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国府遺跡 2006.04.2(土) 歴史倶楽部第108会例会



 


	<国府(こう)遺跡>
	上記説明にあるように、旧石器時代から続く関西ではまれな遺跡である。旧石器時代のナイフ形石器や、縄文・弥生時代の
	人骨が90体以上出土し、考古学史上きわめて重要な遺跡となっている。ここからの出土物は、わたしの住む大阪府吹田市
	の関西大学の博物館に多く収められているが、ここの卒業生であるわが歴史倶楽部の河内さんは、在学中はその存在を知ら
	なかったそうである。
	和名抄によると河内国の国府は志紀郡にあったという。古代の志紀郡に属する藤井寺市の允恭天皇陵の東側に国府という地
	名があり、その北側に惣社という地名と、神社が現存する。河内国府も、おそらくこの地に置かれたであろうことは、ゆか
	りの地名が残っていることによって、推定されているが、まだ国府に関係した遺構、遺跡は発掘されていない。この遺跡は
	その惣社地区にある。



大阪府は、この一帯をやがて史跡公園にするつもりのようで、発掘現場はそのまま空き地として残されている。








	【国府は、古代日本の各国毎に置かれた政治の中心都市】
	大化改新(645)により、中央集権の政治体制確立を目指した大和朝廷は、それまでの国造(くにのみやつこ)などの地
	方豪族による地方統治から、中央官吏による直轄統治を推進した。地方統治の単位である国毎に国府を定め、中央から国司
	を派遣して、徴税、軍事、治安維持等に当たらせたのである。
	天皇中心の律令国家は、こうして次第に体制を整えていく。壬申の乱(672)を経て、天武・持統朝に強力に展開され、
	大宝元年(701)大宝律令の成立によって完成した。 −国府物語ー









上左の耳飾りは藤井寺市のシンボルになっている。(最後部マンホールの蓋をご覧頂きたい。)







国府遺跡から出た石器の製作方法は「国府(こう)型」と呼ばれ、広く近畿圏の遺跡で類似の石器が出土する。












	上中央に見える小さな東屋の中で昼食にした。通りすがりの人たちは、例によって「なんや、このオッサンたちは」という
	顔で通り過ぎてゆく。一人だと心細いが大勢なら雨の中での食事も楽しい。

 


	<志紀県主(しきあがたぬし)神社>

	式内社。古事記神武天皇紀に「弟磯城名黒早為磯城県主」とあり、雄略天皇が日下に居る母(長田大郎女)に会いに行き山腹
	で志幾(しき)大県主の堅魚木が立派過ぎたので怒ったとある。国府のあった場所であり総社としても機能していたと思われ
	る。大化改新(645)以前の地方制度に県(あがた)があり、その首長を県主(あがたぬし)といった。大阪府下では茨木市に三
	島県主、八尾市に三野(みのの)県主、柏原市に大県主(おおあがた)、藤井寺市に志貴(しき)県主、富田林市に紺口(こむく)
	県主、和泉の国に茅渟(ちぬ)県主の6首長があった。この辺りには、総社という名や、国府という名も見え、古代から人々
	が住んで居たようである。




上右が藤井寺市の市章。けつ状耳飾りをかたどっている。







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