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大阪本町・歴史倶楽部 第238回例会 川西市・池田市の遺跡を訪ねて 2019.9.29(日)
川西市文化財資料館 川西市内の遺跡から出土した文化財の整理、収蔵を行うとともに展示室なども備えた施設で、文化庁の出土文化財管理センター補助を 受けて、遺跡の一部が国史跡に指定されている加茂遺跡内に平成5年(1993年)に開館しました。 古代から中世までの市内遺跡からの出土品が収蔵されており、展示室には約300点ほどの出土品が時代ごとに分けて展示されています。  主な展示品には、弥生時代のまつりに使用されたと思われる「栄根銅鐸」のレプリカ、古墳時代後期に造られた勝福寺古墳出土の 「画文帯同向式神獣鏡」、栄根遺跡で出土した奈良時代の「墨壺」などがあります。また、「夏休み子ども考古学教室」の開催のほか、 毎土曜日、日曜日、祝日には、「勾玉づくり」が体験できます。 所在   〒666-0026 川西市南花屋敷2丁目13番10号  電話 072-757-8624  ファクス  072-757-8624 開館時間 午前9時30分から午後5時まで 休館日  月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)年末年始(12月28日から1月4日まで) 入館料  無料 駐車場  普通車 約20台、大型バスは要相談 (以上、青字は川西市HPより転載)


学芸員のお姉さんが説明してくれる。大学を出てまだ数年だそうだ。


この遺跡の特徴は、斜面の環濠である。斜面に環濠を掘った弥生遺跡は全国的にも珍しい。
約2千年前の大集落 加茂遺跡 (川西市HPより転載:以下青字も同じ) 加茂遺跡は、川西市南部の加茂1丁目、南花屋敷2丁目・3丁目に広がる旧石器時代から平安時代にかけての遺跡です。大正4年(1915年)、 笠井新也氏によって多量の弥生土器・石器の散布が発見されて以来有名になり、昭和11年には採集資料を展示した宮川石器館が地元に 開館しました。 その後の発掘調査では、およそ2千年前の弥生時代中期に近畿地方を代表する約20ヘクタールもの大規模集落に発展することがわかり、 平成12年には集落中心部が国の史跡に指定されました。また、居住区・墓地等の集落構造、防御のための環濠、集落を束ねる首長の住居 と思われる大型建物等も明らかになってきています。 展示室では、加茂遺跡出土の弥生土器や石器が見学できます。弥生土器は、壺・甕・高坏・鉢・水差形土器等の豊富な種類があり、魚を 描いた土器や河内地方からもたらされた土器等もあります。石器は、狩猟具や武器等の石鏃・石剣、稲の収穫のための石包丁、木材加工 用の石斧等が出土しています。














以下がこの時出土した銅鐸の原品である。今は上野の国立博物館にある。東京へ行ったときに写してきた。
ちなみに、昔の文部省(文化庁)は、各地の優れた出土品を中央に集中させてきた。奈良県の「新沢千塚古墳」を掘った故森浩一氏も、 「すぐ返すというから、ガラス製碗や金銅製飾りなど優品を預けたが、一向に返してくれない」とぼやいていた。 一般論だが、出土品を、設備の整っていない現地の資料館に置いておくのがいいか、それとも環境設備が整った中央の博物館に置くの がいいかは、今でも意見の一致を見ない問題である。考古学ファンとしては、そこへ行けば全国の著名な出発掘品が一堂に会して見れ るのはありがたいが、遺跡のある地元に置くのが妥当であるという気もする。永遠のテーマかもしれない。
約100年前に出土、巨大銅鐸の謎 文化財資料館の展示室でひときわ目立つのが、高さ1.14メートルの栄根銅鐸(複製品)です。明治44年(1911年)加茂遺跡の東側崖下 (加茂1丁目)で出土しましたが、当時は栄根字井坂の地名であったことから栄根銅鐸の名称で呼ばれてきました。銅鐸は、ベルのよう に内側に棒を垂らして音を鳴らすもので、約2千年前の弥生時代の祭りに用いられたと考えられています。銅鐸の多くは30から40センチ メートルの大きさで、釣り下げるのに適していますが、弥生時代末期には栄根銅鐸のように巨大化し、なかでも滋賀県野洲市出土もの は最大で1.35メートルもあります。栄根銅鐸はこれには及びませんが、全国でも5、6番目の大きさとなります。加茂遺跡は、弥生時代 中期(紀元前3世紀から紀元前1世紀)に全国的にも有数の巨大集落(約20ヘクタール)に発展しますので、巨大銅鐸を保有していたと 言いたいところですが、なぜか栄根銅鐸は集落が小さくなる弥生時代後期末(2世紀)のものです。それでも、現在の鴨神社周辺にある 程度の大きさの集落が残りますので、そこには巨大銅鐸を持つ有力な首長がいたのかもしれません。









































勝福寺古墳 古代豪族が眠る古墳 火打2丁目の丘の上にある勝福寺古墳は、明治24年に偶然発見され、横穴式石室から銅鏡・鉄刀等豊富な副葬品が出土しました。最近では、 大阪大学考古学研究室と川西市教育委員会で合同発掘調査が行われ、多くの成果が得られています。 墳丘は、全長約40メートルの前方後円墳で、墳丘上には多くの埴輪が並べられていました。埴輪は円筒形がほとんどですが、家形や甲冑形 などの形象埴輪も出土しています。明治時代に発見された横穴式石室の位置は後円部にあたります。当時では最新式の横穴式石室にあたる ことや、出土した銀象嵌竜文刀、画文帯神獣鏡などの優れた副葬品により、中心的な人物の埋葬施設と考えられます。また、平成16年の発 掘調査ではやや小型の第二横穴式石室が見つかりました。やや新しい時期の石室で、子孫が葬られたものと思われます。一方、前方部では 昭和46年の発掘調査で金製耳環、銀製クチナシ玉などを副葬した木棺が見つかっていますが、中心的な人物の兄弟など親族と見られます。 勝福寺古墳が築かれたのは6世紀の初め頃で、葬られた人物は川西市南部周辺を支配した首長とその親族であったと考えられます。大規模 な古墳ではありませんが、古墳のなかでは格式の高い前方後円墳形の墳丘をもつことや、最新式の横穴式石室をいち早く築いていること、 優れた副葬品などからすると、有力な豪族だったのでしょう。




















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