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八尾・河内をあるく 愛宕塚古墳 2006.1.29 歴史倶楽部106回例会






要所に設置された、八尾市の「史跡の道」を刻した石碑に導かれて、しおんじやま古墳から「愛宕塚古墳」へ。


	愛宕塚古墳 (あたごづかこふん)大阪府指定遺跡 円墳。直径25m、高さ6m。6世紀後半。
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	生駒山西麓部で、横穴式石室をもつ最大のホタテ貝式古墳とも言われている。標高70mの見晴らしのいい高台にあ
	る。開口部は南向き。円憤経は25m、墳高は60mで、古墳時代後期(6−7世紀)の築造と考えられている。横
	穴式石室(右片袖式 全長 16.8m、玄室高4.1m)は府下最大級の規模で、内部は両袖石室になっており、家型石棺
	片に、二上山の白色凝灰岩と、播磨系の石材の二種類が使われていたことが確認されている。家形石棺片、鉄製品、
	鉄地金銅張の馬具一式(鉄地金銅張子持剣菱形杏葉・鉄地金銅張垂飾板・銀象嵌龍文鞘金具 )金銅製装飾類、土器、
	玉類等が出土。捩(ね)じり環頭(かんとう)太刀の一部のほかに、多数の須恵器が出土した。古墳は府指定史跡で、
	出土品は府指定有形文化財になっている。

	正式名称: 愛宕塚古墳 
	住所	: 八尾市神立4丁目42-89 
	アクセス: 近鉄信貴線 服部川駅下車 徒歩20分 
	駐車場 : なし 








	生駒山西麓が、大阪府下でも有数の古墳群を抱えているは、河内湖の存在と無関係ではない。古墳時代人たちは、河
	内湖を横切って、生駒山や高安山の麓に上陸したのだ。勿論西から来た弥生人たちもそうしただろう。この地域には、
	弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡が多数存在し、渡来系の文物や吉備系の土器などであふれている。
	古墳時代前期の、西の山、花岡山、向山等の前方後円墳。府下最大の規模の石室を持つこの愛宕塚古墳。横穴式石室
	の高安千塚等の群集墳、同時代後期の前方後円墳などなど。全盛時には一体幾つくらいの古墳があったのか想像もつ
	かない。大正11年に調査した結果では540基あったと記されているそうだが、7世紀あたりにはその倍くらいあ
	ったのではないか。






	この高さは尋常ではない。 4.1m。高安古墳群で最大規模と言われるが、何故こんな高さが必要なのか。石室内部の
	広さにも驚かされる。この石室の特徴は、巨石を用いて作られていることだろうか。写真は奥から入り口を撮っている
	ものだが、巨石をふんだんに使って築かれていることがわかる。このような古墳は付近に類例が無く、数百基あると言
	われる高安古墳群の中でも特異な位置にあるようだ。




	古代、この古墳の際まで河内湖が迫っていたのだろうか。それとももう遠く退いて眼下には平野部が開けていたのか。
	想像は、どこまでもつきない。しかし古墳の主達の心は、概して、死してもなお支配した民衆たちを見守る位置に残
	っているようだ。この古墳も、副葬品などからかなり地位の高い人物の墓と考えられているが、被葬者を考えてみる
	のもおもしろいかもしれない。考古学者はそれは邪道だというが、それはどこまで行っても確証は得られないためで、
	徒労な作業は意味が無いと言うことだろう。しかしアマチュアであるわれわれはどんな想像をしてもいいわけだし、
	別にどこかに発表する訳でもないのだから、何を想像してもかまわないと思う。




	古墳時代前半の、東大阪から八尾にかけての一帯は、三野郷(みのごう)を治めていた三野県主(みののあがたぬし)、
	教興寺辺りの豪族「秦」氏、巨麻の「狛氏」(こまし)などが支配したと考えられているが、6世紀あたりには八尾
	市全域に渡って物部氏の色が濃い。他にも、阿都物部(あとべ:跡部)氏、弓削部(弓削)氏、田井連(田井中)氏、
	矢作部(矢作神社)氏、渋川宿弥(しぶかわのすくね:渋川)氏、刑部氏(刑部)、高安氏(高安)、坂上氏(教興
	寺)、錦部連(西郡)氏などなどの名前が資料に見えるが、基本的には八尾や東大阪は古代豪族物部(もののべ)氏
	の居住地であり、渋川、弓削、鞍作、跡部、蛇草、衣摺などにも居住地があった事が知られている。
	弓削や鞍作などは、その名前から馬具・武器製作集団の居住地と考えられるし、この古墳から出た豪華な馬具類は、
	被葬者がこれらの一族と強いかかわりがあったことは間違いないだろう。だとすれば、愛宕塚古墳の被葬者は、大豪
	族物部氏の幹部級という推定が成り立つ。




	憤丘に登れば確かに円墳だとはわかるが、ホタテ貝式の遺構は見いだせない。旧大和川の運んだ土砂は、河内湖をし
	だいに埋め尽くし、弥生時代には八尾市は一面の低湿地になる。その中を恩智川・玉串川・楠根川・長瀬川・平野川
	等の川が流れ、これらは河内湖にさらに多くの土砂を流し込み続け、稲作の条件が整う。弥生時代から古墳時代にか
	けては、この辺り一帯は肥沃な稲作地だったのかもしれない。大和政権の時代には穀倉地帯になったと考えられるの
	で、古墳時代の首長達は、競って灌漑施設の築造にも励んだ可能性がある。そして一方では「大和朝廷」の成立をめ
	ぐる大きな戦いの中にも身を置いていたのだろう。


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