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大阪本町・歴史倶楽部 ANNEX 
沖縄・史跡と考古の旅
〜2018年2月 沖縄の旧石器人と南島文化を訪ねる〜

首里城 ココでの解説・説明文は、全てウィキペディアに頼る事にする。首里城は、2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生し、正殿と北殿、 南殿が全焼した。その特集も巻末にウィキの解説で纏めてあるが、ココでの写真は、全て焼失前の貴重な画像という事になる。 黒字以外は全てウィキからの引用である。


首里城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 首里城(しゅりじょう、沖縄方言: スイグシクは、琉球王国中山首里(現:沖縄県那覇市)にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港 を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。現在は国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)として都市公園とな っている。 琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20 年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設によりほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。1980年代 前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋 め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。 1999年(平成11年)には都市景観 100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に 登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。 2019年の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が全焼・焼失または焼損した。



周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵(たまうどぅん)、園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円 覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。 現在の首里城は正殿など主要建物が那覇市首里当蔵町(旧:首里南風之平等當之藏)に、首里城公園や玉陵など一部が首里金城町(旧:首 里真和志之平等金城)に所在する。守礼門と龍潭池は首里真和志町(旧:首里真和志之平等眞和志)に主に所在する。 建屋は国の所有であり、2019年2月1日以降、管理および運営が国から沖縄県に移管された。なお同県管理期間は2019年2月1日から2023年 1月31日までと指定されている。同県は、国が管理運営を委託していた一般財団法人沖縄美ら島財団に、引き続き2月以降も管理業務を委託 している。











首里城の創建年代は明らかではない。尚氏歴代居城の正殿は、かつて百浦添(ムンダシー)と呼ばれ、敬称では御百浦添(ウムンダシー) と称された。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されて いる。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏にお いても同様だった。史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。焼失の度に再建されてきたが、良材が不足しが ちな沖縄では木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行っ たりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争奪(志魯・布里の乱)であり、城内は 完全に破壊された。一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、 「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内 部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていた と記述されている。











どっかの会社の社長さん。私は旅行中いつも「社長、社長」と呼んでいた。




バスガイドさんとのツーショット
初, 丙子年(※1456年)正月二十五日船軍梁成等濟州發船逢風, 二月初二日漂到琉球國北面仇彌島。 ……過一月歸王城,王城凡三重, 外城有 倉庫及廐, 中城侍衛軍二百餘居之, ■城有二三層閣。 ……其閣覆以板, 板上以鑞沃之。上層藏珍寶, 下層置酒食, 王居中層, 侍女百餘人。 ……一, 七月十五日上佛寺, 記亡親姓名, 置於案上, 奠米於床, 以竹葉灌水於地, 僧則讀經, 俗則禮拜。……一, 奴婢日本人, 雖切族皆賣 爲奴婢, 國王親近使令, 皆所買也。 或有女國人來贈婢者……一, 國王葬禮, 鑿巖爲壙, 壙■四面編板立之, 遂定棺作板門以鑰鎖, 使之墓 前及兩傍, 構屋守墓人居之。環墓築石城, 城有一門。 ……肖得誠等八人, 今年(※1462年)正月二十四日, 羅州發船, 二月初四日, 漂到琉 球國 彌阿槐島。 ……一, 國王居於二層閣, 其閣皆著丹■, 覆以板, ■鷲頭以鑞沃之。 ……一, 國王年三十三■。 一, 國王子四人, 長子 年十五許, 餘皆幼。……王子不與國王同處, 別在他所。一, 舊宮在所居宮城南, 其層閣、城郭制度與常居宮同。 時時往來, 或二三日或四 五日留居焉。■■恵荘大王實録,第二十七之九,   <世祖八年二月辛巳の条.李朝実録>












二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿 などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。現代の首里城の建築は、 三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和 漢三才図会」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている。1719年冊封副使・徐葆光『冊封琉球全 図』の「中秋宴図」に首里城が描かれている。 歴代城主 (第一尚氏)尚巴志 - 尚忠 - 尚志達 -<中略>- (第二尚氏)尚円 - 尚宣威 - 尚真 -<中略>- 尚育 - 尚泰 那覇港を拠点とする海外交易は、琉球王国の重要な経済的基盤であり、港の付近には次のような防備施設や交易品保管施設としてのグスク が設けられていた。




正殿二階のようす。「大庫理」と呼ばれ、中央には玉座である「御差床」がある。非常に豪華絢爛で、儀礼や祝宴に使われた。 中国国王から送られた御書の扁額がいくつも掲げられている。
















