親しくしている東京の「国分寺友の会」の皆さんが、ついに東京でも例会を開催するという。その記念すべき第一回目は、 「内藤新宿を歩く」である。私も誘われたので、第一回目と言うこともあり、わざわざ浪速から参加させていただいた。 川崎さんがこなかったので3人の例会となったが、我々歴史倶楽部の例会も、最初は4人から始まった。今では毎月の例 会に、常時10人は参加するようになった。「−友の会」の例会の集合は午後だったので、私は朝一番の飛行機で江戸へ 飛び、両国の「江戸東京博物館」を見に行くことにした。
「国分寺友の会」でも我々「歴史倶楽部」にならって、史跡散策の例会を行うことにしたようで、その第一回例会に誘わ れた。久保田さんから「内藤新宿散策」のお誘いが来て、それが午後からだったので、早朝の飛行機で飛んで午前中にこ の博物館を見ることにした。内藤新宿も「江戸時代」だし、予習としてもちょうどいいタイミングだった。
甲州街道は、徳川家康が慶長・元和年間に整備を行った五街道【東海道・中山道・奥州街道(道中)・日光街道(道中)】 のひとつで、江戸から甲府を抜けて下諏訪で中山道と合流している。この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)だった が、日本橋を出て四里八丁(16.6km)もあったので、人馬ともに不便であった。そこで浅草阿部川町(現元浅草4丁目) に住む名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄10年(1697)に同士4人とともに、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕 府に願い出る。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのかの理由は定かでないが、5人は開設に際し、運上金5600両を納め る事を申し出た。この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下 屋敷(現新宿御苑)の一部や旗本朝倉氏の屋敷地などを返上させてこれにあてた。 江戸時代の日本国土は、一部皇室や寺社所領のものを除き、すべて将軍(幕府)のものである。各藩は、知行地は将軍か ら預かって、その藩政を将軍から委託されて行っているという形態をとっていた。従って、江戸にある各藩の上下屋敷や 所領地も、すべて将軍から貸し与えられたものである。故に、ここにみる返上や用地替えやお取りつぶしなどが、幕府の 都合でいつでも勝手に行えたのである。 とは言っても、幕府の権威が薄まり財政的にも困窮してくると、もうそういった取り締まりもしなかったようで、広い屋 敷を分割して何人かに貸したり、屋敷は人に貸して自分は長屋に住んだり、というような事をする輩も現れた。体面上は 土地の所有権は侍達にはなかったが、江戸では実質的には売買に似た事を行っていたのである。
こうして「内藤新宿」は、元禄12年2月に開設の運びとなり、同年4月には業務を開始した。喜兵衛らも浅草から移り住 み、名主などを務め町政を担当した。宿場は、東西九町十間 (約 999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)の 約200m西から伊勢丹(追分けとよばれ甲州街道と青梅街道の分岐点であった。)あたりまで続いていた。 宿場は大きく3つに分かれ、大木戸側から下町・仲町・上町とよばれた。太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公 家・幕府役人などが宿泊・休憩する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設)などがあった。 「内藤新宿」は、江戸の出入り口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁盛したが、その繁栄を支え たのが旅籠屋だった。ここには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれたが、元禄15年(1702)には、当時幕府公認の遊興地であ った吉原から訴訟が起こされるほどであった。 そのようなにぎわいを見せた内藤新宿も、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして宿場は廃止となる。これは利 用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き込んだことが原因などと言われるが、実際は8代将軍徳川吉宗の享保 の改革による、風俗統制の影響もあった。その後度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再開された。
