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大阪本町・歴史倶楽部 ANNEX 
沖縄・史跡と考古の旅
〜2018年2月 沖縄の旧石器人と南島文化を訪ねる〜

勝連城跡 勝連城 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(以下、青字部分全て) 城郭構造  山城 天守構造  なかったと推測 築城主  英祖王統・大成王の五男 勝連按司 築城年  14世紀初頭(一説に12世紀 - 13世紀) 主な城主  勝連按司 廃城年  1458年 遺構  石垣、郭 指定文化財 国の史跡 世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群) 位置 北緯26度19分48.7秒 勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として有名。城は 勝連半島の南の付け根部にある標高60mから 100mの丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されて いる。北城は石垣で仕切られた一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪を備える(曲輪は郭とも言う)。 一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪が最も高い。城の南側に南風原集落(南風原古島遺跡)が広がり、交易のための港を備 えていた。城の北側は田地として穀倉地帯であった。城内の「浜川ガー」(はんがーがー)は、7代目城主濱川按司の女(むすめ)、真 鍋樽が身の丈の1つ半の長さもある長髪を洗髪したと伝わる。 二の曲輪には正面約 17m、奥行き約 14.5mほどの比較的大きな舎殿跡が発見された。等間隔に柱が並び礎石もある社殿であったと推定さ れている。また城が構築された時代の屋根は板葺きが主流であったが、大和系の瓦も付近から発見されている。 勝連城は、14世紀初頭に英祖王統2代・大成の五男、勝連按司によって築城されたと考えられているが、いっぽうで12世紀から13世紀頃 には既に築城が始まっていたとする説もある。 そして、この城の最後の城主・阿麻和利(10代目勝連按司)は、圧政を敷き酒に溺れていた 9代目勝連按司の茂知附按司に対してクーデ ターを起こし殺害、この地方の按司として成り代わり海外貿易などを推し進めますます力を付けた。阿麻和利は護佐丸・阿麻和利の乱で 護佐丸を討ち取ったのち、尚泰久王をも倒そうと琉球の統一を目論んだが、1458年に王府によって滅ぼされた。 城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田邦男 は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろさうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心 とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した。 城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。1972年(昭和47年)5 月15日、沖縄の本土復帰にともない即日、日本国の史跡に指定された。 二千年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録され ている(登録名称は勝連城跡)。登録されたグスク(城)の中では最も築城年代が古いグスクとされている。2010年(平成22年)、沖縄 本島近海地震で城壁の一部が崩落する被害を受けた。 2016年、2013年の遺構調査で発掘された10枚の金属製品の中に14世紀から15世紀の地層から3世紀から4世紀頃に製造されたローマ帝国 のコインが4点、17世紀の地層から17世紀頃に製造されたオスマン帝国の貨幣が1点が確認された。14世紀から15世紀にかけての海上交 易を通じて東アジア経由で流入したと考えられ、また日本国内でローマ、オスマン帝国の貨幣が発見されたのは初めてのこと。2017年 (平成29年)4月6日、続日本100名城(200番)に選定された。 