能登半島滞在記 2006.5.28(雨) 井上筑前 午前7時、昨日の暑いような晴天から一転して、今朝は早くから雨が降り続いている。石川県羽咋(はくい)市に来て 13日目。羽咋市は能登半島の付け根に位置し、金沢から北へ40km、東へ20数km行けば富山県氷見市である。 日本テレコム退社を機に、20代の前半に取り消しになった運転免許を、30年ぶりに再び取り直そうと思ったとき、 どこの自動車学校を選択するか考えた。まず時間的な事から合宿を選んだ。インターネットで全国の学校を調べて驚い た。ずいぶんと施設や待遇がいい。若干追加費用を出せば、一流ホテルや温泉に泊まるコースもあった。料金はだいた い20万円ちょっとである。通いの教習に比べれば半分くらいの値段だ。北海道から沖縄までの教習所を調べてわかっ た事は以下のような点である。 1. 東日本(東京より東)、九州の学校は大阪から学校までの交通費が出なかったり、半分しか負担しないところ が多い。 2. 北海道・沖縄は費用が10万円ほど高くなる。 3. それ以外の地域は申し合わせたように20万円代の費用である。 4. いずれの学校も1泊3食付でバス・トイレ完備、ほぼ一人1部屋(女性専用の学校や若者相手のコースでは2, 3人で1部屋という所もあった。) 5. 多くの学校がPCを持ってくれば部屋でネットに接続できる。食堂などに2,3台設置しているところもある。 6. 暇な時間に、御菓子作りやアクアラングを体験できるようなオプションが付いている学校もある。 等々。 最初、信州の温泉付の学校へ問い合わせてみたが満員で断念。次に同じく信州の八ヶ岳麓の学校(Wifeはここがいいと 言っていたが。)は日程が合わなかった。そこでこの羽咋を選んだのだが、その理由は以下のような点であった。 1.遺跡が多い。有名な寺家(じけ)遺跡が市内にあり、この遺跡のことは昔からよく知っていたので是非観てみたか った。 2.能登半島にあるので、日本海が観れるだろう、また、魚が旨いに違いないと思った。 1も2も思った通りだったが、寺家遺跡はあれほど有名な遺跡なのに、小さな看板が一つ立っているだけで少々がっか りした。しかし他にも弥生時代の「吉崎・次場(すば)遺跡」や「羽咋七塚」と呼ばれる古墳群や「気多大社」なども あり、また歴史資料館や図書館も完備していて、歴史探訪の場としては十分満足できた選択だった。 これらの詳細はいずれHPで紹介したいと思うが、主なものは次の通りである。 「寺家(じけ)遺跡」 この遺跡の存在する羽咋市は能登半島の根本西側に位置している。市域は標高50〜120mの低い平らな眉丈山丘陵が 西から北東に延び、南東部には市内最高峰である標高460mの碁石ケ峰を有する石動山丘陵が連なる。これらの丘陵に 挟まれるように七尾から羽咋に至る、幅3〜4kmで能登半島を斜めに横断するいわゆる邑知(おおち)地溝帯は、能登 半島屈指の穀倉地帯である。ここに邑知潟(おおちがた)と呼ばれる湖があり、古代には広大な干潟であったと思われる が、度重なる干拓によって現在は80ha程の小さな湖となっている。 羽咋市では旧石器時代の遺跡は発見されていないが、気多大社僧坊群遺跡からは縄文時代前期前葉の縄文土器が出土して いる。近辺には他にも幾つかの縄文遺跡があるが、今では全て埋め戻されている。弥生時代になると、前述した邑知潟の 環境もあって、大規模な集落が営まれるようになる。中でも「吉崎・次場遺跡」は弥生時代から古墳時代まで営まれてい た遺跡として有名である。 さて寺家遺跡であるが、ここは1978年3月、能登海浜道路建設工事に伴って発見された。まず大量の土器が発見され、 その後3年にわたる調査で、縄文前期から室町時代にかけての大規模な複合遺跡であることが判明した。特に飛鳥時代か ら室町時代にかけて、近くの気多大社との関係を示す祭祀行為が行われていたと思われる勾玉・管玉、金環などが出土し ている。 現在遺跡は自動車専用道路と一般道路、民家や工場等の下になり、付近には小さな看板が一つ、草に埋もれて立っている だけの場所となり、ここに古代集落がひしめいていた事など想像もできない有様だが、発見当時はその遺物の豊富さや祭 祀行為の存在などで、一時「渚の正倉院」とも呼ばれた、古代史上特筆すべき遺跡なのである。 ちなみに「海の正倉院」と呼ばれるのは福岡県の「沖の島」であり、「地下の正倉院」は奈良の「千塚古墳群」である。 「吉崎・次場(すば)遺跡」 この遺跡の発見は古く、昭和27年(1952)に羽咋川の河川改修工事中に出土した数々の遺物が話題になったことに始ま る。地元の羽咋高校地歴班が分布調査を行い、昭和31年には同班と石川考古学研究会による本格的な発掘調査が実施さ れている。