現在四谷で発掘される遺跡は、その殆どが江戸時代のものである。江戸市中は、上水道の整備などで相当な範囲に渡って 掘り返されており、江戸以前の遺跡は殆どが消滅している。しかし江戸時代に埋められた井戸などには、古代の土器の破 片等が混じっている事も多く、昔から四谷で人々が暮らしていたことがわかる。三栄公園付近では、これまでに縄文時代 の住居跡40軒が見つかっており、約4500年前に集落が営まれていたことが確認されている。
江戸城の築城は家康が江戸に入府した天正18年(1590)から開始されるが、幕府の開かれた慶長8年(1604)以降は、全 国の大名を動員した「天下普請」「お手伝い普請」と呼ばれる大規模なものになっていく。 寛永13年(1636)の外堀普請は3代将軍家光によって発せられ、外堀石垣を西国大名61家、堀の開削を東国大名52家が分 担している。この工事は築城を締めくくるもので、江戸城西側では牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂の 見附桝形(城門)の石 垣、牛込〜赤坂間の堀の開削が行われている。
寛永13年の外堀普請では、堀の開削と同時に、今日にも残る四谷の街区が整理される。半蔵門から連なる麹町の西端、 麹町11〜13丁目が現在の四谷1丁目に移動したほか、牛込〜赤坂の谷筋にあった多通の寺院は郭外へ移転させられ 四谷北寺町、四谷南寺町と言われる寺町が形成される。四谷見附の普請は毛利秀就(萩藩: 36万9千石)が担当し寛永 13年1月8日に開始される。牛込〜赤坂間の堀の開削は、石垣の完成を待って3月1日から伊達政宗を初めとする52家が、 7組に分かれて開始する。しかし、堀の開削は予想を超える難工事で、各大名は開始早々に国元へ人夫増員を指示して いる。 地下鉄南北線四ツ谷駅の発掘調査、四ッ谷1丁目遺跡1次〜3次調査等では、埋められた谷や平らに削られた造成面が 広範囲で見つかっており、四ッ谷の地形がこの時大きく改変された様子が明らかになっている。普請後の寛永15年(1 638)には現在の新宿通り沿い、外堀通り沿いに四ッ谷伝馬町、四谷塩町が、その南北には旗本、御家人の屋敷が設け られ、現代の人々が暮らす四谷の骨格ができあがっている。
外堀普請から約20年後、今度は江戸城や麹町・赤坂・日本橋に水を送るため玉川上水が建設される。現在の羽村市で 多摩川の水を引き込んだ玉川上水は、四谷大木戸までは開渠で、これより東は暗渠となって現在の新宿通の下を流れ ていた。上右が「玉川上水の碑」。上水とは「飲み水」のことである。水源から井戸までのすべてが上水である。 ここからは、すべて地下水道を通って江戸の町々に給水された。上水の詳細は、朝行った「江戸東京博物館」に詳し い展示があったが、しかし江戸に上水道が完備していたとは知らなかった。時代劇で、よく長屋の隅に井戸があるが、 あれは地下を通ってきた上水だったのだ。井戸を掘るよりも地下水道を掘っていくほうが大変なような気もするが。
<玉川上水> 承応元年(1652)徳川家綱の時代、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟に上水道工事が命じられる。同3年(1654)、羽村 (現羽村市)から新宿大木戸までおよそ43kmの堀割りによる上水路が完成した。 <玉川上水の経路> 羽村(多摩川から取水)〜 福生駅近辺 〜 立川市砂川 〜 玉川上水駅 〜 五日市街道(小平市・小金井市) 〜 【武蔵野市新町境刃橋で千川上水を分岐し五日市街道と別れ】 〜 三鷹駅 〜 高井戸 〜 【首都高速道・ 甲州街道に併行】 〜 新宿御苑前 〜 取水口跡 〜 (これから先は配管を地中に埋設) 水量調節のため途中数カ所に吐水用の水路を敷設し、上水や農業用水につかった。水量調節や水路の維持管理のため、 途中数カ所に水番の小屋があった。水路の維持管理は入札で決まり、水路沿線の農民が昼夜、天候の好転にかかわら ず必要に応じてかり出された。危険も伴ったが、いい現金収入なので農民はむしろ歓迎した。 点検、補修、清掃、落葉片付、草刈りの他、時には水死体の片づけもあった。上水は江戸城にも達していたので、死 体の片づけは公表されなかった。江戸時代の水路にはゴミ除けの柵があったが、堀割の途中に砂や泥を除く沈殿池は ない。沈殿池は明治になってからつくられたもの。 玉川上水の維持費は年間六百両にも達していた。開削当時は上水路の開削に寄与した玉川家が維持を任されていたが、 玉川家はその管理に問題あり、との理由で改易された。江戸期を通じ、水路の維持作業で潤った庶民が多くいたよう で、明治になると羽村の人々が中心になって汽車を走らせた。それが現在のJR青梅線になった。
