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大阪本町・歴史倶楽部 ANNEX 
沖縄・史跡と考古の旅
〜2018年2月 沖縄の旧石器人と南島文化を訪ねる〜

斎場御嶽(せーふぁうたき)「世界遺産」 「せーふぁうたき」とは一体何であろうか? せーふぁが斎場なら、なんかのお祈りの場らしい。「うたき」も御嶽と書くのなら、 山の中の崖のような所を言うのだろうか? 斎場御嶽 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 斎場御嶽(せーふぁーうたき/サイハノうたき)は沖縄県南城市知念にある史跡。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽 であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称である。 正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。 敷地内には首里城内の施設名と同じ拝所が複数ある。 3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)には「チョウノハナ (京の華)」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨するとされる。 なお、三庫 理からは王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を遥拝することができるが、これについては史書には記述がない。 これは、近世になって三庫理の岩壁の一角が崩れたことによるもので、かつての三庫理は三方を岩壁に囲まれた空間だった。 文字通り王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が 行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口(うじょーぐち)を越 えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。 2000年12月、首里城跡などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。 また、国の史跡、沖縄県指定名勝にも指定されており、御嶽内で出土した陶磁器と勾玉などは「沖縄県斎場御嶽出土品」の名称で 国の重要文化財(考古資料)に指定されている。 周囲の森林は沖縄本島南部におけるもっとも優れた森林の一つで、シダ植物やラン科植物などに珍しいものが多い。本島中南部は 第二次世界大戦において被害を受けそれ以前の状態を残した場所がほとんどないが、この地域は戦災を免れた。しかし、いくつか の艦砲弾着弾跡があり、一つは見学道から見ることができる。2000年代以降御嶽周辺が整備され、森林に荒廃の様子が見られる。 2007年7月1日より観覧が有料化された。入場チケットは南城市地域物産館にて販売されている。来訪者の増加に伴い、聖地とし ての静寂さの確保と自然保護の観点から毎年2回(旧暦の5月1日 - 3日と10月1日 - 3日)休息日を設定している。 訪れる観光客の大幅増加により、石畳がすり減るようになったり、祈っている地元住民を無断で写真撮影するなどするマナー違反 の観光客が増加したりしており問題となっている。このため地元の南城市では文化財保護を図るため「男子禁制」を徹底させるこ とを検討している。2021年4月5日、南城市は斎場御嶽の15基の香炉のうち、1基が行方がなくなり、別の石材に置き換えられた と発表した。 緑の館セーファ(資料館) 斎場御嶽をはじめ、御嶽には神社仏閣のような建物はなく、香炉が置かれた拝所(うがんじゅ)となっている。今も島の人たちの信 仰の中心にあり神事が執り行われ、日々の祈りを捧げる場所である。 御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽は琉球開闢(かいびゃく)伝説にもあらわれる、琉球王国最高 の聖地となる。 御嶽の中には六つのイビ(神域)があるが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある部屋と同じ名前をもっている。 当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示す。 斎場の森に足を踏み入れると、秘的な雰囲気に満ちた緑の空間を感じる。鳥のさえずり、そよぐ風、木々のざわめき。森の気配を 心で感じる。 琉球王国の「創成神「アマミキヨ」が作ったと言われる、琉球王国で最高の聖地で、深い原始の森に眠っている。 東御廻り(あがりうまーい) 琉球民族の祖といわれるアマミキヨ族が渡来し、住みついたと伝えられる知念・玉城の聖地を巡拝する神拝の行事が、東御廻りだ。 もともとは国王の巡礼から始まったといわれ、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事であったと考えられている。首里城を中心に、 大里・佐敷・知念・玉城のそれぞれの間切(まぎり。琉球王国時代の行政区分のこと)を東四間切、または東方(あがりかた)と呼 ぶことから、知念・玉城の拝所巡礼は東廻りと呼ばれてきた。 