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安土城城郭資料館
滋賀県安土町




安土駅の裏側にこの資料館はある。駅からも見えている。




	中世の安土に関する資料を中心に集めた資料館。なかでも、20分の1のスケールで再現された幻の名城安土城は必見。こ
	のほか「屏風絵風陶板壁画」や、信長の時代を中心に資料を集めた安土文庫などがある。1Fの喫茶コーナーでは、ローマ
	の宣教師が信長に献上したとされるコーヒー「エスプレッソ」と「カプチーノ」が楽しめる。



銭湯みたいな屋根の下をくぐると、東海道線の線路の下を抜けて安土駅の正面にでる。右側が資料館である。



 

<安土城ひな形 1/20> 内部の構造や障壁画までわかり易くするため、電動式で左右に別れる様になっている。

 

 




	最新の情報にもとづいて、実に細部にわたって復元してある。中央の吹き抜けの一番下には、仏舎利を収める宝塔がある。
	この吹き抜けは5階部分までぶち抜きで、どの階にいても中央にこの宝塔を見る。その上はもう天主である。

 

 

 

いくらかは想像も入っているのだろうが、襖絵まで復元してある。

 

 

 

上右は1階の正面に座る信長の像(らしい)。

 

<安土城ひな形 1/7>五層七重。実物大はスペイン・セビリア万博日本館で展示された。現在「信長の館」にある。




	◆ 陶板壁画

	手前は安土山、繖山の模型。天正少年使節は、信長より託された安土城を描いた屏風等を持ってローマへと向かった。その
	行程を狩野永徳が屏風絵に描いた画風にあわせて創作し、陶板壁画に製作したもの。

 

 

 

 

 

 

 


	◆ 観音寺城(かんのんじやま)城

	観音寺城は、滋賀県蒲生郡安土町にある佐々木氏、後に六角氏の本拠として栄えた中世の山城である。正確な築城年代は不
	明だが、太平記に、建武2年に北畠顕家軍に備えて佐々木氏頼がここに篭もったという記述があり、そのころには築かれて
	いたものと思われる。応仁の乱では、六角氏が西軍に属したため同族の京極氏に攻められている。また、六角氏が幕府御料
	地を侵略した際には将軍の親征を二度受け、一時的に城を明け渡すが、奪回している。戦国時代には、六角定頼が六角氏の
	最盛期を創り、城下も大いに栄えた。しかし、六角義賢・六角義治により衰退してしまう。1568年に、織田信長が上洛の大
	軍を興すと六角氏は敵対し、信長に支城を落とされると、義賢・義賢は観音寺城から逃げ、無血開城した。その後、南近江
	国には安土城が築かれ廃城となる
	観音寺城は標高433mの繖山(きぬがさやま)(または観音寺山、古代には狭狭城山と記す)に築かれ、春日山城,小谷
	城,等と並び、この地方での、戦国時代屈指の山城と称されている。中世の城郭のほとんどが土塁で築城されているもので
	あったが、観音寺城は規模もさることながら、安土城以降本格的となる石垣が、安土城以前に使用されている全国で唯一の
	中世山城であり、全山を高石垣で構築している。城名は南面山上に現存する観音正寺(天台宗)に由来している。

	安土山は観音寺城(繖山)の北に位置する、標高199mの独立丘で、織田信長が安土城を築く以前は「目賀田山」といい、
	佐々木・六角氏の重臣であった目賀田氏の城があった。この目賀田城は箕作城,和田山城と共に、観音寺城の重要な支城の
	ひとつであったと考えられる。これらの三つの支城を支配下に置くことにより、近江を通る四つの街道、(東山道,朝鮮人
	街道,八風街道及び千種街道)を押さえることが出来、近江を支配するためには要所であったと考えられる。目賀田氏は一
	時、浅井長政の家臣となっていたようだが、浅井長政が信長に滅ぼされた後は、信長の指揮下に加わっている。天正4年信
	長が目賀田山に城を築くというので、信長から転地を与えられ、愛知郡に移り住んだといわれている。

