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第110回例会 出雲王国の痕跡を探して
加茂岩倉遺跡
2006年6月25日(日)



		 <加茂岩倉(かもいわくら)遺跡> 島根県大原郡加茂町大字岩倉

		 平成8年10月14日、 島根県大原郡加茂町大字岩倉の、谷奥の丘陵斜面中腹で銅鐸31個が発見された。標高
		 140mの付近で、ブルドーザーの作業中に出現したのである。大きさは、大きいものが45〜51cm、小さ
		 いもので30cm前後であった。文様は袈裟襷文、流水文が確認された。1遺跡から出土した銅鐸数としては全
		 国最多であったため大きな注目を集めた。それまでは滋賀県野洲町の大岩山遺跡の24個が最多であった。
		 ほぼ同じ時期に出現した斐川町の神庭荒神谷遺跡と共に、弥生時代の出雲地域を考える上で極めて重要な遺跡と
		 なった。

		 

		 39個の銅鐸は1カ所からの出土としては全国最多で、全国で約500個ほど出土している銅鐸のうち、合計
		 50個もの銅鐸が出雲から出土していることになる。出土した銅鐸は弥生時代中期頃の古い形式のものと、新
		 しい形式のものとがあり、文様は流水文と、袈裟襷文(けさたすきもん)である。新しい段階の銅鐸群で注目
		 されるのは、18号鐸・23号鐸・35号鐸が、袈裟襷紋の上の区画内にトンボ・シカ・イノシシなどの絵画
		 を持っていることである。また描かれた図像に違いはあるが、鈕や鐸身の紋様構成は極めて似通っており、こ
		 れらの銅鐸は出雲で造られたものとみられている。このほかにも鈕にカメを描いた10号鐸、同じく鈕の頂部
		 に人面を描いた29号鐸など、特色のある絵画を持つ銅鐸がある。また10号鐸には表面に水銀朱が塗布され
		 ていることも確認されている。

		 神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の詳細はこちら。

 



 








		 加茂岩倉遺跡は、1996年10月14日に農道整備のエ事中に偶然発見された。調査により、史上最多の出土
		 数となる39個の銅鐸が確認された。(これまでは滋賀県野洲町・大岩山遺跡の24個が最多)。斐川町・神庭荒
		 神谷遺跡と共に、青銅器を用いた祭りや弥生時代の出雲地域を考える上で極めて重要な遺跡と考えられる。発掘
		 調査は1996年度・1997年度の2カ年にわたり、加茂町教育委員会が主体となって行われた。遺跡は加茂
		 町の北西部、赤川の支流猪尾川を遡り、さらに岩倉本郷の谷を流れる岩倉川を1.7km入った、幅約20mの
		 谷奥の丘陵斜面中腹にある。銅鐸が埋納されていた場所は、南に張り出す丘陵の南東斜面に位置し眺望のきかな
		 い立地だったが、周りの木々を倒し、少しは展望がきくように整備されていた。銅鐸埋納地点の標高は137.
		 5m、谷底からは約18mの比高差がある。
		 全国の銅鐸埋納遺跡の立地をみると、大きく丘陵に位置するものと平野の集落内あるいは集落縁辺に位置するも
		 のに分けられる。丘陵部では見晴らしの良い頂部に埋納されたものと、集落から離れた見通しのきかない斜面あ
		 るいは裾部に埋納されたものがある。近年の大規模調査により平野部から出土する例も増加してはいるが、見通
		 しの悪い谷奥丘陵斜面から出土した例が最も多く、加茂岩倉遺跡もその例に属する。大量の弥生青銅器(銅剣3
		 58本、銅矛16本、銅鐸6個)が出土した荒神谷遺跡は、加茂岩倉遺跡の北にある大黒山・高瀬山からなる山
		 々を挟んで北西方向わずか3.4kmのところにある。現地にはその案内写真もあり、健脚の人は歩いてもいけ
		 ますよと誘っている。
		 銅鐸の大きさは、大きいものが45〜51cm、小さいものが30cm前後である。文様は袈裟襷文・流水文が
		 確認されている。
		 (島根県教育委員会・加茂町教育委員会)











 












		 「山陰中央新報」
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		 最古段階から新段階の四段階の銅鐸の形式分類のうち、現時点で古段階の外縁付紐(がいえんつきちゅう)式と
		 中段階の扁平紐(へんぺいちゅう)式が確認。文様は土に覆われているため十分に分かっていないが表面を四区
		 画と六区画に分ける袈裟襷文(けさだすきもん)と、流水文が描かれている。荒神谷遺跡では、全国の総出土数
		 を上回る358本の銅剣と銅鐸6個、銅矛16本が出土。うち銅鐸は高さ22〜24センチと小さく、最古段階
		 から中段階まで比較的古い銅鐸が多かったのに対し、今回は荒神谷銅鐸より大型で新しい物も含まれていること
		 から、年代的に幅があると見られる。
		 加茂町教委は、島根県教委や文化庁と連携しながら今後、調査する方針だが、弥生時代の出雲地方に近畿、九州
		 双方と並ぶ大勢力が存在したことがあらためてうかがえ、全国的に再び古代出雲が脚光を浴びそうだ。 

		 荒神谷遺跡に匹敵の大発見

		 高倉洋章・西南学院大教授の話 荒神谷遺跡に匹敵する大発見。本当にびっくりした。神原神社古墳の近くとい
		 うのも気になる。荒神谷遺跡出土の銅鐸を合わせると、最古段階から新しい段階まで、すべての時代の銅鐸がそ
		 ろうことになり、埋納した人が銅鐸についてよく知っていたと思われる。分け与える前の状態か、東南にある銅
		 鼓のようにたくさん使って鳴らしたとも考えられる。一度に集めたとも考えられるが、徐々にたまっていった可
		 能性もある。数の多さだけでなく、銅鐸が何に使われたのかを明らかにする貴重な遺跡。荒神谷遺跡とで考えれ
		 ば、両遺跡のなぞを解くこともできると思う。 

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		 銅鐸 400個を超す発見例のある弥生時代の青銅器。形は釣り鐘状で、表面を区画し、流水文、シカ、昆虫な
		 どの文様を持ったものもある。使用目的はなぞに包まれているが、農業の豊作祈願など農耕祭祀(さいし)用の
		 祭器説が強い。初期の銅鐸(小型)には風鈴のよな舌のあるものが多く、鳴らして音を聞く銅鐸から見る銅鐸
		 (大型)へと変化したとの説もある。近畿を中心に多く出土するが、近年は、北部九州でも出土例が増えている。 
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		 遺跡の対面に「加茂岩倉遺跡ガイダンス」という施設ができていたが日曜なので閉館していた。ガラス越しに中
		 を覗くと、施設内には出土した銅鐸のレプリカやパネルなどが展示されていたが、休みにも開館してもらわない
		 と平日に訪問できない歴史ファンは、一生このガイダンスを見れないということになってしまう。ボランティア
		 でも募って何とかしてもらいたいものだ。加茂岩倉遺跡の近くには、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土した神
		 原神社古墳もある。この遺跡や出土した銅鐸の詳細は、「遺跡めぐり」コーナーの加茂岩倉遺跡を参照していた
		 だきたい。










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