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大阪本町・歴史倶楽部 第234回例会 伏見稲荷周辺散策 2019.1.27(日)
今回の例会は、第71回例会で行った、以下のコースの再訪である。 伏見稲荷神社 → ぬりこべ地蔵・石峰寺 → 宝塔寺・嘉祥寺 → 藤森神社 → 墨染寺・欣浄寺・笹屋跡 終わりの方ははしょったが、概ね同じコースを歩いた。前回行ってない人もいたのでこうしたのだが、参加者は少なく5人 だった。なおここでの解説は、一部加筆したものの、第71回例会で書いたものをそのまま転載している。あしからず。  
          
          
伏見の歴史は、豊臣秀吉が伏見城を築いた文禄3年(1594)から実質的に始まったといえる。 町名には、水野左近、井伊掃部(かもん)、筒井伊賀、長岡越中、毛利長門など、武家屋敷を構えていた名残や、両替、石屋、 紙子屋、鍛冶屋、桝屋など、同業の商家や職人が集まっていたことを伝える名前もたくさん残されている。 また、街中を通る琵琶湖疏水も、伏見城の外堀を活用している。その後の伏見は、水運による流通の街として発展した。角倉 了以が掘削し京都の「高瀬川」も、ここ伏見を起点にしている。 また水質の良い“伏水(ふしみず)”に恵まれ酒造業が発展した。今日でも名高い酒造メーカーがいくつかある。

写真を写している大隈君を含めて、本日の例会参加者は5名。最近、4、5名の参加者が多い。
【東丸神社】(あずままろじんじゃ) -------------------------------------------------------------------------------- 伏見稲荷大社外拝殿の南にあるこの神社は稲荷社祠官羽倉家に生まれた、荷田春満(東丸:かだのあずままろ)(1669〜1736)を祀っ ている。春満は寛文9年(1669)、伏見稲荷社の御殿預主膳信詮の次男として生まれた。生家でもある、平家建書院造の荷田春満旧宅 の一部が楼門の南側、この神社の西側に保存されている(国指定史跡)。 関西では、天満宮と並び受験の神様として有名で、我が倶楽部の西本さんも何度となくお参りしたそうである。荷田春満は、僧契沖に 始まる近世国学を発展させて、「万葉集」「古事記」「日本書紀」研究の基礎を作り、門下に賀茂真淵、その門下の本居宣長、そのま た門下(宣長死後)の平田篤胤と続く、国學の四大人と言われている。

【伏見稲荷大社】 -------------------------------------------------------------------------------- 伏見稲荷大社は毎年、明治神宮や住吉大社と並んで初詣客の訪問者人数ベスト5に入る。関西では、1、2位を住吉大社と競っている。 伏見稲荷と言えば「狐」と「焼き鳥」である。電車を降りて大鳥居まであるく参道には、両側に焼鳥屋がズラリと並んでいる。 しかもその焼き鳥はいわゆる居酒屋で食べる焼き鳥ではない。スズメもツグミもウズラも、姿形がそのまま残っている。最近はツグミ はあまり無いようだが、スズメの姿焼きなどちょっとグロテスクで食べる気はしない。 伏見稲荷大社は全国に3万社を超える稲荷社の総本宮で、宇迦之御魂(うかのみたま)大神を主神として、佐田彦大神・大宮能売(お おみやのめ)大神・田中大神・四大神(しのおおかみ)を総称して稲荷大神、または稲荷五社大明神として祀っている。 京都伏見稲荷大社が誕生したのは711年とされる。渡来人であり深草の有力豪族である秦氏の子孫「伊呂具秦公(いろぐはたのきみ)」 が、一族の鎮守神として三柱神(宇迦之御魂大神・佐田彦命・大宮女命)を伊奈利山の三ヶ峰に祀り、神社を開き、伊奈利山の神は 宇迦之御魂大神であるとした。これによって和銅4年(711)2月初午の日に鎮座と伝えられている。 神社の起源について「山城国風土記」の逸文に、「秦中家ノ忌寸等の遠祖、伊呂具秦公の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、 その留った山の峰に“稲”が生じた奇瑞によって稲成りという社名となれり」とある。「秦伊侶具が、餅を的に矢を射たところ、餅 は白鳥となって稲荷山の山頂三ケ峰に飛び散り、それが落ちた後に稲が生えたので、そこをイナリと言うようになった」というので ある。 稲荷の名は稲生(いねなり)から生じたのだ。それ以後、稲荷山の神は農業神として信仰されてきた。しかし、信仰の起源は、これ よりも更に古くさかのぼると考えられている。そもそもは、5世紀以降、山背国を中心に近畿一帯に繁栄した渡来系氏族である「泰 氏」がこの辺り一帯も支配しており、古来から神の宿る山として信仰されていた神体山を氏神として信仰してきたものと考えられて いる。