勝連城は、14世紀始め頃に英祖王統の第二代国王・大成の五男、勝連按司によって築城され、阿麻和利に到るまで十代の城主により統一 されたと考えられている。勝連按司二世の娘は察度に嫁ぎ、察度が西威を倒して中山王国を建てると勝連も中山との結びつきを強め中興 し栄えたと伝わる。 初代 勝連按司一世(英祖王統・第二代王大成の五男) 二代 勝連按司二世(一世の世子、娘・眞鍋樽は察度王の妃) 三代 勝連按司三世(二世の世子) 四代 勝連按司四世(三世の世子) 五代 勝連按司五世(勝連の伊波按司に敗れ戦死) 六代 勝連の伊覇按司(伊覇按司一世の六男、姉妹の眞鍋金は尚巴志の妃。勝連按司五世の家臣・浜川按            司に敗れ戦死) 七代 浜川按司一世(前領主・勝連按司五世の家臣) 八代 浜川按司二世(一世の世子) 九代 茂知附按司(家臣の阿麻和利に敗れ戦死) 十代 阿麻和利(越来賢雄率いる尚泰久王の王府軍に敗れ戦死、廃城) この城跡は山を利用して造られている天険の要害であり、城跡入口から急勾配がつづくため、軽装でも良 いが足回りには注意が必要。 真鍋樽伝 前述7代目城主濱川按司の女(むすめ)真鍋樽(マナンダルー、マランラルー)は絶世の美女だったと言う伝承が琉球各地にあり、例と して具志頭間切(八重瀬町具志頭)の若者、白川桃樽金(シラカワトゥバルタルガニー)が真鍋樽に恋をし結婚を申し込むが結ばれず 二人は恋焦がれるうちに病死してしまい、葬送の行列が北中城で会合したので一緒に埋葬されたと言う伝承がある (「熱田マーシリー」)。 また、南山他魯毎の子、樽真佐(タルマサ)の孫に四郎樽金(シルタルガニー)がいて、彼の親はもてなかったが彼は真鍋樽と結婚した と言う。先述の白川桃樽金は謎かけをして解けない内に死んでしまい、四郎樽金は謎かけを解いて結ばれたと言う伝承である。 勝連城は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)阿麻和利が住んでいた城として有名。城は、沖縄 本島の中部勝連半島の根元に位置する丘陵上に築かれている。一の曲輪(くるわ)からは、北は金武湾を囲む北部の山々やうるま市の離 島を望むことができ、南は知念半島や久高島、護佐丸の居城であった中城城跡が一望できる景勝地になっている。 勝連城跡の標高は約 60m〜98m。総面積は11,897u。城壁は、自然の地形を巧みに利用しながら、石灰岩の石垣をめぐらせている。 北西の最高部から一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪と各平場が階段状に低くなり、再び南東側の東の曲輪で高くなっている。 城が立地しているこの場所一帯は、長い間人々が活用してきた土地である。城跡の崖下からは、貝塚が発見され、先史時代後期末から 代人の生活地として利用され、13世紀前後より城塞としての体裁を整えたと考えられている。 城は、琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司あじ、阿麻和利あまわりが済んだ城である。伝承によ ると城主は勝連按司から最後の城主阿麻和利まで10代と伝えられる。勝連城や城主(按司)について、沖縄最古の歌謡集である「お もろさうし」に数多く詠まれていて、勝連は"きむたか”(肝高)と表現され、日本本土の京都や鎌倉にたとえられるほど繁栄していた とあり、阿麻和利も「千年もこの勝連をおさめよ、勝連の高き王」と讃えられている。 勝連城は五つの曲輪(くるわ)からなり、最も高い一の曲輪に上がると、北は遥か金武湾を囲む山原やんばるの山々や太平洋の島々が 望まれ、南は知念半島や中城(なかぐすく)湾、それを隔てて護佐丸(ごさまる)の城である中城城が一望できる景勝地になっている。 阿麻和利は、国王の重臣で中城に居城した護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めたが、 大敗して滅びた。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山(ちゅうざん)の王権はいちだんと安定した。 勝連城は、琉球石灰岩の切石を使い、東西の丘陵を利用して曲線状の城壁が築かれている。正門である南風原御門(はえばるうじょう) と、裏門にあたる西原御門(にしはらうじょう)という2つの入り口があったが、その名前は門の方向にあった集落の名前から付けられ 田との事である。両門とも復元はされていない。 御門を抜けると、居住スペースである四の曲輪が広がっている。