藩の普請方属吏となり、嘉永元年の冬まで江戸勤務となる。嘉永元年(1948)、
帰国して21歳で小金丸菊と結婚。ペリー来航後、長崎にも勤務して、徐々に尊皇攘夷の考えを固めていったと思われ
る。年譜によれば嘉永4年24歳のとき、大島の宗像大社中津宮の営繕にかかわり、北条右門を知り、勤王に目覚める、
となっている。
嘉永6年、国臣26歳で二度目の江戸勤務となるが、7月にはプチャーチン(ロシア)が長崎に来航し、翌安政元年1月
にはペリーが再来し、3月、日米和親条約が調印された。安政2年、国臣は1年間の長崎勤務となる。10月江戸に大
地震が発生。安政4年、30歳の春、国臣は平野姓に戻る。5月、藩主黒田長溥に犬追物復興を直訴するが退けられる。
この頃、惣髪体となり、王朝風の太刀、烏帽子・直垂の出で立ちで城下を歩く姿が見られたという。9月には、福岡藩
の支藩でわが故郷の、秋月藩学者・坂田諸遠につき武家故実などの研究に励む。
ここまでの国臣の姿は、佐幕派の藩内における急進的な勤皇の志士予備軍である。彼の運命が大きく変わっていくのは
これからである。
安政5年(1858)8月、国臣31歳で福岡藩を脱藩し京都へでる。薩摩藩士らと交流し、その後九州各地を遊歴して、
薩筑連合などを模索した。脱藩の罪で追われながら、西国の尊攘派の結集をはかるために奔走する。京都の公卿・中山
家諸大夫・田中河内介らとも交誼を結ぶ。その間に備中商人の三宅正太郎や下関商人の白石正一郎らと物産交易に従事
したこともあったようである。坂本竜馬とよく似たことをしているのだ。
西郷吉之助(隆盛)とも交わり、僧月照をまもって薩摩へも併行している。西郷の依頼で、京都で著名な浪人学者の梅
田雲浜、梁川星厳らを訪問し、幕政に不満がある公家に運動を起こす様、説得を依頼したが、安政の大獄が始まり挫折
した。文久2年(1862)、一部の勤皇志士とともに、島津久光の上洛にあわせ攘夷決行・倒幕挙兵を企てるが、寺田屋
事件が勃発し挫折。国臣は福岡藩によって捕縛された。
翌年赦免され上京、学習院出仕となる。8月、天誅組の挙兵を止める為大和にいた時、「8月18日の政変」の情報が
入り京都へ戻ったが、京都も追われたため但馬に逃れ、「沢宣嘉」を擁する挙兵に参加する。(生野の変)
生野の代官所を占拠したが、しかし怯えた沢宣嘉は軍資金を持って逃亡し、残った浪士は近隣諸藩からの攻撃をうけ、
乱に動員した近在農民の反乱も受けて、この決起も失敗に終わった。国臣は城崎に逃亡中捕縛され、元治元年(1864)
京都の六角獄に投獄された。
同年7月20日、2日前に起こった禁門の変(蛤御門の変)で京都市中が火の海になる中、京都六角獄舎に火が及んだ
ときのことを恐れた官吏たちによって、罪状も決まらぬまま獄中で斬首された。享年37歳。
同獄には、池田屋事件の直前に新選組に捕えられ、拷問された枡屋喜右衛門こと古高俊太郎もいたが、同様に惨殺され
た。非常時とはいえ、未決囚の処刑には疑問が投げかけられた。この処刑は、当初新選組の仕業との風聞も流れたが、
この時、新選組は天王山〜大坂方面に禁門の変の残党狩りに出ていて不在であった。
六角獄舎は、六角通に面していたことから六角獄舎と呼ばれていた。その後は、天明の大火で今のNHK京都放送局辺
りに移転し、昭和には山科に移り、京都刑務所となっている。六角獄舎では、幕末の頃には多くの志士が囚われの身と
なっていた。
平野次郎国臣は、今、生家のあった福岡市地行西町に「平野神社」として祀られている。福岡市中央区の西公園には銅
像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。明治政府は、明治24年、彼に正四位を贈っている。
西国の尊王攘夷派の結集を画策し、諸国を奔走した。坂本竜馬の先輩格、竜馬よりは7才年上で、西郷隆盛は1つ上、大
久保利通や吉田松陰は2才下になる。
「わが胸の もゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし さくらじま山」
元号も改まった元治元年(1864)7月、尊皇攘夷急進派の志士が長州藩を動かし出兵、御所蛤御門を守る薩摩藩、会津藩、
桑名藩兵と交戦した。俗に云われる「蛤御門の変」(禁門の変)である。戦いは一日で終わるものの、京都の町は三日三
晩にわたって「京のドンド焼け」と云われる大火となってしまう。迫り来る炎に、入牢者の破獄を恐れた当時の町奉行、
滝川播磨守具和は獄舎に対して、「火が堀川に及ぶことあらば、重罪人はすべて切り捨てよ」と命じ、その犠牲となった
一人が平野国臣だった。この時、他に横田友次郎靖之、大村包房、乾嗣竜、足利尊氏の木像を斬った長尾武雄、池田屋騒
動の発端となった輪王寺宮の古高俊太郎ら三十余名の志士が斬首されている。
平野国臣ら三十七士の墓は上京区行衛町にある竹林寺にあって、また、墓碑は東山区清閑寺霊山町の護国神社にある。六
角獄舎跡は中京区因幡町で、その跡地にはマンションが建っているが、その一角に「殉難勤皇志士忠霊碑」が残されてい
る。マンションが建つまでは「首洗い井戸」なども残っていたという。この石標は平野国臣等が処刑された六角牢獄の跡
を示すものである。
平野国臣の辞世詩
「憂国十年 東に走り西に馳 成敗天に在り 魂魄(こんぱく)地に帰す」
書家炭山南木の筆で大書されたもの。平野が生野に挙兵して投獄・処刑される時に、悠然と吟じたこの詩には、国事に一
身を捧げ、志半ばで生涯を終える心境が詠まれている。
国を憂えて奔走すること十年、東に西に駆けずり回ったが成功も失敗も天が決めることであり、志半ばにして身も心も地
に帰すことになってしまった。
この生誕地よりやや東の西公園にある、平野国臣[文政11年〜元治元年1828〜1864]の銅像。国臣の甥で彫刻家の田中雪窓
(せつそう)が、大正4年に知人や肉親の話から国臣像を再現したが、太平洋戦争時金属供出させられ、戦後の昭和39
年、国臣逝去百年にあたって、安永良徳(よしのり:日展審査員)により再建されたもの。
平野国臣の37年の生涯で、維新史に名を残すようになったのは、晩年のわずか七年の活動である。そのほとんどが、幕
吏と、佐幕派であった自藩の福岡藩の盗賊方と、京都では新撰組に追われての逃走劇で、薩摩と長州の藩士達と違ってど
こからの支援も無い、いわば悲劇の勤皇の志士だった。
国臣は奇抜な格好を好み、髪を総髪、刀は一昔前の太刀作りの刀を佩き、烏帽子・直垂を着て町中を歩くことがあったと
伝えられる。また、和歌・笛も嗜む風流人であり、文人、国学者でもあったが、反面豪傑であったとも伝えられ、その複
雑な性格ゆえに、幕末に活躍した数多くの志士達の中でも、どちらかといえば一匹狼として奔走した。
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