その後十数次にわたる調査の結果、弥生時代全般を通じての大規模な集落跡である事が確認され、一部は現在 史跡公園として整備され、復元された竪穴式住居、大型建物、大溝などが羽咋川沿いに出現している。出土遺物としては、 打製・磨製石器、弥生土器、木器、櫂や舳先など舟の各部位製品、管玉、玉類、籾、クリなど栽培作物、木の実などの弥 生人の食生活を示す資料、そして日本で初めての青銅鏡も出土している。 「羽咋古墳群」 羽咋市内に「七つ塚」と呼ばれる古墳群が存在することは古くから知られており、七塚を「大塚(御陵山)、大谷塚、嫁 塚、宝塚、痛子塚、八幡森、薬師塚」に比定する事はほぼ確定しているようである。これらの古墳は現在、垂仁天皇の皇 子「石衡別命(いわつきわけのみこと)一族の墳墓とされており、大塚と大谷塚は宮内庁の陵墓参考地となっている。そ れらは「日本書記」の「垂仁記」や「国造本紀」の記事が元になっていると思われるが、その詳細な解説は「邪馬台国大 研究HP」の「遺跡・旧蹟めぐり」のなかで、「羽咋七塚」として取り上げたいと思う。 「滝大塚古墳」 今は小高い小山にしか見えないが、この近辺では最大級の円墳である。昭和28年にこの古墳から発見されたという須恵 器が近くの一宮小学校に寄託されているという。文献によればこの古墳も気多(けた)大社とのつながりがあったものと 思われるが、詳細はHPに譲る。
千里浜碑の建っているところからみた海岸線。180度写したために曲がっているが、ホントは一直線の海岸である。 この碑の側に、羽咋へやってきた大伴家持の碑も立っているが、それは「遺跡巡り」の「寺家(じけ)遺跡」から入る、 「気多(けた)大社」のコーナーに収録した。
羽咋の千里浜海岸に沈む夕陽。日中晴れた日の夕焼けはすばらしい光景だった。この美しさはとてもデジカメなどでは表 現できない。180度の展望で大空に広がる茜雲にブルーの雲間。寄せては返す波の音。しばし現世を忘れるような時間 だった。誰もいない海岸で、しばらく大声でカラオケの練習をした。
羽咋で次に満足したのが自転車道である。金沢から厳頭(ごんとう)まで約100kmにわたって走っているこの自転車 道は実にすばらしい。能登自動車道などは海岸からだいぶ内陸へ入った所を走っているが、自転車道は海岸すれすれを走 っているのだ。青く広々とした空と海を眺めながら、立ち枯れした木々や原生林の中をゆっくりと進んでいく散策は実に すばらしかった。また野鳥も多く、時期的にも大陸や半島からの渡り鳥が多く能登半島に立ち寄り、たくさんの野鳥を観 ることができた。あまり種類が多いので、羽咋に着いてすぐWIFEに双眼鏡を送ってもらった。
次に、せっかくだから自動車学校での授業の様子も紹介しておこう。学科や実技の内容は、30数年前に免許を取ったと きに受けたものと殆ど同じである。クランクやS字カーブを何度も練習したり、ギアの切り替えを練習したり、「常識じ ゃん」というような内容の学科を何時間にも渡って講習される。偉そうにイバリくさった教官やぶすっとして何も言わな い教官など、30年を経ても全く何も変わっていない。合宿生の多くは私のセガレ達よりも年下で、多くは、一見して 「アホやなこいつ。」とわかるような顔つきをしている。ヤクザのような奴もいたが、イレズミがシャツの下から覗いて いたので、あるいは本物のヤクザだったのかもしれない。人を先入観で判断しては行けないとは思うが、昨日あった仮免 の学科試験で、10人ちょっとが受験して合格者は一人二人というのだからまぁ推して知るべしだろう、3回しかない仮 免前の学科試験に全部落ちて、お情けで4回目を受けさせて貰った兄ちゃん(19才と言っていた。)がまた落ちて、5 回目を時間外に実施してもらいやっと受かっていたが、これは学校側が何か操作したのではないかと思うほどだ。 私ともう一人、2人しか生徒がいない授業で、若い兄ちゃんは初めから終わりまで寝ていた。あきれてしまう。 わたしも仮免まではシンドかった。何しろ30年ぶりに車に乗るので、全く初めて乗るような感じだったのだが、それで もスピードには慣れているので、随所でスピードを出し過ぎると叱られた。S字やクランクなどもスイスイ行こうとする のでつい脱輪して「はい、やり直し!」仮免が過ぎてからは、相当楽になった。やっぱり車は路上を走らなきゃ。景色ば かり見ながら運転していると、「また、左確認忘れた。」と叱られる。自動車学校での留意点は「確認・確認・確認」で ある。運転技能などはまず関係ない。私が年配だったからか、おおむね教官たちは皆さん親切だった。 