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大阪本町・歴史倶楽部 第240回例会 京都・嵐電沿線を歩く 2020.2.1(土)



阪急京都線「四条大宮駅」に集合して、嵐電「大宮駅」前にて集合写真。何やら中国の武漢から怪しいウィルスが飛んできたという ので全員マスク姿で集合。河内さんは、コンビニへ行ったがマスクは売り切れだったそうだ。この時は、まさかこのウィルスがあん な大騒動を引き起こすとは思いもしなかった。(このHPは、2020.4.10に制作しました。この時点で武漢熱による死者119人。)



かどかわ氏が当選したようだ。ま、関係ないけどね。
     蚕ノ社 (かいこのやしろ) 木嶋坐天照御魂神社  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(以下、青字は全部) 木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ、木島坐天照御魂神社)は京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある神社。 式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」や「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」 とも。古くから祈雨の神として信仰された神社であり、境内には珍しい三柱鳥居があることで知られる。
『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。同帳では「木嶋坐天照御魂神社」と記載されるが、この社名は「木嶋(地名)に鎮座す る「天照御魂神の社」という意味であるため、本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)」を祀った神 社とされる。神名帳では、山城国の木嶋社のほかにも大和国・摂津国・丹波国・播磨国・対馬国などに天照御魂神・天照神・天照玉神 を祀る祠の存在が見られるが、これらは天照大神(皇祖神)とは別の神格の太陽神と考えられている。
木嶋社の天照御魂神の神格について、史料上では天照国照天火明命(天火明命)説・天照大神説・天日神命説などが見られる。上記の 天照御魂神・天照神・天照玉神を社名とする神社の多くでは現在の祭神が天火明命(尾張氏祖神)とされることに基づき、これらの神 を特に尾張氏の奉斎神とする説があり、その説の中で木嶋社の地には元々尾張氏系の人々がいて天照御魂神を奉斎していたが、秦氏の 渡来・開拓とともにその在地系祭祀が継承されたと説明される。一方、木嶋社境内の三柱鳥居の方位が稲荷山・松尾山の冬至線、比叡 山四明岳・愛宕山の夏至線に関係すると見て、境内の元糺の池に日が差すという構造から、朝鮮半島の日光感精型の信仰に基づく半島 系の太陽神(日の御子)とする説もある。そのほか「ミムスビ」という神名から、境内の湧水によって穀物を生成するムスヒの神とす る説もある。 このように古代の祭神の神格は不詳ながら、明治16年(1883年)の『葛野郡神社明細帳』では上記5柱の神名が記載されており、これ らが現在まで継承されている。
創建は不詳。一説に、推古天皇12年(604年)に広隆寺創建に伴い勧請されたともいわれる。史料からは大宝元年(701年)の記事以前 の祭祀の存在が認められている。前述(「祭神」節)のように祭祀の淵源には諸説があるが、嵯峨野・太秦周辺は渡来系氏族の秦氏が 開拓した地で、広隆寺・松尾大社・蛇塚古墳などの関係寺社・史跡が知られることから、木嶋社もまた秦氏ゆかりの神社といわれる。 また現在本殿の東隣に鎮座する蚕養神社は、この秦氏が招来した養蚕・機織・染色技術に因むと推測される。ただし秦氏の渡来以前に も、木嶋社付近では和泉式部町遺跡などの弥生時代頃からの集住を表す遺跡の存在が知られている。
国史での初見は『続日本紀』大宝元年( 701年)条で、山背国葛野郡の「木島神」のほか月読神・樺井神・波都賀志神の神稲を同年以 後は中臣氏に給すると見える。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒によれば、当時の「許志摩神」には神戸として山城国から9戸が 充てられていた。続けて国史では、天安3年( 859年)1月には「木島天照御魂神」の神階が正五位下に昇叙された旨や、同年(貞観 元年)9月・貞観17年(875年)7月・元慶元年(877年)6月には雨乞のための奉幣、貞観17年8月には秋稔のための奉幣が遣わされた旨 が記されているほか、元慶元年4月条にも記載が見える。
