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大阪本町・歴史倶楽部ANNEX 
沖縄・史跡と考古の旅
〜 2018年2月 沖縄の旧石器人と南島文化を訪ねる 〜

沖縄県立博物館・美術館
私にとって、ここは今回の旅の目玉の一つだ。地域の歴史を知るには、その地の博物館/資料館を訪ねるのが一番だ。丁寧な解説と (中にはそうでないのもまれにあるが)、発掘された出土品、見たことも無いような民俗品等々の数々は、私をその地の遙か古代へ と誘ってくれる。ヨーロッパを旅していて、小さな田舎町などで道を訪ねると、「もう Museeには行ったか?」と聞かれる。洋の東 西を問わず、Meseeは町の誇りであり、道案内なのだ。



驚いた。まるで要塞のような博物館だ。さもあろう、解説を読むと「グスク(沖縄の城)」を模(かたど)ったのだそうだ。
沖縄県立博物館・美術館 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 沖縄県立博物館・美術館(おきなわけんりつはくぶつかん・びじゅつかん)は、沖縄県那覇市おもろまちにある県立文化施設。 愛称は「 OkiMu(おきみゅー)」。博物館機能と美術館機能をあわせ持つ県内初の複合文化施設として開館した。博物館施設 としては、那覇市首里にあった前身の沖縄県立博物館に比べて2倍の広さを持ち、美術館施設は県立としては戦前戦後通して 初めての設置である。 同館の館長は博物館長と美術館長を兼任しており、博物館長、美術館長にあたる役職として副館長が2人置かれている。博物 館法において、1つの施設に1人の館長を置くことが定められているため、館長を1人しか置いていないことから博物館と美 術館は別々の施設という扱いではなく、1つの施設としての扱いを受けることになった。そのため「沖縄県立博物館・美術館」 という施設のみが存在し、その中に博物館部門と美術館部門が置かれているという状況になっており、「沖縄県立博物館」や 「沖縄県立美術館」という別個の機関が同居しているというわけではない。 博物館・美術館は、開館10周年となる2017年に、県民や観光客により親しみやすい施設を目指して館の愛称とマスコットキャ ラクターの案を一般公募した。両者とも全国から応募が寄せられ、同年11月1日にそれぞれ「OkiMu(おきみゅー)」と「おき みゅーちゃん」に決定された。256件の応募から選ばれた愛称「OkiMu(おきみゅー)」は那覇市の会社員による案で、「おき なわ(Okinawa)のミュージアム( Museum)」を略し、「ミュー」の響きに可愛らしさと親しみやすさを表したものという。 862件の案から選ばれたマスコットキャラクター「おきみゅーちゃん」は那覇市在住のイラストレーターによるもので、同館 建物の特徴的な外観をモチーフにしている。 1966年に竣工した首里の沖縄県立博物館は、1990年代初頭には施設の老朽化が進んでいた、そのため新館への移転計画が出さ れ、1991年には沖縄県立博物館基本構想が策定、1994年には沖縄県立博物館新館建設基本計画が作成された。なお、1991年の 時点で、那覇新都心への建設計画が一部浮上していた。 沖縄における公立美術館の建設運動は1960年代にさかのぼる。1961年に首里に移転した与儀の農業試験場跡地(現在の与儀公 園)に文化センターを建設し、その中に美術館を建設する計画が立てられた。実際に設置準備委員会のメンバーであった画家 により建設の設計図まで用意されたようだが、実際には建設は行われず、具体的な建設計画が検討されたのは1993年からであ る。美術館建設の基本構想の策定に当たり、美術家、建築家、県民からの意見が出され、それらを元に県立の美術館について のシンポジウムが開催された。その結果、1995年に名称を「沖縄県立現代美術館」とする県立美術館の基本構想検討報告書が 作成され、さらに沖縄が独自の文化を持っているということから、「県立」であるが「国立」と同等の意味を持つ美術館とし て、他の都道府県立美術館とは異なる位置にあることが望まれた。 その後1996年に博物館新館と美術館を併設する形で基本設計が行われ、1999年に着工し、2000年に開館という目標を目指した が、総事業費が 395億円という試算が発表され、バブル崩壊後当時の県が財政難であったことから、建設は困難であるという ことでこの計画は凍結された。 