ここでの生活も残すところあと4日である。あとシミュレータで事故を体験して高速を走ったらもう卒業試験だ。来週の 今頃は大阪の自宅で一杯やりながら過ごせているだろうか? もう一つ、この合宿に参加して体重が減ったことを報告しておこう。何しろ廻りには飲み屋・食い物屋のたぐいは一切無 い。この2週間ペンション(寮:学校のすぐ脇に建っている。部屋はビジネスホテルと同じ。)で出される食事以外何も 口にしていない。勿論アルコールも一切口にしていない。門限は10時半なので、駅前の繁華街まで10分ばかり歩けば 行けるのだが、実は参加する前に密かに10kg痩せるという目標も立てていたのである。毎朝部屋で運動を続けている し、授業の合間には自転車で往復20km、30kmのサイクリングや、朝夕1時間の海岸散歩を続けている。おかげで ズボンのベルトの穴が2つ縮まった。ここには体重計がないのでどのくらい痩せたのかははっきりしないが、おそらく5, 6kgは痩せていると思う。このまま免許がすんなり取れるとしたら、 1. 運転免許が取れて、 2. ダイエットに成功し、 3. 遺跡めぐり、Bird Watching、自然散策という趣味を満喫して、 と一石三鳥の合宿になるのだが、さて後4日である。何とかもくろみ通りになってくれればいいが。 (完)
仮免受かってからの路上コースで廻る途中に、折口信夫(おりぐちしのぶ)の墓というのがあったので、学校の自転車を 借りて見に来た。折口信夫はここの出身だったかなと思ったら、養子にした弟子の生まれ故郷がこの羽咋なのだった。
<6月1日サンダーバードで帰阪。> 今朝8時半からの路上検定、方向転換等にパスした。修了証書を貰い、「はい今度は1時半の電車です、急いで急いで。」 と、せき立てられるようにして羽咋を後にした。実際にはまだ門真での学科試験が残っているが、一応、予定通り2週間 (15日)で免許が取れた。一石三鳥は達成したが、体重は6kgしか減っていなかった。2週間で10kgはちょっと 無理だったようだ。しかしおもしろい体験だった。もう一度やれと言われればちよっとごめん被りたいが、久々に緊張と 緩和が交差した時間だった。千里浜(ちりはま)海岸の夕陽が、この世のものとは思えないほど感動的だったし、見たこ ともない鳥たちも見れてストレスを緩和してくれた。人生にはこういう時間も必要なのかもしれないと思った合宿だった。 もう一つ、この合宿で得た知識を一つ。現在日本の交通事故による死者は年々減り続けている。昨年度は7千人強だった。 昭和40年代半ばには死者が3万人を超えマスコミは「交通戦争」というタイトルを付けたほどだったが、今その数は自 殺者数と入れ替わっている。警察庁は、この数字について、「今年は5千人を切りたい」とコメントしている。そして、 お隣中国の交通事故死者は昨年なんと40万人である。この数字は、聞いたとたんに口があんぐりといった感じだ。いか に人口が多いとはいえ、毎年吹田市の人口と同じだけの人が車にはねられて死んでいる。驚くべき数字である。昨年中国 へ行ってその交通事情を見た人は納得できるのでは無かろうか。あの状態では40万人が死んでも不思議ではないような 気がする。信号があってもなくても平気で横切るし、片側3車線のような広い道路でも腰の曲がったばぁちゃんが平気で 横切っていた。この数字はハードウェアを使いこなすソフトウェアがいかに大事であるを物語っていると思う。 (*)このHPの青字の部分は、歴史倶楽部の機関誌「風の中へ」の第七号に寄稿した「能登半島滞在記」をそのまま転載 した。退社から、次の会社へ入社までの期間を利用して参加した免許合宿だったが、面白い体験だった。しかし仮免前日 のあのストレスを思い出したら、正直もうこんな体験はしたくない。入学日から本試験合格までの合宿期間17日間のう ちで、仮免前日、仮免試験日、本試験日の3日は、ほんとに極度のストレスだった。それを除けば、以下のような遺跡・ 旧蹟を訪問できたし、すばらしい景色やBIRD watchingを楽しめて、久々に「心の洗濯」をさせて貰った気がする。 しかし、合宿に来ていた若い男女が、たった2週間で免許に受かって大阪や金沢に帰っていって大丈夫かしらんという不 安はぬぐえない。50代半ばで免許を取り直した体験からすれば、自分でも、若い日に運転していた技術はなんと未熟だ った事かと冷や汗をかいた。なにも自動車の運転だけとは限らないが、「ゆとり」と「落ち着き」、これを身につけるに はやはりある程度の「年月」というものが必要なのかもしれない。
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