元糺の池と三柱鳥居 境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する神泉があり、現在は涸れているがかつては湧水が豊富であったといい、 現在も夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとして信仰されている。伝承では木嶋社の社叢を「元糺の森」、神泉を 「元糺の池」と称し、下鴨神社の森が「糺の森」と呼ばれるようになる以前、元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれていたとす る。 この元糺の池の中には三柱鳥居(みはしらとりい、三ツ鳥居/三面鳥居/三角鳥居)が建てられている。これは柱3本を三角形に組み、 3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居で、「京都三鳥居」の1つに数えられる。中央の神座は、円錐形に小 石を積み、中心に御幣を立てて依代としたものである。この鳥居の起源等は詳らかでなく、秦氏の聖地である双ヶ丘・松尾山(松尾 大社神体山)・稲荷山(伏見稲荷大社神体山)の遥拝方位を表したとする説などがある。現在の鳥居は天保2年(1831年)の再興で あるが(社伝では享保年間(1716年−1735年)の修復)、安永9年(1780年)の『都名所図会』では豊かな湧水とともに現在に見る のと同じ三柱鳥居の様子が描かれている。平成14年(2002年)の発掘調査によって、かつては本殿東側の各所にも泉のあったことが 判明しており、元糺の池もそのような泉の1つが神聖化されたものと考えられている。この発掘調査では、少なくとも平安時代中期 頃に遡る、泉に伴う石敷遺構が出土ている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国葛野郡に「木島坐天照御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗」として、名神大社に列 するとともに朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛に預かった旨が記載されている。社名の読みは吉田家本で「アマテラスミムス ヒ」、金剛寺本で「アマテルミムスヒ」と振られるが、後世の『神名帳考証』・『神祇志料』・『神社覈録』では「アマテルミタマ」 とする。『延喜式』では、ほかに四時祭下 相嘗祭条、臨時祭 祈雨祭条、臨時祭 名神祭条においてもそれぞれ木嶋社の記載がある。
広隆寺の縁起である『広隆寺来由記』(山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記、明応8年(1499年)成立)では、貞観年間(859年− 877年)に僧の道昌が勅命により「木島名神」の池水に祈雨のため加持を行なった旨や、祈雨の神として崇敬されたことで神階が順次 昇叙され長久4年(1043年)に正一位の極位に達した旨が記載されているほか、延喜年間に広隆寺に勧請された鎮守38所のうちで「木 島 女。正一位」と女神として記載されている。平安時代末期の『梁塵秘抄』では、木嶋社が伏見稲荷大社や石清水八幡宮と並んで参 拝者が絶えず賑わった神社として歌われている。
鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱では、『吾妻鏡』において後鳥羽上皇側の三浦胤義父子が「西山木嶋」で自殺したと見える が、これは当地に比定される。『承久記』によれば、胤義は「子の嶋と云ふ社」に隠れていたが末路を悟って自害し、郎従が社に火を かけたという。近年の境内発掘調査では、この焼失後の社殿再興時のものと見られる鎌倉時代前期頃の整地の跡が認められている。 その後は江戸時代頃まで文献に記載が見られず、変遷は不詳。安永9年(1780年)の『都名所図会』では当時の境内の様子が描かれて いる。明治維新後、明治6年(1873年)6月に近代社格制度において郷社に列した。昭和60年(1985年)に境内は京都市指定史跡に指定 された。平成14年(2002年)には、境内北東隅における消防用防火槽設置に伴い、史跡としての発掘調査が初めて実施されている。
境内は御室川右岸の低位段丘面上の東端にあり、双ヶ丘(双ヶ岡)の真南、広隆寺の真東に位置する。鳥居は、広隆寺の南門のほぼ 真東にある。木嶋社は、その存在が文献上では古く大宝元年(701年)に見え、京都市内でも最古の神社の1つに位置づけられる。 元糺の池の存在から文献上での祈雨記事との関連性がうかがえるほか、蚕養神社の存在から秦氏との関連性が見られ、また巨樹の社 叢から古来の姿がうかがえることから、境内は京都の歴史上重要な遺跡であるとして京都市指定史跡に指定されている。社殿はいず れも明治以降の再興。本殿は境内の中央北寄りの、やや高所に建てられている。本殿の東側には蚕養神社(こかいじんじゃ、東本殿) が鎮座し、「蚕の社」の通称は同社に由来する。これらの前に拝所・拝殿がある。

