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東大阪市埋蔵文化財センター 2006.1.29 歴史倶楽部・第106回例会





	私はここには二度来た。写真を撮りまくって、詳細なレポートは以下にあるので、そちらと併せてご覧いただきたい。
	という訳で、今回はあまり写真は撮らなかったが、前回写さなかったもの、新しい展示のものを中心に撮影したが、
	見直すと結構同じものを撮っていた。

	http://www.inoues.net/museum/higasiosaka1.html


建物が丸いのは円筒埴輪をイメージしてある。詳細は最後尾に。




	縄文時代の東大阪は、東に生駒山麓の山々が連なり、西には河内湖が広がっていた。日下(くさか)の縄文人達も、
	河内湖で魚介類を採取し、生駒山麓で鹿や猪を追いかけていたと思われる。日下貝塚は、孔舎衛(くさか)東小学校
	の南側に広がる縄文時代後期から晩期の集落跡である。昔の地名は「貝畑」と言い、古老に聞けば30年ほど前まで
	周辺から貝殻がたくさん見つかったそうである。昭和47年に、縄文時代貝塚として国指定史跡となった。

	貝塚からは、セタシジミ、オオタニシなどの淡水産の貝や、ハマグリ、サザエ、カキなどの海水産の貝に混じって、
	シカ、イノシシなどの動物の骨も発見されている。日下貝塚では、石がこいの炉を持つ竪穴住居が発見されている他、
	多くの墓も発見された。縄文時代の墓は、地面に穴を掘って遺体を埋葬している。このような墓を土壙墓(どこうぼ)
	と呼ぶが、日下貝塚では34基以上の土壙墓が発見されている。ここでの人骨は、ほとんど穴の中に手足を折り曲げ
	た状態で埋葬されている。このような埋葬方法を屈葬(くっそう)と呼ぶ。屈葬には身体を上に向けたもの、横にし
	たもの、うつぶせにしたものなど様々な形がある。日下貝塚の土壙墓群には、丸く環状に廻るものがあり、これを環
	状列墓(かんじょうれつぼ)と呼ぶ。縄文人も、人が死ぬと適当に埋葬したのではなく、一定の規則に従って埋葬し
	ていたのである。




	西の辻遺跡第47次調査では、弥生時代中期末の井戸や、古墳時代中期末から後期初頭の掘立柱建物2棟が発見され
	た。古墳時代の集落は、東西100m前後の小規模な集落と考えられている。




	若江遺跡第81次調査では古墳時代後期(6世紀後半)、奈良時代(8世紀)の須恵器や室町時代(15/16世紀)
	の土師器小・大皿などが、信長期若江城の盛り土のなかから出土している。




	東大阪は、これから行く八尾市東部もそうだが、かって河内湖が生駒の麓まで迫っていたため、おそらくはその海岸
	べりにあったと思われる遺跡が多い。瀬戸内海を抜けて西から来た勢力は、上町台地と摂津丘陵との間の狭い海峡を
	抜けて、ここ生駒の山麓に船を着けたのだろうと思う。そのため遺跡群は北から南へ、生駒山、高安山にそって山麓
	に点在している。ということは、おそらく東大阪に多い神武天皇の旧蹟は、たぶん本物である可能性が高い。もちろ
	ん「神武天皇」という名前の付いた人物が来たわけではなく、西からの渡来集団が後世そう呼ばれるようになったの
	だ。長髄彦(ながすねひこ)という地場の豪族は、これらの渡来集団に手向かった生粋の「河内っ子」だったのであ
	ろう。継体天皇を助けたとされる「馬飼の首(おびと)」もこの辺りに住んでいた。





国の補助を受けて、公費で実施している発掘調査では、河内寺の塔跡という大きな発見があった。



「ここはわしの寺やでぇ」と河内さん。そしたら、飛鳥の河原寺は河原さんちのかい!










