Music: Never falling love

安土城から瓢箪山古墳へ

滋賀県安土町 2005.7.24 歴史倶楽部第99回例会







	今回の例会は安土城である。わたしは過去2回ほど行ったが、まだ行ったことがないという人もいた。最初は、暑いので
	「安土城考古博物館」を見学して、その隣にある「信長の館」館を見るだけのつもりだったのだが、行ったことのない人
	たちから、せっかく行くんやからどうせなら安土城にも登ろうという声が出て、セミナリヨ跡や瓢箪山古墳など、結局安
	土の町を一回りすることになってしまった。しかし汗をかいたおかげで、京都の地下街で飲んだビールは最高にうまかっ
	た。






	JR「安土駅」前の信長像。写真では黒くてよくわからないが、この信長像はもう晩年らしく、能の「敦盛」を舞ってい
	るところらしい。安土駅は田舎の駅のたたずまいで、駅前も栄えてるとはいいがたい。店が少しあっていかにも田舎風で
	ある。ここが日本の中心になっていた時期があるなんてとても信じられないくらいだ。



 




	駅の隣に、「安土城城郭資料館」(月休、9:00〜17:00、200円)があって、橋本さんはここに来たことがあるそうだが、
	ほかの人ははじめてで、私もここには来たことがなかった。真ん中から真っ二つに割れた、安土城の1/20スケール模型が
	あって、これはなかなかおもしろかった。安土城出土の花器とか、安土城下、京都、長崎や、マニラ、ローマまで描いた
	錦絵などがあった。


	資料館を見て、駅前から安土城を目指して歩く。途中に、かっての神学校であるセミナリヨ跡があるというので、あちこ
	ちで聞きながらやっと探し当てた。




	正面観音寺山の麓に安土城考古博物館が見えている。この山の頂に観音寺山城があった。観音寺城は、佐々木氏、後に
	六角氏の本拠として栄えた中世の山城である。安土城はこの写真の左手の山である。ここには見えていない。

	安土城は、織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖岸に築いた大城郭である。空前の規模と構造を持つこの城は、築城
	開始からわずか10年足らずで焼失してしまったが、近年の発掘調査により、天主には天皇を迎えるための館があり、
	麓にもそのための施設があったことが確認されようとしている。信長はここに天皇を迎えて、もしかしたらここを都と
	するつもりだったのかもしれない。しかしながら、炎上した安土城に関してはまだまだわずかな記録や古文書によって
	その姿を想像するほかなく、滋賀県では、そのため発掘調査とその成果に基づく環境整備を進めている。その計画は平
	成元年からはじめられ、当初は20年計画で進められた。これまで大手道・百々橋口道・搦手道とその道沿いの郭の発
	掘調査を終え、現在は最終段階をむかえている。また調査終了部分を保存し、調査結果を広く伝えるための環境整備も
	行っている。現座、大手道と伝羽柴邸跡、伝前田邸跡などが整備されている。


	安土城を登って城跡を見た後、総見寺へ降りてきて「安土城考古博物館」を目指した。安土城の歴史のみならず、広く
	滋賀県下の遺跡や古墳についての説明がある。出土物を整理したり保管するための埋蔵文化財センターもかねているよ
	うだ。そういう作業の様子も見学できる。






	博物館の裏手、歩いて1,2分のところに6角形(8角形?)の建物がある。このなかに、スペインの万博時に出展さ
	れた、安土城の天主部分の復元模型がある。模型といっても実物大なのでデカい。色とりどりの柱や襖に、金ぴかの壁。
	秀吉がまねして聚楽第を作ったのは、おそらくこれを見て「俺もいつかは!」と思っていたからだろう。それにしても、
	贅を極めた意匠ではある。







 





デジカメは、光の加減で、赤になったり青になったり。













この館についての詳細は、以下のコーナーに詳しいので、ここでは省略する。






瓢箪山古墳への道すがらにあった「大己貴神社」。



瓢箪山古墳


	瓢箪山古墳(ひょうたんやまこふん:滋賀県蒲生郡安土町大字宮津)

	県下最大かつ最古の古墳。古墳時代前期4世紀後半に造られたとされる、自然の地形を利用した前方後円墳で、ちょうど
	瓢篳を二つに割ったような形をしているところからその名がついた。安土城考古博物館のレプリカに見られるように、鏡
	2面をはじめとして、鍬形石・車輪石・石釧・刀剣・短甲などが出土した。滋賀県下では、前期古墳として八日市市の雪
	野山古墳、中期のもので新旭町の稲荷山古墳、近江町の能登瀬山古墳があり、後期には大津市の百穴古墳群、能登川町の
	猪子山古墳、秦荘町の上蚊野古墳群などがある。これらの古墳は地方豪族のものであるが、滋賀郡の春日山古墳群は和迩
	・真野・春日の各氏の墓であり、大津の穴太古墳は大友村主・穴太村主らのものであろうとされる。ここ安土の瓢箪山古
	墳は、このあたりを支配した「狭狭城山君」の祖先の墓とされる。 



 

この古墳からの出土物や解説は、前出の「安土城考古博物館」に詳しいのでそちらを参照されたい。




	ここの被葬者と推測されている「狭狭城山君」(ささきやまのきみ)とは、後の佐々木氏につながる豪族だろう。日本書紀
	によれば、、狭狭城山君の祖先は、第8代孝元天皇の子、大彦命だという。「大彦命は、阿倍臣(安倍氏)、善臣、阿閉臣、
	狭狭城山君、筑紫國造、越國造、伊賀臣の祖なり。」




	中世の近江国は、佐々木氏が勢力を誇っていた。佐々木源氏は、宇多天皇の皇子「敦実親王」が祖と伝えられ、沙沙貴(さ
	さき)神社を氏神とした。沙沙貴神社は安土駅から歩いて二十分くらいの田園のなかに鎮座し、少彦名命・大彦命・仁徳天
	皇・宇多天皇、そして敦美親王の五柱を祀っている。沙沙貴神社は延喜式内社で、奈良・平安時代に、蒲生・神崎両郡の大
	領をつとめた豪族である、狭狭城山君が祖神を祀ったのがその始めと伝える。宇多源氏を称する佐々木氏が勢力を拡大する
	過程で、狭々城山君の子孫と同化していったものだろうと思われる。



 


	前出博物館での、ここからの出土品の数々と、石棺・石室の復元品等々を見ると「狭狭城山君」にふさわしい内容を持って
	いることがわかる。今となっては、「狭狭城山君」であるかどうかは永遠の謎だが、古墳時代の一翼を担った渡来人の一団
	がこの地にも根を張って、豪族として勢力を拡大し、一族郎党ともども、やがて日本人になっていったのである。




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