     広隆寺 
広隆寺  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 広隆寺(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)秦 公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であ り、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもあ る。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、不定期開催となっている。
広隆寺は、東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都 市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力で ある。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子 信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺 (広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。
『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年( 818年)の火災で古記録を失った こともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。 秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の人々といわれ、朝鮮半島を経由し日本に渡来したという。葛野郡(現・京都市右京区南 部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神 社(の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺 近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
『書紀』によれば、推古天皇11年( 603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」 と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年( 838年)成立の『広隆寺縁 起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年 に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これ については、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の 寺院が後に合併したとする解釈とがある。
蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとあ る。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺) の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。
踊っているように歩いてくる乾さんと柳谷さん。なんか嬉しいことがあったかな? なお、『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年( 604年)、聖徳 太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたとい う。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。河勝の案内で太子が葛 野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。 太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん、後述)の由来と 関連して取り上げられる。
弥勒菩薩像の由来 広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する二体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥 勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いものである。一方の宝髻弥勒像は飛 鳥時代木彫像で一般に使われるクスノキ材である。 前述のとおり、『書紀』に推古天皇11年( 603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されているが、『書紀』には「尊 仏像」とあるのみで「弥勒」とは記されておらず、この「尊仏像」が上記2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証はない。
このほか、後の記録であるが、『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像 が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、『書紀』には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年 とする)、新羅と任那の使いが来日し、請来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像 が上記二体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。なお、広隆寺の本尊は平安遷都前後を境に弥勒菩薩から薬 師如来に代わっており、縁起によれば延暦16年(797年)、山城国乙訓郡(おとくにのこおり)から向日明神(むこうみょうじん)由 来の「霊験薬師仏壇像」を迎えて本尊としたという。現在、寺にある薬師如来立像(重要文化財、秘仏)は、弘仁9年(818年)の火 災後の再興像と推定される。通常の薬師如来像とは異なり、吉祥天の姿に表された異形像である。
平安時代以降 広隆寺は弘仁9年(818年)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌 (空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。その後、久安6年(1150年)にも火災で全焼したが、 この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は、中世以降の改 造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。
寺には貞観15年(873年)成立の『広隆寺縁起資財帳』と、寛平2年(890年)頃の『広隆寺資財交替実録帳』(ともに国宝)が伝わり、9 世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。『実録帳』は、『資財帳』の記載事項を十数年後に点検し、 異動を記したものである。『資財帳』は巻頭の数十行が欠失しているが、『実録帳』の記載によってその欠落部分を補うことができる。



京都風ラーメンとあったので頼んだが、なんかあまり旨くなかった。
     仁和寺 
仁和寺  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者) は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。 皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新 以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。 御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。『徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」の話 は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道「御室流」の家元でもある。

普段は境内への入場は無料であり、御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、 その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。宿坊で宿泊客を受け入れている。御室会館のほか、「松林庵」(しょうりんあん) を改修して高級宿坊としている。

仁和寺は平安時代後期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められた。光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、遺志を引き継 いだ宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて年号をとって仁和寺と号した。 宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室(仁和寺)御所」の別称がある。 仁和寺の初代別当は天台宗の幽仙であったが、宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家したのを機に、別当を同じ真言宗の観賢に交替 させて真言宗の寺院として定着。その後は宇多天皇の子孫が別当を務めてきた。11世紀に三条天皇の皇子である性信が別当の上に新設さ れた検校に任じられて以降は、皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。


なお「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。 仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め(最後の皇族 出身の門跡は伏見宮純仁法親王、後の小松宮彰仁親王)、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。非皇族で仁和寺門跡になった 人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の二名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せら れるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。






室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年−1477年)で伽藍は全焼した。応仁の乱の最中、本尊の阿弥陀三尊像は持ち出され、焼失を 免れた。仁和寺が本尊と共に、双ヶ丘の西麓へ移された時期があった。近世になって、寛永年間(1624年−1644年)、徳川幕府により伽 藍が整備された。また、寛永年間の皇居(現・京都御所)建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、 境内に移築されている(現在の金堂は旧紫宸殿)。この江戸期の再建に際しては、門跡補佐の僧・顕證が尽力した。仁和寺で使われてい る軒丸瓦(仁和寺の寺号入り)のデザイン、再建される伽藍の配置構想や金堂に祀る仏尊の選定を行った。 仁和寺霊宝館に顕証上人像が 収蔵されているが、小さく、衣体も顕證が普段に使っている袈裟を身に付けているという。 また、経典・密教経典の儀軌などの聖教、仁和寺に伝わる古文書の管理・収蔵のために経蔵の建立を発願し、完成させた。



