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<19代天皇・允恭いんぎょう)天皇陵> 仁徳天皇の皇子で、履中天皇、反正天皇の同母弟。安康天皇、雄略天皇の父。反正天皇の崩御後、群臣の推挙をうけたが、 足が不自由なためにそれを辞退。しかし妃の忍坂大中姫の熱心な請いをうけて即位した。氏姓を偽るものが多く混乱して いたため、盟神探湯(くがたち)を行ってそれを正したという。 <衣通郎姫 (そとおりのいらつめ)> 日本書紀によれば、允恭天皇に寵愛されたが、皇后の嫉妬を怖れた天皇により、河内の茅渟宮に移された。 八年の春二月、藤原に幸(いでま)す。密(しのび)に衣通郎姫の消息(あるかたち)を察(み)たまふ。是夕、衣通郎姫、天皇 を恋(しの)びたてまつり独り居(はべ)り。其れ天皇の臨(いでま)せることを知らずして、歌よみして曰(い)はく、 我が夫子(せこ)が来べき夕(よひ)なり小竹(ささ)が根の蜘蛛の行ひ今宵著(しる)しも
<仲津姫皇后陵> 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされてい る。天皇が幼少の頃に居住していたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えている。 古墳の大きさは全国で九番目。
<15代天皇・応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)> 仲哀天皇の第四皇子で、仁徳天皇の父。母は神功皇后。神功皇后の胎中で新羅に遠征したことから、胎中天皇との別称も ある。新羅遠征の帰路、筑紫で生まれ、神宮皇后が異母兄たちを討って皇太子となった。母の没後に即位。この応神天皇 の御代は、秦氏の祖となった弓月君など、多数の渡来人が渡ってきたとされる。仁徳天皇陵についで、日本で二番目に大 きい古墳。
<14代天皇・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)陵> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年(178年)3月1日立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年(192年) 1月即位。『日本書紀』によれば、8年( 199年)熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りし た神功皇后から西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託を受ける。しかしこれを信じず神を非難した天皇は神の 怒りに触れ、翌年2月に急死してしまう(一説には熊襲の矢が当たったとも)。『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御 年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は 父日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。その後再び神託が下され、その内容は神功皇后の胎中の子に (後の応神天皇)宝の国を授けるとのことであった。皇后は神託に従い、身重のまま新羅を攻めたが、新羅王は戦わずし て降服、朝貢を誓い、高麗・百済も朝貢を約したという。(三韓征伐)。 「この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定めたまひき。」(『古事記』) 元年二月条に「即月に、淡路の屯倉を定む。」(『日本書紀』) 屯倉は、朝廷直轄の農業経営地あるいは直轄領。王権の強化にも繋がった。
<仲哀天皇架空説> 歴史学者のあいだでは、仲哀天皇は実在性の低い天皇の1人にあげられている。その最も大きな根拠は、実在性のほとん ど無い父(日本武尊)と妻(神功皇后)をもっている人物であるため、とされている。日本武尊の話は複数の大和地方の 英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げた物であり、神功皇后の話は白村 江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯をもとに神話として記紀に挿入された物である、としている。 そしてこれらの架空の人物群とそれにまつわる物語とを史実として正当化するために、仲哀天皇が架空に作り上げられ記 紀に挿入された、とするのが仲哀天皇架空説である。
岡ミサンザイ古墳恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)に葬られた。日本書紀に「河内国長野陵」、古事記に は「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」とする。同陵は大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳)に比定 される。幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。 墳丘全長 - 242m 前方部 - 幅182m、高さ16.0m 後円部 - 径148m、高さ19.5m、円頂部標高53.5m 所在地 - 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目(古市古墳群)