その後、長らく凍結された建設計画は、2002年に経費削減のため事業費を 225億円に圧縮するという計画のもとで、本土復帰 30周年記念事業として再開されることが決定した。そして、2003年度に建物と博物館展示の実施設計を行い、2004年度から20 06年度にかけて建設工事を行い、2007年度に開館する計画を立てた。建物の建設計画自体は順調に進み、実際の開館も予定通 り2007年に行われたが、管理運営に関する問題は長らく置き去りにされ、2006年以降に問題となった。 2006年5月以降、十分な議論がないまま美術館運営に関するさまざまな重要事項が決定し、問題となった。 名称に関しては、1995年の基本構想においては「沖縄県立現代美術館」という名称であった。しかし、2006年 5月には突如 「現代」を省き、さらに博物館との併記である「沖縄県立博物館・美術館」とする案が浮上し、以後この名称で計画が進行す ることとなった。これに対し、一方的な変更に対する批判が起き、一部団体から公開質問状が提出された。県はこのことに対 し、1つの美術館しかない沖縄においては「現代」という名称を付けることにより、他にも県立美術館があるかのような印象 を与え、さらに博物館と美術館の両方を県民に分かりやすいように命名する必要から「沖縄県立博物館・美術館」としたと述 べている。 さらに同時に、館長は博物館長、美術館長兼任する1人を置く管理運営方針が検討された。博物館や美術館などに関する法律 には博物館法があるが、その中において1つの施設に1人の館長を置くとなっており、館長を1人しか置かないことから博物 館と美術館は別々の施設という扱いではなく、1つの施設としての扱いとなることになった。なお、博物館、美術館の専門家 をそれぞれ副館長として2人置くこととしたが、専門館長でない場合、他の美術館などから展示品を借用する場合、信用が得 られない場合が多くなる可能性が指摘された。 その後、指定管理者制度の導入も検討された。沖縄においては初の県立の美術館となることから他県における美術館運営の財 団が存在しないため、指定管理者制度が導入された場合は必然的に民間の企業が指定管理者となる。そのため、採算性を重要 視した運営が行われ、企画展の中止や、観光客向けの企画展の開催など県民向けの企画展の開催が行われなくなるなどの問題 点が指摘された。 しかし、同年12月の条例決定の県議会において、野党は「県立現代美術館」として独立させる修正案を出したが否決され、与 党の博物館・美術館を複合施設とする案が成立し、県立博物館・美術館の設置及び管理に関する条例として可決された。これ により、博物館・美術館を複合施設として設置することや、指定管理者が企画展を実施できることや入場料の基準などが決定 された。なお、この条例の可決により、県立美術館としての独立した施設としての開館は無くなり、1995年に策定された「沖 縄県立現代美術館」としての基本計画は事実上消滅した。 2004年に起工式が行われた県立博物館・美術館は、前述の通りさまざまな問題を抱えたが、2003年に計画された通り2007年11 月に開館した。博物館機能に関しては、2006年3月をもって沖縄県立博物館は休館となり、展示品等を新館へと移動し、翌200 7年3月をもって閉館した。 <作品非展示問題> 2009年4月11日から開催された憲法9条に関する美術館企画展において昭和天皇の写真を用いた作品が展示されないという問題 が発生した。展示されなかったのは14作品で、沖縄県教育委員会や主催者側からなどから「教育的観点から展示に関して配慮 してほしい」と要請され、協議行った結果同年2月末にこれらの作品の展示を取りやめることに決定した。これに対し、作品 を制作した作家からは「表現の自由を否定するもの」と批判された。 なお、これらの作品は1986年に富山県立近代美術館で展示され、富山県議会議員や右翼から批判を受けた美術館が作品を非展 示にし、後に売却、図録470冊を焼却処分した経緯があった。





















































































































































