第二次世界大戦終盤、日本の敗戦が濃厚となったため、昭和20年(1945年)1月20日以降、数度にわたり、近衛文麿が仁和寺を訪れ、昭 和天皇が仁和寺で出家する計画について当時の門跡と話し合い、出家後の居所などを検討した。1月26日、近衛文麿の別荘において、近 衛文麿と昭和天皇の弟宮との間で、昭和天皇の出家について会談がもたれた。霊明殿に掲げられている扁額「霊明殿」の文字は、昭和 20年、近衛文麿が仁和寺を訪れた際に揮毫した絶筆である。


          

     妙心寺 
妙心寺  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立 者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、 約 3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一 大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。 京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とが あった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺(龍寶山大コ禪寺)ととも に、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。
平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武二年(1335年)落飾 して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であ った。宗峰は建武四年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたとこ ろ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、都に戻るこ とを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山 となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた 「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。
関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺 筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他、ほとんど残されていない。 妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇し ている。なお、この初祖から六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代として は日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。
妙心寺 6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを 買った。応永六年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮 院に幽閉の身となった。義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めた。 こうして妙心寺は一時中絶することとなった。 妙心寺が復活するのは永享4年(1432年)のことである。同年、廷用は微笑塔(開山関山慧 玄の塔所)の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、犬山青龍山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて 妙心寺を復興させた。このため日峰は妙心寺中興の祖とされている。
妙心寺は応仁の乱(1467年 ? 1477年)で伽藍を焼失したが六祖雪江宗深の尽力により復興する。雪江宗深は住持の期間を3年と定め、その 4人の法嗣、景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑および東陽英朝は師亡き後交代で妙心寺の住持を務めてそれぞれ妙心寺四派の龍泉派、東海派、 霊雲派及び聖澤派の祖となった。各々の派は現在まで続いており、妙心寺派の寺院は全て四派のいずれかに属している。永正六年(1509年)、 後柏原天皇から紫衣勅許の綸旨を得る。この勅許状には大徳寺と位が等しい旨が記されており、これをもって妙心寺は大徳寺から独立した とみなされている。12月には悟渓宗頓に帰依していた利貞尼が仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、境内が拡張された。利貞尼は関 白一条兼良女、美濃加納城主斎藤利国の室である。永禄年間希菴玄密により、住持の期間が3年から一年に改められる。天正6年(1578年) には南化玄興や快川紹喜、虎哉宗乙ら三十六師連名で妙心寺壁書(規則)を定めた。また妙心寺住職の妹の慈徳院が織田信長の嫡男・織田 信忠の乳母となり、その後に信長の側室になり、娘の三の丸殿(豊臣秀吉の側室)を儲けた。本能寺の変で織田信長が討たれると、信長の 妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った。
その後の妙心寺は戦国武将などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の嫡男の石田重家は妙心寺 に入って出家し、命を助けられた。江戸時代に隠元隆gが訪日すると、龍渓性潜らが臨済宗の正統を継ぐ師の到来として妙心寺へ迎えよう としたが、当時の重鎮愚堂東寔によってその案は峻拒された。明治四年(1871年)に管長職を設け、名古屋徳源寺の鰲巓道契が妙心寺派初 代管長となっている。
     龍安寺  龍安寺  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺との関係が深く山内塔頭と同様の扱いを受けている。 山号は大雲山と号し、石庭で知られる。本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の 文化財」として世界遺産に登録されている。


「石庭」として知られる枯山水の方丈庭園で有名な龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝 徳二年(1450年)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺一円は、永観元年( 984年)に建立された円融天皇の御願寺である 円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地に山荘を建立した。この山荘を 細川勝元が譲り受け寺地とし、初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧 請し、自らは創建開山となった。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。


龍安寺は、開基細川勝元らと守護大名山名持豊(宗全)らが争った応仁の乱(1467−1477年)によって焼失するが、勝元の子の細川政元と 4世住持・特芳禅傑によって、明応8年(1499年)に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、織田信長、豊臣秀吉らから 寺領を付与されている。