渡来人・秦氏 -------------------------------------------------------------------------------- 桓武天皇が平安京に遷都した背景にも秦氏の力があったといわれるほどの、有名な渡来系の有力氏族。秦氏が大陸や半島の先進 技術を日本に伝えたと言われ、一族は蚕(かいこ)や機織(はたおり)、つまり絹の生産や販売を得意とし、これで豪族長者に なった一族と一般には考えられており、それにあやかりたいと人々が稲荷を信仰する様になり、今日まで続いていると言う。 秦氏は5世紀以後、西日本一帯に広範囲に勢力を持っていたと考えられ、本拠地は山背国葛野郡(深草里)で、天武朝の八色 (やくさ)の姓で忌寸姓となる。古くから西日本一帯に渡来し、機織や農耕に従事していた新羅系の人々が、欽明朝に朝廷と結 びついた山背国の勢力を中心に、氏族としてまとまったものと考えられる。以後、長期にわたって朝廷を支え、一族は朝廷の倉 の管理と関係が深い。 推古朝には峰岡寺(広隆寺)を建立した。「日本書紀」には、推古天皇11年( 603)に聖徳太子が、所持する仏像を誰か礼拝 する者はいないかと臣下に問うたところ、秦河勝が進み出てこれを賜り蜂岡寺を造ったとある。そして、その仏像が国宝第1号 に指定された、有名な弥勒菩薩半跏思惟像であると言う。 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく) -------------------------------------------------------------------------------- 平安時代初期に編集された「新撰姓氏録」という記録がある。弘仁5年(814)6月に奉じられたものとされ、その当時近畿に住 んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に納めている。諸蕃(渡来および帰 化系氏族)のうち約3分の1の多数を占めるのが「秦氏」であり、それによれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあ たる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化した。その際に金銀玉帛等を 献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させた。天皇は、これらの絹織 物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとされている。降って雄略天皇の御代に、秦公酒 という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったとある。
「お狐さん」を眺めながら、本殿の裏から階段を上り鳥居のトンネルをくぐって行く。我々も名を知っている様々な企業や個人 が、真っ赤な「千本鳥居」を寄進している。「歴史倶楽部で1本寄進しようか?」「今、希望者が多くて建てて貰うには順番待 ちらしいでっせ。」「えぇーホンマ!」「1本なんぼくらいするんやろうねぇ。」などと話しながら歩いていると、途中に「お もかる石」と呼ばれる石が鎮座していた。願い事をしながら抱きかかげ、その時重く感じたら願いは叶わず、軽ければ願いがか なうと言われている。私も抱いてみたが結構重かった。
平安時代には教王護国寺(束寺)の鎮守として、その勢力を背景に広く崇拝され稲荷信仰が広まったものとみられる。中世から 近世には、商業経済の発達にともない、農耕神から商売繁盛の神として各地に勧請された。信仰内容は多面的で一様ではないが、 穀霊神の性格が強く、関束・束北地方では、稲荷を屋敷神として祀るところが多い。室町時代の応仁の乱では、稲荷山が戦場と なって社殿が焼失した。その後、豊臣秀吉が伏見城を築城し、稲荷大神に信仰を寄せて本格的な修復をおこない、この時代に稲 荷信仰も飛躍的に全国に広がった。