<四谷大木戸跡碑> 江戸への西の出入り口。石垣の間に間口二間半の大木戸があり、番所がもうけられて通行手形や米などの検問が行わ れた。門は4つ(午後10時)には閉められ、夜間は原則通行禁止であったが、実際は両脇のくぐり戸から通行させた という。江戸開府間もない元和2年(1616)にもうけられた。馬改番屋を設ける前の家康時代に、柵を設けていたと の考察もあるが、定かではない。すぐ隣が玉川上水記念碑である。四谷大木戸の碑は、玉川上水に使われた石樋を利 用している。 四谷大木戸(馬改番屋)の脇には「水番屋」があった。水量の調節、ゴミの除去、濁り水を暗渠へ導かないことなど が水番屋の主な仕事だったが、中でも水量調節が一番重要な仕事だった。
徳川綱吉の生類憐れみの令に伴い、江戸市中を徘徊する野犬を保護・収容するための施設(犬小屋、犬御用屋敷とも) が江戸郊外にいくつか作られた。最も有名なものは敷地面積16万坪の中野犬小屋だが、これに先立つ1695年8月四谷大 木戸外(現在の新宿付近)にも四谷犬小屋が設置されている。敷地面積はおよそ2万坪、東京ドーム1.5個分の大きさ に匹敵。
太宗寺は、この辺りに太宗という名の僧侶が立てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると 伝えられている。太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家 の信望も得、寛永 6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くことにな った。これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7,396坪の寄進を受け起立したのが現在の太宗寺である。 内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれている。また、「内藤新 宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた(?)、閻魔大王と奪衣婆(だつえば)の像は、江戸庶 民の信仰を集め、藪入り(江戸の商家の、年2回の奉公人の休みの日)には縁日が出て賑わったという。 しかしどう考えても、上の閻魔大王や奪衣婆が親しまれたとは思えない。コマツさんは新宿育ちで、この奪衣婆像も、 悪さをしたら「しょうづかのばあさんとこに連れて行くよ!」と言われて育ったそうである。「えれ−、怖かった。」 そうだ。さもあろう。これ(下)が怖くない子供はおるまい。
木像で、総高は240cm。寺の資料によれば、明治3年(1870)の製作と伝えられる。奪衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川 を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計るとされ、この像でも右手には亡者からはぎ取った衣服が握られている。 また衣服を剥ぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰された。
現在の寺はビルディングやネオンの谷間に埋もれている。コンクリート製の納骨堂が、その派手な造形で目立っている が、浄土宗の寺院である。ちなみに「太宗寺」という寺号は、創建時の庵主「太宗」によっている。寺域こそ小さくな ったが、江戸時代からの場所に今も残っている、現代の東京においては貴重な存在の寺である。
六地蔵はいずれも街道筋に建てられている。地蔵を建立したとされる僧正元は、「お七火事」で有名な八百屋お七の恋 の相手、小姓の吉三との俗説がある。
ここも江戸時代からの場所にそのまま残る。「新宿の投げ込み寺」と呼ばれ、近辺で行き倒れた者や、遊郭で病気で死 んだ妓昌たちがその身柄をこの寺へ投げ込まれた、と言う。