アフリカで約20万年前に現生人類(ホモサピエンス)が誕生して以来、人がヨーロッパ、アジア、シベリア、スンダランドと、 世界中へ拡散していった事は今や定説になっている。 ネアンデルタール人(東京・上野、国立科学博物館にて)。  アジアへ向かった一団は南アジアを経由して東アジアにもやってきた。現在、東アジアで最古のホモサピエンス化石は、中国 周口店の田園洞やスンダランド(スンダ陸棚:海面低下期にアジア大陸の一部だった)のボルネオ島・ニアー洞窟などで出土し ており、約4万年ほど前と考えられている。日本列島(古本州島・琉球列島)へ渡ってきたのもほぼ同時期の、4万年前〜3万 5千年前頃と考えられており、それは見てきた「山下町第一洞窟」の小児人骨が3万6千年前のものであることからも証明され る。  古本州島も琉球列島も、当時はアジア大陸からは切り離された島しょうだったと考えられ、人々は何らかの手段で海を渡って きた事になる。縄文より遙かな昔に、既に外洋を渡る手段を持っていたのである。伊豆諸島の神津島の黒曜石を求めて、本土と 神津島を往復していたのも3万5千年前の旧石器時代なのだ。どのような航海術で大海原を渡っていったのか。驚愕せざるを得 ない。  ところで、このように多くの旧石器人骨が発見される琉球諸島であるが、考古学上、旧来2つの大きな謎があるとされてきた。 一つは、本土の旧石器遺跡に比べて石器が極端に少ない事である。 サキタリ洞、港川、白保竿根田原の遺跡群の中で、発見された石器はサキタリ洞遺跡の、石英製石器だけなのである。石器の材 料となる石材が乏しい事、貝器がその代わりをしていたこと、石器を使わねばならない仕事(例えば大型獣の解体作業など)が 少なかったことなどが論じられている。二つ目は、3万6千年前の「山下町第一遺跡」から2万年前の港川人まで、期間が開き すぎること。しかしこれは、白保竿根田原遺跡の発見でその間が埋まってきたので、今後謎では無くなっていくものと思われる。  人類の誕生とその拡散については、現在世界中で研究が継続中であるし、DNA分析による追跡も、日々新たな発見を生み出 している。冒頭の、縄文人DNの分析などは、今後どのような展開を見せるのか、まことにもって興味深い。  世界中の学者によって進められている研究の成果が、いつの日が一堂に会して、壮大な人類の歩みがやがて体系化されること だろう。その時点で、果たして日本人がどこから来たのかも明らかになるかもしれない。人類の一大叙事詩を早く見たいもので ある。
「実は、旧石器時代に人類が生息していた島は、世界中を見わたしてもそう多くは無い。インドネシアの東に浮かぶフローレス 島は、面積 13500平方キロで四国よりやや小さい島だが、80万年以上前に原人の仲間(ジャワ原人の仲間だったと考えられて いる)が到達していたことで有名な島である。フローレス島に到達した原人は、長い年月の間に島に適応し、体型も小型化して いた(身長わずか1mほど)ことが知られている。 島での生活には、本土とは異なったさまざまな側面がある。長い間本土から切り離されていたフローレス島や沖縄島では、本土 と比べて中大型動物が少なく、陸獣などの動物相が貧弱である。フローレス島のフローレス原人は、水牛ほどの大きさの小型化 したゾウ(ピグミーステゴドン)や、体高1.5mもあるハゲコウの仲間を捕食していたようだが、そうした動物たちはやがて 絶滅していったようである。沖縄でもかつてはリュウキュウジカやリュウキュウムカシキョンといったシカの仲間が生息してい たが、2万年前頃には絶滅し、中大型の陸獣はイノシシ一種のみになった。  しかも、旧石器時代には、沖縄周辺の海は現在のように温暖ではなく、サンゴ礁も発達していなかったと考えられており、サ ンゴ礁がもたらす魚や貝といった海の資源を利用することも難しかったようだ。旧石器人にとって、沖縄は非常に苛酷な環境だ ったに違い無い。しかし、沖縄では、沖縄島、久米島、宮古島、石垣島の各島から、旧石器時代の人骨が発見されている。」 沖縄県立博物館・美術館[島に生きた旧石器人とその文化を探る −サキタリ洞遺跡発掘調査速報展−]から転載。更新日:2014.01.30

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