東丸神社の脇を抜けて「ぬりこべ地蔵」・石峰神社方面へ向かう。
【ぬりこべ地蔵】 伏見区深草石峰寺山町 ありの山墓地 ----------------------------------------------------- 明治3年(1870)の深草村絵図には、この場所は「ヌリコベ墓」と記入されているそうである。もとは、近くにあった摂取院の 境外墓地の塗込めの堂宇にあった石像で、歯痛止めの信仰があった地蔵であるとも言う。江戸時代から信仰があったことは確か なようだ。名前の由来は、歯の痛みを封じ込めるという意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名にな ったともいわれる。歯の治療を願って今も参詣者が絶えないと説明にあって、現に花や線香が備えてある。廻りは小さな墓地の ようなので、もともとは何かいわれのある墳墓だったのかもしれない。
【百丈山・石峰寺】ひゃくじょうざん・せきほうじ  黄檗宗単立寺院 伏見区深草石峰寺山町 --------------------------------------------------------------------------------------- 住宅街の中、石段を登って行き、竜宮造りの赤門と南天並木をすぎると、本堂の背後にもう一つ赤門があり、その奥の竹林には 鶏の絵で有名な画家、伊藤若冲が下絵を描いた五百羅漢がある。「都名所図会」によれば、この寺は平安時代中頃、源満仲が摂津 多田郷に開いた石峰寺が起こりといい、本尊薬師如来の夢のお告げにより、慶長の頃因幡堂に移しさらに五条橋東に堂を建て石 峰寺と号した。宝永年間(1704〜1711)に黄檗宗六世、万福寺の千呆(せんがい)和尚が信仰し、正徳3年(1713)現在地に移転し たと伝えられる。かっては諸堂の完備する大寺であったらしいが、度重なる火災で焼失し、現在の本堂は昭和60年(1985)に再 建されたものである。本堂の裏山に数多くの石仏があるが、この石仏は七代の住職密山和尚とともに江戸時代の画家、伊藤若冲 が造りあげたものである。若冲が下絵を描きそれを石工に彫らせたもので、釈迦如来を中心に十大弟子、五百羅漢、禽獣鳥類など を配している。
最近また脚光を浴びだした伊藤若冲は、江戸中期(1716〜1800)の画家で、京都錦市場の青物問屋に生まれたが、禅に心を寄せ、 生涯を独身で通しここに草庵を結んでいた。正徳六年(1716)、京都の高倉錦小路南東角にあった青物問屋「桝屋」の長男とし て生まれた若冲は、家が代々伊藤源左衛門を名乗っており,23歳の時父親が亡くなったために,若冲も四代目伊藤源左衛門と して店を継いだ。若い頃から特に絵の修行をしたというわけではないようである。20代後半になって、絵を描く事が好きだか らという理由で狩野派の絵を学ぶようになったという。
最初は狩野派の画法を熱心に学び取ろうとしたが,持ち前の才能からか次第に飽き足らなくなり興味は次第に中国宋原画の模写 に移っていく。この頃,生涯の精神的支柱となる相国寺慈雲庵の僧大典顕常と知り合い, その勧めで若冲という号を使うように なった。40歳の時に弟の宗厳に家督を譲り,隠居して絵を描くことに専念する。絵は写生を基礎とした動植物画が有名で,特 に鶏の絵は画幅から今にも飛びだしそうなくらいリアルである。
若冲は庭に鶏を多数放し、連日観察しては想を練り制作に取りかかったとされる。花鳥画のシリーズ「動植綵絵」30作を完成さ せ、現在この作品は皇室御物となっている。「写実的なあまりかえって幻想的」といわれる伊藤若冲は、風景画は嫌って描かな かったと伝えられている。若沖は明治時代外国で大人気となり、さかんに偽物がつくられ輸出された。
一説には、天明八年(1788)正月におこった京都大火災で焼け出された若冲が、この石峰寺門前で妹と暮らすようになり、 60歳にして石峰寺後方の山中に石像の五百羅漢を建立する事を思い立ち、絵1枚につき米一斗分の代金でみずから下絵を描き、 石の羅漢を一体ずつ石工に彫らせ、奉納配置していったという。釈迦誕生より涅槃に至る一代記を中心とし、諸菩薩、羅漢を一 山に安置したものである。しかし実際には、天明大火の二年前に刊行された「拾遺都名所図会」にすでに「石像五百羅漢」の記 事があり、建立はもっと早い時期からはじまったらしい。明治以降荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により,草を払い径を 開き,個々の石仏の趣を見られるように整備された。若冲は晩年は寺の古庵に閑居し、清貧のうちに寛政十二年(1800)、85 歳で没した。墓もこの寺にある。