----------------------------------------------------------------------------- 遊女の墓 投稿者:コマツ 投稿日: 3月13日(月)09時41分4秒 ----------------------------------------------------------------------------- 久保田さんの案内で訪れた投げ込み寺です。地元の私より詳しいのにびっくりです。 筑前さんが神妙に手を合わせているのは、遊女に売られて薄幸のうちに死んだ遊女の 墓です。なんだか真剣ですね。何かあるのかな。 ----------------------------------------------------------------------------- 人生長く生きてると、 投稿者:筑前 投稿日: 3月14日(火)06時57分47秒 ----------------------------------------------------------------------------- いろいろあるもんですよ、コマツさん、覚えがあるでしょう。 あの遊女塚を見ていると、とても昔の話には思えなくて、思わず拝んでしまったわけです。 楽しい新宿散歩でした。大都会のビルの谷間に歴史がひっそりと残っている様子がよくわかり ました。関西と違って、東京はほんとに、都会の中に歴史を垣間見ると言った風情ですね。 それにしても久保田さんはだんだん江戸に詳しくなってきますね。さすがは「江戸博士」を 目指すだけあります。 昨日は、午後、大阪は吹雪だというので、あわてて新幹線に飛び乗りました。今日も寒そうです。 また、今度は別の町で「江戸の旅」を企画してください。お二人様、ありがとうございました。 ----------------------------------------------------------------------------- 覚えは 投稿者:コマツ 投稿日: 3月14日(火)11時40分35秒 ----------------------------------------------------------------------------- 筑前さん わたしは身に覚えはありません。みんな忘れました。忘却とは忘れ去ることなり。 忘れ得ずして忘却を誓う心の哀しさよ。でも、水子地蔵にはつい手を合わせちゃうな。
<恋川春町> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 恋川 春町(こいかわはるまち 1744年(延享元年) - 1789年8月27日(寛政元年7月7日))は江戸時代中期の戯作者で ある。酒上不埒という名で狂歌も詠んだ。浮世絵を学び、画も自ら描いた。 本名は倉橋 格。駿河の小島藩・松平家の江戸詰用人であった。藩邸のあった小石川春日町から 恋川春町というペンネ ームを付けた。『金々先生栄華夢』でのちに黄表紙といわれるジャンルを開拓し、一躍売れっ子作家となる。 10歳近く年上の狂歌・戯作仲間の朋誠堂喜三二とは特に仲がよく、喜三二の文に春町の画というコンビ作も多い。再婚 相手も喜三二の取り持ちという。松平定信の文武奨励策を風刺した黄表紙を執筆したことから、1789年(寛政元年)、 定信に呼び出しを受け、春町は病気として出頭しなかったが、まもなく死去したという(自殺ともいわれる)。 墓は東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺にある。 代表作 『金々先生栄華夢』(1775年)(黄表紙の項を参照) 『高慢斎行脚日記』 『鸚鵡返文武二道』(1788年)
花園神社(はなぞのじんじゃ)は、東京都新宿区にある神社。新宿の街の中心にあり、「新宿総鎮守」として江戸時代 に内藤新宿が開かれて以来の、街の守り神として祀られている。また敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に 開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っている事でも知られている。朱塗りの鮮やかな社殿は、参拝客の他、休憩場所や 待ち合わせ場所として使われ、人影が途絶える事がないという。
祭神 : 倉稲魂命・日本武尊・受持神 創建 : 不明 1590年以前 本殿の建築様式: 付属施設 : 芸能浅間神社、威徳稲荷神社 、神楽殿 交通 : 新宿駅より徒歩7分 新宿三丁目駅より徒歩3分 周辺 : 歌舞伎町 新宿ゴールデン街
<由緒> 創建は不明だが、徳川家康が江戸に入った 1590年以前には存在していた。その後、当地に内藤新宿が開かれるとその鎮 守として祭られるようになった。寛永年間に現在地に移転してきて当地には、花が咲き乱れていたことから「花園」と 呼ばれるようになったといわれている。戦前までは、「花園稲荷神社」が正式名称であったが、1965年に広く浸透して いた「花園神社」が正式名となった。社殿は、幾度かの火災で焼失したので、1965年にコンクリート製になった。
ゴールデン街を抜けて、KOREAロードと最近呼ばれる韓国街で焼肉を食った。コマツさんは車で来ていたので飲まず。 たらふく肉を食った後、コマツさんをおいて二人で新宿西口へ繰り出した。酩酊した新宿のぉ〜夜ぅ〜。