そこから、四の曲輪から絶壁のような城壁に囲まれた三の曲輪、二の曲 輪、一の曲輪がある。四の曲輪の東には、防衛部隊が詰めていたと考えられる東の曲輪があった。 一の曲輪の概要(銘板より引用) 一の曲輪は、1965年(昭和40)年から数回にわたって発掘調査が行われ、いろいろなことが わかりました。岩盤をけずって大がかりな土木工事を行い、瓦ぶきの建物があったことがわ かっています。多くのグスクの中で瓦ぶきの建物があったのは、現在のところ勝連城のほか には首里城、浦添城だけです。 出入口の門付近から唐草様の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、装飾を施 ほどこした豪壮なアーチ門であった可能性があります。 勝連城跡 三の曲輪 眼下に二の曲輪。勝連城跡は小高い山の上にあるので、南は中城湾、東には海中道路が見え景色は最高。
360度のパノラマが広がる一の曲輪 一の曲輪の標高は約98メートル。周囲に高所のないこの地域では勝連城からの視界をさえぎるものがなく、辺りを見渡すと絶景が広がる。 勝連城のはじまりは13世紀頃と考えられ、中国製陶器が発掘されたり、防御施設である柵列が見つかったりしており、この辺りに多くの 人々が居住し、指導者がいたことがうかがえる。城主として最も有名なのは、最後の按司となる10代目の阿麻和利。彼は肝高(ちむたき。 英雄のこと)として人々に讃えられた名君で、増築を繰り返すなどして、勝連城を現在の姿まで発展させた。 勝連城で最も高い場所にある一の曲輪(くるわ。城郭内にある区画のこと)は、標高約98メートルで、南は知念半島から北は山原 (やんばる)までを見渡すことが出来る。眺めはとても美しい。 北の金武(きん)湾、南の中城(なかぐすく)湾に挟まれた勝連半島に築かれた勝連城は、まるで海に浮かんだ城のようにも感じられる。 脈々と続く沖縄の山並みが視界に広がり、訪れた人の心をいやしてくれる。 勝連半島の東西に、細長く延びた形で築かれた勝連城。進貢船(しんこうせん。中国の王朝との交易や使節派遣のための船のこと)に よく似たその形から「進貢船のグスク」とも呼ばれているが、この異名は交易が盛んだった勝連城のことをうまく表現している。 自然の断崖を利用した難攻不落の城と言われる勝連城だが、その城壁は優雅な曲線を描き、女性的な美しさを感じさせる。頂上に登ると 太平洋に輝く青い海が一望できる沖縄有数の景勝地である。 特に一の曲輪は、景色を360度見渡すことができる展望スポットとして人気を集めている。山並みはもちろん、澄み切った青い海は本当に 美しい光景である。 四の曲輪の階段(だったかな?) 今は水はないが、かつては産業用水として使われていた井戸。仲間ヌウカー(カンジャガー)。
勝連城跡休憩所 駐車場そばにある休憩所。反対か。見学後の休憩場所、文字どおり疲れた体を休ませる所だ。お土産品も販売しているが、勝連城跡出土の 遺物や、その他うるま市の他の遺跡からの出土品も幾つか展示されている。 〒904−2311 沖縄県うるま市勝連南風原3908 (おきなわけんうるましかつれんはえばる)   TEL : 098-978-7373  FAX :098-923-2179 勝連城はまだ発掘調査と復元の途中で、その全貌はまだ明らかになっていないが、舎殿跡など、かつての繁栄を伝えるものがあったこと が分かっている。また、20メートルの高低差をうまく利用して軍事力強化につなげた四の曲輪の階段など、グスクとしての防衛機能は突 出していると言われる。 勝連城の一番の特徴は、四の曲輪から三の曲輪に至る階段で、王府の大軍を三日三晩苦しめたというその様子は、昔と変わらない。また、 四の曲輪(標高63メートル)よりも少し高くなっている東の曲輪(標高78メートル)からは、城の全貌をとらえることが出来る。 阿麻和利(あまわり)が居城した城と伝えられる勝連城跡は、沖縄の城の中で最も古く、築城は12世紀頃から始まっていたと伝えられて いる。現在の模になったのは14世紀ごろのようで、阿麻和利は護佐丸を滅ぼし、海外貿易により勝連に繁栄をもたらした。さらに琉球統 一をめざし国王の居城である首里城を攻めたが、1458年に大敗して滅びた。 1972(昭和47)年5月15日 国指定の文化財に登録され、2000年にはユネスコの世界遺産に登録された。
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