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青葉城址 2005.7.17(日) 宮城県仙台市






	仙台にも古代から人びとは住んでいたし、長町の「地底の森ミュージアム」へいけば旧石器人の痕跡も見ることができる。
	また律令時代には、近隣の多賀城に国府がおかれ、聖武天皇の国分寺・国分尼寺も仙台に作られた。古代から東北地方の要
	として重要な場所だったのは確かである。しかし、下町仙台としての歴史は、伊達政宗がここに城を築いたときに始まる。
	仙台は、政宗によって近世都市となったのである。第一に、「仙台」という名前をつけたのも政宗である。それまでは「千
	代」と書いて「せんだい」と読ませていた。また仙台市の中心部では、国分町、立町、南町など、政宗時代からの町の名が
	今も使われている。政宗は神社やお寺も建てたが、なかでも大崎八幡宮は、慶長12年(1607)に完成した当時の建物が現
	在も残っており、国宝に指定されている。



 


	しかし現在、政宗にとって一番大切だったと思われる仙台城の建物は、度々地震の被害にあい、石垣も何度か崩れてしまっ
	たそうで、残念ながら皆無である。部分的に石垣と、再建された大手門脇やぐらがあるだけで、かっての居城の面影はない。
	本丸の跡は公園に、二の丸の跡は東北大学になっている。そして三の丸の跡に、政宗の資料を多数保存している仙台市博物
	館がある。仙台城全体を復元しようという計画もあるそうだが、石垣の修復だけで約40億円もかかるそうで、いまひとつ
	計画は進んでいないようである。





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	仙台城(青葉城)跡 宮城県仙台市青葉区天守台
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	築 城 : 1601年に伊達政宗が築城。戦国から江戸初期にかけての典型的な山城。  
	歴代城主: 13代に渡り伊達氏が城主。
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	仙台城(青葉城)は、仙台藩62万石の居城で1601年に伊達政宗により築城された。現在は復元された隅櫓(すみやぐ
	ら)と石垣が残るのみだが、昔日の偉容を物語っている。傍らに建つ資料館ではコンピュータグラフィックスによって往時
	の壮大な仙台城を再現している。また、天守台には政宗の騎馬像が立ち、市街を一望する場所で街の発展を見守っている。
	といえばかっこいいが、今、本丸跡は土産物屋と神社になっていた。温泉街のみやげ物屋の雰囲気で、とても本丸跡の面影
	はない。標高120m、東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城は、将軍家康の警戒を避けるために、あえて天守閣
	は設けなかったといわれる。今では城は消失し、石垣と再建された隅櫓が往時をしのばせるのみ。周囲には仙台ゆかりの土
	井晩翠や島崎藤村の文学碑もたっている。











	■ 伊達政宗と青葉城

	戦国時代、有力な戦国大名たちは全国統一をめざして戦いを繰り返していた。織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った
	ころ、仙台で伊達政宗が生まれる。6年後の天正元年(1573)には、信長が室町幕府を滅ぼすことになる。政宗はそのよう
	な時代に生まれた。
	永禄10年(1567)8月3日、米沢城主・伊達輝宗に長子・梵天丸(ぼんてんまる)が誕生した。母は山形城主・最上義守
	(もがみよしもり)の娘・義姫(よしひめ)である。梵天丸が、後の伊達家17代当主伊達政宗である。5歳のとき、疱瘡
	(ほうそう)を患い片目を失う。15歳のときに初陣を飾り、以後独眼で戦乱の世を駆け抜けた。政宗は秀吉・家康の2大
	巨人を相手に、胸には天下取りの野望を持ちつつ、対峙していた。政宗は次々と領土を広げ、奥州に名を轟かせたが、秀吉
	の小田原攻めに死装束で参陣し、秀吉の軍門に下った。秀吉亡き後は、家康と手を組み、奥州の大名として関が原の戦いで
	は上杉氏と戦い、その後伊達藩62万石の大名として活躍した。一方では仙台城と城下町の建設など藩政にも力を注ぎ、さ
	らに黒船を建造して日本からヨーロッパ(ローマ、スペイン)へ初の欧州派遣使節を送るなど、国際的な活動にも積極的だ
	った。

 

 


