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近松門左衛門の墓

第98回 歴史倶楽部例会
2005.6.26(日耀)



	
	<近松門左衛門の墓 (ちかまつもんざえもんのはか)>



	
	近松門左衛門は音曲の名人竹本義太夫と協力して、江戸時代の初めに始まった人形浄瑠璃を空前の盛況に発展させた脚本家
	で、多くの名作を残した。広済寺再興の開山講には近松も名を連ねたり、母の供養を行うなど広済寺とは深いつながりが窺
	われる。享保9年(1724)11月22日に亡くなったので、毎年、命日の前後の日曜日には近松祭が催され文豪を顕彰して
	いる。墓石には表に近松門左衛門と妻の戒名が、裏に没年が刻まれている。昭和41年に国の史跡に指定された。



 

 



	
	歴史倶楽部第74回で大阪市南区を歩いた時、あそこにも「近松門左衛門の墓」があって、以下はその時のレポートである。
	
	【近松門左衛門の墓 】

	近松門左衛門の出生地については諸説あって、しかもその候補地は全国に及んでいて驚く。享保9年(1724)に死亡した近松
	門左衛門に対して、数十年経ってもう、その出生地をめぐっての議論が巻き起こっている。出生地についての、存命中や没
	後すぐの資料があればこういう事にはならなかったと思われるが、どうやらそういう資料は全く存在しないようだ。京都、
	近江(滋賀県)、備前唐津(岡山県南東部)、越前(福井県東部)、三河(愛知県東部)、北越(新潟県・富山県)、長州萩(山
	口県萩市)、雲州近松村(島根県東部・出雲)などがおもな出生地候補である。これらに対して、大正14年8月号の「国
	語と国文学」に、福井の郷土史家田辺密蔵が「近松門左衛門の所出に就て」という論文を発表し、近松門左衛門の出身は越
	前であると唱えた。「杉森家系譜」をもとに論考し、近松の父(信義)は福井藩主松平忠昌に仕える武士であり、後に浪人
	して京都に住んだことがほぼ明らかとなった。この説は大阪市立大学文学部教授森修(もりおさむ)によって検証が進めら
	れ、森は杉森家系譜のほか福井藩の記録をもとに、越前と杉森家の関係を明らかにした。
	(「国語国文」昭和33年10月号 「近松門左衛門と杉森家系譜について」)これによって、今日では越前鯖江説がほぼ
	定説となっているようだ。

	以下は、その越前鯖江説を元にした解説である。

	近松門左衛門の本名は杉森信盛で、幼名を次郎吉という。承応2年(1653)、吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生
	する。父の信義は松平昌親に仕え、300石どりであったが後に浪人となる。近松3歳の明暦元年(1655)、藩主松平昌親
	(まさちか)の吉江入封に伴い、杉森一家も吉江に移住した。近松12歳の寛文4年(1664)には、父信義が吉江藩に在籍
	していたことは資料により明らかであり、その後藩を辞して京都に移るまでの10年余りを父母と共に吉江の地で過ごして
	いる。近松門左衛門の母は岡本為竹法眼の娘とある。岡本為竹法眼は越前藩「万病回春病因指南」(享保6年11月奥書)に
	よると、藩主である松平昌親に仕えた医師である。それがどういう事情かは分からないが、近松門左衛門の一家はいつの頃
	か京都へ移住して来たようである。寛文11年(1671)の、京都の俳人山岡元隣の「宝蔵」(たからぐら)に近松門左衛門の
	俳句があらわれている。「しら雲やはななき山の恥かくし」これが、近松門左門の数え年19歳の時の句だという。とにか
	く19才の時には京都に居たようである。