絵入りの名所案内書(現代の旅行ガイドブックに相当)である『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)を見ると、当時、龍安寺の鏡容 池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名であった。 寛政9年(1797年) に京都奉行所へ提出された古地図には23か寺の塔頭があったが、寛政9年(1797年)の火災で方丈、仏殿など主要伽藍が焼失したため、塔 頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)とし、現在にいたっている。その後、明治初期の廃仏毀釈によって衰退した。
1951年7月11日、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊。濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出た。 1975年、イギリスの エリザベス2世が日本を公式訪問した際、龍安寺の拝観を希望し、石庭を絶賛したことが海外のマスコミでも報道された。そのため、昨今 では世界各地での日本のZEN(禅)ブームと相俟って、世界的にも知られるようになった。           

方丈庭園(石庭) 方丈庭園(史跡・特別名勝) - いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。幅 25 メー トル、奥行 10 メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は 3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2 石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。寺伝では、室町末期(1500年頃)特芳禅傑らの優 れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。塀ぎわの細長い石には「小太郎・ □二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが、憶測の域をでるものではない。
この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。「虎の子渡し」とは、虎は、三匹の子供がいると、そのうち1匹 は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎は三匹の虎を連れて大河を渡 る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った二匹のうち一匹を連れて 向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、三匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時 点で元の岸にはどう猛な子1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る、という中国の説話(虎、彪を引いて水を 渡る)に基づくものである。


また、「七五三の庭」とは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群 とも見られることによる。古来より奇数は陽数、すなわちおめでたい数とされ、その真ん中の数字をとったものである。 この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることや、これらの石は全て戦国武将の織田信定が 運んだことでも有名である[7]。どこから鑑賞しても庭石が14個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計 されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。






鏡容池 寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる(国の名勝)。境内北 側には庫裡、方丈、仏殿などが建ち、これらの西側には「西の庭」がある。西の庭には開基細川勝元の木像を祀る細川廟がある。有名な石 庭は方丈南側にある。なお、寺の背後には第66代一条天皇を含め5人の天皇の陵墓がある。
     等持院 
等持院  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 等持院(とうじいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は萬年山。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても 知られる。 尊氏は暦応4年(1341年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その二年後の康永2年(1343年)、現在の京都市北区等持 院北町に別院北等持寺を建立したとされている。ところが、柳馬場にあったとされる等持寺建立に関する異説として暦応元年(1338年)頃に 尊氏の弟である足利直義が古先印元を開山として建立したとする説が出されている。
これは、南北朝時代の公家の日記である『師守記』(暦応2年9月1日条)には武衛(左兵衛督=足利直義)が坊門三条殿の等持院で父足利 貞氏追善の法華八講を主催したことが記されていることによる。ここに登場する等持院は後の等持寺のことで、その隣地には直義の三条坊門 殿があり、等持院も元は直義が一門のために建てた持仏堂であったと推定する考えである。康永元年(1342年)頃に等持院が諸山に叙せられ た際に寺号も等持寺と定められたという。 また法勝寺の恵鎮(円観)が等持寺にて足利直義に『太平記』を見せられたという逸話(『難太平記』)も当時の等持寺が直義ゆかりの寺院 であったと示すとされている。なお、後に直義は観応の擾乱によって滅亡し、坊門三条殿は尊氏の嫡男足利義詮の邸宅になり、等持寺も義詮 が管理するところとなった。直義建立説によれば、一連の戦乱で等持寺も大きな被害を受けたために尊氏は同寺を足利氏の菩提寺に相応しい ものに改築を行っているが、その際に寺伝を改竄して開山を夢窓疎石とするとともに、等持寺建立における直義と古先印元の事績を抹殺した としている。
何故ここにマキノ省三の像があるのだろう。
尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院 だった現在の等持院が本寺になった。作家の水上勉は相国寺瑞春院を13歳で脱走後、17歳まで小坊主としてこの寺に寄宿していた。その当時 の住職は栂道節で、京都商業学校(現京都学園高等学校)野球部にいた沢村栄治を東京巨人軍専務取締役市岡忠男に紹介した。



          



