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第110回例会 出雲王国の痕跡を探して
鳥取県立博物館
2006年6月24日(土)



		 最初29号線を走る予定だったが、それより中国道「佐用」インターから北上して、智頭(ちず)街道を行った
		 ほうが早かろうというので、いつものとおり岡山県英田郡(旧)の宮本武蔵の生まれ故郷と言われる「宮本村」
		 や、河原さんの居城(?)「河原城」を横目で見ながら鳥取市へ入る。宮本村は行きたそうな人もいたが、今回
		 はスケジュールがタイトなので割愛させていただいた。詳細は「歴史倶楽部」の以前の例会や、「城下町コーナ
		  ー」の「宮本武蔵の故郷」をご覧いただきたい。

 




		 仁風閣は1907年、旧鳥取藩主池田家の別邸として建てられたフレンチルネッサンス様式の洋館で、館内には鳥取藩
		 に関する資料などが展示されている。その背後は鳥取城跡である。鳥取城は戦国大名の山名氏が築いた城で、江戸
		 時代には池田氏12代の居城だった。今も残る山門や石垣などが往時を偲ばせている。






		 「鳥取県立鳥取博物館」は、久松山下鳥取城跡内に建っている。前回(50回例会)訪れたときは、発掘された
		 「青谷上寺地遺跡」の「弥生人の脳」展をやっていて大変な人出だった。それに時間がなく、「青谷上寺地遺跡
		 展」を見たらもう出発しなければならなかったので、いわば今回初めて見学するようなものである。この博物館
		 は、県民の教育及び文化の発展に寄与するための施設として昭和47年10月1日に開館した総合博物館である。




		 鳥取城は寛永9年(1632)から明治4年(1871)までの間、因幡・伯耆二国32万石を領有する鳥取藩
		 池田家の居城であった。鳥取城の成立起源はあまり明確ではない。江戸時代前期に小泉友賢が著述した『因幡民
		 談紀』には、天文14年(1545)に布施天神山城を居城とする因幡守護山名誠通が、但馬山名氏の勢力に対
		 抗するため出城として鳥取城を築いたのが最初である旨を記している。しかし小泉友賢の説には資料的裏付けは
		 ないようである。近年の研究では、鳥取城は天文12年(1543)ごろに、因幡守護山名氏と但馬守護山名氏
		 とが対立する状況の中で、但馬側勢力が布施天神山城を攻略するための拠点として築いたものであるという説も
		 ある。主要な城主の変動は次のとおりである。

		 武田高信    永禄・元亀年間(1558〜1572)
		 山名豊国    天正元年(1573)〜天正9年(1581)
		 宮部継潤・長房 天正9年(1581)〜慶長5年(1600)
		 池田長吉    慶長5年(1600)〜元和3年(1617)
		 池田光政    元和3年(1617)〜寛永9年(1632)
		 鳥取藩池田家  寛永9年以降

		 鳥取城諸郭の建物は明治12年、政府の指示で取り壊され現在のような姿となった。この城は戦乱の時代に戦闘
		 防備を重視した郭と、後になって城地を拡げ増改構築した郭が一体となって複合しており、中世遺構から近世遺
		 構への移行の経過を残している。






		 <天球丸跡>

		 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)
		 である。若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに奇寓し、この曲輪に造ら
		 れた居館に住んだことから名付けられたという。天球丸には、風呂屋御門と呼ばれる門、東側隅に建てられた三
		 層の櫓などがあったことが古絵図などから知られている。三層櫓は享保5年(1720)の大火(石黒火事)に
		 よって焼失し、その後は再建されることはなかったようである。幕末頃には、武術の稽古所、御蔵が建てられた
		 ことが記録に残されている。
		 平成2年からの石垣修理に伴う発掘調査で、古い石垣や石段、三層櫓や御蔵の礎石が発見された。現在地の地下
		 から発見された石垣、石段はこれまでその存在が知られていなかった遺構である。高さは約5メートルで、長吉
		 入城以前に構築された小規模な曲輪をめぐる石垣の一部である。その後、大規模な曲輪の拡張とともに、天球丸
		 の前身となるこの石垣は埋められ、現在に残る曲輪が造られたものと考えられる。発掘調査では、瓦、唐津焼、
		 伊万里焼等の陶磁器、釘、鎹、簪、煙管等の金属製品が出土した。また、少量ではあるが中国、朝鮮半島製の陶
		 磁器も発見されている。 