床下に残る石垣を、廊下の上からガラス越しに見る事が出来る。





















首里城・炎上焼失 2019年(令和元年)10月31日未明に火災が発生し、正殿と北殿、南殿が全焼した。ほか、合わせて7棟の建屋、延べ4,800平米が焼失した。 警察と消防は火災の原因などを調べている。人的被害は、消防活動にあたった消防士1名が脱水症状となったほかは鎮火時点まで報告され ていない。首里城が焼失したのは、1453年、1660年、1709年、1945年に次いで歴史上5度目となった。 消防活動は、消防車両延べ60台・延べ人員219人、消防団1団・10人体制で行われた(このうち沖縄県応援本部8本部15台74人が消防応援)。 正殿からの出火と見られている。消火設備として放水銃やドレンチャーが設置されており、ドレンチャーは作動したが、放水銃4基のうち、 正門裏手に設置されていた放水銃1基が使用できなかった。また、設備されていた消防用タンクの用水約79トンは10数分余りで払底した。 <被害状況> 総務省消防庁によると以下の建屋が焼損した。延べ4,800平米が焼失。 全焼   − 正殿 100% 北殿 100% ほぼ全焼 − 南殿・番所 74% 書院・鎖之間 93% 黄金御殿池(寄満・奥書院) 80% 二階御殿 68% 半焼   − 奉神門 一部焼損 ー 女官居室 焼失した建屋内には琉球王国時代からの1500点以上の絵画や漆器などの工芸品も収蔵されていた。次を含む、正殿に常設の展示品421点が 焼失、焼損した。 国王椅子   (復元、前田孝允作) 扁額     「中山世土」(復元) 扁額     「永祚瀛■」(復元) 皮弁冠    (レプリカ) 琉球国王印  (レプリカ) 大龍柱残決  (一部損) 雪中花鳥図  (17世紀作) 尚育王書 11月2日、収蔵品のうち、南殿と「寄満」の2収蔵庫は耐火性があり、これらに収蔵されていた史料は防火扉により水濡れの可能性はあるが 焼失を免れていた事が判明した。収蔵庫から搬出し状態を確かめているが、高熱や火災によるススの付着や変形などの一部損が一部に見ら れている。2収蔵庫には、次を含む1,000点余りの文化財がある。 黒漆菊花鳥虫七宝繋沈金食籠 黒漆牡丹七宝繋沈金食籠 白澤之図 刀剣「青貝巴紋散合口拵」 尚育王御後絵 催事用国王唐衣 稲妻に雪輪と団扇に吉祥花と鶴亀文様紅型 正殿など建屋の火災が激しく、火の粉が周辺の住宅街など広範囲に飛散したため、一時、県警や消防などが、首里、石嶺、城南地区などの 周辺住民を避難誘導した。当日午前4時頃、避難所も一時開設され、周辺住民30人程が一時避難した。同日閉鎖された。 この火災を受け、周辺の学校では児童や生徒が精神的に不安定となり遅刻や学校を休むなどの影響が出た。火災の影響で首里城公園、園内 施設は臨時休園となり、11月3日開催予定の首里文化祭「琉球王朝祭り首里」を含め各イベントが中止となった。11月1日から、守礼門から 歓会門までなど周囲の規制が一部解除され、当該エリアには一般客が入れるようになった。12月12日には奉神門付近まで公開エリアが拡大 された。旅行会社やバス会社は、修学旅行ほか団体旅行ツアーのルート変更(識名園、国際通り、ひめゆりの塔など)に追われた。 また、2020年東京五輪の聖火リレーのコースにも予定されているが、コースに関する決定はまだなく、守礼門前から出発する方向で検討中 である。 この火災を受けて、岩手・平泉中尊寺、奈良・法隆寺など、日本国内の他の世界遺産を含む文化財関係者、担当者にも防火対策などに関し て緊張が走った。首里城公園近くの円鑑池で11月1 - 6日にかけ水面が変色し、90匹の魚が大量死しているのが発見された。 <要因ほか> 木造であること、赤い塗装に沖縄独特の「桐油」を使っていたことが火の勢いを早めた可能性がある。消防によると、現場は輻射熱が強か ったことにより、離れた所の木材も温度が上がり自然発火したことや、現場に近づくことすら困難となり放水していた消防隊員らが一時退 避したことなども、消火を拒まれた原因とみられる。 警備員らの証言や火災発生直後の防犯カメラの影像などから、火元は正殿1階の北東部分とほぼ断定された。この付近に設置された分電盤 にショートしたような痕跡や、分電盤から電源を取っていた延長コードにショート痕が多数見つかっていた事が判明した。コードについて 鑑定を依頼する(出火原因の解明にはまだ至っていない)。 文部科学省は2019年9月に文化財にスプリンクラーの設置を推奨する文書を配布していたが、建屋内部にスプリンクラーは設置されていな かった。指定管理者側が文書について把握していなかった可能性がある。文化庁は同年4月のノートルダム大聖堂の火災を受けて文化財防 災の防火対策ガイドラインを定めたが、首里城火災を受けて、10月31日に文化財調査官4名を現地に派遣し、同日付で改めて4月17日付け で通達した文化財の防火管理等の点検・確認と共に、復元建物についても防火対策の確認を各地方公共団体等に発出した。 煙感知器は正殿2階と3階には設置されていたが、火元となった正殿1階には設置されていなかった。また、夜間の火災を想定した訓練は行 われていなかった。 火災発生時のTVニュース          火災から一年後のTVニュース
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