代々、琉球王国は麦の穂が出る旧暦2月には久高島へ行幸し、稲の穂が出る旧暦4月には知念、玉城の御嶽を巡ったといわれている。 久高島は麦の発祥地、同じく知念のウファカルと、玉城の受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は米の発祥地として、国王及び聞得大 君が参詣したことから、これが「東御廻り」の原型となった。 「御嶽」とは、奄美諸島から宮古・八重山にいたる南西諸島に広く分布している聖地の総称である。斎場御嶽は、琉球王朝時代に 政府が整備した国家的な宗教組織との関連が深い、格式の高い祭祀場であった。せーふぁ(霊威の高い聖なる場所)の名前が示すよ うに、巨岩や聖樹に囲まれた空間には、首里城内にある部屋名と同じ名前の拝所があり、当時の王府と斎場御嶽の関わりの深さを みることができる。琉球最高神女である聞得大君の、就任儀式「お新下り」の御名付けがこの地で行われたということは、王権を 信仰面・精神面から支えていた証でもある。現在でも、聖地巡拝の習慣を残す東御廻り(あがいうまーい)の聖地として、参拝客は 後を絶たない。 巨大な岩が三角形を描く「三庫理(さんぐーい)」は、左側の岩と右側の岩がバランスを取っていることから、“安定の場所”と われている。三庫理を奥に進むと左手に神の島・久高島を拝むことができる。沖縄には離島も含めて聖なる地が数多く存在してい る。立ち入り禁止になっている御嶽も多い。 大庫理(うふぐーい) 首里城正殿の二階は大庫理と呼ばれ、祭祀的な機能を持つ格式の高い場所。聞得大君のお新下りの儀式での「お名付け(霊威づけ)」 儀礼が、首里城と同じ名前を持つこの場所でとり行われた。前面にある磚(せん)敷きの広間では、神女たちが聞得大君を祝福し琉 球王国の繁栄を祈った。 聞得大君(きこえおおきみ) 聞得大君とは、沖縄で古くから信じられてきた女性の霊力に対する信仰をもとにした「おなり神」の最高位の呼称。琉球王国最高位 の権力者である国王と、王国全土を霊的に守護するものとして崇められてきた。国王の姉妹や王女など、主に王族の女性が国王によ って任命され、琉球王国全土の祝女(ノロ)の頂点に立ち、さまざまな儀式を司ってきた。1470年から1875年までの約400年にわた って、15代の聞得大君が琉球王府の神事を支えてきたといわれている。 寄満(ゆんいち) 寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王のために食事を作る厨房を指す。当時、ここには国内外からの海幸・山幸が集まった。 それが、豊穣の寄り満つる所」と理解されていった。同じ名前を持つ斎場御嶽のこの場所には、第二次世界大戦前まで、その年の 吉兆を占う馬の形をした石(うまぐゎーいし)が置かれていたと言う。 聖域のひとつ、三庫理(さんぐーい)の三角岩 自然岩や洞穴に囲まれたこの場所には、いくつもの拝所が集まっている。正面に見える三角形の空間の突き当たりが三庫理さんぐー い、右側がチョウノハナの拝所で、いずれも首里城内にある場所と同じ名前を持っている。また、左側からは太平洋と久高島が遠望 できる。三角岩の右側には、「貴婦人様御休み所」と二本の鍾乳石が見える。滴り落ちる水はその下に置かれた壺に受けられ、それ ぞれが中城御殿(国王の世子)と聞得大君御殿の吉兆を占うとともに、お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水だった。 聖域のひとつ、三庫理(さんぐーい) 三角岩の奥からの景色で、遠くに久高島くだかじまが見える。 久高島(くだかじま) 久高島は斎場御嶽の東に位置する小さな島。琉球開闢(かいびゃく)の祖神、アマミキヨが天から降りて最初につくったといわれ、 島の土地は神様からお借りしているものと考えられているため、現在でも私有が認められていない。北部や集落の外など、多くの場 所が聖域として大切に守られている島でもある。島をあげての旧正月や八月マティー、琉球開闢や五穀発祥にまつわる祭祀など、数 多くの伝統的な年中行事が今でも行われている。地図では、斎場御嶽は首里城と久高島の中間にあり、その三か所を線で結ぶと一直 線になる。 琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島から運び入れ、それを御嶽全体に敷きつめた。その中で も、最も大きな行事が、聞得大君の就任式である「お新下り」だった。斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の行事を今に伝 える「東御廻り」(アガリウマーイ)の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されている。 「デイゴォ〜のぉ花びらにぃ〜」と歌われるのはこの木cである。結構大きな木だ。 歴史?楽部の錦織さんと。錦織さんとの付き合いも長い。もう20年くらいになるのでは。 今回の解説員、中尾さんと。明るくて面白い人物である。邪馬台国畿内説というのがいただけない。 斎場御嶽・紹介動画は、右」のアイコンをクリック。   ガイダンス建物「緑の館セーファ(資料館)」内のビデオを写したものです。
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