	青葉城は、慶長5年(1600)関が原の戦いの年、政宗により築城を開始された。家康の警戒を避けるために、天守閣は設け
	なかったといわれる。
	当初政宗は、秀吉から岩出山に城をもらうが、政宗にとって岩出山は秀吉から押し付けられた城だった。政宗はもっと南で
	交通の便利な場所を望み、家康から上杉景勝(かげかつ)をおさえるよう協力を求められた時、千代(せんだい)に城を移
	すことを願い出て、許可された。慶長5年関ヶ原の戦いが終わると、政宗は早速城づくりに取り掛かり千代を仙台に改め、
	翌年4月、まだ工事中の城に移った。政宗は35歳になっていた。岩出山にいた武士や町人は仙台に移住させられ、城と城
	下町の建設が、町人や農民を使って進められた。慶長15年(1610)には、豪壮華麗な大広間が完成し、仙台城はほぼ完成
	した。










	平成9年(1997)から開始された仙台城本丸の石垣解体工事と発掘調査によって、政宗が仙台城を築いた当時の石垣や、大
	広間の跡が発見され、仙台城の姿が少しずつ明らかになってきた。平成15年(2003)には、仙台城跡が国の史跡に指定さ
	れている。 
	政宗が新しい城の建設とともに願い出た領地の拡大は実現しなかた。多くの家臣を抱える仙台藩にとって、家康から認めら
	れた62万石では十分とはいえなかった。政宗は北上川の流れを変える大工事をし、荒れ地を開発して新田を開かせ、不足
	分を補った。また新しい北上川の本流が海にそそぐ石巻を整備し、年貢米などを江戸へ運び出す港とした。藩主政宗の努力
	により仙台藩の財政は豊かになった。そして政宗がつくった城下町仙台は、その中心として栄えたのである。










	■ 青葉城の政宗騎馬像

	ここから仙台市内を展望できる。25歳から35歳まで、つまり岩出山に城をかまえていた頃の政宗は、実はほとんど京都
	や大坂で暮らしている。秀吉に従わなければならず、武将としては悩みの多い時期だったと考えられるが、文化的には華や
	かな桃山時代に触れる良い機会だった。師範の虎哉宗乙(こさいそういつ)や父の輝宗(てるむね)から教えられた素養が
	磨かれ、政宗はこの時代の一流の文化人になっていった。仙台城を築くとき、政宗は建築や絵画、工芸の専門家を上方から
	仙台に招いており、彼らは城づくりだけではなく、政宗が力を入れた神社やお寺の建設にも参加した。城は残っていないが、
	瑞巌寺(ずいがんじ)や大崎八幡宮を見ると、政宗が、桃山文化を東北地方にもたらし、素晴らしい建築物を建てさせた事
	がよくわかる。政宗はまた、和歌や連歌、書、茶の湯、能などにも優れた才能を示した。それは、中央の大名たちと対等に
	つきあうためにも必要なことであり、危ないところで助かるきっかけになったこともある。たとえば、遅れて小田原へ行っ
	た政宗が無事許されたのは、千利休から茶道を習いたいという政宗の申し出に、秀吉が感心したからだといわれている。




	伊達政宗といえば独眼流として有名だが、遺言では「余の肖像は両目にしろ」と言い残している。遺言どおり、現存する多
	くの肖像画や銅像にはちゃんと両目が描かれている。

 

 



ここからは仙台市街が見渡せる。なかなかいい眺めである。


	■ 青年時代

	政宗の青年時代は戦乱の世であった。日々いくさの中にあったといってもよいが、それはこの時代に生まれた武将の誰に
	でも言えることである。初陣は政宗15歳、天正9年であったが、片目の独眼流として馬上にある姿は周囲にその存在感
	の大きさを植えつけた。翌年、本能寺の変で織田信長が討たれ、豊臣秀吉がいち早く明智光秀を討ち信長の後継者となる。
	そのころ東北地方には、最上(山形市)、葛西、大崎(ともに宮城県北部)、相馬(相馬市)、岩城(いわき市)、葦名
	(会津若松市)などの有力大名がそれぞれ城を構え、また福島県中通り地方には、田村、畠山、石川、二階堂、白川ら中
	小の勢力がひしめいていた。
	こうした戦乱のさなか、天正13年(1585)、父輝宗が、二本松城主畠山義継に殺された。政宗は、ただちに敵討ちの戦
	いを始める。「人取橋(ひととりばし)の合戦」と呼ばれる激戦を伊達成実(しげざね)らの働きでどうにか引き分け、
	政宗は翌年二本松城を手に入れ、念願の会津を攻める足がかりを得た。その後いくつかの戦いを経て天正17年(1589)、
	ついに摺上原の戦いで会津の葦名義広(あしなよしひろ)を破った。東北地方の南部は、相馬領を除きほとんどが政宗の
	ものとなり、当主となって5年目、23歳の政宗は伊達家の歴史の中で最大の領土を獲得したのである。