	東大阪市には、約25000年前の旧石器時代から、約200年前の江戸時代まで、さまざまな時代の遺跡(埋蔵文
	化財包蔵地)が約130ヶ所存在している。上の地図からも見て取れるが、市内の山麓や中央環状線に沿ったところ
	に遺跡が集中しているのがわかる。限られた区域に、さまざまな時代の変遷をたどれるところは全国的にみても珍し
	く、東大阪市は遺跡の宝庫なのである。




この「鬼虎川遺跡」の発掘説明会にも行った。第58次だった。その模様は以下に。

http://www.inoues.net/ruins/kitoragawa.html





	国道170号線を拡幅する工事に伴う鬼虎川(キトラがわ)の発掘調査は10年以上継続している。平成15年度か
	ら16年度にかけて、第56次の現場調査・整理調査が行われた。調査地は、弥生時代の鬼虎川遺跡の集落の南端付
	近と考えられるが、弥生時代前期後半の土杭(どこう)や中期初頭の大溝(おおみぞ)、中期後半の土器(甕)棺、
	溝、井戸、土杭、多数のピット(穴)が発見され、この時期に集落が存在していたことが判明した。同時に、縄文土
	器、弥生土器、石鏃(せきぞく)、打製短剣などの打製石器や、石剣・石包丁・石斧などの磨製石器、クワなどの木
	製品、刺突具(しとつぐ:モリやヤスなど)などの骨角器が大量に出土している。骨角器の中には、珍しい犬の牙で
	作った勾玉(牙玉)が含まれている。




	また、イネをはじめ当時食料に用いられた動植物遺存体(いぞんたい)も出土している。なかでも中期初頭(紀元前
	後)のヤヨイブタ(上右の写真、最下段)の存在は、弥生時代の早い段階で人々がイノシシを家畜化し飼育化してい
	たことを物語っている。包含層中から出土した人面土偶は、縄文時代か弥生時代かはっきりしていないが、当時の人
	々の精神構造を推し量る上で貴重な資料である。(上記、「第58次現地説明会」のHPに人面土器の詳細がある。)




	鬼虎川第59次調査では、位置から見て「西の辻」と「鬼虎川」の集落を分ける溝となる可能性が高い南北方向の大
	溝や、珍しい土壙墓が発見されている。普通、弥生時代の死者は仰向けに寝かされて葬られることが多いが、逆の、
	うつぶせに寝かせた「伏臥位」(ふくがい)の姿勢で葬られた壮年(30才以上)の男性の土壙墓である。この男性
	は、埋葬方法から、何か特別な死に方をした人と考えられる。
	この調査では、少量の縄文土器と、多量の弥生中期後半の弥生土器・石斧・石包丁・石鏃などが出土している。














	石器時代や縄文時代草創期・前期頃(約7000年前)には、イノシシやクマの牙を利用した首飾りが作られていた。
	縄文時代後半(約3500年前頃)には、ヒスイを材料にした勾玉や大珠が盛んにつくられた。弥生時代(約250
	0年前頃)には、大型の勾玉や獣の形をした獣形勾玉もつくられた。古墳時代(1500年前頃)には、ヒスイやメ
	ノウで作られた勾玉が、水晶の切り子玉やガラスのトンボ玉とセットでネックレスになったり、金製の王冠に付けら
	れたりして、大変豪華なものになっていく。しかし奈良時代以降は、勾玉・管玉などのアクセサリー類は全く姿を消
	してしまう。
	これらの装身具(アクセサリー)は、当初人々の身体を飾るものだったが、次第に祭りの道具や死者を飾るものとし
	ての役目も果たすようになる。古墳時代には権力の象徴として、金属の腕輪や王冠、他国で採れる珍しい貝製の腕輪
	などが用いられるようになるが、奈良時代になって、もうそういうものを付けなくても身分制度がはっきりしてくる
	と、アクセサリーの必要性が薄れてきて、これらの装身具は用いられなくなる。権威の象徴や祭祀の道具ではなく、
	ほんとに一般人が身を飾る装身具としてアクセサリーを付け出すのは、なんと第二次大戦以後である。アクセサリー
	は7000年の時を隔てて、本来の使われ方に戻ったとも言える。
















	学習室では、今日は子供達が「勾玉作り」に挑戦と言うのでその準備の最中だった。材料となる「滑石」は、昔我々が
	子供の頃は「温石」(おんじゃく)と呼んでいた石だ。だいたいの形に合わせて切り込みが入れてある。一つ50円だ
	そうだ。




	縄手遺跡の、昭和46年の発掘調査で、えの木塚古墳が発見された。その葺き石列には、朱を塗ったヒレ付き円筒埴輪
	が多数配置されていた。このセンターの建物はその「ヒレ付き円筒埴輪」をイメージしている。
	上の古墳模型は、隣の縄手小学校の子供達が製作したもの。




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