		 『鳥取城跡案内板』より




		 <鳥取県立博物館>

		 鳥取県立博物館は、県民の教育及び文化の発展に寄与するための施設として久松山下鳥取城跡内に設立され、
		 昭和47年10月1日に開館した総合博物館です。1階の「地学・生物」、「歴史・民俗」、「美術」の常設展示
		 では、3,000点余の資料により、郷土の自然と歴史や美術をわかりやすく紹介しています。また、特定のテー
		 マに基づいた特別展、催物展を各々年数回開催するほか、県内巡回展、講演会、講座、見学会などの教育普及
		 活動を実施しています。さらに、展示の解説書、年間の活動を紹介する年報、学芸員の研究成果を報告する研
		 究報告、館蔵品を紹介する所蔵資料目録及び冊子「郷土と博物館」などを出版し利用者の便に供しています。
		 <鳥取県立博物館のHPより>



 


		 1階のエントランスを入ると「地学・生物展示室」である。この展示室では、鳥取の自然の生いたちと現在の様
		 子が3千点余の資料により紹介されている。地学のコーナーには、鳥取県下の代表的な化石・岩石・鉱物が展示
		 ・解説されている。特に、ナウマンゾウの牙(キバ)や全身骨格などの標本は、3万年前ごろの山陰地方の様子を
		 考える上で貴重な資料である。また、人類の発生に関する頭蓋骨の変遷はなかなか面白い。







 



 


		 次に「歴史・民俗展示室」がある。この展示室では、およそ1万年前に、山陰人の祖先たちが大山のすそ野や砂
		 丘の一画で生活を始めて以来、現在までたどってきた生活の営みや歴史の歩みが紹介・展示されている。主な展
		 示品は、縄文時代・弥生時代の土器や石器、古墳におさめられた鏡・玉・埴輪、奈良時代の国庁や寺院からの出
		 土品、鎌倉・室町時代の絵図や古文書、江戸時代の鳥取藩主池田家の資料、年中行事や民俗芸能、あるいは庶民
		 の生活に使われたさまざまな民俗資料等等である。
































		 鳥取県の有名な二大弥生遺跡「青谷上寺地遺跡」と「妻木晩田遺跡」のコーナーも勿論ある。これらの遺跡の詳
		 細は「遺跡めぐり」コーナーを参照していただきたい。







 













 

 

 

 







 



















 



 

 

 

 



















 



 





















 

鳥取城模型




		 因伯三十二万石鳥取藩の藩祖池田光仲は、岡山藩主池田忠雄の長子として寛永七年(1630)、江戸藩邸で生まれ
		 た。母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮の娘三保姫(芳春院)であった。幼名を勝五郎といい、寛永九年(1632)父忠
		 雄の逝去により当時三歳で藩主の座についた。幼年の藩主であったが、家老らの運動と父忠雄が徳川家康の外孫
		 であることなどを訴えた幕府への働きかけが功を奏し、備前(岡山)から因幡・伯耆(鳥取)へ移るだけで藩は
		 存続し、この時、幕府は光仲の叔父にあたる松平(池田)石見守輝澄、右近太夫輝興の両名にその後見役を命じ、
		 岡山藩主で光仲のいとこにあたる池田光政にも後見を命じた。
		  寛永十五年(1638)将軍家光の前で元服し、名を光仲と改め、従四位下侍従に任じられ、相模守と称した。
		 江戸城内の将軍の前で元服の式がおこなわれ、官位と将軍の名の一字を賜る非常に名誉ある大名は、御三家の他、
		 加賀の前田家、薩摩の島津家、長州の毛利家など「殿上元服之家」十五家がある。その中に鳥取の池田家も含ま
		 れている。
		  光仲の正室は、紀州徳川頼宣の長女茶々姫(芳心院)である。正保二年(1645)、幕府の命により光仲に嫁ぐ
		 ことになった。こうして婚姻関係が出来たことにより、その後、鳥取池田家の婚姻は紀州家との間に多く成立し
		 ている。

		 光仲は幼くして藩主となったため、初期の藩政は、荒尾氏をはじめとする家老を中心とする家老政治であった。
		 成長して後は、これを改め、承応元年(1652)には、当時権力を握っていた首席家老荒尾但馬守成利(米子荒尾
		 氏)を責問十余条を挙げて罷免している。以後、光仲の代には藩主の親政が徹底したという。藩祖としての光仲
		 の逸話は数多いが、学問よりも武芸を好み、性格的には厳正寡黙な人であったらしく、寵臣和田三信でも光仲の
		 前に出ると「厳冬でも背に汗した」という。家臣と衝突することもあったが、常に政治には熱心で、藩主の座を
		 綱清に譲って隠居した後も藩政の舵取りに携わったという。元祿六年(1693)七月光仲が卒中で逝去し、鳥取藩
		 は翌年、興禅寺(黄檗宗)を菩提寺とした。光仲六四歳、法号を興禅院殿俊翁義剛という。



博物館のお姉ちゃんに教えてもらって、車でしばらく行った港の側のお店で海鮮丼で昼食をとる。うまかった。




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