 

 


	◆ 天正少年使節(てんしょうしょうねんしせつ)

	天正10年(1582)、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の3キリシタン大名がローマ法王のもとに送った少年使節。
	伊東マンショ・千々石ミゲルを正使とし,原マルチノ・中浦ジュリアンを副使として派遣した。1585年法王グレゴリオ
	13世に謁見し,大歓迎されたが,1590年帰国したときは,豊臣秀吉によるキリスト教禁止の政策がとられていた。 

 

 




	天正4年(1576)、天下統一を進めていた織田信長は、羽柴長秀を総普請奉行にして、安土に居城を作ることを命じた。普請
	を命じられた長秀は東海・北陸・近畿にいる配下の武将を総動員し、さらに京都・奈良・堺の名工たちを集めて城造りにあ
	たらせた。これがいわゆる「天下普請」の第一号である。築城の様子は『連日呼声山谷に震動し、雷鳴の轟くが如し』と伝
	えられるように、1日も休む事なく大がかりな工事に明け暮れた3年間だったようである。

	3年後に完成したのは五層七重の天主閣をいだく、まばゆいばかりの城郭だった。安土城を見たイエズス会の宣教師は故国
	への手紙に「ヨーロッパにもこれほどの城は存在しない」と書き送った。しかしそれから3年後、安土城が信長と命運をと
	もにして、すべてが灰塵にきしてしまうとは、誰にも予想できなかったことだろう。
  



	室町幕府の御大工を勤めた、尾張熱田社出身の岡部又右衛門父子がこの城の設計者と伝わる。また、石垣積みは著名な石積
	み集団である近江の穴太衆(戸波一門)が担当し、襖絵などは、安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳父子、きらびやか
	さを演出した金工は後藤、鉢阿弥一門など、当時の一級の職工や芸術家たちが、信長一世一代の城造りに腕を振るった。

 


	天正7年(1579)、3年の歳月をかけて完成した安土城は五層七重の天主閣をもつ大城郭だった。また、安土山の谷筋には羽
	柴秀吉(後の豊臣秀吉)や徳川家康などの家臣の屋敷が連なっていた。壮麗な安土城の中でも、一番豪華絢爛をきわめたの
	が天主閣の最上階にあたる5・6階部分だった。5階は法隆寺の夢殿のように正八角形で、室内の柱や天井はすべて朱色に
	塗られ、壁や天井には昇り龍や降り龍などの極彩色の絵が描かれ、6階は3間四方がすべて金色に彩られ、まばゆい室内に
	治国平天下の思想を表した狩野永徳の筆による障壁画が描かれていたと伝えられている。信長は日本の宗教と思想を統一し
	た「天道思想」をこの天主に投影したといわれている。




	尾張出身の織田信長が、安土の地を天下統一の拠点に選んだのにはいくつか理由があった。第一に東西に陸路が通り、瀬戸
	内や大阪からの水路の便がいいなど交通の要衝だったこと。生れ故郷の尾張からも、当時の都の京都からも近いこと。
	信長は旧勢力とは一線を画しながら、人が集まってくる新しい都を自分の手で作り出そうとしたのである。




	信長が新しい都の象徴として、天正4年(1576)、琵琶湖をのぞむ安土山上に建設を命じたのが、後に近代城郭のお手本とな
	る安土城だった。安土城は天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が討たれたあと、焼失してしまう。工事着工から7年、
	完成からわずか3年後である。けたはずれの規模とはあまりにも対照的な最期だった。現在、往時をしのばせるのは城跡に
	残る穴太積の石垣と天主閣跡だけだが、それだけでも安土城の偉容が十分伝わってくる。

 


	今安土城は再び脚光を浴びている。平成元年度から安土城跡の学術的な発掘調査と整備計画が20年計画でスタートし、調
	査では新たに当時の石段や金箔瓦など新事実が確認されている。整備事業では、調査の結果をもとに城跡を永く保存するた
	めの環境整備を行っている。 


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