	寛文12年(1672)に、仕えていた公家の一条恵観(昭良)が死去している。また、師事していたと見られる「宝蔵」の山岡
	元隣もこの年に死去している。近松門左衛門はこの二人を通して古典や俳諧の奥義を学んだものと思われているが、この二
	人を失った近松門左衛門の落胆は想像に難くない。しかし翌年、寛文13年(1673)月より多くの浄瑠璃作品が著されてお
	り、天和三年(1683)には 「世継曽我」が宇治座で上演されているので、宇治で浄瑠璃作者として10年程修業していたも
	のと思われる。また、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作にも情熱を注いでいる。代表作と
	して「傾城仏の原」(けいせいほとけのはら)がある。
	藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると近松は大阪に移住し、「世継曽我」が貞享元年(1684)に大坂道頓堀で旗揚
	げした竹本義太夫によって語られて大評判になり、浄瑠璃作者としての地位を確保する。元禄16年(1703)「曾根崎心中」
	(そねざきしんじゅう)で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していった。宝永2年(1705)年、竹本座は、座付作者
	として正式に近松門左衛門を迎えることになる。竹本、近松の出会いで、以後、長きにわたって大阪が浄瑠璃の拠点として
	日本中に君臨する事になり、義太夫は浄瑠璃の代名詞ともなっていくのである。

	享保9年(1724)11月22日、大阪天満で没し、約40年に渡る作家生活を終えた。大阪の法妙寺と尼崎の広済寺に葬ら
	れた。法妙寺は現在の大東市へ移転したので、墓だけがこの地へ移された。

	広済寺を開山した日昌上人と近松門左衛門は知己があり、広済寺の開山にあたり、「広済寺開山講中列名縁起」(享保元年
	9月)に近松門左衛門の名前が記入されている。この年に亡くなった母「智法院貞松日喜」(享保元年9月9日命日)を広
	済寺に葬っている。
	当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」という、六畳二間、奥座敷四畳半の建物があったそうで、近松はここでも著作したと
	伝わっている。近松門左衛門の戒名は「阿耨院穆矣日一具足居士」。「曽根崎心中」「冥途の飛脚」等の不朽の名作を残し
	た近松門左衛門の菩提所として、広済寺の墓碑は国定史跡に指定されている。

	http://www.inoues.net/club/4tennohji_new.html



	
	広済寺は現在集落街の中にあるが、昭和中期でも田圃と「久々知」の集落に囲まれた環境だったそうなので、江戸時代は田
	園に囲まれた農村だったに違いない。しかし大阪都心から10〜15Km、当時は港湾商業都市として栄えていた尼崎の中
	心地からも3〜4Kmという立地なので、大阪の町とは人々が頻繁に行き来していたであろう事は容易に想像できる。
	広済寺はもと禅宗の古刹であったが、南北朝時代直前の元弘3年(1333)に戦災を被って長らく荒れ寺になったまま放置され
	ていた。それを381年後の江戸時代、正徳4年(1714)に再興したのが、日蓮宗の日昌上人(1667-1738)であり、近松門左
	衛門はその再興開山に協力したようだ。広済寺を再興した日昌上人の父である尼崎屋吉右衛門(広済寺過去帳には「大阪尼
	崎屋吉右衛門二子」とある。)と近松門左衛門が知人であったので、近松門左衛門と広済寺に縁ができたと考えられるが、
	尼崎屋吉右衛門と近松門左衛門が知人であったという事を示す直接の資料はないようである。

 



	
	広済寺開山の日昌上人は、広済寺を開山する前に2寺の住職をしていた。「奈良常徳寺 二十四世 中興開山(奈良市北向
	町)」と「大阪寶泉寺 五世(大阪市中央区中寺)」である。この後尼崎へ移り、広済寺を開山したようだ。大阪谷町の寺
	町にある寶泉寺の住職をしている時代に近松門左衛門と縁ができたものと考えられる。
	近松が京都から大阪に移住し道頓堀の竹本座の座付作者となったのは、保元2年(1705)53歳の時である。その時、39歳
	の日昌上人は寶泉寺の住職であり、正徳4(1714)までの9年間、目と鼻の先に二人は居たことになる。約1.5kmという
	距離は、歩いても20分少々の距離である。ここで近松と日昌上人との間の何らかの関係ができた考えられる。

