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大阪本町・歴史倶楽部 第239回 納会例会 師走の二条城を歩く 2019.12.29(日)
上記のタイトルには「第238回例会」となっているが、239回の誤りである。私が参加していない237回例会を、一回ぬかしていた。 二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代に造営された日本の城である。正式名称は元離宮 二条城(もとりきゅうにじょうじょう)。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、 現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全 体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸 御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」と して登録されている。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。また、後の近代におい ては大正天皇即位の儀式である即位礼の饗宴場として使用された場所となった。
私は地図で見てJR二条駅から近いなと判断したのだが、歩いたら20分くらいかかった。集合時間に遅れてしまった。後の3人は唐門の前 で待っていた。今回の例会は参加者が少なく同年の4人だけだった。


な、なんと、二条城は今日から年末閉館になっていた。事前に調べてこなかったのがまた災いした。しかし今回は周辺を中心に巡ろうと 計画していたので、ま、それはそれでもいいのだが、しかし残念だ。年末なら見物客も少なかろうと計画したのだが、閉館とはなぁ。









二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師に よって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが、証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都で なぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作った のは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。


将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍 が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。



外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年(大正4年)に大正天皇の大典に備え新たに造られたも ので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用され ていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と 南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。 なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられ た。行幸後には再び櫓門に戻された。
二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。 東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分 が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。 家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。 そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる 聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様 子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。
縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル 四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門に よって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、 本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が 第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けら れ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の 様子はよくわからない。


     神泉苑 神泉苑 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(以下、青字はすべて) 神泉苑(しんせんえん)は、京都市中京区にある東寺真言宗の寺院。本尊は聖観音・不動明王・弘法大師。二条城の南に位置し、元は平安 京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。境内に「恵方社」として「大歳神:歳徳神(としとくじん)」を祀るが 毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる(日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる 祀り方であると伝えられる)。

延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京 都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240 メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。

史料に初めてその名が見られるのは『日本紀略』の記事であり、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容で ある。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。また、『日本後 紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812年)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとあり、これが記録に残る花見の初出と考えられて いる。

季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺 の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝った。また空海以降も密教僧による雨乞いが何度も 行われている。

貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。貞観11年(869年)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社 の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。尚、現在 でも京都を中心に祭典時に鉾を立てる神社が幾つか存在する。この鉾は剣鉾(けんぼこ)と言う。

中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模 を縮小した。神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。

筑紫の僧覚雅(快雅)が朝廷の許しを得て慶長12年(1607年)より元和年間(1615〜1624年)に掛けて復興を図った。弘法大師との縁に よりこの時より東寺真言宗の寺院(寺領四十石)となった。都名所図会で紹介される神泉苑は覚雅(快雅)による復興後である。神泉苑 の境内には弁財天も祀られているが貞享2年(1685年)の京都案内誌「京羽二重」(水雲堂狐松子著)の中では弁財天廿九ヶ所の霊場の ひとつとなっている。

天明8年(1783年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。昭和10年(1935年)に国から文化財として「史跡」に指定される。 平成26年(2014年)には善女竜王勧請1200年記念事業として法成池の水を55年振りに抜いて善女竜王社本殿等の解体・修復を行っている。
伝承では源義経と静御前が出会った場と言われ、また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの 説もある(異説あり)。二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑がある。これは京都市営地下鉄東西線に関わ る工事の際に判明したものである。京都新聞は戦時中、1面コラムの名前を「神泉」としていた。おそらく神泉苑に由来すると思われる。
二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀 の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」 (とおざむらい)、「式台」(しきだい)、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と 呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。又、当初柱の銅版は金箔押しであって、現在現存している物より 遥かに華やかなものであった。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」 と呼ばれる建物がある。現在、檜皮葺となっている唐破風車寄の屋根は、明治修理により瓦葺きから檜皮葺となったものである。

本丸御殿は御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の 二条城とは本来無関係の建物である。過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年) 春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や 池も現存している。 本丸御殿の南には、洋風庭園がある。

















この後、四条のミュンヘンで4人のビア・パーティー。またBANDが演奏して、心地よいJAZZを聞かせてくれたが、写真がない。
これで今年も終わりです。2019年は「全邪馬連」のゴタゴタに手を取られ、まったく「歴史倶楽部」の活動に注力できませんでした。 来年3月の理事会、5月の総会まではまだ気が抜けないので、ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします。それでは、 良いお年をお迎えください。また来年もよろしく。
邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第297回例会・師走の二条城を歩く