  二條天皇陵      【第78代 二条(にじょう)天皇】 {邪馬台国大研究「天皇陵巡り」より転載} 別名: 守仁(もりひと) 生没年:庚治2年(1143)〜 永万元年(1165)(23才) 在位: 保元3年(1158)〜 永万元年(1165) 父:  後白河天皇 第1皇子 母:  藤原懿子(よしこ:藤原経実の娘、源有仁の養女) 皇后: 貞子内親王、藤原育子 皇妃: 伊岐致遠の娘、藤原多子、伊岐氏、中原氏、源氏 皇子女:順仁親王(六条天皇)、君子内親王、尊恵 皇居: 平安京( へいあんきょう:京都府京都市) 御陵: 香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ:京都府京都市北区平野八丁柳町) 「院政」の権化、白河法王が崩御してから10年後に、鳥羽上皇と美福門院得子に一子が誕生した。躰仁(なりひと)親王である。我が子を 皇位に着けたい一心の鳥羽上皇は、崇徳天皇に譲位を求め、誕生したのが近衛天皇である。若干3歳であった。だが近衛天皇が17歳で崩 御してしまい、鳥羽上皇と美福門院の間には近衛天皇しかおらず、雅仁親王にはやや問題がある。となれば、通常なら崇徳上皇の子「重仁 親王」に皇位が廻るはずであるが、崇徳が憎くてたまらない鳥羽法皇は、問題ありの雅仁親王に後を継がせた。後白河天皇である。 鳥羽法皇の第4皇子雅仁親王は、若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」「文にも非ず・武にも非ず」などと評され、 天皇としての器量には欠ける人物と見なされていた。しかし、近衛天皇の没後、適当な皇位継承者が見つからず、後白河天皇はその子守仁 親王(二条天皇)への中継ぎとして保元元年(1155)、第77代天皇として即位することになった。崇徳上皇の系統は徹底的に排除しよう としたのだ。「保元の乱」は、この後白河天皇の即位に反対する崇徳上皇側の不満が原因となって勃発したのである。鳥羽上皇が崩御する と崇徳院はただちに保元の乱を引き起こすが、その辺りの事情については、先代までの項を参照されたい。
二条天皇。高倉天皇の異母兄。鳥羽天皇の皇后美福門院得子(なりこ)に養育される。久寿二年(1155)、後白河天皇の皇太子となる。保元三 年(1158)8月、保元の乱に勝利した後白河天皇は、15才の二条天皇へ譲位する。和歌を好み、内裏で百首歌や歌会をしばしば催した。 平治元年(1159)、藤原清輔より『袋草紙』を献上される。清輔に詞花集に次ぐ勅撰集『続詞花集』の撰進を命じたが、完成を見ることはな く崩御した。 二条天皇の御代平治元年(1159)12月、「平治の乱」が勃発し、藤原信頼・源義朝らにより後白河上皇とともに幽閉されるが、平清盛の六 波羅邸に逃れ、得子の八条室町邸に入った。平治の乱を平定した平清盛は、翌永暦元年(1160)正三位の参議となり、武士としては初めて 公卿の列に加わる。また、長寛2年(1164)には、平清盛は安芸の国厳島神社に平家納経を奉納し、同年後白河上皇のために京都東山に蓮 華王院(三十三間堂)を造営した。 乱後、二条天皇は近衛天皇の后であった太皇太后宮多子(まさるこ)を后に迎える。後白河上皇は、譲位後も院政を行い、政治の実権を握り 続けた。親政をめざした二条天皇は、父後白河院と対立、関白基実・太政大臣藤原伊通を重用した。しかし上皇の権力は大きく、結局二条 ・六条・高倉と三代の天皇の御代に渡って君臨し、二条、六条両天皇自らは院政を行うこともなく、後白河上皇の思いのままであった。 遊芸の皇子の次に院政を行うのは高倉上皇である。後白河という人は「非文非武」などではなく、結構非常に老練な人物だったのかもしれ ない。二条天皇は長寛二年(1164)、待望の皇子(のちの六条天皇)を得たが、翌年の永万元年(1165)6月病により譲位、2歳の六条天皇が即 位した。翌月、23歳で崩御した。
【平治の乱】 保元の乱勝利者側に源義朝がいたが、恩賞が少なすぎたのに加え、平清盛に比べて不公平だったのと、保元の乱で敗者となった父源為義の 助命嘆願が聞き入れられなかった事を理由に、藤原信頼らと挙兵した事件。 保元4年(1159)12月4日、平清盛一族は熊野詣での旅に出発した。挙兵の機会を窺っていた藤原信頼と源義朝は、9日夜半御所を襲って火を 放ち、後白河上皇を幽閉し内裏を制圧して二条天皇をも軟禁した。保元の乱後政権を専横していた藤原通憲(信西)は、都を逃げ出したが、 追っ手に迫られ田原の山中で自害した。信西の子息の藤原俊憲・貞憲・成範らは皆配流された。 この段階では信頼・義朝の反信西クーデターは成功したかに見えたが、平清盛ら平家一族は急遽都に引き返し、16日夜半には六波羅邸に入 った。清盛はクーデターに屈服した風を装って油断させ、25日に二条天皇を内裏から六波羅邸に迎えることに成功する。状況は一変し、清 盛は信頼・義朝追討の勅宣を得て、朝敵となった義朝らの軍兵が占拠する内裏に攻撃をかけた。前年信西が復興したばかりの内裏を、源氏 の白旗と平家の赤旗が討ち乱れて駆けめぐったのである。平家三千騎、源氏八百騎と言う戦力の差に加えて、追討宣旨を奉じて意気の揚が る平家に対して源氏の士気は揚がらず惨敗する。義朝は再起を図って東国に落ちる途中、尾張国で刺殺された。保元の乱で一度打撃を受け た源氏は、平治の乱では壊滅状態に陥る。片や平家は、この後しばらく我が世の春を謳歌するのであるが、やがて源氏の巻き返しに合い、 その平家も壇ノ浦で滅亡する。
     平野神社  国史では、田村後宮の今木神が延暦元年(782年)に従四位上の神階を奉叙された記事が初見で、平安京遷都以後各神への神階奉叙の記事 が散見される。神階は830年代から急速に上昇し、最終的な神階として貞観5年(863年)に久度・古開神は正三位、比売神は従四位上に昇 り、貞観6年(864年)に今木神は正一位の極位に達した。以上の記事のうちでは、平野社を「平野神宮」とする表現も見られる。 また『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒には「平野 十戸山城国」として、同年における神封の存在が記されている。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国葛野郡に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに 月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には二十二社の1つとして上七社の5番目 に列している。この時期には、平野神社の例祭である平野祭では皇太子からの奉幣を受けるという特別な位置づけに置かれたほか、臨時祭 に際しても勅祭に預かっていた。  