	広済寺の開山にあたり近松門左衛門は「広済寺開山講中列名縁起」(享保元年九月)に名前が記入されている。この年に亡
	くなった母「智法院貞松日喜」(享保元年九月九日命日)を広済寺に葬り、その機会に家宝の二位大納言阿野実藤筆の法華
	経和歌集二巻、後西天皇直筆の色紙を寄付した。当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」という、六畳二間、奥座敷四畳半の
	建物があった。近松はここで多くの著作をしたと伝わる。今でも、近松愛用の遺品や近松部屋の階段などが広済寺寺宝とし
	て「近松記念館」に展示されている。
	戒名は「阿耨院穆矣日一具足居士」、「曽根崎心中」「冥途の飛脚」等の不朽の名作を残した近松門左衛門の菩提所として、
	広済寺に墓碑がある。近松門左衛門の墓碑は、この広済寺と大阪谷町の旧法妙寺跡地にある。双方とも国定史跡に指定され
	ていて、墓石の形状もよく似ている。
	(下左が今回訪れたもので、右が歴史倶楽部第74回例会で大阪谷町の旧法妙寺跡地を訪れた時のもの。)





	
	いったいどうして二箇所に墓があるのだろうか。ここ以外にも近松門左衛門の墓と呼ばれるところはあるが、信憑性の高い
	ものとしてはこの二箇所のいずれかだろうと思われる。近松墳墓に関しては、「近松墳墓考 〜広済寺本墓説〜 向井芳樹
	(同志社国文学 第三十号(昭和六十三年三月二十日)という考察があるようだが(わたしはまだ読んでいない。)、それ
	によれば、広済寺と法妙寺の近松墓碑の相似点、相違点や、火葬/土葬の違いからの考察、分骨して、広済寺と法妙寺双方
	に埋葬したとする説などが検討されているようだ。しかしいずれが近松の墓とするかの決定打はないようである。
	INTERNET内で近松の記事を探していたら以下のような新聞記事があった。これによれば、ここから人骨は出土しているので
	あんがいここが本命なのかもしれない。



	近松翁の遺骨か 久々知の廣濟寺から發掘 神戸新聞 昭和25年3月13日

	尼崎市久々知の廣済寺境内にある近松文左衛門(誤植?)の墓は近松翁が晩年同寺に引きこもって病を養い七十二の一生を
	とじたところと傳えられ、現に同寺には近松座敷という座敷が残っていて翁が会心の大作はその座敷で想を練り筆を執った
	といわれるほど由緒正しい遺跡である。しかるに近松翁の墓所は同寺のほか、大阪谷町の妙法寺(誤植?)、九州唐津の近
	松寺とその他全国各地に五、六ヶ所もあってどれが本当の近松翁の墓所であるか眞僞のほどが疑われ、とくに大阪谷町の妙
	法寺の近松墓所とはたがいに本家争いをつづけてきたものであるが、尼崎の大近松宣揚会では廣済寺境内の墓碑の墓石がく
	ずれかかって危険にひんしたので十二日これが修理を施し、これを機会に永年の疑問を氷解すべく市当局の立会いを求めて
	墓所を発掘したところ、地下数尺のところから多数の人骨を発見、これこそ近松翁の遺骨に相違ないと丁重に取扱ってひと
	まず同寺本堂に安置した。大近松宣揚会ではこれで尼崎廣済寺墓所こそ本当の相違ないことを確認するとともにさらに学界
	の権威に委嘱して学問的にその確実性を立証してもらうことになった。

	神戸新聞 昭和25年3月23日
	去る十五日尼崎市久々知廣済寺境内で発掘された大近松の遺骨に対し二十二日午前十一時から同寺で慰霊法要を執行したの
	ち同寺に埋葬した。



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