SOUND:baby it's you
祭神 :菅原道真(すがわらのみちざね) 天穂日命(あめのほひのみこと:天照大神の子) 覚寿尼(かくじゅに:道真のおば) 由緒に寄れば、垂仁天皇の三十二年、相撲の祖といわれる野見宿祢(のみのすくね)が、「埴輪」を創って殉死に代えた 功績で、「土師(はじ)」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって、遠祖「天穂日命」を祀ったのが始まりという、 「土師神社」が創建である。その後、仏教が伝来し、推古天皇二年聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し土師 寺が建てられた。土師氏の氏神として創建され、その後も土師氏は一帯に勢力を誇ったが、土師氏の子孫である菅原道真 の死後、道真を祀る天満宮に改められた。 土師氏は、古来行われてきた殉死を禁じて埴輪を埋めることを献策した野見宿禰に始まる、土木技術に通じた氏族であり、 河内に点在する巨大な前方後円墳の造営に大きな力を発揮したともいわれる。 平安時代、土師寺には尼僧の覚寿尼が住んでいた。覚寿尼の甥にあたる道真は、幼少の頃から和魂漢才の人といわれ、5 才にして和歌を詠み11才にして漢詩を作ったという。そして、40才の4月より7月まで当地に滞在し、夏水井(げす いのい)の水を汲み五部の大乗経を写した。その経塚から、胚芽が経巻の形をした「もくげんじゅ」が生え、謡曲「道明 寺」でも有名。また、宇多上皇の大和河内御巡幸の際にも当地に伴をし、「雨中錦を衣て故郷に帰る」と漢詩を詠み、こ の地を第二の故郷として慕っていたそうである。道真はやがて57才の時従二位右大臣に進んだが、讒言で九州大宰権帥 (ごんのそち))に流され、淀川を下る舟の中で、「世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき」と詠 み、途中土師寺(道明寺)への訪問を許可され、覚寿尼との別れを惜しんだという。道真は延喜三年(903)年2月25日 に59才で太宰府に没した。
近世以降、天正三年(1575)当国高屋城の兵乱に社殿等が焼失したが、御神像と宝物等は難を免れ、この年織田信長より、 また天正十一年(1583)年、文禄三年(1594)には、豊臣秀吉より、さらに徳川幕府よりも代々の寄進があり、享保年中に霊 元天皇、中御門天皇より女房奉書を賜わってから明治初年まで毎年初穂料が下賜されてきた。寛永十年(1633)、石川の氾 濫により坊舎等は北丘の神社境内に移ったが、明治5年、神仏分界により道明寺天満宮と道明寺を分け、五坊のうち二之 室が神職家となり、道明寺は道を隔てて西に移築され、現在に至っている。また明治10年(1877)には明治天皇の行幸の 際、行在所となっている。
天満宮の境内は、約80種800本が咲く梅の名所としても知られ、毎年2〜3月の梅祭りには大勢の参拝客で賑わう。 宝物館には道真の遺品などの国宝6点、重要文化財2点、大阪府指定文化財1点などが所蔵されている。桜も見事で、咲 き誇ったさまはまさに豪華絢爛。桜の期間中さまざまな奉納行事や野点等が行なわれ、広く一般参詣者に開放しており入 園は無料。
山門脇の土師窯跡の碑 <土師氏> 出雲氏と同じ天穂日命の後裔、野見宿禰が垂仁朝に埴輪を制作して殉死に代えた功により土師職に任ぜられる。三世孫身 臣は仁徳朝に改めて土師連姓を賜う。河内国志紀郡土師里を本拠として土師神社を祭る。後裔が桓武天皇の遠戚となるに 因り菅原、秋篠、大江(大枝)の三姓を分出して子孫は栄える。 * 上記の他【八島氏】【蒔田氏】【万代氏】【神部氏】【千島氏】【庵原氏】【毛受氏】【御井氏】が土師氏裔を称する。
道明寺(どうみょうじ) 近鉄南大阪線「道明寺駅」下車、西へ5分 蓮土山道明寺と号し、真言宗御室派に属する数少ない尼寺の一つ。寺伝によれば、6世紀末に土師連八嶋が邸宅の一部を 寺にしたと言われているが、発掘調査の結果、7世紀初めに建てられ完成したのは7世紀後半であったことが判明した。 出土する瓦は大和の古代寺院で採用されているものに類似したもので、かなり有力な寺であったと考えられる。土師氏は 古墳時代に土師器や埴輪を作るなど古墳造営に関わった氏族で、古市古墳群では重要な存在だった。道明寺天満宮にある 絵図によれば、天満宮の南側に、御堂を南北に並べたい伽藍配置(四天王寺式伽藍配置)であることが判るが、寛永10年 (1635)の大洪水で、現在の高台に移った。天満宮の南側には今でも塔の礎石群が残っている。本尊は、十一面観世音菩 薩立像で国宝に指定されている。
<道明寺・縁起> 当寺は菅原道真公が信心をこめて手ずから刻まれた国宝十一面観世音菩薩像を御本尊とする古義真言宗の尼寺です。 仏法に帰依されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進し、東西三百二十米、南北六百 四十米の広大な境内に五重の塔、金堂等をはじめとする七堂伽藍の完成を見ました。これが当時の前身土師寺で、その後 菅原道真公に依って道明寺と呼び改められる処となり、数多くの仏像、教典美術工芸品、薬品等を宝蔵しておりました。 土師氏の後裔菅原道真公が太宰府に下向されたるとき、叔母の覚寿尼を訪れて当時に立寄られ一首を残されています。 啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の 鳴からむ里の暁もかな 戦国時代に入り、高屋の兵乱に当寺も焼失しましたが、之を惜しむ織田信長、豊臣秀吉、徳川代々の将軍家等の屁護によ って復興成り朱印地に認められました。明治五年神仏分離令に従って堂宇一切を天満宮境内より移し境内の拡張を経て大 正八年には本堂の落成をみ、多宝塔を加えて現在に至っております。建立以来千三百年法燈絶ゆることなく少ない尼寺と して、今日に至っていることは偏に皆様の御信心の賜と存じます。
<国宝十一面観音立像> 菅原道真が太宰府へと左遷される途中、伯母の覚寿尼に別れを告げるため立ち寄った土師寺(道明寺)で、自らの手で一 夜で彫ったと伝えられ、国宝に指定されている。どう考えても一夜で作ったとは思えないが、団体で予約しないと、ポッ と行っても見れない。