若冲の墓 境内に南天、千両、万両の草花が植わっており、園芸家の錦織さんが寺の女将さん(?:現住職のお母さん)を捕まえて「これ は何ですか?」と質面責めにしている。正面に本堂があり、寺務所で入山料を払って裏山へ歩いていく。また石段、門がある。 門をくぐると廻りは一面の竹林。至る所に石仏が見える。
裏山の五百羅漢は、安政のなかばから天明初年まで、前後十年余をかけて完成したそうで、一体一体が表情豊かな石仏で、今で も石仏ファンの訪問が多い。羅漢とはもともと釈迦の説法を聞き世人より供養される者を言うのであるが、釈迦入滅後その教え を広めた数多の弟子達(賢者)を賛嘆する意味で使われ、宋、元時代より五百羅漢の作成が見られる。我国に於いても室町時代 以後この五百羅漢の作成が各地に見られ、その表現は、虚飾のない表情の中に豊かな人間性を秘めている。ここでは、釈迦の弟 子達が、若冲の磊落な筆法で石仏に彫られ,長年の風雨を得て丸み,苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣きを深めてい る。
墓は賽の河原の石仏群を下った石峰寺墓地にある。墓の表には、画一枚を米一斗に代えたことにちなみ「斗米庵若冲居士」と刻 まれている。若冲の墓は相国寺にもある。
石峰寺石仏群は、本堂の背後の裏山の小道に沿って、釈迦誕生より涅槃に至るまでの一代を物語る石仏群になっているが、主役 は羅漢ではなく、あくまでも羅漢は釈迦の一生の物語を飾る脇役である。「天上天下唯我独尊」と姿を現した釈迦誕生仏から始 まり、出山釈迦、二十五菩薩来迎石仏や十八羅漢石仏、釈迦説法の群像、托鉢修行の羅漢群像、釈迦涅槃の場面、賽の河原と続 いていく。「羅漢さん」は各地で造られているが、釈迦の一生を再現したような石峰寺のものは異色だそうだ。その数は寺によ れば約500体で、大きさは数10pから2mくらいで、表情・姿態はいずれも奇抜軽妙である。素朴でユーモラスで見る人の 心をなごませてくれる。
横たわる釈迦を多くの者が取り囲む涅槃場。笑う顔、哀しげな顔、人間ではなさそうな者。こちらを見据えている者、腰をかが めている者、目を伏せている者、実に様々な羅漢が居る。半ば摩滅しているものもある。 小さな石像群に地蔵がたたずむ賽(さい)の河原。托鉢修行。釈迦、文殊、普賢の三尊がいる説法場。
 われもまた 落葉のうえに寝ころびて 羅漢の群に入りぬべきかな (吉井 勇)



          宝塔寺        出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 山号:深草山  宗派:日蓮宗  本尊:三宝尊  創建年:延慶年間(1308 - 1311年) 開山:日像   開基:藤原基経 文化財:多宝塔、総門、本堂(重要文化財) 宝塔寺(ほうとうじ)は、京都府京都市伏見区深草にある、日蓮宗の寺院。山号は深草山。旧本山は、大本山妙顕寺。奠師法縁。 寺名は日像が京都の七口(京都に入る7つの街道の入口)に建立した題目石塔の1つを日像の廟所に祀ったことによる。平安時代に 藤原基経の発願により創建され源氏物語にも言及される極楽寺が前身である。 藤原基経が発願した極楽寺が宝塔寺の前身とされている。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により899年(昌泰2年)建立され たもので、『源氏物語』「藤裏葉」帖に寺名が言及されている。
鎌倉時代末期、京都で布教にあたっていた日像は当時の極楽寺の住持・良桂と法論を行った。良桂は日像に帰依し、真言律宗寺院 であった極楽寺は延慶年間(1308 - 1311年)日蓮宗に改宗した。興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂、遺言により 当寺において荼毘に付された。寺は1467年(応仁元年)応仁の乱で焼失後、長らく再建されなかったが、1590年(天正18年)8世 日銀が伽藍を再建した。