平野神社  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(以下、青字部分は全て。) 平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都府京都市北区平野宮本町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格 は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「桜」。 京都市北部、平安京大内裏(平安宮)から北方の平野の地に鎮座する神社である。平安京遷都頃まで創建が遡るとされる神社で、近年の 研究によると、元々は桓武天皇生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に 伴って大内裏近くに移し祀られたことに始まると推測されている。古代には皇太子守護の性格を持ち、平安時代には例祭「平野祭」にお いて皇太子自らにより奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から氏神として歴史的に崇敬された神社としても知られる。 現在の本殿は4殿2棟からなり、いずれも「平野造」とも称される独特の形式の造りで、国の重要文化財に指定されている。そのほかに拝 殿・中門・南門・摂社縣神社は、京都府から文化財指定・登録を受けている。境内は桜の名所として知られ、夜桜の様子は「平野の夜桜」 と称されることで知られる。
祭神 現在の祭神は次の4柱。一番北の第一殿から順に1殿1柱ずつ祀られている。 第一殿:今木皇大神(いまきのすめおおかみ、今木神) - 主神。 第二殿:久度大神(くどのおおかみ、久度神) 第三殿:古開大神(ふるあきのおおかみ、古開神) 第四殿:比売大神(ひめのおおかみ、比売神/比盗_) 平野神社の祭神について、『延喜式』神名帳では「平野祭神四社」として、4座から成る旨が記載されている。国史によれば、それら4座 の神々は今木神・久度神・古開神(古関神)・比売神という独特な神々である。これらのうち今木神が主神になる。『貞観式』(『本朝 月令』所引)によれば、平野社の祭神は当初は今木神・久度神・古開神の3神であったが、のちに相殿に比売神が加えられ4神になったと いう。「平野神」の呼称自体は、元々は主神の今木神のみを指す意味であったが、のちに祭神4神の総称としての使用にも変化している。 祭神は、古代には皇太子守護の性格を持ったほか、源氏・平氏・高階氏・大江氏のほか中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神とし て崇敬されており、「八姓の祖神」と称されたという。 祭神の元々の神格・由来に関しては古来諸説があり、大別すると桓武天皇生母の高野新笠の祖神とする説、竈神とする説、今木・久度・ 古開・比売神をそれぞれ源氏・平氏・高階氏・大江氏の祖神とする説がある。 祭神のうち主神の今木神は、元々は高野新笠(桓武天皇生母)の祖神として大和国において祀られた神と見られ、延暦元年( 782年)時 点では平城京の田村後宮で祀られていたことが知られる。桓武天皇による平安京遷都に伴って、この今木神が大内裏近くに移し祀られた のが平野神社の創建になるとされる。  
平野神社の創建について、『一代要記』では延暦13年(794年)、『諸神記』では延暦4年(785年)、『江家次第』では延暦年中、『本朝 月令』では延暦年中、『伊呂波字類抄』では延暦年中と記載する。公式の文献としては、貞観14年(872年)の太政官符では延暦年中の創 建の記載が、次いで延暦20年(801年)の官符では平野祭の記載があり、やはり延暦頃の鎮座が確認される。いずれにしても、一般的には、 平安京遷都から遠くない時期に創建されたものと考えられている。
平野神社は古くは平氏・源氏・高階氏・清原氏・中原氏・大江氏・菅原氏・秋篠氏といった臣籍降下氏族・土師氏系氏族から氏神として崇 敬され、平氏とは特に強い結びつきにあったという。その後天元4年(981年)には円融天皇の行幸があり、以後も天皇の行幸が度々行われ た。なおこの円融天皇行幸の記事によると、平野社の神宮寺としては「施無畏寺」があったという。 中世以降は荒廃したが、近世に入り寛永年間(1624年-1644年)には西洞院時慶によって再興が図られ、現在の本殿が造営された。近世の 社領は100石であった。明治維新後、明治4年(1871年)5月に近代社格制度において官幣大社に列した。戦後は神社本庁の別表神社に列し ている。
     北野天満宮 
北野天満宮  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、 現在は神社本庁の別表神社。神紋は「星梅鉢紋」。通称として天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮ととも に天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。
右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言にあって左遷され、延喜3年(903年)に大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。 これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復 し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の 神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日( 947年)、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観 音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(藤原時平の甥であるが、壮 大な社殿に作り直されたという。