	■ 秀吉との関係 

	信長の跡を継いだ秀吉は、天正15年(1587)には西日本全体を支配下に入れ、東日本の大名も支配しようとした。天正
	18年(1590)、秀吉は、小田原の北条氏直を討つため京都を出発し、政宗にも小田原に出兵するよう催促した。ここで
	秀吉に従うか、小田原のあと東北にも攻めてくるであろう秀吉と戦うか、政宗は一大決断をせまられる。伊達家では何度
	も会議が開かれ、伊達成実(しげざね)は戦いを、片倉景綱(かげつな)は従うことを主張した。政宗の結論は、秀吉に
	従って小田原攻めに参陣するというものだった。しかし出発前に政宗の毒殺未遂という大事件がおきた。これは、政宗に
	代えて弟の小次郎を当主にするために、母義姫(よしひめ)が図ったものともいわれているが真相は不明である。伊達家
	の内部争いを避けるため、政宗は小次郎を斬り、小田原へ向かう。小田原攻めは秀吉の勝利に終わり、秀吉は東北地方の
	支配に入った。小田原に来なかった大名の領地は没収され、秀吉の家臣に与えられた。また政宗の本来の領地は無事だっ
	たが、摺上原の戦いで獲得した会津は没収され、蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられた。 

	秀吉の東北支配に反抗して起こった葛西・大崎地方の一揆は天正19年(1591)7月、政宗が佐沼城にたてこもる一揆勢
	を討ちとって終わりを遂げた。秀吉は政宗の働きに対して葛西・大崎地方を領地として与えたが、同時に、米沢を中心と
	する本来の領地は取り上げられ、城も岩出山(宮城県)に変えられた。8月、まだ秀吉に従っていた徳川家康から城を引
	き渡された政宗は、岩出山に移住し新たな本拠地づくりに取り掛かったが、落ち着く間もなく秀吉から朝鮮出兵の命令が
	届き、翌年正月早々に政宗は、秀吉から割り当てられた人数の倍の3千の兵を連れて京都へ向かう。京都に入った伊達軍
	のいでたちは、見物していた町の人々を驚かせるほど派手で奇抜なものだった。江戸時代に作成された伊達家の記録では、
	このときの伊達軍の装いが、「伊達者」という言葉の起こりとなったと伝えられている。各大名の軍勢は、肥前の名護屋
	(佐賀県鎮西町)から朝鮮に渡った。政宗も援軍として海を渡り、文禄2年(1593)4月、釜山に上陸した。日本軍は苦
	戦しており、また風土病も軍勢を苦しめ、政宗の家臣の原田宗時(はらだむねとき)らも犠牲となった。8月、秀吉は日
	本軍に帰国を命じ9月に政宗は帰国した。




	■ 最後の戦い 

	慶長3年(1598)、秀吉が63歳で死ぬと、政治の実権をめぐって徳川家康と、石田三成らとの対立が激しくなった。
	慶長5年(1600)9月15日、家康軍は、関ヶ原で三成軍を破った。このとき、家康方についていた政宗は、三成方につ
	いた会津若松城の上杉景勝(かげかつ)の動きをおさえるため、7月に上杉方の白石城を攻め取り、9月には、景勝に攻
	められた山形の最上義光に援軍を派遣し、上杉軍を打ち破った。 
	家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、名実ともに全国を支配する。しかし、まだ豊臣家に
	味方する勢力もあり、家康にとって豊臣秀頼が受け継いだ「秀吉の権威」は脅威だった。家康は口実を作って慶長19年
	(1614)とその翌年、大坂城の秀頼を攻め、ついに豊臣家は滅亡した。この大坂夏の陣は、政宗をはじめ戦国時代を生き
	抜いてきた大名たちにとって、最後の戦いとなった。