本堂 - 慶長13年(1608年)建立。入母屋造、本瓦葺き。桁行七間、梁間五間。釈迦如来像、十界曼荼羅のほか、日蓮と日像の像 を安置する。多宝塔 - 室町時代建立  総門 - 室町時代建立。四脚門。 仁王門 - 1711年(宝永8年)再建 昭宣堂 - 昭和16年(1941年)建立。前身寺院極楽寺の開祖藤原基経(昭宣公)の宝篋印塔を安置する。 七面堂 - 寛文6年(1666年)に勧請された七面天女を祀る。日像廟 - 日像は興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂し、 当寺に葬られた。題目笠塔婆を安置する。
京阪電気鉄道京阪本線龍谷大前深草駅から徒歩10分。西日本旅客鉄道奈良線稲荷駅から徒歩10分。











この御陵には上記12人の天皇が葬られている。第89代後深草天皇(1243〜1304:在位は1246〜1259)を皮切りに、92代伏見天皇、 93代後伏見天皇、北朝の第4代後光厳天皇、同じく北朝5代後円融天皇、北朝6代で100代目の後小松天皇、101代称光天皇、103代 後土御門天皇、104代後柏原天皇、105代後奈良天皇、106代正親町天皇、そして第107代の後陽成天皇(1571〜1617:在位1586〜 1611)までの12帝である。 後深草天皇の御代から持明院統と大覚寺統の対立が始まる。この対立のそもそもは、後嵯峨天皇が兄の後深草より弟の亀山(90 代天皇)を偏愛したことに端を発しているが、対立はやがて北条、鎌倉幕府の介入による天皇譲位をもたらし、やがて南北朝の 戦いに発展する。この御陵には持明院統派の天皇達が眠っている。陵は、京阪電車「深草駅」から徒歩で15分ほど行った、京阪 電車の線路沿いにある。廻りは住宅地である。 <邪馬台国大研究:天皇陵めぐり「十二帝陵」より転載。>




【藤森神社】 ふじのもりじんじゃ −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 京阪電鉄墨染駅から歩いて5分の所に、馬と勝負の神様と言われる「藤森神社」があり、競馬関係者がよく参詣しているそう である勝負は菖蒲に通じ、菖蒲の節句はここが発祥と云われており、宝物館には鎧兜や鉄砲など、また、日本、外国の馬の玩 具、ミニチュア、武豊などの写真が多数展示されていて、まさしく「馬の博物館」だ。神社の歴史は古く、日本書紀によれば、 約1800年前、神功皇后が凱旋したときに山城の国深草の里藤森に「いくさ旗」を立てて兵具を納め、塚を作り神として祀 ったとあり、これをもって神社発祥と言う。(社務所発行:縁起略史)
本殿(中座)には素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇が、東殿(東座)には天武天皇、 舎人親王が、西殿(西座)には早良親王、伊豫親王、井上内親王が祀られている。日本書紀の編者であり、日本最初の学者で ある舎人親王を祭神として祀ってある事から学問の神としての信仰も深い。本殿は、御所賢所(かしこどころ)の建物を正徳 2年(1712)に後水尾天皇より賜ったもので、現存する賢所としては最古のものと言われる。毎年5月5日に藤森祭が行われ、 この祭が菖蒲の節句発祥の祭と言われる。この時の武者行列が、菖蒲の節句の武者人形のルーツなのだ。一度見たことがある という西本さんの話では。「そりゃ、りっぱな行列でっせ。」と言う。またこの日には駆馬の神事も行われる。6月中旬から 7月のはじめにかけては紫陽花が有名で、季節にはたくさんの花好きが訪れる。境内の紫陽花園には3500株が植えられて いる。大名行列もここを通過するときには敬意を表して槍を横に倒して通ったと言う。
この一帯を、古代「秦氏」が治めていたのは前述した。しかしそれ以前、蘇我氏の権勢全盛の時代、この地を本拠としていた のは「紀氏」朝臣家だという。そして新興勢力の「秦氏」も臣下に置いていたようである。紀氏は自家系図では素盞嗚尊から 出たとなっており、ここの祭神に素盞嗚尊がいるのもその名残と言われる。つまり紀氏の祖神を祀っているのである。だが 「大化の改新」で蘇我氏の勢いが低下していく中、紀氏の勢いも当然下降線を辿る事になる。やがて、この一帯は秦氏の支 配する所となり、かっては藤森神社の社域であった伏見山には稲荷神が勧請された。藤森神社は社地をかすめ取られたわけで ある。西本さんが境内の説明版を見て、「そうなんよねぇ、昔から藤森神社と伏見稲荷は仲が悪いんよねぇ。」と言っていた わけがわかった。真実は不明だが、その頃の事跡が千年以上伝承されており、今でも権力争いは続いているのだ。その証拠に、 現在でも伏見稲荷神社の近辺の住人の氏神は藤森神社である。