白梅と石の臥牛像 北野天満宮や菅原道真は、梅および牛との関係が深い。 東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな  −?菅原道真、拾遺和歌集 道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に上記の和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来 したという飛梅伝説ができたことから梅が神紋となり、約2万坪の敷地には50種1500本の梅が植えられている。 このような菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる 2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供(ばいかのごく)」とよばれる特殊 神饌が献供されている。これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新 暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされている。なお、2012年現在では梅花祭における菜種は、 神職が身に付け奉仕を行うという形で残されている。この神饌では白梅と紅梅を男と女に見立て、土器の上に仙花紙を筒状に丸めて乗せ、 玄米を流し入れた土台にそれぞれの梅の枝が挿し込まれ奉げられる。白梅を挿したものが42個作られこれを「男の御供」、紅梅を挿した ものを33個作り、「女の御供」と呼んでいる。また、菅原道真が大宰府へ流された際に帯同した従者が薨去以後遺品を京都へ持ち帰り、 鎮魂のために毎年収穫された米を奉げていたという伝承に基づき、大判御供、小判御供という形で現代においても神事が受け継がれてお り、その従者達の末裔である七保会の面々によって御調が行われている。くわえて、この梅花祭は全国でも珍しく、貞明皇后参拝の古例 に従って、天皇からでなく皇后から幣帛料が上げられている。 牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の 丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」 など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にち なみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神 とする護王神社や和気神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。

永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。正暦4年(993年)5月20日には正一位・ 左大臣を、次いで10月20日には太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。以来、北野天満宮 は幕末の神仏分離令まで三院家(松梅院など)の社僧が、代々神官を務めた。

中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の 独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に幕府軍の攻撃を受けて北野社は焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側には史跡「御土居」がある。慶長12年 (1607年)には豊臣秀頼が片桐且元を奉行として現在の壮麗な社殿を造営している。
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。 1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ 勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理(国家神道)を脱したあとである。
1998年(平成10年)に宝物殿の屋根が補修された。これにより柔らかい緑青の荘厳な屋根となったが、チタン製屋根が採用されており、 最新技術を伝統建築に採用された代表例となっている(新日鐵住金TranTixxii)。
この後大宮へ出て反省会。皆様お疲れさまでした。電車で移動したとは言え、よく歩きましたねぇ。世界では武漢熱が猛威を ふるっていますが、負けずに乗り切って、頑張りましょう。また次回も宜しくお願いします。
邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第237回例会・嵐電沿線を歩く