山頂の騎馬像の側が発掘調査中だった。今頃発掘かいと思ってしまうが、何かの理由でいままで掘れなかったんだろうな。




	■ 晩年の政宗 

	政宗の生きた時期は、戦国から近世へと時代が大きく変わる時だった。青年時代を戦国大名として過ごし、25歳からの
	10年間ほどは時代の変化を見て自分の生きる方向をさぐり、35歳からは藩主として仙台藩の基礎づくりに努力すると
	ともに、江戸幕府の下で伊達家の地位の安定をはかってきた。寛永5年(1628)、62歳の政宗は隠居所として建てた若
	林城に移った。家康をはじめ、戦国の世をともに生き抜いてきた武将たちの多くはすでに死去し、2代将軍秀忠も隠居し
	て、若3代将軍家光の時代になっていた。泰平の世の到来とともに晩年を迎えつつあった政宗の胸中には、さまざまな思
	いがあったものと思われる。一方、藩の仕事や幕府との付き合いの合間には、茶会や歌会を催したり、漁や狩りを楽しん
	だりもしている。 






 	■ 政宗の死と瑞鳳殿

	寛永13年(1636)、体調が悪かった政宗は、この年の正月には死が近いことを感じていたようである。4月、自分の墓
	の場所は経ヶ峰(仙台市青葉区)とするよう指示した。その後、具合は悪化していたにもかかわらず政宗は江戸へと出発
	した。江戸では、政宗の病気の重さをみて、3代将軍家光が自ら見舞いに出向いた。政宗は無理をして服装をただし迎え
	た5月23日、妻の愛姫(めごひめ)や娘の五郎八(いろは)は面会を願い出たが、見苦しいところを見せたくないと断
	り、遺言と形見の品を贈った。そして5月24日の早朝、政宗はその生涯を閉じた。ちょうど70歳になっていて、当時
	の戦国武将の中では長生きの部類だった。

	政宗の遺体は、遺言どおり経ヶ峰に葬られ、寛永14年(1637)、息子忠宗によってお墓である瑞鳳殿が建てられた。
	その豪壮華麗な建物は、国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)に戦災で焼けてしまった。昭和49年(1974)、
	瑞鳳殿を再建するために、発掘調査が行われた。このとき、中から遺体とともに文箱や煙管(きせる)、黄金のブローチ
	など、政宗が愛用し、大切にしていたと思われるさまざまな遺品が見つかった。その一部は、現在仙台市博物館に収蔵、
	展示されており、政宗の好みの一端を知ることができる。

 


	「土井晩翠の胸像」

	土井晩翠は、有名な童謡「荒城の月」を作詞した。「荒城の月」といえば大分・竹田の瀧廉太郎が思い浮かぶが、瀧廉太郎
	は作曲者である。瀧廉太郎の岡城址への思いも十分曲にこもっているが、曲もさることながら、この歌の憂愁を含んだメロ
	ディーと情緒は、なんと言ってもその歌詞にある。しかし実際に「荒城の月」のモデルとなった”荒城”とは、福島・会津
	の鶴ヶ城だという。




	かつて大手門があった(昭和20年に戦災にて焼失)場所の横に、昭和40年、脇櫓(隅櫓)が復元されている。現在、わ
	ずかに城らしいところと言えばここぐらいである。脇櫓(隅櫓)から道路を挟んで反対側に、「慶長遣欧使節」の支倉常長
	の銅像がたっている。彼は慶長18年(1613)に藩主伊達政宗の命をうけ、サン・ファン・ヴァウティスタ号(木造船)で
	太平洋を渡り、メキシコから更にスペイン艦船に便乗して大西洋を渡り、ついにスペインに上陸。スペイン国王フィリップ
	3世に謁見し、政宗の貿易と交流を求める書状を手渡した。あの時代に日本からヨーロッパへ渡ったというのも驚きだが、
	ローマ法皇に謁見した最初の日本人という偉業にも驚嘆する。明治になってヨーロッパを訪れた伊藤博文達も、自分たちよ
	りずっと前に偉業を成し遂げていたこの支倉常長の存在に驚いたという。政宗の狙いであった日本との貿易は、国内情勢に
	よって実現せず、失意のうちに支倉常長は元和6年(1620)に帰国した。



	ここから見る光景が一番城らしいと言える。しかし山頂にある本丸跡の土産物屋と神社はいただけない。あの伊達政宗の居
	城「青葉城」がこれかと思ってしまう。多少お金はかかるかもしれないが、何とか青葉城全体を往時の姿に戻してほしいも
	のだ。あれでは、政宗も泣いているのではなかろうか。
















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