この神社も「式年遷宮」をやっている。いくつかの神社でこの「式年遷宮」は行われているが、いずれも資金難で、実際に拝 殿を移動することはないようだ。社務所の話では、ここも若干手直しをするだけで、別段拝殿をごっそり移し替える事はない らしい。伊勢神宮に端を発すると思われるこの制度は、その由緒・言われについて確とした定説はないが、一説では天武朝の 頃から始まったとも言うし、いったいどんな意味があったのか実に興味深い。 藤森神社由緒(神社庁) 菖蒲の節句発祥の地 勝運と学問の神社 京都洛南深草の里に、平安遷都以前より祀られている古社にて、古来、朝廷より庶民までの崇敬厚く、歴史ある社である。 本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に賜ったもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮 社大将軍社等の建造物がある。藤森祭は、毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家 に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。菖蒲は尚武に通じ尚武は勝負に通じるといわれ、勝運をよぶ神とし て信仰を集めている。
神社入り口を入ったところ左手に、「蒙古塚」というのがあった。なんでこんな所にあるのか不思議だったが詳しい説明はな い。元寇の時捕虜となった蒙古兵達は鎌倉へ送られたはずだが、一部京の都で処刑された者もいたのだろうか。後で社務所に 聞こうと思っていたが忘れてしまって、未だにこの存在は不明である。
本殿(中座) 素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇(以上7柱)。東殿(東座)天武天皇、舎人親王(以 上2柱)。 西殿(西座) 早良親王、伊豫親王、井上内親王(以上3柱)。
藤森神社宝物殿 ---------------- この神社は、平安建都のはるか以前の西暦203年、神功皇后が境内の地に軍旗を立て、塚を造って兵器を納めたのが起こりとされ、また ヤマタノオロチを征伐した素盞嗚尊を祭神としており、古くから武人の信仰を集めてきたため、重文の鎧をはじめ、武具や刀、鉄砲など が館内に並ぶ。展示品は同神社に伝わる社宝に、藤森信正宮司が集めた武具を加えた百数十点となっており、馬の神社というだけあって 馬に関する資料もごそっと並んでいる。この馬のコレクションはどうだろう。武運の神というより、競馬の神を祀っていると言ったほう がいいかもしれない。競馬ファンのみならや馬主や騎手らの参拝も多く、有名な騎手の写真もたくさん掲示してある。馬に関するコレク ションは、古くから同神社に伝わる鞍(くら)や鐙(あぶみ)に加えて、数年前にオープンした「馬の博物館」も併設されていて、その 郷土がん具をはじめ東西の馬の置物や、おもちゃなど約300点が並べられている。 ほかにも日本刀や火縄銃、短銃、なぎなた、やりなど古今の武具が並ぶ。なかには銃身の短い馬上銃、一貫目玉を打ち出す大筒、鳥羽伏 見の戦いで薩摩藩が使った大砲など珍しい武具もある。砲身が8本ある「八連式の火縄銃」など、実際に使われたのかどうか疑問な武器 もある。戦前の伏見は陸軍の第16師団が置かれるなど軍都として栄えたので、「戦中は武運長久を祈願する兵士たちが大勢参拝に来た」 そうである。 神社の起源というのは、ハッキリ分からないだけにまた、歴史研究家たちの興味を引くようである。古い寺社であればあるほど、地域の 歴史と住民が辿ってきた道も曖昧模糊としており、探求していく価値があると言うもののようだ。特に、古代豪族達が闊歩していた近畿 圏を中心とした西日本においては、神社の歴史を追いかけていく事で、古代社会の成り立ちも究明できるという可能性が高く、神社を訪 ねて歩く研究会のようなものもある。神社築造と、そこに祭神を奉るという行為の中に、日本人の源流を探ろうという試みも行われてい る。






罰当たりどもが。      反省会 伏見の中華屋さんで


 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第234回例会・伏見稲荷周辺散策